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8.未来の思い出(3)

 結菜はベッドの上に座ってドアを見つめる。綾音は帰ってしまった。

 これからどうするのか、ちゃんと逃げずに考えろ。

 そう結菜の背中を押して。


「もしそれで結菜が凹むようなことがあれば、そのときは胸を貸してあげるからさ。わたしはちゃんとそばにいる。だから、頑張れ。結菜」


 そう言った綾音の笑顔は、きっと一生忘れることはないだろう。

 結菜はまだ溢れてくる涙を袖で拭い、鼻をすする。そして床に視線を向けた。そこに転がっているのは電源の入っていないスマホ。

 結菜はそっとそれを拾い上げると電源を入れようとした。しかし、反応がない。電源を切っている間にも、充電が切れてしまったのかもしれない。そう思った結菜は急いで充電ケーブルを差し込む。

 スマホが起動したら、まずは陽菜乃に電話をかけよう。そして謝ろう。ちゃんと話を聞こうとしなくてごめん、と。それから自分の気持ちを伝えるのだ。

 怖がって気持ちを隠し、何も伝えないまま陽菜乃がいなくなってしまうのは嫌だから。


 もう、怖がるのは終わりだ。


 そうしないと綾音にだって愛想を尽かされてしまう。

 ポンッと軽い音を立ててスマホが起動した。結菜は急いでロックを解除する。そしてそこに表示されている通知を見て短く息を吐いた。そこにあったのは綾音と陽菜乃、二人からのメッセージ。

 綾音のメッセージは昨日の昼を最後に届いていない。


『体調そんなに悪いの? わたしの見舞いを断るなんてひどくない? 放課後行くからね。居留守は許さん』


 まだ、結菜があんなことをしてしまう前の綾音の言葉。今までと変わらない、軽口を叩きながらも結菜のことを気遣う言葉。

 結菜はその文字を指でなぞり、そして陽菜乃のメッセージを開いた。彼女からのメッセージは二件だけ。


『結菜、話をさせて』


 そう送られてきたのは土曜日。結菜が彼女の前から逃げてしまった直後だ。そして二件目はその翌日。日曜日の朝。


『待ってる。ずっと、待ってるね』


 そのとき、綾音の言葉が蘇った。


 ――ほんとに心配してるんだから。それこそ陽菜乃の方が体調悪くしそうなくらいに。


 それは、もしかしてずっとあの浜辺で結菜のことを待っていたからではないか。いや、待っていたではない。待っているのだ。きっと今、こうしている間も。

 結菜は制服の袖でゴシゴシと涙を拭くとスマホだけを手にして部屋を飛び出した。


 ――早く、陽菜乃のところへ。


 家を出て、歩き慣れた海までの道を走る。外はすでに真っ暗だ。冷たい風がコートも着ていない結菜の身体を包み込む。それでも構わず結菜は走った。

 少しずつ聞こえ始めた潮騒の音。結菜は息を切らせながら浜辺が見える道に飛び出した。

 浜辺は真っ暗だ。たとえそこに誰かいたとしてもわからない。いつも陽菜乃と並んで座っていた場所がどの辺りなのかもよくわからない。

 浜辺へと続く階段に向かいながら空を見上げる。

 曇っているのだろう。月どころか星すら見当たらない。道を照らす街灯も電球が切れかけているのか、今にも消えそうなほど弱い灯りで地面だけを照らしている。


「なんで……」


 二人でいた場所は月明かりがなくてもわかっていたはずのに。そう思ったとき、ああ、そうかと結菜は息を吐く。


 いつも、陽菜乃が灯りを点してくれていたのだ。


 いつだって陽菜乃が先に来ていて、そしてここに自分がいるのだと優しい灯りを点してくれていた。それが、今日はない。来ていないのだろうか。

 結菜はスマホを握りしめながら階段を飛ぶように駆け下りる。ザンッと砂が音を立てて飛び散った。そのとき、暗闇の中にふと動く影を見た。


「――陽菜乃?」


 呟きながら結菜はその影が見えた方へと足を踏み出した。

 キシキシと砂が鳴る。海から吹いてくる風が結菜の頬に刺すような痛みを与えてくる。それでも結菜は顔を背けることなく、まっすぐに歩いた。そうしながらスマホのライトをつけて足元を照らす。

