8.未来の思い出(2)
ほんの数秒。いや、もしかすると一瞬だったのかもしれない。触れ合っていた唇は、綾音が結菜を突き飛ばすようにして離れた。
「結菜……? なにしてんの」
彼女は顔を真っ赤にしながら口元を手の甲で押さえている。その目からは、ただ驚きの感情しか読み取れない。
結菜は綾音をもう一度引き寄せようと掴んでいた手に力を込める。しかし、その手を綾音は乱暴に振り解いた。
「ほんと、どうしたんだよ。結菜、変だよ?」
「嫌だったの?」
結菜は彼女を見つめながら問う。綾音は視線を俯かせた。
「そういうことじゃなくて……」
「じゃあ、いいじゃん」
結菜が彼女の腕を掴むと、綾音の手がビクリと震えた。それでもかまわず、結菜は再び彼女に顔を近づけてキスをする。
「んっ――」
硬く閉じた綾音の唇は、しかしそれでも温かい。
その温もりだけで、心の痛みが少しだけ和らぐ気がする。
綾音は近くにいるのだと感じられる。
ふと肩に手が乗せられた。綾音の手は微かに震えている。怯えているように。不安そうに。
結菜はそっと唇を離すと「付き合おうよ」と綾音に言った。
「え……?」
綾音の目が大きく見開かれる。結菜はそんな彼女の頬に触れると、身体を寄せる。
「付き合おうよ、わたしたち」
綾音の身体に力が入ったのがわかった。結菜は彼女の頬から手を下ろすと、額を彼女の肩につける。
「付き合おう、綾音」
掠れた声で結菜は繰り返す。
助けて欲しい。この息も出来ないような寂しさの海から救い上げて欲しい。
陽菜乃は離れて行ってしまう。でも、綾音はそばにいてくれる。綾音はウソを言わない。
だから――。
「……一緒にいてよ」
そのとき、綾音の肩が動いた。そして結菜の頭を優しく撫でる手。結菜は顔を上げる。そこには綾音の微笑みがあった。しかし、それはとても悲しそうな微笑みで、胸がひどく痛む。
「結菜、しんどいことでもあった?」
「……なんで?」
「じゃなきゃ、結菜がわたしと付き合おうなんて言い出すわけないし」
「なんで……。そんなの、わかんないじゃん」
すると綾音はため息を吐いた。
「もう、わかってんじゃないの? 自分の気持ち」
わかっている。いや、わかったような気がしていただけだ。だけど今はもう、何もわからない。
わかっていることは大切な人がいなくなってしまうということだけ。だからきっと、自分の気持ちに正直になってはダメなのだ。正直になってはいけなかった。
結菜は綾音を見つめて微笑んだ。
「好きだよ、綾音」
瞬間、綾音の表情が強ばったような気がした。そして彼女は顔を俯かせる。
「わたしは、綾音のことが好き」
それは正直な気持ちとは違う。しかしウソではない。そして綾音が望んでいるものとは違うことも知っている。この言葉が、どんなに残酷なものであるかも理解している。それでも、言葉が勝手に滑り出ていってしまう。
――寂しい。
心の中で繰り返す誰かが、そうしろと言っている。
一人は嫌だから。
この言葉で綾音をつなぎ止めることができるのなら。
綾音の腕を掴んでいた手に、そっと彼女の手が触れた。綾音は俯いたまま「今日は、もう帰るね」と呟くように言った。そして顔を上げて笑みを浮かべる。
「結菜、今日は具合が悪いから変なこと言っちゃったんだよね?」
「違うよ……」
「うん。いや、いいよ。わかってるから」
「違うってば。ねえ、綾音」
結菜は綾音の手を引っ張る。しかし、彼女は深く息を吐き出すと「とにかく今日は、帰るから」と立ち上がった。そして結菜の手をそっと引き離すと、鞄を持ってドアに向かっていく。
「綾音――」
遠くなっていく背中に結菜は手を伸ばす。
「頭、冷やしなよ。結菜」
綾音はポツリとそう言い残すと部屋を出て行った。静かにドアが閉まり、彼女の足音が遠くなっていく。結菜は伸ばしていた手をボスンッと布団の上に下ろした。
ヒヤリとした感触。
綾音が持ってきてくれた蒸しタオルが、冷たく布団を濡らしていた。
翌日、結菜は怠い身体を引きずるようにしながら制服を着て家を出た。さすがに三日連続で部屋から出なければ、きっとカナエは無理矢理にでも結菜を病院へ連れて行くだろう。しかし、診断結果はわかりきっている。病気ではないのだ。そうなれば、きっとカナエはますます結菜のことを心配するに決まっている。しつこく理由を聞いてくるだろう。心配するだろう。何があったのか、と。結菜はため息を吐いた。
