7.三つの想い(7)
暖かかったはずの日差しは、今はもう温度を感じない。辛うじて砂浜を照らす弱々しい太陽の光は冷たく吹きすさぶ海風に呑まれてしまったかのように、その温度を失っていた。
結菜は誰もいない砂浜で一人、膝を抱えて座っていた。綾音とは駅で別れた。
「ごめん。母さんに買い物頼まれちゃってさ」
そう言った綾音はいつもと変わらぬ笑顔で「先に帰っててよ。遅くなるかもだから」と続けた。
「……うん」
結菜は頷くしかなかった。綾音の言葉が拒絶の言葉に聞こえてしまったから。
いつもの綾音なら、どんなくだらない用事でも結菜と一緒に行きたがった。それが自分都合の用事であったとしてもだ。少しでも一緒にいたいから。そう言ってくれていた。しかし、今回は違う。
「ごめんね」
そう言って綾音は自宅とは反対の道へと歩いて行ってしまった。一度も結菜を振り返ることもなく。
心の痛みは治まるどころかさらにひどくなるばかりだ。結菜はその場に立ち尽くして顔を俯かせる。
駅に電車が到着したのだろう。乗客たちがバラバラと改札から出てきて結菜の横を通り過ぎて行く。結菜は胸を押さえながら深く息を吐き出すとトボトボと歩き出した。
そして気づけば、ここに来ていた。
まだ夜が来るには時間がある。空に浮かぶ太陽は、ひどく緩慢とした動きで海の向こうへ沈んでいるような気がする。
今日は大潮で、ちょうど今の時間帯は満潮のようだ。いつも陽菜乃と座る場所には白い泡を含んだ波が打ち寄せていた。その様子を眺めながら、結菜は少し離れた場所に座り続けている。
砂を濡らしては引いていく波を見つめては今日の事を思い出す。頭の中では綾音の言葉が繰り返し響いていた。
――何回、陽菜乃のこと考えた?
楽しかった。本当に、楽しかったはずなのだ。しかし心のどこかで陽菜乃のことを考えていたことも確かだ。そもそも、行き先をあの動物園に決めたときから頭の中では陽菜乃のことを考えていた。
陽菜乃のことを考えながら、綾音と一緒に遊びに行く場所を決めてしまった。
結菜は自嘲して頭を抱える。
「――最低じゃん」
きっと綾音は純粋に楽しみにしていてくれたはずなのに。結菜と一緒に遊びに行くことを。それなのに、結菜は彼女の気持ちを踏みにじったようなものだ。
綾音の態度が途中から変わった気がするのは、そのことに気づいたからだろうか。それとも何か別のきっかけがあったのか。
「わかんないや……」
しばらく考えてから呟く。そして横に置いていた袋からぬいぐるみとキーホルダーを取り出した。
綾音とお揃いで買ったぬいぐるみと陽菜乃とお揃いのキーホルダー。その二つを手の平に乗せて見つめる。
ぬいぐるみを見ていると苦しくなる。罪悪感が生まれてくる。心が締めつけられるようだ。それはキーホルダーを見ていても同じ。しかし、キーホルダーを見つめていると苦しさと同時に嬉しさもあった。陽菜乃の笑顔が脳裏に浮かんでくるのだ。そしてほんの少しだけ気持ちが楽になる。この違いは何だろう。少し考えてから結菜は深く息を吐き出した。
「そっか」
考えるまでもない。いや、考えなくとも分かっていなくてはならなかった。
今日、綾音と出かける前にすでに答えは出ていたのではないか。
今日の行き先を決めた理由には陽菜乃がいて、動物園で綾音と一緒に過ごしているときにも心のどこかには陽菜乃がいた。
何をしていても、心のどこかでは陽菜乃のことを考えてしまっていた。
そのことに綾音は気づいたのだろう。綾音はいつだって結菜の気持ちに真っ先に気づいてしまう。それこそ、結菜よりも先に。
結菜はキーホルダーを片手に取って指にぶら下げる。それは海風に吹かれてユラユラと揺れた。
――わたしは、きっと。
「結菜?」