 どこまでも続く白い砂。

 打ち上げられた海藻。

 貝殻。

 木の枝。

 そして、見慣れたスニーカーがキシっと音を立てて一歩結菜に近づくのが見えた。

 結菜は眩しくないように少しだけライトを上げ、そこに立つ制服姿の少女を見て笑みを浮かべる。


「陽菜乃、いた」


 結菜が言うと彼女は泣きそうな顔で笑った。


「遅いよ、結菜」


 力のない、優しい声だった。結菜はスマホのライトを足元に向けて「ごめん」と謝る。


「……結菜?」


 キシッと砂が鳴った。


「話も聞かずに、逃げてごめんなさい」


 頭を下げて結菜は続ける。


「スマホも、電源切ってて……。メッセージ、もしかしたら電話もしてくれたかもしれないのに、無視してごめんなさい」

「結菜」


 頬に陽菜乃の手が触れる。すっかり冷え切った彼女の手は微かに震えている。

 フッとスマホのライトが消えた。充電が切れてしまったのだろう。

 結菜は頭を上げる。すぐ目の前には陽菜乃の微笑みがあった。暗くてもわかるほど近くに。結菜は片手を上げて陽菜乃の頬に触れる。


「陽菜乃、冷たい」

「結菜だって冷たいじゃん」

「……いつからここにいた?」

「そんなに前じゃないよ。学校が終わってからだから」

「昨日は?」


 しかし、陽菜乃は答えない。結菜は「一昨日は?」と続ける。陽菜乃は微笑んだまま答えない。結菜は泣きそうになりながら、冷たい彼女の頬を撫でた。


「ずっと、いたの?」

「学校はちゃんと行ってたよ。結菜、来るかもしれないと思って」


 来なかったけど、と彼女は苦笑する。


「風邪引いちゃうよ?」

「大丈夫。だって、結菜が来てくれたから」


 結菜の手に頬を寄せながら彼女は言う。結菜もまた、彼女の手に頬を寄せる。

 冷え切っていた彼女の手には温かさが戻っていた。心地良い温もりだった。


「結菜、こっち」


 ふいに陽菜乃が結菜の手をとって歩き出す。

 真っ暗な砂浜には静かな波と吹き抜けていく風の音、そして砂を踏む二人の足音だけが響く。


「ちょっと待ってね」


 陽菜乃はそう言って立ち止まると、その場に腰を屈めてスマホのライトを点けた。その灯りの先には彼女のスクールバッグ。陽菜乃はそこからレジャーシートとランタンをひょいと取り出した。思わず結菜は笑ってしまう。


「陽菜乃、勉強道具は?」

「学校に置いてきた。邪魔なんだもん」


 陽菜乃は笑いながら砂の上にレジャーシートを敷く。しかし風が強く、すぐに飛ばされそうになったので慌てて結菜はその上に両手をついて座り込んだ。


「ナイス、結菜」


 陽菜乃はそう言うと、ランタンに灯りを点してシートの上に置いた。そして、なぜか結菜の後ろに回り込んでくる。


「えっと、陽菜乃?」

「結菜、もうちょっと前寄りに座って」

「え、こう?」


 言われるまま結菜は前へと移動してシートに座る。すると陽菜乃は「よいしょ、と」と結菜を足の間に挟むようにして腰を下ろした。すぐ真後ろに陽菜乃の顔があるのだろう。首元に吐息がかかる。


