7.三つの想い(6)
日が高くなるにつれて気温も上がり、園内の客数も増えてきたようだ。ポカポカとしたお日様の下、のんびりと歩く家族連れやカップルを眺めながら綾音が「いい天気だねぇ」と呟いた。
「そうだねぇ」
ひとしきり動物たちを見てまわった結菜たちは、休憩とランチを兼ねてカフェのテラス席でまったりしていた。
「なんか、ここも変わっちゃった感じするよね、前に来たときに比べて」
ズズッとメロンソーダをストローで吸いながら綾音が言う。結菜は追加で頼んだポテトを口に運んで「覚えてんの?」と笑った。
「まあ、なんとなく」
「えー、ほんとに?」
「園内見てたら、この辺りは結菜と歩いたよなぁって思い出してきたっていうか」
「へえ」
子供の笑い声が響いて、結菜は楽しげに園内を歩く家族連れに視線を向けた。
「まあ、たしかにこんな眺めの良いカフェはなかったよね」
「……パンフに書いてあったよね。最近オープンしたって」
「バレたか」
綾音は深くため息を吐いて「結菜は三年前のことだけじゃなくても記憶力ないなあ」とぼやいた。
「そんなことないと思うけど。ここに来たってことは覚えてるし」
「いや、それだけじゃん。わたしはちゃんと覚えてるのに」
「覚えてたわけじゃなくて思い出しただけじゃん?」
「結菜は思い出しもしないじゃん」
返す言葉もなく、結菜は口を閉じてテーブルに置きっぱなしにしていたメニューに視線を向けた。
「なに、まだ食べる気? 太るよ?」
「うるさいな。見てるだけだってば」
「まー、たしかに可愛いメニュー多いよね。映えそうなやつ」
綾音もメニューに視線を落としながら言う。カフェとは言いながらも、メニューは幅広い。ランチタイムには定食系もあればオシャレ感が漂うワンプレート、さらには子供が好きそうなパンケーキなどもあった。ワンプレートやパンケーキ、スイーツ系には動物をモチーフにしたメニューも豊富だ。
「結菜も可愛いやつにすればよかったのに。なんでここに来てまで唐揚げ定食頼むかな」
呆れたように綾音が言う。
「食べたかったんだもん」
「結菜、そんな唐揚げ好きだったっけ?」
綾音の言葉に結菜は笑って誤魔化す。
自分でもなぜここに来てまで定食を頼んでしまったのかわからない。ただ、メニューにある唐揚げを見て思い出してしまったのだ。陽菜乃が作ってくれた唐揚げの味を。当然のことながら、運ばれてきた定食は陽菜乃が作ってくれたものとはまるで違う味だったのだが。
「デザートにはポテトだしさぁ。てか、それってデザートって言わなくない?」
「たしかに……。じゃ、何か頼む? パフェとか、可愛いし美味しそう」
「いや、わたしはもうそんな食べられないって。結菜、ほんとに太るよ?」
綾音は苦笑しながら「それより昼からはどうしよっか。屋内展示の方はまだ行ってないからそっち行く?」と園内マップを開きながら言った。
「屋内って、なに展示してんだっけ」
「んー、蛇とか蛙とか? そういうやつ」
あまり気乗りはしない。そう思っていると綾音は察したのか「まあ、興味ないなら無理にとは言わないけどさ」と言った。
「綾音って好きだったっけ? 蛇とか蛙とか、なんだっけ。両生類系?」
「好きか嫌いかって言われたら別に普通だけど。でもなんか、普段見ないようなものは見たいかな」
「そう? じゃあ、行こうか」
結菜の言葉に綾音は眉を寄せた。
「え、いいよ。結菜って、あんまり得意じゃないでしょ。とくに蛇。昔、帰り道に蛇が出てきたとき、しばらく硬直してたじゃん。真っ青になってさ」
そのときのことを思い出したのか彼女は面白そうに笑う。しかし、結菜にはそんなことがあったという記憶もなかった。
「いつの話? それ」
「ほら、覚えてない」
ビシッと綾音が結菜に人差し指を向ける。
「結菜がこっちに来たばっかりの頃。それこそ、この動物園に遊びに来たくらいのときだよ?」
「えー、そうだっけ。全然覚えてないや」
「ようやく認めたか」
「てか、綾音が覚えすぎじゃない? 普通、そんな何でもないことまで覚えてないって」
「覚えてるよ。結菜のことだもん」
ふいに真面目な口調で綾音は言った。彼女の視線はまっすぐに結菜を捉えている。なぜかその視線を受け止めることができず、結菜は視線を泳がせた。
「そっか」
