8.未来の思い出(1)
考えることをやめたら楽になれるはず。
そんな思いで結菜はベッドに寝転んで天井を見つめる。電気もつけず、カーテンも開けていない。
あれから結菜は薄暗い部屋の中に、ただ閉じこもっていた。
カナエには体調が悪いと伝えている。彼女は結菜の顔を見ると、疑うこともなくゆっくり休めと言ってくれた。それほど今の結菜はひどい顔をしているのだろう。自分でもわかる。
何もしたくない。
何も考えたくない。
誰かと会いたいとも思わない。
だからスマホも見ていなかった。何度か着信があったが、その音すら聞きたくなくて電源を切った。綾音からだったのか陽菜乃からだったのか、それとも別の誰かからだったのかわからない。
別にどうでもよかった。
なにもかもが、どうでも……。
カナエ以外の誰と会うこともなく迎えた月曜日の朝。タイマーをセットしたままだった目覚まし時計が鳴り始めて、結菜は深くため息を吐きながらそれを止めた。そして今、ぼんやりと天井を見つめている。
「……怠いな」
それは土曜の夜からひたすら何もせずベッドの上に転がっていたせいなのか、それとも気持ちの問題か。いずれにしても学校に行く気には到底なれなかった。結菜はごろりと身体を横に向ける。そのとき、控えめにドアがノックされた。
「結菜ちゃん。具合はどう?」
静かなカナエの声。結菜は「ダメっぽい」と短く答えた。
「そう。病院、行く?」
「行かない。熱はないし」
「でも、一応看てもらった方が」
「行かない。ほっといて」
すると一瞬の間があって「わかった」とカナエが答えた。結菜は込み上げてくる嫌な気持ちに顔をしかめる。
最悪だ。
カナエに八つ当たりをしてしまっている。カナエは何も悪くないのに。結菜は布団を被って身体を小さく丸める。
「……あのね。綾音ちゃんが来てるんだけど。どうする?」
結菜は布団の中で両足を抱え、さらに小さくなる。
「ごめん。会えない」
「そう。わかった。じゃあ、具合が悪いって伝えておくね」
「おばさん」
「ん?」
「ありがとう」
「うん。無理しないでいいからね」
カナエはそれだけ言うと、静かに階段を降りていった。微かに綾音の声が聞こえる。何を言っているのかはわからない。しかし、その声のトーンは低い。
結菜は目を閉じて彼女の声に耳を澄ませる。いつもならその声を聞けば落ち着いたのに、今日は違う。
――寂しい。
結菜は閉じた瞼に力を込めて顔を両手で覆った。瞼の裏に蘇るのは、土曜日の夕方、駅で別れた綾音の背中だった。
綾音まで離れていってしまうのだろうか。
――一人は、嫌なのに。
綾音とカナエの声が聞こえなくなり、再び静寂が戻った。カナエはもうすぐ仕事に行くのだろう。
一人は嫌だ。
寂しいのは嫌だ。
そう思えば思うほど、寂しさが広がっていく。寂しいという感情が心の中を埋め尽くしていく。この気持ちはどうすれば消えてくれる。
浮かんでくるのは陽菜乃の優しい笑顔。結菜の名を呼んでくれる優しい声。でも、彼女はいなくなってしまう。だったら、どうしたらいいのだ。
結菜は溢れる涙を両手で押さえつけながら、ただ布団にくるまっていた。
翌日も結菜は学校を休んだ。さすがに体調不良という理由でカナエを誤魔化すのは限界が近い。明日には学校に行かなくてはならないだろう。
結菜は仰向けに寝転んだままぼんやりと考える。学校に行って、どんな顔で陽菜乃に会えばいいのだろう。綾音にどんな表情を向けたらいいのだろう。
とても今まで通りの自分でいられるとは思えない。とても、平気でいられるとは思えない。今までのように誰かが助けてくれるとも思えない。
今まで結菜を助けてくれた二人は、きっと結菜から離れてしまうから。
そのとき、微かに階段を上がってくる足音が聞こえた。結菜は視線だけを動かして時計を確認する。いつの間にか夕方の五時をまわっている。カナエが帰ってきたのだろうか。