ふいに聞こえた声に結菜はビクリと肩を震わせてキーホルダーを手の中に握る。そしてゆっくりと声がした方へ視線を向けた。そこには、買い物袋を下げた陽菜乃が立っていた。
彼女は不思議そうに「今日、バイトは?」と首を傾げている。
「あ、休みになって」
「そうなんだ。言ってくれたら、わたしも早めに――」
陽菜乃は言いかけて、結菜が隣に置いていた動物園の袋を見て少し寂しそうに微笑んだ。
「綾音と遊びに行ってたんだ?」
「……うん」
頷きながら結菜はキーホルダーとぬいぐるみを袋の中に戻す。
「隣、座っていい?」
「いいけど、汚れるよ? 何も敷いてないし」
「いいよ。結菜だってそうじゃん」
言いながら彼女は砂の上に座る。そして「動物園かぁ」と呟いた。
「もしかして、このキーホルダー買ったところ?」
陽菜乃は言いながら財布を取り出した。そこには古くなったフラミンゴのキーホルダーがぶら下がっている。しかし、そのチェーンと金具部分は新しくなっていた。
「それ、交換したんだ?」
「うん。もともと交換できる感じの作りじゃなかったから苦労したよ。でも、おかげでしっかりぶら下がってる」
「そっか」
結菜は微笑み、そして袋をギュッと抱きかかえた。
ザッと大きな波が打ち寄せてきた。しかしそれは足元に届くまでもなく引いていく。
「綾音は?」
「……おばさんに買い物頼まれたらしくて、駅で別れた」
「そう」
「そっちは? 買い物の帰り?」
「うん。食べるもの、何にもなくなっちゃって」
陽菜乃は苦笑する。
「一人暮らしは不摂生しちゃいそうだもんなぁ」
「お、言ったね? だったら結菜が何か作りに来てくれる? ご飯」
「カップ麺なら得意だよ」
「それは料理とは言いません」
陽菜乃が笑う。その笑顔を見て結菜もつられて笑う。
苦しかった心が穏やかになってくる。温かな気持ちになってくると同時に切なくなる。もっとこの笑顔を見たくなる。この声を聞きたくなる。
それはきっと、そういうことなのだろう。
結菜はグッと顎を引くと、抱えていた動物園の袋を砂地に置いた。
今なら言葉にできるかもしれない。陽菜乃への気持ちを。
これはきっと、綾音に対する気持ちとは違うものなのだということを。
結菜は一度深呼吸をすると「あのさ、陽菜乃」と彼女の顔を見つめた。
「ちょっと、言っておきたいことがあるんだけど」
「あ、うん。実はわたしもあるんだ。結菜に言わなきゃいけないこと」
そう言った陽菜乃の声はなぜか固かった。つい先ほどまでの穏やかな表情はそこにはない。
「え、なに?」
「結菜から先にいいよ?」
「あー」
結菜は少し考えてから「ううん」と首を横に振る。
「先に陽菜乃から言ってよ」
「そう?」
「うん。わたしの話は別にあとからでもいいし」
「そう……」
陽菜乃は頷くと、しかし迷うように砂地に視線を俯かせて口を閉ざしてしまった。
「陽菜乃?」
彼女の沈黙が、表情が、結菜の胸に不安を植えつけていく。
彼女はしばらく無言のまま顔を俯かせていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「昨日までね、うちの両親が来てたの」
「え? でも、たしかお父さんはアメリカにいるって」
「うん。わたしと話をするために休暇をとって帰ってきてくれたの。わたしがアメリカに戻りたくないって言い続けてたから」
「へえ……」
どうして言ってくれなかったのだろう。力になると約束したのに。結菜の力など必要ないということだったのだろうか。
暖かくなっていた胸にチクリと痛みが走る。
「どう、なったの?」
「うん――」
彼女は膝を抱えると、迷うように視線を砂地に向ける。
「陽菜乃?」
「わたし、アメリカに戻ることになった」
強い表情で顔を上げた彼女は結菜の顔を見つめながら言った。一瞬、何を言われたのかわからず、結菜は動くことも言葉を出すこともできない。彼女は続ける。