そしてポテトを数本一気に口に放り込む。冷めて少し柔らかくなったポテトが口の中の水分を吸い取っていく。
綾音はじっと結菜のことを見つめていたが、やがて「でもまあ、結菜がいいって言うのなら」と再び園内マップを眺め始めた。
「とりあえず行こっか。そのあとにお土産見る?」
「うん。それでいいよ」
結菜が再びポテトを口に運びながら言うと、綾音は顔を上げて何か言いたそうに結菜を見つめてきた。
「え、なに?」
「別にー。結菜、めっちゃポテト食べるなぁと思って」
ハッとして結菜は自分の前に置かれたポテトのバケットを見る。いつの間にかほとんど残っていない。そういえば、これは綾音と半分こするということで頼んだものだったと思い出す。
結菜は「あー、えっと」と乾いた声で笑うと、ポテトをつまんで綾音の方へ差し出した。
「食べる? もう冷めてるけど」
綾音は呆れた眼差しを向けてきたが、おもむろに首を伸ばして結菜が差し出したポテトを口で受け取った。そして器用にモグモグとそのまま食べていく。
「もう一本」
「え、自分で取れば――」
「もう一本」
なぜか憮然とした表情で彼女は言う。結菜はため息を吐いて「はいはい」とポテトを数本まとめてつまんだ。
「一本と言わずにたくさんどうぞ」
「うん」
てっきり多すぎると文句を言われるかと思ったが、綾音は素直に首を伸ばすと、髪を片手で押さえながら差し出されたポテトを一気にくわえた。そして空いている方の手を口元に添えながらモソモソと食べ進めていく。
その様子に結菜は思わず吹き出して笑ってしまう。綾音は不愉快そうに眉を寄せた。
「なんで笑うの」
「いや、だってさ。そんな一度に食べなくてもポテトは逃げないって」
綾音はポテトを呑み込んでから「ポテトは、ね」と呟いた。
「え、なに?」
「別に。それよりほら、それ貸して。残りのポテトもわたしがもらう!」
「ちょっ! 綾音、さっきもう食べられないって言ってたじゃん」
「いいの! 食べるの!」
子供のように言って綾音はポテトのバケットを引き寄せると残っていたポテトをすべて平らげてしまった。結菜は思わず「あー、わたしのポテト……」と情けない声を上げる。
「結菜のじゃないでしょ。てか、ほとんど食べてたじゃん」
「そうだけどさー」
「はいはい。あとで何か買ってあげるから。そろそろ行きますよー」
綾音はそう言うとバッグを持って立ち上がる。結菜は「そういうことじゃなくて」と彼女の後に続いた。しかし綾音は振り返ることもなく、先に店を出て行ってしまった。
屋内展示室はあまり人気がないのか、人の数は少なかった。展示されているのはやはり両生類が多い。蛇も種類ごとに分けられて展示されていたが、思ったよりも怖くはなかった。完全に隔離されているという安心感があるからだろう。綾音はといえば、ただぼんやりと動かない蛇の様子を眺めていた。
「綾音、疲れたの?」
「ん、なんで?」
「なんか静かだから」
「あー、うん。ちょっと疲れたかも」
彼女は振り向くとそう言って力なく笑う。そして次の展示へと移動しながら「そういえば結菜さ」と続けた。
「来月、行くんでしょ? お母さんの三回忌」
結菜は立ち止まり、綾音の背中を見つめる。
「なんで知ってんの」
「カナエさんから聞いた」
「……そっか」
綾音が足を止めないので結菜は彼女の後ろについていく。綾音は展示を見るでもなく眺めながら「なんで言ってくれなかったの」と言った。
「なんでって、別に」
「言うほどのことでもなかった?」
なんとなく責められているような口調に結菜は眉を寄せた。
「綾音、なんでそんなこと言うの?」
「そんなことって?」
「だって、なんか怒ってる」
すると綾音は足を止めて振り返った。
「怒ってない。結菜のお母さんのことだからわたしには関係ないことだっていうこともわかってる。でも、なんかさ」
彼女はそう言うと視線を俯かせた。
「ちょっと寂しかったというか。結菜にとってはすごく大事なことでしょ? きっと結菜の気持ちの区切りにもなる。それくらい大切な事。それを話してもらえないのは寂しいなって、そう思っただけだよ……」
寂しそうに彼女は言う。結菜は息を呑み、そして俯いた。
「ごめん。別に話したくなかったわけじゃなくて。もちろん話す必要がないと思ったわけでもないよ? ただ、タイミングがなかっただけで」