――こんなこと、話せるわけない。
しかし、家を出たものの学校へ行く気にはなれない。結菜はトボトボと地面を見つめて歩きながら学校とは逆方向へと進む。綾音の家の前を通り過ぎながら、ちらりと二階の窓へと視線を向ける。綾音の部屋のカーテンは開いていた。
もう学校へ行ったのだろうか。それともまだ家にいるのか。一瞬、足が止まる。しかし、すぐに結菜はその止まった足を踏み出した。
昨日、綾音が部屋を出て行ってから頭の中は空っぽだ。
何も感じない。
苦しさも、悲しさも、
何も。
溢れてしまった感情が心を麻痺させてしまったのか、それとも感情が結菜の中から消えてしまったのか。いずれにしても何をする気にもなれない。
こういうとき、今までなら海へ行った。あの誰もいない静かな海へ。だが、もうあそこにも行けない。あそこは、もうすべてを忘れられる場所ではない。むしろ思い出してしまう。色々なことを、すべて。
――どこに行こう。
行くところがない。
その事実が結菜の足を鈍らせる。それでもどこか時間を潰せる場所を探さなければ。
フラフラと行く当てもなく彷徨って、そうしていつの間にか辿り着いたのは小さな児童公園だった。家から歩いて三十分程行った先にあるそこは、結菜がこの街に来た頃に何度か綾音と一緒に遊んだことがある場所だった。
もうあまり遊ぶ子供がいないのか、遊具の数が減っている。残っているのは滑り台とブランコだけ。公園の周りには枯れた雑草が生い茂っている。
とても、寂しげな場所だった。
結菜はそんな公園を見渡してからそっとブランコに座る。錆びているのだろう。揺れる鎖が悲鳴のように甲高い音を立てて軋んだ。
結菜は錆びた鎖に腕をかけると地面に足をつき、ユラユラとブランコを揺らす。静かな公園には耳障りな音だけが響いている。
これからどうしたらいいのだろう。以前のようにはなれないのだろうか。自分の感情から逃げていた頃の自分には戻れないのか。綾音や陽菜乃との関係も。
時を戻せたらいいのに、と結菜は思う。
もし時を戻せるのなら、もっと昔に。あの台風が来るよりも前に。
「……そんなのできるわけないじゃん」
結菜は両足で地面を踏みしめながら自嘲する。過ぎた時間は戻らない。壊れてしまったものも、元には戻らない。結菜は鎖に腕をかけたまま項垂れ、目を閉じた。
しばらくそのままブランコを揺らしながら過ごし、空腹を覚えてコンビニでパンを買って再び公園に戻る。そしてまたブランコに座り続けた。
そうしているうちに、いつの間にか辺りは暗くなっていた。やはり、この近くにもう子供はいないのだろう。学校が終わった時間になっても遊びに来る者はおろか、近くを通る者もいない。
まるでこの公園だけ世界から切り離されているようだった。
スマホを持ってきていないので、今が何時なのかもわからない。ブンッと鈍い音を立てて公園に設置された古ぼけた街灯が点る。視線をそちらへ向けると、公園のフェンスに時計が設置されていることに気づいた。その針は動いていない。
時は、止まったままだ。
帰ろうか。それとも、もう少しここにいようか。
そんなことを考える。
ここにいたところで、どうせ帰らなければならない。いつまでも学校をサボるわけにもいかない。ちゃんと、自分がどうするべきなのか考えなければいけない。
しかし、頭の中は空っぽのままだ。
何も考えることができない。
結菜は暗くなった空を見上げながらブランコを一度大きく揺らした。キィッと一際大きな音が響く。そのとき、ザッと砂を擦る音が響いた。結菜は足を地面についてブランコを止めると、音がした方へ視線を向ける。そこには制服姿の少女の姿があった。
彼女は肩で息をしながら結菜を見つめると、一度深く息を吐き出した。そして近づいてくる。
「……綾音」
結菜は彼女の名を呼んだ。目の前に立った綾音は無言のまま結菜を見つめる。その表情にどんな感情があるのかよくわからない。
綾音の感情を読み取ろうと結菜も彼女を見つめる。するとおもむろに彼女は両手をあげ、結菜の頬を挟むようにして叩いた。
パシッと軽い音が響く。
突然のことに結菜は声を出すこともできず、ただ目を見開いた。