「え、なにこれ。陽菜乃?」


 戸惑いながら振り返ろうとしたが、後ろから回された陽菜乃の腕に抱きしめられ、動けなくなってしまった。


「あの、陽菜乃?」


 恥ずかしさから顔が熱くなってくる。耳元で「あったかいでしょ、こうしてると」と陽菜乃の声がした。


「……そうだけど。でも、ちょっと」

「恥ずかしい?」


 結菜は頷く。陽菜乃が笑ったのか、吐息が首元を掠めた。そして「我慢してよ」と彼女の腕にさらに力が込められた。


「こうしてないと、また結菜がどっか行っちゃいそうだもん」


 左肩に重みを感じた。風に遊ばれた陽菜乃の髪が結菜の頬をくすぐる。潮の香りに混じって、甘い陽菜乃の香りがした。


「行かないよ」


 結菜は陽菜乃の手に自分の手を添える。


「もう、逃げないって決めたから」

「そっか……。逃げ道は、もういらない? わたしは必要ない?」


 涙声で彼女は言う。


「違うよ……。違う」


 結菜は全身に感じる陽菜乃の温もりに身体を預けた。


「そうじゃなくて――」

「そうじゃ、なくて?」


 陽菜乃の不安そうな声が耳元で囁く。結菜は陽菜乃の手をそっと撫でた。


「陽菜乃にはね、わたしの逃げ道じゃなくて、わたしの進む道になって欲しいって、そう思ったの」


 瞬間、陽菜乃の髪が揺れた。左肩に感じていた重みもなくなった。代わりにギュッと力が込められる陽菜乃の腕。

 少し苦しい。

 だけど、とても温かい。


「だからさ、陽菜乃。聞かせて? 陽菜乃が話そうとしてたこと。わたし、ちゃんと聞くから」


 ――それがどんな内容であったとしても、ちゃんと聞くから。


 結菜は陽菜乃の手を握る。しかし、陽菜乃は何も言わない。ただ結菜を抱きしめているだけだ。

 結菜は陽菜乃に身体を預けたまま、真っ暗な海を見つめた。

 聞こえてくる潮騒の音からは波がどの辺りまできているのかはわからない。

 どこからが海で、どこからが陸なのだろう。

 結菜はぼんやりと考える。

 ただただ暗い、夜の海。それはまるで今までの結菜の人生のようだ。しかしそのとき、キラッと暗い海に光が反射したような気がした。

 視線を上げると月が雲から顔を出し始めていた。その周りにも小さな星たちが少しずつ顔を覗かせている。

 ゆっくりと、暗い海に煌めきが宿っていく。


「ねえ、陽菜乃」


 煌めく夜の海を見つめながら結菜は口を開く。ピクリと陽菜乃の手が動いた。


「好きだよ」


 結菜は言って、顔だけを振り返らせる。そこには目を見開いて結菜を見つめる陽菜乃の顔があった。

 弱いランタンの光に照らされたその瞳は涙に濡れている。


 とても、綺麗だった。


 結菜は微笑み、その瞳を見つめながら「陽菜乃が好きだよ」と続ける。陽菜乃は呆然とした表情を浮かべて「――綾音は?」と掠れた声で言った。


「うん。綾音も好き。でも、それは陽菜乃に対する好きとは違うって、わかったから」


 結菜は軽く笑う。


「ううん、違うかな。綾音がね、気づかせてくれた。背中を押してくれたんだ。逃げんなって、怒られちゃった」


 陽菜乃の腕の力が緩んだ。結菜は片手を上げて、陽菜乃の目元を指で拭う。


「わたしは、陽菜乃が好きだよ」

「――結菜」


 陽菜乃の瞳から再び涙が溢れてきた。そして声を殺しながら彼女は泣く。結菜を強く抱きしめて。


「わたしも好きだよ。結菜のこと、今までもこれからも、ずっとずっと大好き」


 耳元で聞こえた彼女の声は消え入りそうで、しかしとても温かくて心地良い。


「うん」


 結菜は頷く。心を支配していた寂しさの変わりに、温かな気持ちが広がっていく。

 結菜は彼女に抱きしめられたまま、片手で彼女の頭を包み込むようにしながらサラサラと風に揺れる髪を撫でた。そうすればするほど、彼女は結菜の肩に額を押し当ててくる。


「好きだよ、陽菜乃」


 結菜は肩越しに陽菜乃へと頬を寄せながら呟く。この気持ちを、この言葉を噛みしめるように。

 たとえ離れてしまうのだとしても。それでもこの気持ちを知ることができてよかった。伝えることができて良かった。

 そう思うことができる自分がいる。


 それは陽菜乃がいたからだ。

 そして、綾音がいたから。


 声を殺して泣く陽菜乃の吐息はとても温かく、心を満たしていくようだった。


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