そう思っているうちに足音は結菜の部屋の前で止まった。しかしノックはない。声も聞こえない。だが、たしかにそこに誰かがいる気配がする。
「……おばさん?」
なんとなく不安になって声をかける。すると「ハズレ」という声と共にゆっくりとドアが開いた。
薄暗い部屋に廊下から灯りが差し込んでくる。その灯りの中に立っていたのは綾音だった。彼女は制服姿のまま、なぜか片手に折り畳んだタオルを持っていた。
「鍵、かかってたらどうしようって思った」
彼女はそう言うと静かに部屋に入ってくる。結菜は布団を頭から被りながら「玄関にはかかってたと思うけど」と答えた。
「合い鍵、カナエさんから預かったんだよね。今朝」
今朝も綾音が来ていたとは知らなかった。きっとカナエが心配して綾音に様子を見てやってくれとでも言ったのだろう。カナエは何も知らないから。
「何の用?」
布団を被ったまま結菜は聞く。するとため息が聞こえた。そしてベッドが軽く揺れる。
「いつかの仕返しのつもり?」
言われている意味がわからず、結菜は答えない。すると布団の上からポンと身体を軽く叩かれた。
「わたしが引きこもってたときよりもひどいよ、これ」
ようやく綾音の言っている意味がわかって、結菜は「綾音は部屋にも入れてくれなかったじゃん」と小さく言った。すると綾音は笑ったのか、息を吐くような音が聞こえた。
「たしかに。でも、カナエさんすごく心配してたよ? 何も話してくれないって。体調が悪いって言うけど、病院には行かないって言い張ってるって」
綾音の声は優しい。しかし、やはりその声を聞くと寂しくなってしまう。
どうしてだろう。
今、彼女の顔を見ることができそうにない。
「カナエさんを心配させるのはダメだよ、結菜。そんなのらしくないって。いつもカナエさんにだけは心配かけないように頑張ってたじゃん」
結菜が答えないでいるとベッドが再び揺れた。そして「ああ、スマホ……」と綾音の呟きが聞こえた。
「既読もつかないし、電話も通じないと思ったら。なんで電源切ってんの? これ、ほんとひどいよ。どんだけ心配したと思ってんの?」
「――綾音だって、似たようなことしてたじゃん」
つい、そんな言葉を吐き出すと綾音は「わたしはただ充電忘れてただけだし」と笑ったように言った。そして再びポンと布団が叩かれる。
「陽菜乃も心配してたよ? すごく」
――でも、家には来てくれなかった。
結菜はグッと布団の中で自分の身体を抱きかかえながら目を閉じる。
彼女は一度だって家まで来てはくれなかったのだ。話しても無駄だと、そう思われたのかもしれない。あのとき陽菜乃は、まだ何か言おうとしていた。それを結菜が拒否したから。
――やっぱり、自分のせいだ。
結菜は短く息を漏らして涙を堪える。そのとき、バッと布団が剥ぎ取られた。
いつの間にか点けられていた部屋の電灯が眩しく、結菜は片腕で顔を庇う。しかし、その腕をも綾音に掴まれるとグイッと引っ張り起こされた。
「やっと顔、見れた」
そう言った綾音は少し首を傾げると「おはよ、結菜」と悲しそうに微笑んだ。そして、そっと結菜の目元を指で拭う。
「陽菜乃と、何かあった?」
「……何もない」
結菜は綾音から視線を逸らす。すると綾音は「そっか」と力なく呟いた。そして「じゃ、結菜がこんなひどい顔してるのはわたしのせい?」と続ける。
「結菜が避けてるのは、わたし?」
「……違う」
「それじゃあ、陽菜乃?」
「違う」
避けているわけではない。ただ、顔を見てしまうと感情に呑まれてしまうから。
陽菜乃に会うと、悲しい気持ちに呑まれてしまう。そして綾音に会うと寂しい気持ちに呑まれてしまう。
今も、こうして目の前で微笑む綾音を見ると心に満ちてしまった寂しさが深くなるのだ。
綾音が、とても遠くに行ってしまったような気がして。
「じゃあ、結菜は結菜を避けてるんだ」