「スマホ、まだ電源切ってんの?」
彼女は低く言った。結菜は頬を挟まれたまま頷く。
「――なんでここが?」
「海、いなかったし。ここ、昔遊んだことあったし」
「へえ。さすが綾音だね」
心からそう思った。しかし、彼女は笑いもせずに結菜を見つめると「帰るよ」と結菜の手を掴んで引っ張った。結菜は抵抗する気も起きず、引っ張られるままに歩く。
綾音は一度も振り返らない。ただ黙って結菜を家まで連れて帰る。結菜は空いている片手を自分の胸にやる。
心は、空っぽのままだった。
「今日、何か食べた?」
結菜の部屋まで来ると、綾音はようやく結菜のことを振り返った。その顔に笑みはなく、やはり感情が読み取れない。結菜は、そんな彼女の顔を見ながら「食べた」と答える。
「ほんとに?」
「うん。コンビニでパン買って」
「そう」
綾音は頷くと結菜の手を引っ張ってベッドに座るよう促した。そして二人並んで座る。
綾音は結菜の手を掴んだままだ。掴まれた手は温かく、そして少し痛い。
綾音は何も言わず結菜の手を強く握って、じっとベッドのサイドテーブルを見つめている。そこには昨日と変わらず、動物園の袋が置かれていた。
綾音が喋らないので結菜も喋らない。ただ二人で手を繋いで座っている。
どれくらいそうしていただろう。ふいに綾音が「昨日――」と口を開いた。
「あれから頭冷えた? 結菜」
結菜は彼女を見る。彼女の視線はサイドテーブルに向いたままだ。
「最初から冷えてるよ」
そう答えると、綾音はゆっくりと結菜に顔を向けた。そこに浮かんでいたのは驚き、だろうか。結菜は彼女を見つめる。
「本気で言ってんの? 付き合おうって」
「……言ってる」
「結菜、わたしのこと好きじゃないでしょ?」
「好きだよ」
結菜の言葉に、綾音は怯んだような表情を浮かべた。そして「そう……」と小さく呟き、繋いでいた手を放すとその手を結菜の頬に添える。
「じゃあ、わたしが今から何してもいいわけ?」
感情が読み取れない綾音の顔がすぐ近くにある。少し潤んだような瞳が結菜を捉えている。結菜は「いいよ」と頷いた。
――それで、綾音がそばにいてくれるのなら。
綾音はじっと結菜を見つめていたが、やがて「へえ、そうなんだ?」と薄く笑みを浮かべて唇を押し当ててきた。そうしながら、綾音は結菜をベッドに仰向けに押し倒す。そして一度唇を離すと結菜を見下ろした。何かを確かめるように。そんな彼女を結菜はただ見上げていた。
綾音はわずかに眉を寄せると、再び唇を合わせる。そして制服の上から結菜の胸に触れた。
時折、ちらりと綾音が結菜の表情を伺うように視線を向けてくる。彼女は苦しそうな表情で息継ぎをすると、まるで何かを封じ込めるのように結菜の口を塞ぐ。
触れた場所から綾音の温もりを感じる。
綾音の吐息を感じる。
その感覚に結菜は少しだけ安堵していた。何も感じなくなっていた心に、ほんの少し何かの感情が戻ってきたような気がする。
綾音の手がするりとブラウスの中に入ってきて結菜の肌を撫でる。ヒヤリとしたその手は、胸から腹部へとゆっくりと移動していく。くすぐったさに結菜は少しだけ身をよじる。そんな結菜を綾音はキスをしながら見つめ、手を腹部からさらに下へと移動させていく。
「――っ」
息が苦しくなり、結菜は綾音から顔を背けて口を離した。それを合図にしたかのように綾音は動きを止めた。そして結菜の頬に片手を添えて見つめてくる。結菜も綾音を見返す。
荒い呼吸を繰り返しながら二人で見つめ合っていると、ふいに綾音が悲しそうに眉を寄せて手を離した。そして項垂れるように結菜の首元に顔を埋める。首筋を冷たい何かが濡らしていく。
「――んで」
微かに声が聞こえた。
「綾音?」
綾音の肩が震えている。結菜はそっと彼女の身体に片手を回したが、その手を振り払うように綾音はバッと身体を起こした。
「なんで嫌がらないの!」
そう言った綾音は泣いていた。涙を流しながら結菜のブレザーを掴むとグイッと力任せに結菜を引き起こす。首元が締まって結菜は顔をしかめる。それでもかまわず綾音はさらにブレザーの襟を引っ張ると、その両手で再び結菜の頬をパンッと挟んだ。
「なんで! こんな顔してんの!」
綾音は怒鳴る。溜まっていたすべての感情を吐き出すかのように。
