8.未来の思い出(5)
朝の教室は暖房がついたばかりなのか、空気が冷たい。結菜は席に座ってマフラーを巻いたまま、教室の様子を眺めていた。
今までと何も変わらない、いつも通りの騒がしさ。
綾音はまだ来ていない。
彼女とは昨日、別れたままだ。メッセージのやりとりも電話もしていない。どんな顔で会えばいいだろう。どんな話をしたらいいのだろう。
考えていると「あ、陽菜乃。おはよう」とミチの声が聞こえた。結菜は思わず振り返る。すると、陽菜乃が教室に入ってくるところだった。
「うん。おはよう、ミチ」
彼女はそう言いながら視線を結菜に向けて微笑んだ。そして荷物を机に置くと結菜の席まで来て「おはよう、結菜」と満面の笑みで結菜の顔を覗き込んでくる。
昨夜と同じ、陽菜乃の香りが鼻をくすぐる。
「お、おはよう」
「え、なにその反応。なんでちょっと離れるの?」
陽菜乃は不満そうに腰を屈めると机に両腕を置いて結菜を見つめてくる。
結菜は昨夜のことを思い出し、頬が熱くなるのを感じながら「いや、だって」と陽菜乃から視線を逸らした。
「朝からその笑顔は刺激が強いというか、恥ずかしいというか、なんというか」
ボソボソと答えた結菜に陽菜乃はキョトンとした表情を浮かべ、そしてすぐに「なにそれ」と笑った。そして立ち上がると視線を綾音の席に向ける。
「まだ、来てないの?」
「うん」
結菜も綾音の席に視線を向けながら頷いた。
「今日は一緒に来なかったんだ?」
「……先に行ってって言われちゃって」
最近はいつも綾音が迎えに来てくれていた。しかし、今日は来なかった。代わりにメッセージが届いていたのだ。寝坊したから先に行ってくれ、と。
本当に寝坊したのかもしれない。しかし、やはり心のどこかでは思ってしまう。避けられているのではないか、と。
じっと綾音の席を見つめながら考えていたとき「あー、危なかった!」と言う声が聞こえて結菜はハッと教室の出入り口へ視線を向けた。
「いやいや、綾音。全然危なくないよ? 余裕でセーフだって」
クラスメイトの言葉に綾音は「え、マジ? うわ、マジだ!」と教室の時計に視線を向けて目を丸くしている。そして脱力したように項垂れた。
「なんだよー。全力で走って来て損した」
「朝からお疲れ」
そんな会話をしながら綾音が近づいてくる。彼女は結菜と陽菜乃の姿に気づくとニッと笑みを浮かべた。
「よ。おはよう、お二人さん」
「うん。おはよう、綾音」
穏やかに返す陽菜乃の声を聞きながら、結菜はじっと綾音を見つめる。彼女は机に鞄を置くと、椅子に座って結菜の方へと身体を向ける。そして「ん、なに?」と微笑んだ。
「……ううん。なんでも」
「そう? あ、そうだ。陽菜乃」
彼女は笑みを浮かべたまま、視線を陽菜乃に向ける。
「なに?」
陽菜乃の表情に、ほんの少しだけ緊張が走ったような気がした。そんな彼女の顔をまっすぐに見つめながら綾音は続ける。
「結菜のこと、悲しませたら許さないからね?」
冗談とも、本気とも取れるような口調。陽菜乃はじっと綾音を見つめ返し、そして「うん」と微笑んだ。
「そんなことしない。絶対に」
「まあ、そのときはわたしが結菜を奪っちゃうからいいけどさ」
「そんなことさせないよ? 結菜はわたしのだから」
「お? 言うじゃん、陽菜乃」
綾音は笑って言うと、結菜の頭をグシャグシャと撫でる。
「わ! なに、綾音?」
「――頑張ったね、結菜」
結菜にだけ聞こえるほどの小さな声で、彼女は囁くように言った。結菜は彼女にされるがままになりながら「うん」と頷く。
「なに朝っぱらから松岡さんのこといじめてんの、綾音」
気づけば、いつの間にかミチがすぐ近くに立っていた。
綾音は「いやー、なんかこう、結菜の頭ってつい撫でたくならない?」と笑いながら手を放す。ミチは呆れたように「いや、ならないけど」と言いながら結菜を見て笑った。
「松岡さん、髪すごいことなってるよ。ボッサボサ」
「え、ウソ」
「ほんとだ。グシャグシャだよ、結菜」
苦笑交じりの陽菜乃の言葉に、結菜は慌てて両手で髪を撫でつける。
「綾音! もー、何してくれてんの!」
「ごめん、ごめん」
綾音は手をヒラヒラさせながら悪びれた様子もなくニヤリと笑う。結菜は「もう……」と息を吐きながらも、自然と笑みを浮かべていた。