「こんなにいつも一緒にいるのに?」
「……ごめん」
本当に、ただタイミングを逃しただけだったのだ。それに結菜自身、あまり実感がなかったということもある。
母が眠る場所へ行ける。そう理解はしていても、今までと何が変わるわけでもないと思う自分がいるのだ。
母の眠る場所がわかったところで、そこに母がいるわけでもない。たしかに綾音の言う通り、結菜自身の気持ちの区切りにはなるだろう。心の中に溜まっていた母への気持ちも消えて無くなるかもしれない。ちゃんと別れを告げることができるかもしれない。しかし、その実感も今の結菜にはない。
「陽菜乃には?」
ふいに陽菜乃の名前が出て、結菜は眉を寄せながら顔を上げた。綾音はどこか思い詰めたような顔で結菜のことを見ている。
「陽菜乃?」
「うん。陽菜乃には言ったの? お母さんの三回忌に行くこと」
「あ、ううん。言ってない。誰にも、このことは話してなくて」
「ふうん」
綾音は頷くと「じゃ、いいや」と再び次の展示に向かって歩き出した。
「綾音……?」
「ごめん。気にしないで。ちょっとモヤッとしてただけだから」
「でも」
「いいって。ごめんね、めんどくさい感じになっちゃって」
言って振り向いた綾音は笑っていた。彼女はいつもの笑みで「よかったね。お母さんがどこに眠っているのかわかって」と言う。
「これで、いつでも会いに行けるね」
それが言いたかったのだ、と彼女は笑いながら歩いて行く。しかし、その言葉が彼女の想いの全てではないのだろうと結菜は思った。そう思えるほど、綾音の背中は寂しそうに見えたのだ。だが、彼女はこれ以上話を続ける気がないようで「もう出ようよ。飽きちゃったし。お土産見よう」と出口に向かって行った。
土産物を売っているショップはちょうど屋内展示がある建物の中にあった。そこには様々なグッズが並んでいる。
「お、あの子のグッズもある! これは絶対買いだな」
少しテンションが上がった様子の綾音が、マスコットキャラのぬいぐるみを手に取って言った。
「それ、癸羽ちゃんにお土産ってわけじゃないんだね?」
「もちろん、これは自分用。ベッドに置いて一緒に寝るんだ」
「えー、邪魔じゃない?」
「そんなことないって。抱き枕にもなりそうだし。でも、そうだなぁ。癸羽にも何か買って帰らなきゃ拗ねちゃうかな」
呟きながら綾音は他のグッズを物色している。どうやらマスコットキャラ以外の土産は買う気がないようだ。たしかにマスコットキャラのグッズは可愛らしいものが多いが、どうも買う気にはなれない。
結菜は周囲を見回すと、少し離れた場所にキーホルダーの棚を見つけてそちらに移動する。様々なキーホルダーは園内にいる動物たちをモチーフにしたものが多かった。しかし、すべての動物のものがあるというわけでもないようだ。
結菜は腰を屈めてキーホルダーを一つずつ眺めていく。ライオン、キリン、ゾウ、サルなどメジャーな動物たちが並んでいる。
やはり、もうあれと同じものはないのだろうか。
そう思った瞬間、視界に見覚えのある鳥の姿が飛び込んできた。
「……あるじゃん」
思わず微笑む。そして、そのキーホルダーを手に取って眺めた。それは間違いなく陽菜乃が持っているのと同じ、フラミンゴのキーホルダーだった。
「なに、結菜。キーホルダー買うの?」
ふいに肩越しから綾音が覗き込んでくる。そして彼女は「えー、それ?」と眉を寄せた。
「フラミンゴのキーホルダーって……。結菜、もう興味なさそうだったじゃん。昔は綺麗だーって喜んでたのに。さっき見に行ったときはシラーっとしてたしさ」
「いや、綺麗だなとは思ったよ?」
「でも感動はしてなかったよね」
「そりゃ、もう子供じゃないし」
「それでもキーホルダーは買うんだ? てか、昔も同じようなの買ってなかった?」
瞬間、結菜の心臓が大きく脈打った。目を見開いて綾音を見ると彼女は不思議そうに「なに?」と首を傾げる。
「いや、そんなことまで覚えてんの?」
「んー、なんのキーホルダーを買ったのかまでは覚えてないけどね。こういうの買ってたでしょ?」
「うん。それはもうなくしちゃったけど」
「そっか。だから代わりに買おうと思ったわけだ?」
「まあ、そんなとこ」
結菜は笑みを浮かべて頷く。
「そっかそっか」
