1.月明かりの下で(3)
翌朝、結菜はのんびりと自転車を漕ぎながら学校へ向かっていた。すでに時刻は二限が始まった頃。完全に遅刻だが今日ばかりは仕方ない。
結菜の体調は一晩で回復していたのだが、学校へ行こうとするとカナエが止めたのだ。
まだ油断はできない。病院で診察を受けて大丈夫と言われたら学校へ行ってもいい、と彼女は登校に条件を出してきた。
「ほんとに心配性だなぁ、おばさんは。まあ、そのおかげで」
呟きながら結菜は視線を動かす。
――海を見てから行けるんだけど。
視界にはキラキラと輝く海が広がっていた。
秋晴れの中、太陽の光を反射させる海はすべてを包み込んでくれるように穏やかだ。思わず浜辺へ降りたくなるが、その気持ちをグッと堪えて息を大きく吸い込む。
潮の香りが心地良い。
昼の海は、夜とはまた違う雰囲気がある。
夜の海が全てを忘れさせてくれる場所ならば、昼の海は心を優しく穏やかにしてくれる場所。しかし……。
結菜はブレーキを握って自転車を止めた。そこは一昨日の夜、自転車を止めたのと同じ場所。
ハンドルに両腕を乗せて自転車に寄りかかるようにしながら、結菜はぼんやりと砂浜を眺めた。
あの夜、名も知らぬ彼女が立っていた場所には白くて細かい砂があるだけだ。そこに彼女がいたという痕跡はなにもない。なのに、つい彼女の姿をイメージしてしまう。あの夜のことを思い出してしまう。そのせいで、とても心穏やかにはなれなかった。
結菜はため息を吐く、そして再び自転車を漕いで学校へと向かった。
学校に到着したのは、まもなく二限が終わるという頃だった。この中途半端な時間に教室に行くのは嫌なので、チャイムが鳴るまで駐輪場で時間を潰す。
自転車に跨がったまま両腕をハンドルに乗せるとスマホで綾音とのトークルームを開く。メッセージは一昨日のやりとりが最後だ。
「――昨日、なんか変だったな」
ため息を吐きながら呟く。
綾音は結菜がこの街に越してきて最初に仲良くなった子だった。
家が近所だからなのか、カナエと綾音の家族はとても仲が良く、結菜の引っ越しの手伝いまでしてくれたほどだ。
その日から、綾音はいつも結菜と一緒にいてくれるようになった。
結菜がどうして引っ越してきたのか。
どうして両親がいないのか。
そんなことは何一つ聞かず、ただ当たり前と言わんばかりにいつも隣にいてくれるのだ。
それが嬉しくて、結菜は彼女に甘えるように一緒に行動をした。小学校も中学校も、登下校すらいつも一緒に。
今思えば、綾音は事情を聞いていたのかもしれない。同情心から一緒にいてくれるようになっていたのかもしれない。
それでもよかった。
ただの同情でも、そばにいてくれるだけで。
それなのに、いつからだろう。なんとなく彼女と距離を感じるようになったのは。それは彼女が結菜と一緒に夜の海へ行ってくれなくなった頃だったような気がする。だけど、それがいつだったのか思い出せない。
今では同じ高校に通っているのに登下校は別々。
もしかすると、甘え過ぎていたのかもしれない。
綾音にとって、結菜の存在が重たくなってしまったのかもしれない。
二限終了のチャイムが鳴り響く。結菜はため息を吐きながらスマホをポケットに入れると自転車を降りた。
――大丈夫。
心の中で言い聞かせながら結菜は教室へ向かう。
自分の心をもっと隠してしまえば、きっと綾音はこれからもずっとそばにいてくれるはず。
甘えないように、しっかり自分だけで生きていけるようになれば、きっと。
休憩時間中の騒がしい教室。それはいつものことだが、今日はなぜかいつもよりも騒々しい。階段の方までざわつきが響いていた。
階段を上って廊下に出ると、結菜は眉を寄せた。廊下から教室を覗いている別のクラスの生徒たちがいたのだ。
騒々しい声は、どうやら結菜のクラスから聞こえてくるらしい。
「ちょっとごめん。通して」
教室を覗く生徒たちの間に身を滑り込ませるようにして教室に入る。すると、教室の後ろに何かを取り囲むように人だかりができていた。
結菜はその集団を眺めながら自分の席に座る。
「よ。重役出勤、ご苦労さん」
鞄を机に掛けていると声が聞こえた。顔を上げると綾音が「体調、どう?」と首を傾げながら結菜の前の席に座って身体を横に向けた。トイレにでも行っていたのだろう。
「顔色はいいみたいだね。やっぱわたしの看病のおかげか」
綾音の様子はいつもと変わらない。昨日のような変な感じもない。結菜は安堵しながら微笑んだ。
「うん。ありがとう、綾音。感謝してる」
瞬間、綾音は驚いた表情で黙り込んでしまった。そしてなぜか少し顔を俯かせる。
