8.未来の思い出(4)
しばらくして、陽菜乃は「結菜、わたしね」と口を開いた。その声はまだ涙混じりだ。結菜は彼女に頬を寄せたまま「うん」と頷く。
「――わたし、アメリカに行く」
結菜は静かに目を閉じた。
「うん」
「でも、戻ってくるから」
結菜は瞼を上げ、少しだけ顔を振り向かせる。陽菜乃は結菜の肩に額をつけたままだ。
彼女は一度、気持ちを落ち着けるように息を吐き出すと「絶対に、戻ってくるから」と強い口調で言った。
「……戻れるの? ほんとに?」
穏やかな心の中に、ほんの少しだけ波が立つ。しかし陽菜乃は答えない。
「陽菜乃?」
結菜が呼ぶと、陽菜乃はゆっくり顔を上げた。その瞳にはまだ涙が滲んでいる。彼女は泣き顔のまま、薄く笑みを浮かべた。
「まだ、はっきりとそう言えるわけじゃない。でも絶対に戻ってくるよ。絶対に……。わたし一人でも」
「いつ?」
陽菜乃は一度口を開き、そして迷うようにしながら口を閉じた。
わかっている。
そんなこと、答えられるわけがない。
だけど陽菜乃は優しいから答えを出そうとしてくれている。結菜が少しでも傷つかないように。
結菜は微笑んだ。
「いいよ、ごめん。答えないで。わたしは大丈――」
「一年」
陽菜乃は、しっかりとした声でそう言った。結菜は目を見開いて彼女を見る。陽菜乃は強い瞳を結菜に向けながら続けた。
「一年で戻ってくるから。絶対に」
「……なんで一年?」
結菜が聞くと、彼女は少し視線を俯かせた。
「わたしが今ここにいる理由は親の都合。それだけが理由だから、いくらわたしがここに残りたいって言っても、ただの我が儘だって言われる。何も目的がないのに、ここに残す理由はないって。好きな子がいるって言っても、二人とも全然聞いてくれなかった」
「……言ったんだ?」
「うん。言った」
陽菜乃は頷いて視線を上げる。
「女の子が好きだって、言った」
結菜はさらに目を見開いて陽菜乃を見つめる。彼女は柔らかく微笑んだ。
「別に隠すようなことじゃないでしょ? 好きになったのが女の子だっただけだし」
「何も、言われなかった?」
すると陽菜乃はフフッと笑った。
「驚いてたけどね。それまでケンカ腰で言い合ってたのに、そのときだけキョトンとしてたよ。でも、それだけだった。もし何か言われたとしても、わたしは自分の気持ちを曲げる気はないし」
「そっか。強いね、陽菜乃……」
呟きながら、果たして自分は素直に言えるだろうかと結菜は考える。
カナエならきっと受け入れてくれるはず。悩ませてしまうかもしれないが、理解してくれるはず。それでも、そのことを告げる勇気があるだろうか。
俯きながら考えていると「結菜のおばさんには、わたしが戻って来てから挨拶に行くからね」と陽菜乃が優しい声で言った。結菜はハッと顔を上げる。彼女は柔らかな笑みを結菜に向けていた。
「お付き合いしてますって言いに行こうね。一緒に」
「一緒に?」
「だって、一緒なら大丈夫なんでしょ?」
あの台風の日に言った自分の言葉を思い出し、結菜は笑う。
「……うん。陽菜乃がいてくれたら大丈夫。どんなことだって」
結菜は彼女の腕に手を添えた。
「しょうがないなぁ、結菜は」
陽菜乃は笑いながらそう言うと、結菜の身体を強く抱きしめた。
「じゃあ、早く結菜のおばさんに挨拶するために、ここに戻る理由を作ってくるからね」
「ここに戻る、理由……」
「そう。親の都合じゃない、わたしの意志でここにいるための理由を作ってくる」
「それは、どんな理由?」
「んー……」
陽菜乃は遠く海の方を見つめながら考え始めた。ザンッと大きな波が岩場で砕ける音が響く。
「進路、かな」
ポツリと彼女は言った。
「進路?」
「うん。日本の大学に行って、日本の企業に就職する。そのためにわたしは日本で暮らす。どう? 立派な理由じゃない?」
「ふうん。もう決めてるんだ? 進路」
「結菜の隣」
