7.三つの想い(5)
「まだ開園時間になったばっかだっていうのに、けっこう人来るもんなんだね。動物園って」
土曜日。予定通り動物園に到着した二人は、チケット売り場のブースに並んでいた。結菜は「そうだねぇ」と頷きながら周囲を見渡す。駐車場はすでに半分ほどスペースが埋まっているようだ。列に大人しく並んで待てない子供たちがそこら中を駆け回っている。
「天気も良いし、昼は暖かくなるみたいだしね」
「でも家族連れしかいないね」
「そりゃ、普通はこんな早朝から張り切ってデートとかしないんじゃない?」
「ウッソ、そうなの?」
綾音は目を丸くして驚いている。一組の家族がチケットを持って入場ゲートへ進んでいく。列の隙間を埋めるように数歩前に進みながら結菜は首を傾げた。
「知らないけど。そういうの、綾音の方が知ってるんじゃないの?」
「へ? なんで」
「なんでって……」
結菜は眉を寄せる。
「綾音、けっこうモテてたじゃん。中学のときとか」
すると綾音は「あー……」と苦笑した。
「そういう話、結菜とした覚えないんだけど?」
「しなくても噂は耳に入るの。高校に入ってからも告白されたことあるでしょ」
「……それはどこ情報?」
「中学のときはクラスで噂流れてたから出所は知らないけど。高校に入ってからのはミチから」
「あいつ……。月曜に覚えてろよ」
綾音は小さく舌打ちをした。結菜は首を傾げる。
「なんで隠すの? 別にいいじゃん。モテることは悪いことじゃないし」
すると綾音は嫌そうに顔をしかめた。
「悪いことじゃないけど好きな子に知られたくはないでしょ。それに、結菜以外にモテても嬉しくないし」
語尾を小さくしながら彼女は顔を俯かせる。
「じゃ、誰かと付き合ったりとかは?」
「ないよ。一度も」
「そうなんだ……」
きっと綾音のことを好きになったのは男の子だろう。中学の頃のことはよく知らないが、高校に入って告白してきたのは男子バスケ部の二年生だという。女子からかなり人気のある先輩だと、いつだったかミチが言っていた。一学期の終わりに告白されたらしい。
結菜は思う。自分がいなければ綾音はその先輩と付き合ったりしたのだろうか、と。
きっと今まで綾音にはたくさんの出会いがあって、たくさんの選択肢があったはずだ。その選択肢のすべてを、何も気づいていなかった結菜の存在が潰してしまったのではないか。そしてこれからも綾音の未来を狭めてしまうのではないか。そんなことを考えてしまう。
「――ちょっと、なにその沈黙」
「え、いや別に」
「別にって感じじゃないけど」
綾音は小さく息を吐くと笑った。
「どうせ、自分のせいでわたしが誰とも付き合わなかったんじゃないかとか思ったんでしょ」
結菜が驚いて目を見開いていると彼女は「やっぱりか」と困ったような表情を浮かべた。
「ほんと、結菜は全部自分のせいだって思い込むよね。違うってば。前にも言ったでしょ。わたしが結菜のこと好きになったのは結菜のせいじゃないし、告白を断ったのだって結菜のせいじゃない。全部わたしが選んだことなんだよ。たしかに結菜がいなかったら誰かと付き合ってたかもしれないけどね。普通に、男の子を好きになってたかもしれない」
――普通に。
そうだ。それが普通なのだ。普通に男の子に恋をして付き合って。それがきっと普通。
綾音にはその普通の選択もできたはずなのに。綾音だけではない。陽菜乃だってそうだ。
「他人の気持ちなんてどうしようもできないんだから、いちいち考えるなって」
綾音の言葉に結菜は視線を向ける。彼女は困ったような笑顔で「それ以上考えてたら、結菜はただの自意識過剰ってことになるからね」と言った。
列が進んでまもなくチケットが購入できそうだ。綾音は「ほら、行こう?」と結菜に手を伸ばす。結菜は微笑んで彼女の手を取った。