そんな彼女を、結菜は呆然と見返していた。綾音は震える声で続ける。
「なんで、あのときみたいに何の感情もないような顔してんだよ」
「あのとき、みたいに……?」
「そうだよ」
綾音は泣きながら「三年前と同じ顔してる」と続けた。
「人形みたいに、何の感情もないような顔してる。わたしが何をしても、ずっと同じ顔。なんだよ、それ。そんなの、ぜんぜん結菜じゃない」
「綾音……?」
「そんなの、ぜんぜんわたしが好きな結菜じゃないって言ってんの!」
パンッともう一度綾音が結菜の頬を挟んだ。ジンジンとする痛みを頬に感じながら結菜は綾音を見つめる。
よく、わからない。
自分のことが、よくわからない。
綾音は泣きながら続ける。
「陽菜乃から聞いた。陽菜乃、引っ越すんだってね」
「え……」
「だから結菜、わたしに乗り換えようとか思ったわけ?」
「違……。わたしは」
「陽菜乃は遠くに行っちゃうし、わたしは結菜と付き合えて結菜は寂しさから解放される。それで丸く収まるって、そう思ったわけ?」
「――違う」
ジンジンとした痛みが頬から全身へと広がっていく気がする。うまく呼吸ができない。心が痛みに悲鳴を上げている。
「違わないでしょ? じゃなきゃ、結菜がわたしと付き合おうとか言い出すわけないじゃん!」
「なんで!」
結菜は声を荒げる。綾音は怯むことなく「だって!」と続ける。
「結菜が好きなのはわたしじゃないでしょ!」
「そんなことない! わたしは綾音が好きだって言ってるのに!」
「それはわたしの好きとは違うじゃん!」
「なんでそんなこと綾音にわかるの? わたしだってわかんないのに、なんで――」
「逃げんな!」
ゴツッと額に衝撃を感じて結菜は思わず目を閉じた。そして再び瞼を上げると、すぐ近くに綾音の泣き顔があった。
「逃げんなよ、結菜」
綾音は一転して静かな口調で言った。
「自分の気持ちから逃げちゃダメだよ、結菜。じゃなきゃ、いつまで経っても前に進めないよ。また、三年前からやり直しになるよ?」
「やり直したい……」
結菜は溢れてくる涙を堪えることができず、しゃくり上げながら言う。綾音は額を離すと結菜の頬を撫でた。
「ダメだよ。また、あんな状態の結菜の面倒を見るのは嫌だし」
「でも、こんなに辛いのに――」
「それでも逃げちゃダメ。わたしだってやり直せるものならやり直したいよ? それこそ、結菜がここに越してきた頃から。だってあの頃のわたしが自分の気持ちから逃げてなかったら、きっとこんなにしんどくなかったもん」
綾音は苦しそうな表情で微笑んだ。涙を懸命に堪えながら。結菜はハッとして「綾音、ごめ――」と謝ろうとした。しかし、その言葉は綾音が結菜の頬を両手で挟んだことで遮られた。
「謝るのは禁止。じゃなきゃ、もっとしんどい。それでも、わたしは結菜のこと好きなんだからさ」
綾音の手から力が抜けて、その両手が結菜の肩に置かれる。
「だから、ちゃんとわたしの好きな結菜でいてよ。わたしは結菜を嫌いになりたくない」
「――どうしたらいいのか、わからない」
「それはわたしにもわからないけど。でも、このままずっと逃げることを結菜が選ぶ気なら、わたしは結菜を嫌いになる」
「やだ」
結菜は綾音の肩を掴む。
綾音までいなくなってしまうのは嫌だ。
絶対に。
綾音は結菜に微笑むと「だったら」と続けた。
「ちゃんと自分で考えて、どうするべきなのか決めなよ」
「……そうすれば、綾音はそばにいてくれる?」
綾音は目を丸くすると、困ったように笑った。
「ひどいこと言うなぁ、結菜は」
「だって綾音はずっとそばにいてくれるって」
「うん」
綾音はそっと結菜の身体を包み込むと優しく引き寄せた。そしてふわりと結菜の頭を撫でる。
「いるよ。結菜がわたしの好きな結菜でいてくれる限り、ずっとそばにいる。だから、負けるな。結菜」
綾音の声は優しい。それは今までで一番優しく、心に染みてくる声。結菜は泣きながら綾音にしがみついた。
「ごめん。綾音。ごめんね」
「……謝んなって言ってるのに。なんで謝るかなぁ」
「ごめん」
ごめん、と繰り返しながら結菜は綾音を抱きしめた。
綾音がいま、どんな顔をしているのかわからない。ただ「ありがとう、結菜」と小さく呟いたのが聞こえた。