陽菜乃はニコリと笑みを浮かべて即答した。結菜はフッと息を吐きながら笑う。
「それは進路とは言いません」
「えー、立派な進路だよ。だって進路って進む路って書くんだから。わたしの進む路は結菜の隣。結菜の進路だってそうなんでしょ?」
「え?」
「さっき、そう言ってくれた」
「えー」
結菜は少し考えてから「ああ、うん」と笑みを浮かべる。
「そっか。たしかに言ったね。わたしも進路は陽菜乃の隣だ」
「でしょ?」
陽菜乃は嬉しそうに笑うと「だから、わたし頑張るね」と続けた。
「わたしは日本の大学に行く。受験の為に三年の春には戻ってくる。そのために一年で今まで以上に良い成績をとって、受験する大学も、どんな職業を目指すのかも、全部ちゃんと決めるから。もちろん大学にはちゃんと受かるからね。そうすればうちの親だって何も言えないよ」
力強く、彼女は言った。
迷いはない。そんな表情で言う彼女を見つめて、結菜の心には少しだけ不安が生まれる。
「……いいの?」
思わず呟いた結菜の声に、陽菜乃は「なにが?」と首を傾げる。
「だって、陽菜乃の将来に関わることでしょ。アメリカにいた方が選択肢だって色々あるかもしれない。それなのに――」
「わたしの将来は結菜と一緒に決めたい。二人で、一緒に」
結菜の言葉を遮り、怒ったような表情で彼女は言った。そしてギュッと結菜を抱きしめて結菜の首筋に顔を埋める。
「結菜は?」
「わたしは――」
結菜は呟き、そして考える。
自分の将来のことなど、今まで真面目に考えたことはなかった。カナエや周りの人に迷惑をかけないように自分一人で生きていく。ただそれだけしか考えていなかった。その考えに根拠も計画性も何もない。
陽菜乃とは違う。
ただの子供の甘えた考え。
今、この瞬間ですらも。
「まだ、わからない」
正直に結菜は言った。陽菜乃がゆっくりと顔を上げる。そんな彼女へ結菜は「でも」と笑みを向けた。
「わたしの将来にこうして陽菜乃がいて、ずっと笑顔でいてくれたら幸せだなって思うよ」
すると陽菜乃はキョトンとした表情を浮かべ、そして吹き出すように笑った。
「え、なに。なんで笑うの?」
「だって結菜、それはつまり、わたしとずっと一緒にいたいってことでしょ? 同じだよ。わたしと」
「……そっか」
結菜は考えてから呟き、そして「そうみたい」と陽菜乃と一緒になって笑う。
ひとしきり笑い合ってから、陽菜乃は結菜の肩に顎を乗せるようにして少し身体を倒してきた。彼女の重みを感じながら結菜もまた彼女に身体を預ける。
陽菜乃の手が優しく結菜の髪を撫で、その手からこぼれ落ちた髪が結菜の頬にかかる。横目で見た陽菜乃の顔の向こうには無数の星たちがキラキラと瞬いていた。すっかり空は晴れたようだ。
結菜はホウッと息を吐き出した。微かに見えた白い息はすぐに星空へと消えていく。
「でも、大学かぁ。陽菜乃、似合いそうだよね。女子大生」
「なにそれ」
陽菜乃はフフッと笑う。
「結菜は決めてる? どこの大学受けるか」
「ううん。わたしは就職しようと思ってるから」
「そうなんだ……。じゃあ、結菜の方が一足先に大人になっちゃうね」
彼女は遠く海を見つめながら言った。少しだけ寂しそうに。
「――働いたら、大人になるの?」
「んー。どうだろ。少なくとも社会的には大人なんじゃないかな」
「大人か……」
なれるだろうか。こんな自分が一人で生きていけるようになれるのだろうか。誰にも迷惑をかけず、一人で。
「そのときはわたしがいるからね」
その声に結菜は目を見開く。陽菜乃が微笑みながら結菜を見つめていた。
「結菜が大人になっても一人じゃない。そこは忘れないで。まあ、わたしは少しの間だけ学生だけど」
陽菜乃は言って苦笑した。結菜は彼女を見つめ、そして「うん」と微笑む。
「そうだったね。わたしはもう、一人じゃない」
「そうだよ。わたしがいる。あと、綾音もいるでしょ」
「綾音……。いてくれるかな」