チケットを購入して入場ゲートをくぐると、そこには人だかりができていた。何事だろうと覗いてみると、どうやら動物園のマスコットキャラの着ぐるみと記念撮影ができるようだ。家族連れが多く並んでおり、子供たちが大はしゃぎしている。
「へー、こんなキャラいたんだね」
以前来た時にはいなかった気がする。そう思いながら綾音に声をかけると、彼女は目を輝かせてその着ぐるみを見ていた。
「……えっと、綾音?」
嫌な予感がする。一歩引きながら綾音の手を引っ張る。しかし、彼女はその手を引っ張り戻した。そして「わたしたちも撮ろう!」と輝く笑顔を結菜に向けた。
「あー、そうきたか」
結菜はため息を吐く。そういえば、すっかり忘れていたが綾音はこういう着ぐるみが大好きなのだ。昔、ゆるキャラのイベントによく付き合わされたことを思い出す。最近はそんな話題が出ることもなかったので、そういうものからは卒業したのかと思っていたのだが。
「いや、なにその反応。いいじゃん! せっかくだよ? たぶんあの子、今しかここにいないよ? タイミング合わなかったら今日はもう会えないかもしれないんだよ? もったいないじゃん!」
ぶんぶんと繋いだ手を振る綾音。結菜は「まあ、別にいいけど」と諦めモードで答える。
「いやいや、なにそのテンション。撮ろうよー」
「はいはい。いいって言ってんじゃん。ほら、並ぶよ」
言いながら結菜は子供たちが並ぶ列の最後尾に向かう。綾音が小さく「やった!」と声を上げたのが聞こえた。
幼い子供たちの中に混ざる手を繋いだ女子高生二人。正直に言って恥ずかしい。しかし綾音は気にならないのか「ラッキー。あの子、名前なんて言うんだろ」とスマホでマスコットについて調べ始めた。
結菜はあらためてマスコットを見る。いったい何の動物がモデルなのかよくわからない。タヌキかイタチ、それともキツネだろうか。そのあたりの動物をミックスして作ったのかもしれない。
それなりに可愛らしいとは思うが、特別可愛いというわけでもない。普通のマスコットだなと結菜は想う。それでも綾音にとっては価値ある存在のようだ。
――陽菜乃はこういうの好きなのかな。
ふと考える。
陽菜乃が好きなものは何だろう。料理、映画、それから花火とボードゲーム。そういえば好きな芸能人などの話もしたことはない。こういう着ぐるみキャラが好きなのかどうかも話題が出なかったのでわからない。でも、と結菜は少し微笑む。
きっと陽菜乃は興味がないだろう。他人に合わせて可愛いと愛想笑いを浮かべながら言うだろうが、本心ではどうでもいいと思っていそうである。
「あ、次だよ」
気づけば順番が回ってきていた。目の前では小学生低学年くらいに見える男の子と、その妹なのだろう女の子が仲良く着ぐるみに抱きつくようにして記念撮影をしている。
「……まさかとは思うけど、ああいうことはしないよね?」
「え、しないの?」
「え、するつもり?」
結菜と綾音は顔を見合わせる。綾音は「しようと、思ってた」と少し気まずそうに視線を泳がせた。
「まあ、別に止めないけど」
「いいの?」
パッと嬉しそうに綾音は声を上げる。結菜は「いいけどさ」と苦笑を浮かべた。
「わたしはやらないからね?」
「えー……」
すがるような綾音の視線から顔を逸らしながら結菜は「やらない」と頑なに自分の意思を貫く。
「――ケチ」
「撮らないよ?」
「ウソです。すみません。あ、順番来た! 行くよ、結菜!」
ちょうどいいタイミングで順番が回ってきたようだ。結菜の気が変わらないうちにと綾音がスタッフにスマホを渡す。
「じゃ、撮りますよー」
手際良くスタッフがスマホを構えた。ちらりと横目で見た綾音は宣言通り、着ぐるみに軽く抱きついていた。結菜は小さくため息を吐くと、綾音と同じように着ぐるみに抱きついた。