綾音はいつもと変わらない様子で接してくれる。きっと結菜に対して思うところもあるはずなのに、何事もなかったかのように。
しかし、笑顔で会話をする綾音の目元がほんの少しだけ腫れていることに結菜は気づいていた。
上手くメイクで隠しているので他の人にはわからないだろう。きっと結菜にも気づかれないようにと入念にメイクをしたに違いない。
それでも、わかってしまった。
結菜は談笑する彼女を見つめながら「ありがとう、綾音」と呟いた。
「ん、何か言った? 結菜」
結菜の声に気づいたのか、不思議そうに綾音が首を傾げる。結菜は「ううん。もうすぐテストだなと思って」と咄嗟に思いついた言葉で誤魔化した。瞬間、綾音は嫌そうに眉を寄せる。
「うえー、朝からそれ思い出させる?」
「松岡さん、体調悪かったんでしょ? 勉強できてないんじゃない?」
ミチの言葉に結菜は曖昧に笑いながら「まあ、勉強の出来は体調で変わるようなものでもないから」と返す。
「ということは、普段から勉強してないんだな?」
ミチはニヤリと笑った。結菜はさらに笑って誤魔化すしかない。
「そういえば結菜って成績どうなの?」
陽菜乃の質問に結菜は「んー、良くはない」と素直に答えた。
「悪くもない?」
「そこは想像に任せる」
「なにそれ」
陽菜乃が笑う。そのとき綾音が「そういえば結菜」と眉を寄せた。
「まさか、バイト入れてないよね?」
結菜はぎくりとして「あー」と視線を逸らす。
「おい?」
「……今日だけ入ってる。明日からはテスト終わるまで入ってないから大丈夫」
「ほんとに?」
それでも綾音は疑わしげな視線を向けてくる。
「ほんとだって。だからさ、綾音。良かったら勉強教えてよ」
「え……」
「あー、いいね。綾音ってなぜか成績いいし」
「いや、なぜかって何だよ。ミチ、失礼じゃない?」
「まあまあ。それから陽菜乃も成績いいでしょ? みんなでやろうよ、勉強会。ね、陽菜乃?」
「あ、うん。わたしはいいけど」
陽菜乃は言いながら綾音へ視線を向ける。綾音は考えるように眉を寄せていたが、陽菜乃の視線に気づくと息を吐いて「しょうがないなぁ」と笑った。
「じゃ、わたしと陽菜乃が二人にみっちり勉強を教えてあげよう。特に結菜。あんたは最近、成績ガタ落ちだったからね。スパルタでいくから覚悟するように」
「なんでわたしだけ……」
「自業自得でしょ。陽菜乃も容赦しないように」
「うん。任せて」
綾音と陽菜乃は顔を見合わせて笑う。なんとなく息ピッタリに見える二人の様子に結菜は頬を引きつらせた。
「いや、二人ともやめて? なんかその笑顔、怖い。ほどほどでいいからね? ほどほどで。ほら、ミチもいるし」
「わたしは成績そんな悪くないから、松岡さんに集中してもらっていいよ?」
「ちょ、ミチ! 裏切り者」
結菜の言葉に三人が笑う。
なんとなく以前よりも居心地のよい雰囲気に自然と笑みが浮かんでくる。
心が穏やかだ。
とても温かな気持ちになる。
陽菜乃に視線を向けると彼女もまた結菜を見ていた。そして目が合った瞬間、彼女がニコリと笑みを深める。たったそれだけで、さらに心が温かくなる。
「じゃ、明日から放課後は図書室で勉強会ってことで決定!」
ミチはそう言うと「あ、でさ!」といいことを思いついたとばかりに人差し指を立てた。
「テストが終わったらクリスマスパーティしようよ。二十四日の夜!」
瞬間、結菜たち三人の視線がミチに向けられる。
「クリスマスパーティ……」
綾音の呟きにミチは「あれ?」と首を傾げた。
「もしかして、もうすでに予定が埋まってる感じ?」
「いや、いつもうちは家族でやってたから」
「結菜は?」
なぜか陽菜乃が目を輝かせて結菜を見てくる。
「わたしは、おばさんと一緒に綾音の家のパーティに参加してた」
「仲良いよねぇ、ほんと。あんたたち」
ミチが腕を組みながらしみじみと言う。結菜と綾音は視線を交わして苦笑する。
今までは当たり前のように毎年クリスマスは綾音と過ごしていた。
それが、これからはどうなるのだろう。一緒に過ごすことは当たり前ではなくなってしまうのか。
思っていると、綾音が一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべて視線を逸らした。もしかすると同じことを思ったのかもしれない。