「いるでしょ。綾音はずっと結菜の隣にいるよ。わたしがいない間だって、ずっと」
そう言った陽菜乃は少しだけ不満そうな表情を浮かべた。結菜はクッと笑うと息を吐く。
「ねえ、陽菜乃」
「ん?」
「いつ、いなくなっちゃうの?」
「一月十五日」
静かに、彼女は答えた。その答えに結菜は目を見開き、そして「なんだ。もう決まってたんだ?」と苦笑する。
「……ごめん」
「謝る必要ないよ。わたしが聞かなかっただけなんだから……。でも、そう。一月十五日か」
それは今からちょうど一ヶ月後。
結菜は数日前にリビングのテーブルに置かれていた葉書を思い出す。部屋から出てこない結菜に見せようとカナエが置いてくれていたのだろうそれは、母の実家から届いたものだった。
「何かあるの? その日」
結菜の様子に気づいた陽菜乃が心配そうに眉を寄せる。結菜は「うん」と息を吐いて笑みを浮かべた。
「法事があるんだ。母さんの三回忌」
「え……。そうなの? お母さんのお墓、どこにあるのかわかったの?」
陽菜乃がグイッと顔を近づけてきた。
綺麗な笑顔が目の前に迫り、結菜は赤面しながら「ちょ、近いよ」と少し身を引く。しかし、陽菜乃は結菜の動きを封じ込めるように「良かったね、結菜!」と抱きしめてきた。その力が強すぎて息ができなくなり、結菜は「陽菜乃、苦しい」と彼女の腕を叩く。
「ああ、ごめん。つい嬉しくて。本当に良かったね。結菜」
ニコニコと彼女は言う。結菜は「うん」と頷き、そして目を伏せた。
「でも、陽菜乃の見送りに行けない」
「いらないよ、そんなの」
「なんで。だって、会えなくなるのに――」
「会えるよ」
「え?」
陽菜乃は笑顔のまま「会えるじゃん、また一年後に」と続ける。結菜は彼女を見つめ、そして息を吐きながら微笑む。
「だね」
「うん。それに、今はネットが繋がってれば顔見ながら話せるでしょ?」
「そっか。そういえばそうだね。離れてても、会える」
「そうだよ、いつでも会える。だから見送りなんていらないよ」
「……ん、わかった」
すると陽菜乃は嬉しそうに笑みを深めた。結菜は首を傾げる。
「なに?」
「強くなったね、結菜」
「そうかな」
「そうだよ」
「んー。みんなのおかげ、かな」
「……そこはわたしのおかげって言って欲しかった」
陽菜乃が頬を膨らませる。結菜は「じゃあ、陽菜乃のおかげ」と言い直す。
「よろしい」
陽菜乃は満足そうに頷くと結菜と鼻をくっつけるようにして笑い合う。そして彼女は身体を起こし、結菜の身体を引き寄せるように抱きしめ直した。
「ところで、陽菜乃」
結菜は陽菜乃の顔を見上げる。
「んー?」
「この体勢、やっぱりちょっと恥ずかしいんだけど」
「いいじゃん。誰も見てないんだし」
「そうだけど……。いつまでこのまま?」
「んー、もう少し」
「重くない?」
「平気。結菜、軽いから」
「疲れない?」
「全然」
彼女はそう言うと顔を俯かせて結菜の耳元で「すごく、あったかい」と囁いた。
結菜は顔だけを横に向けて陽菜乃を見つめる。彼女は目を閉じて微笑んでいた。とても幸せそうに。
「そっか」
結菜は呟き、身体の力を抜いた。
柔らかな陽菜乃の胸に耳をあてるとドキドキと音が聞こえる。それはまるで自分の胸の音とシンクロしているように速く脈打っていた。
息を吸い込めば陽菜乃の香りが身体を満たしていく。
そして目の前には、淡い光に照らされた陽菜乃の横顔。
ずっと見つめていたい、綺麗な横顔。
結菜は思わず息を吐いた。すると陽菜乃がくすぐったそうに笑う。
頬が熱い。全身が優しい温もりに包まれている。
「陽菜乃も、あったかいね」
結菜は呟き、そして陽菜乃の横顔を見つめ続けた。
――あと少しだけ、このままで。
結菜は全身に陽菜乃を感じながら瞳を閉じる。
強く吹いていた風はいつの間にか感じなくなっていた。
ザッと聞こえる波の音すらも今は遠い。
聞こえるのは、自分と陽菜乃の胸の高鳴りだけだった。