「あれからずっとね、ずっと、両親とも話し合ってきて。わたしが日本にいたいって言い続けてたから、ちゃんと直接会ってみんなで話をしようってことになってさ」
彼女は言いながら再び膝を抱えて俯いた。
「両親とも反省してくれたんだよね。親の都合で振り回してごめんって。だけど、仕事の都合があるからアメリカでの暮らしを急に止めることはできないって。ママも次の仕事はもう向こうで決まってるみたいで。わたしを一人で日本に残しておくことはできないって」
「だったら、やっぱりうちに――」
「無理だよ」
陽菜乃は静かに言う。
「それだと意味がない」
「意味が、ない……?」
結菜は彼女の言葉を繰り返す。陽菜乃は足元に視線を向けたまま頷いた。
「それで、もしわたしが日本に残れたとしても両親を納得させることはできない。だから」
彼女はそう言うと強い瞳を結菜に向けた。
「わたし、アメリカに戻ろうと思うんだ」
「なに、それ……。意味わかんない」
結菜は呟きながらゆっくりと立ち上がった。呼吸が苦しくて一度深く息を吸い込む。海風が喉に沁みて少しだけ苦しい。
「わたし、陽菜乃の力になるって言ったのに」
「うん。結菜がいるから、わたしはその決断ができたんだよ?」
陽菜乃も立ち上がりながら結菜の肩に手を乗せた。まるで幼い子供を言い聞かす大人のような表情で。結菜はそんな彼女を見ることができずに顔を俯かせる。
「全然わかんないよ。なに? 結局、陽菜乃は自分で全部決めちゃうんだ? わたしの力なんて必要なくて。わたしのことも別に何とも思ってない――」
「そんなことない!」
陽菜乃が声を荒げた。結菜はびくりと言葉を呑み込む。彼女は「そんなことないよ」と息を吐くように続けた。
「結菜はわたしにとって大切な存在なんだから」
「でも勝手に決めてるじゃん!」
結菜は怒鳴って陽菜乃の手を振り払った。そして溢れてくる涙を両手で拭う。
「結菜、話を聞いて?」
静かな声は、しかし迷いがない。
「聞いたら何か変わる?」
「……変わらない」
その声には力があった。もう決めてしまったのだろう。その意志の強さが言葉から伝わってくる。結菜は短く息を吐き出した。
「じゃあ、聞きたくない」
「結菜……」
困ったような陽菜乃の声に顔を上げる。彼女はそっと結菜に手を伸ばしてきた。しかし結菜はその手を振り払い、砂の上に置いていた荷物を手に取る。
「もう、いいよ」
震える声をなんとか抑えて結菜は声を絞り出す。
「行くんでしょ? アメリカ」
「結菜、わたしは――」
「いいよ、別に。陽菜乃の人生だもんね。わたしが何か口出すようなことじゃない。うん。わかってるよ」
「結菜、お願いだから話を聞いてよ」
陽菜乃の手が結菜の肩に触れる。しかし結菜はその手すらも振り払うと「もう、いいって」と言葉を吐き出し、陽菜乃に背を向けた。
「結菜! ちゃんと話を聞いてってば!」
「聞いても何も変わらないんでしょ? だったら無駄だよ」
「……結菜、どうしちゃったの?」
悲しそうな陽菜乃の声を背中に聞きながら、結菜はその場から逃げるように走り去った。
どうしたのか。そんなこと自分でもよくわからない。感情が勝手に暴れてしまう。
いや、違う。
わかっている。
もうわかっているのだ。
自分は陽菜乃のことが好きだ。
その気持ちを伝えたかっただけ。それなのに陽菜乃は遠く離れて行くことを決めてしまった。勝手に、一人で。それが耐えられなかったのだ。
こんな想いをするくらいなら前のままでよかった。
そうすれば、こんなに辛い気持ちを味わうことはなかったはずなのに。
そうすれば、こんなに寂しくて悲しい思いをすることもなかったはずなのに。
けれどきっと、こんなに誰かのことを想うこともなかったのだろう。