綾音は頷くと「じゃあ、キーホルダーじゃなくてこれにしよう?」と後ろ手に持っていた手の平サイズの小さなぬいぐるみを差し出してきた。それは動物園のスタッフTシャツを着たマスコットキャラのぬいぐるみだった。
「えー、これ?」
「うん。お揃いで買ってさ。部屋に飾ろうよ。キーホルダーでもいいけど、わたしけっこうそういうのはすぐ落としちゃうタイプだからさ」
「綾音、鞄の扱いとか雑だもんね」
「うっさいな。ほら、レジ行くよ」
綾音はそう言うとレジに向かう。結菜は渡されたぬいぐるみを見つめ、そしてもう片方の手に持ったキーホルダーへ視線を移すとそれをグッと握った。
まだ心臓がドクドクと早く鳴っている。
なぜか胸が痛い。
心がギュッと押しつぶされるような感じがする。
結菜はレジの列に並ぶ綾音の背中を見つめた。なぜだろう。心が苦しい。
「結菜? 早くー」
綾音の声に結菜は「うん。いま行く」と答えてキーホルダーとぬいぐるみを手に、レジの列に並んだ。
帰りの電車は乗客も少なく、結菜と綾音は並んで座ることができた。綾音は袋に入れてもらったぬいぐるみを抱きかかえながら無言で座っている。
朝の電車では沈黙する時間などなかったと思えるほど喋っていたのに、今は一言も話さない。
園内に入ってからだろうか。綾音がこうして、ふとした瞬間に沈黙するようになったのは。あのとき、結菜が何かしてしまったのだろうか。思い返してみるものの、よくわからない。
「ねえ、結菜」
綾音がふいに口を開いた。
「ん、なに?」
「ぬいぐるみ、ちゃんと飾ってよ?」
「わかってるって。ちゃんと飾るよ」
そして沈黙。ちらりと横目で見ると、綾音は袋をギュッと抱きしめながら神妙な面持ちで床に視線を落としている。
「ねえ、結菜」
さっきと同じ声のトーンで彼女は言う。
「なに?」
「……変なこと聞いてもいい?」
「いいよ」
しかし、彼女は何も言わない。不思議に思いながら見ると、彼女は不安そうな表情で結菜のことを見ていた。結菜は首を傾げる。
「どうしたの?」
「うん。あの、ね。今日さ」
言いにくそうに彼女は顔を俯かせた。そしてそのまま小さな声で言う。
「何回、陽菜乃のこと考えた?」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかわからず結菜は綾音を見つめる。心臓が再びドクドクと大きく脈打ち始めた。同時に心がギュッと苦しくなる。それを隠すように結菜は笑った。
「なに言ってんの? どういう質問よ、それ。陽菜乃、ここにいないのにさ」
動揺が声に出ないように、いつもと同じ口調で言葉を絞り出す。綾音は不安そうな瞳を結菜に向け、そして「そう、だよね」と呟くと乾いた声で笑った。
「ごめん、変なこと聞いたね」
「ほんとだよ」
結菜の言葉に綾音は笑いながら「じゃあ、変なことついでにもう一つ聞いてもいい?」と言った。結菜は彼女から視線を逸らしながら「うん、いいよ」と頷く。
「今日、楽しかった?」
「そりゃ楽しかったよ」
「――ほんとに?」
少し低い、綾音の声。
結菜は気づかれないように息を吐き出し、そして綾音に笑みを向けた。
「ほんとに。ありがとね、綾音」
「……うん。だったら、いいや」
綾音は頷くと、ため息を吐いて「でも、さすがに疲れたね」と笑った。その口調はもう、いつもの綾音だ。結菜も笑って「ほんとだね。すごい歩いたし。ちょっと眠いかも」と目をこする。
「いいよ、寝てても。わたし起きてるし。降りる駅来たら起こしてあげるから」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」
結菜は言いながら目を閉じる。本当は眠くなんてなかった。しかし、このまま綾音と会話をすることができない。
それほど、心が痛かった。
心臓がまだドクドクと煩く鳴っている。
ちゃんと誤魔化すことが出来ただろうか。この胸を締めつける感情を。
しかし結菜はわかっている。これはきっと誤魔化してはならないものだったと。この、綾音に対する罪悪感は誤魔化してはいけなかったのに。
結菜は固く瞼を閉じて、心の痛みが治まるのを待つ。
ガタゴトと平穏な音を立てながら走る電車。その中で、微かに誰かの息遣いが聞こえる。
それはまるで、声を押し殺して泣いているようだった。