「はい、オッケーです!」
スタッフが笑顔でスマホを綾音に返す。綾音は嬉しそうに「やったー。どんな感じかなぁ」と画像を確認し始めた。そしてピタリと動きを止めると目を丸くして結菜を見てきた。
「……なに」
結菜が眉を寄せて彼女を見返すと、綾音は嬉しそうに笑った。そして「八十点!」と結菜に指を突きつけた。
「はあ? なにそれ」
「だって見てよ、これ」
綾音は言いながら結菜に画像を見せる。そこには満面の笑みの綾音とぎこちない笑顔の結菜が写っていた。
「もっと楽しそうにしなくちゃ! 思い出の一枚だよ? 初デート記念なのに!」
「いつの間にそういう記念ものになったわけ? てか、文句言われるならやらなきゃよかった。恥ずかしかったのに……」
結菜は言うと綾音を置いて歩き出す。後ろから「あー、ウソウソ! ごめんって」と慌てて追いかけてくる。
「まさかやってくれるとは思ってなかったからさ、嬉しくって。これ、結菜にも送っとくね。わたしはロック画面に設定しちゃおっかな」
「え、壁紙にする気?」
「するよー。いつでも見られるように。なにせ、大切な記念画像だし」
「いや、マジでやめてよ。誰かに見られたらどうすんの」
そう言って振り返った結菜は、綾音の顔を見て立ち止まる。彼女は、なぜかとても悲しそうな顔をしていた。
「え、なに。どうしたの、綾音」
「へ? なにが?」
一瞬だけハッとした表情をした綾音はすぐにヘラッと笑う。結菜は「いや、なにがって……」と眉を寄せながら彼女を見つめた。しかし綾音は笑顔のままスマホをポケットに収めると園内マップを開いた。
「ね、それよりどこから攻める? わたし的にはやっぱりライオンとか見たいんだよね。あ、でも結菜はフラミンゴから見たい感じ?」
「……ううん。綾音が見たいところからでいいけど」
結菜の答えに綾音は「張り合いがないなぁ」と笑う。
「ま、いいや。じゃあ、ライオンからってことで。えーと、どこだ?」
綾音は言いながら園内マップでライオンの檻を探す。結菜も彼女の肩越しからマップを覗き込んだ。
思っていたよりも園内は広い。動物たちは肉食系、草食系、は虫類や鳥類といった具合にざっくりと区画が別れているようだった。その中にライオンのイラストを見つけて「ここじゃない?」と結菜はマップを指差す。
「あ、ほんとだ」
綾音は頷いて結菜に顔を向け、そして笑みを浮かべながら「じゃ、行こっか」と歩き出す。気のせいか、着ぐるみと写真を撮ったときよりもテンションが低い。
先に歩いて行ってしまう綾音の背中を見ながら結菜は何かしてしまっただろうかと考える。でなければ、あんなに楽しそうにしていた綾音の様子がこんなにも急に変わるわけがない。
「綾音」
結菜は少し遠くなってしまった彼女の背中に声をかけた。立ち止まった彼女は振り返り、不思議そうに首を傾げる。
「何してんの? あ、まさかもう疲れたとか? さすがにまだ休憩には早すぎるって。スタートもしてないのに」
苦笑する綾音の表情はいつもと変わりない。その様子に少し安堵しながら結菜は綾音の元へと足を進める。
「さすがにまだ平気。でも綾音、先に行っちゃうんだもん」
「結菜が遅いからでしょ。わたしは早くライオンが見たいの!」
彼女はそう言って笑みを浮かべると「ほら、行こう?」と歩き出した。さっきは差し伸べてくれた手は、下ろされたまま。
「……うん」
結菜も歩き出す。二人で並んでお喋りをしながら、朝の柔らかな日差しが降り注ぐ動物園を寄り添うようにしてのんびりと歩く。
手が触れるか触れないか、そんな微妙な距離を保ったまま。
一瞬だけ見えたわずかな変化に気づかないふりをして、結菜は綾音との時間を過ごしていた。