「綾音?」
「いや、結菜が素直で気持ち悪いなって」
綾音は顔を上げて眉をひそめたが、その表情はどこか嬉しそうに見えた。
結菜は笑って「なにそれ、ひどいな」と抗議する。綾音も笑ってから「それで?」と結菜の顔を覗き込むように見てきた。
「もう完全復活?」
「うん、まあね。熱も下がったし。ご飯も食べられるし」
「わたしが作ったお粥もちゃんと全部食べたみたいだしな」
「作ったってレンチンでしょ。てか、チェックしたの?」
「するって言ったでしょ。でもカナエさん、結菜は病院行くから今日学校行けるかわからないとも言ってたけど」
言いながら綾音は不思議そうに首を傾げた。
「あー。わたしが学校行くって言ったら、病院でちゃんと看てもらって許可をもらってからにしろって」
「なんだそれ。カナエさんは相変わらずだなぁ」
結菜は苦笑して頷く。そして「それより」と教室の後ろを占拠している集団に視線を向けた。
「あれ、何?」
「野次馬」
「いや、だから何の?」
「転校生」
「へー、転校生。珍しいね。こんな田舎の学校に」
「だから集まってんだろ」
「なるほど。たしかに」
それにしても集まりすぎではないだろうか。まるで芸能人が転校してきたかのようだ。結菜は立ち上がって背伸びをする。しかし、その集団の中央を覗くことはできない。
「んー、まったく見えない」
「本人は座ってるだろうからな」
結菜は覗くことを諦めて再び椅子に座った。
「男? 女?」
「女。帰国子女。黒髪の色白美人」
「必要最低限の的確な情報をありがとう」
結菜の言葉に綾音は笑った。結菜は机に頬杖をついて野次馬集団を眺めながら「そんなに美人なの?」と訊ねる。綾音も同じように結菜の机に頬杖をつくとクッと笑った。
「ま、わたしや結菜には敵わないけどな」
「そうかぁ。綾音よりも数倍美人かぁ」
「おい」
不愉快そうな表情を浮かべた綾音を見て結菜は笑う。そのとき野次馬集団がざわついた。視線を向けると、野次馬たちが道を作るように割れていく。
その中から出てきたのは、すらりとした長身の少女だった。
艶のある黒髪のロングヘアは彼女が歩くたびにサラリと揺れる。その顔を見て結菜は思わず頬杖から顔を上げた。彼女は結菜の前まで来ると、頬にかかった髪を耳にかけて柔らかく微笑む。
「初めまして」
そう言った彼女の声は初めて聞いたものではない。
その顔も、サラサラの髪も、笑った表情も、さらには彼女から香ってくる甘くて良い匂いすら結菜は知っている。
その唇の、柔らかさまでも。
「今日、このクラスに転校してきた速川陽菜乃です。よろしく」
「……へ?」
まるで初対面のような彼女の態度に、結菜は思わず変な声を出してしまう。
「なんだよ、結菜。その反応は。顔もヤバいぞ。恥ずかしいからやめろ」
「いや、だって――」
「あなたは、たしか藤代さん?」
結菜の言葉を遮って陽菜乃は綾音に視線を移した。綾音は頷く。
「藤代綾音だよ。こっちの呆けた顔してんのが松岡結菜」
「そう」
陽菜乃は再び結菜に視線を戻すと「よろしく。松岡さん」と笑みを浮かべた。
「あー、うん。よろしく……」
そのとき、チャイムが鳴った。陽菜乃に集まっていたクラスメイトたちは残念そうに自分たちの席へ戻っていく。陽菜乃も踵を返して席へと戻っていった。
彼女の席は教室中央の一番後ろ。昨日まではそこに机はなかったので、新たに運び込まれたのだろう。
陽菜乃は隣の席の生徒から話しかけられると、愛想良く受け答えしている。
「結菜、早く教科書出せって。いつまで転校生見てんの」
「うん」
しかし、納得がいかない。結菜はお喋りしながら授業の準備を始める陽菜乃をじっと見つめる。
どう見ても彼女は一昨日の夜、あの砂浜で会った彼女に間違いない。
他人のそら似だろうか。
いや、そんなわけはない。
あんな綺麗な顔を見間違えるはずがない。となると考えられるのは……。
「――双子?」
「おい」
声と供にペンと頭を何かで軽く叩かれた。結菜が前を向くと綾音が教科書を手にして呆れた表情を浮かべていた。
「転校生がどうかしたの?」
「あー、いや。別に」
「美人な転校生に見惚れるのもいいけど」
「いや、そんなんじゃなくて――」
「次の数学、小テストだからな」
「は? 聞いてないんだけど」
「先週言ってたよ。結菜が寝てるときに」
「教えてよ!」
「自業自得だろ。バイト詰め込むから授業に身が入らないんだ」
綾音は笑いながら前を向いた。結菜が慌てて教科書を出していると教師が来てしまった。そして綾音の言葉通りに行われた小テスト。その結果は散々だった。