そう言われて結菜は「え……」と顔を上げた。その瞬間、顔に温かく柔らかなものが押し当てられた。それは彼女が持ってきたタオル。上がってくる前に温めたのか、程よい温もりの蒸しタオルだった。
「だって結菜、今まで一度だってこんなだらしないことなかったのにさ。ほら、ちゃんと顔拭いて」
「ちょ、綾音――」
強くタオルを押し当てられ、結菜は慌てて綾音からタオルを奪った。
「息、できないから。自分でやる」
一度深く呼吸をしてから綾音を睨む。彼女はニヤッと笑うと結菜の髪に触れた。
「頭もボサボサだよ。まさか、土曜日から手入れしてないとか?」
たしかに、風呂には入っていたが髪は洗いっぱなしだった。普段のようにトリートメントもしていなければ、しっかりドライヤーで乾かしてすらいない。
「……なんか、ごめんね。結菜」
綾音は結菜の髪を手櫛でときながら言った。結菜はタオルを手にしたまま眉を寄せる。
「なにが?」
「うん。いや、なんか――」
彼女の視線は結菜のベッド脇のサイドテーブルに向いた。そこには動物園の袋が中身もそのままに置かれてある。
「わたし、感じ悪かったなと思って」
彼女は言いながら結菜の髪に指を絡めた。
「あの日、結菜が別の誰かのこと考えてるなって、そう思った瞬間が何度かあって……。その相手が陽菜乃なんだろうなって思うと、イラッとしてさ。それに結菜がわたしとの画像を壁紙にするの嫌がったから、ショックで」
「……え?」
結菜は眉を寄せる。そんなことを言っただろうかと思い返してみる。
「その反応……。覚えてないんだ? 言ったんだよ。誰かに見られたらどうすんのって。あれ、すごくショックだった。わたしとの画像は見られたくないんだって……」
「違……。あれは、そういう意味じゃなくて――」
「でも、陽菜乃との画像だったらあんなこと言わなかったんじゃない?」
「違うってば。あれは、ほんとにただ普通に恥ずかしいって思って……。だってツーショットだよ? 恥ずかしいじゃん。相手が誰でもさ」
サラリと結菜の髪が綾音の指からすべり落ちた。彼女は微笑む。
「ま、結菜はそう言うよね。優しいから」
その笑みが、遠い。
彼女の心が見えてしまう。彼女は、きっとこのまま引いていってしまう。結菜を残して遠くへ行ってしまう。そして結菜は一人ぼっちになる。
――寂しい。
心の中で誰かが呟く。
「ごめんね。めんどくさい奴でさ。もし土曜のことで結菜が何か傷ついてたんだとしたら、謝っておきたくて」
綾音の手が結菜の髪から離れていく。
「あと、陽菜乃にはちゃんと連絡しなよ? ほんとに心配してるんだから。それこそ陽菜乃の方が体調悪くしそうなくらいに――」
結菜は離れていく綾音の手を掴んでいた。タオルが布団の上にボスンと落ちる。綾音は眉を寄せた。
「結菜? あー、あのさ。陽菜乃がここに来ないのは、たぶんわたしに気を遣ってるからで。でも、そっか。今日、一緒に連れてくれば良かったかな」
そうやって、綾音は離れるつもりなのだ。綾音は結菜の気持ちに気づいてしまっているから。
結菜よりも先に、結菜の気持ちが誰に向いているのか。
そして、その気持ちが相手に通じるものだと当然のように思っている。
「結菜? ごめんって、陽菜乃のこと連れて来られなくて」
――違う。
「ねえ。手、痛いって」
放さない。
放してしまったら一人になってしまう。
寂しいのは嫌だ。
一人は嫌だ。
この心から溢れ出す寂しさをどうしたらいいのかわからない。
もう、溺れてしまいそうだ。
結菜はそっと綾音に顔を近づけた。綾音は困惑したように結菜を見返している。
「なに、どうしたの?」
結菜は無言のまま掴んだ綾音の手を引き寄せると、もう片方の手で綾音の頬に触れた。
「結菜。ちょっと、なにを――」
戸惑う綾音の顔を見つめながら、結菜は彼女の口を塞ぐように自分の唇を押し当てていた。