そのとき結菜の肩に陽菜乃の手が触れた。見上げると彼女は温かな表情で「やろうよ、今年はみんなで」と言った。
「みんなで?」
陽菜乃は「うん」と頷き、そして綾音に視線を向ける。
「場所はわたしの家でどうかな? どうせ誰もいないし」
綾音は困ったような顔で陽菜乃を見つめている。陽菜乃はそんな彼女に笑みを向けて「もちろん綾音が嫌じゃなかったら、だけど」と続けた。
綾音は困った表情のまま結菜へ視線を向ける。結菜は微笑みながら綾音を見つめた。まっすぐに。すると綾音はため息を吐いて「わかった」と頷いた。
「陽菜乃がそこまで言うならやろっか。クリスマスパーティ」
「ちょっと。提案したのはわたしなんだけど?」
不満そうなミチに綾音はニヤリと笑って「じゃ、ミチが料理担当ね」と彼女を指差した。ミチは目を見開き「いや、何言ってんの?」と慌てている。
「大丈夫。ミチならできる」
「いやいや、できるできないの問題じゃなくて! てか、準備はみんなでするものじゃない? ねえ、陽菜乃!」
陽菜乃に泣きつくミチに笑みを向けたまま、綾音は「結菜、ほんとにいいの?」と小さく言った。結菜は彼女を見つめ、そして頷く。
「みんなで過ごしたいな」
「……ん、わかった」
そのとき教室のスピーカーからチャイムが鳴り響いた。
「準備はみんなで平等にするからね。綾音も何か作ること!」
ミチはそう言い残して陽菜乃と一緒に席へ戻っていく。綾音は二人を見送ってから「今年は陽菜乃と過ごしたいのかと思ってた」と呟くように言った。
「ううん。みんなと一緒がいい。わたしが変われたのは、みんなの……。綾音のおかげだから」
すると綾音はため息を吐いて笑った。
「ほんと、結菜はずるいなぁ」
「――ごめん」
結菜は目を伏せる。
綾音が今、どんな気持ちで結菜と接してくれているのかわからない。
今まで通りに接してくれていても、その気持ちは今まで通りであるはずがない。もしかすると結菜とはもう距離を置きたい。そう思っているかもしれない。
そのとき、クシャッと結菜の頭を綾音が撫でた。
「ありがと」
「え……」
結菜は視線を上げる。綾音は少し瞳を潤ませてニッと笑みを浮かべていた。
「もうわたしなんかいらないって、そう思われてたらどうしようって昨日から考えてたから」
「――そんなこと思うわけないじゃん。綾音は大切な幼なじみで親友なのに」
「親友、か……」
彼女は寂しそうに呟く。
「大事な、たった一人の一番の親友だよ?」
「これからはわかんないじゃん。もっと、すごい結菜のこと分かってくれる親友ができるかもしれないし」
「ないよ。わたしの一番の親友は綾音だけだもん。これからも、ずっと」
結菜の言葉に綾音は微笑む。その笑みは以前ほど近くには感じられない。少しだけ、遠く感じる笑顔だった。
「もし、さ……」
結菜は膝の上で手を握りながら言う。
「もし綾音が、もうわたしの顔も見たくないって、そう思ってたら――」
「それはないね」
綾音は結菜の言葉を遮ってキッパリと言った。そしてグリグリと結菜の頭を撫でる。
「結菜にはわたしがいないと危なっかしいっしょ? それに言ったじゃん。結菜がわたしの好きな結菜でいてくれる限り、ずっとそばにいるって。わたしウソは言わないよ? 今の結菜は、ちゃんとわたしの好きな結菜だよ」
「……そうなんだ?」
「そうなんだよ。恥ずかしいから言わせないでほしいんだけど?」
少し遠くなった笑顔は、それでも温かく結菜のことを見守っていてくれる。
「綾音」
結菜が真面目な口調で呼ぶと、彼女は手を下ろして首を傾げた。
「これからも、よろしく」
「うん。こちらこそ」
結菜と綾音は同時に笑みを浮かべた。そのとき、ガラッと教室の戸が開いて担任が入ってきた。
ざわついていた教室が次第に静かになり、綾音も前を向いて座り直す。その細い背中を見つめながら結菜は心の中で呟いた。
――ありがとう。
これからもきっと迷惑をかけるだろう。怒らせたりもするだろう。ケンカだってするかもしれない。それでもこの気持ちだけは絶対に忘れないでいよう。綾音に対する感謝の気持ちだけは。
そして、もし綾音が困っているときは全力で助けよう。
彼女の助けになれるように強くなろう。
連絡事項を伝える担任の声を聞きながら、結菜は固く心に誓った。




