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7.三つの想い(4)

 その日以来、陽菜乃が引っ越しの話を持ち出すことはなくなった。きっと彼女は頑張っているのだ。だから結菜も彼女が何か言ってくれるまでは何も聞かず、ただ自分にできることだけを考えようと決めた。

 学校ではいつも通り過ごし、そして毎週土曜日の夜は浜辺で海を眺めながら過ごす。たまに彼女のお気に入りだという映画をスマホで見たり、彼女が持ってきたボードゲームで遊んだりもした。けれど、大抵は二人で寄り添いながら海を眺めるだけ。

 静かに、互いの温もりを感じながら。

 そんなときにふと感じる陽菜乃の視線。目が合うと彼女は無言で微笑んだ。その笑みの意味を結菜は理解している。そして彼女が求めているものも。それでもまだ結菜には答えが出ない。陽菜乃に対しても。そして、綾音に対しても……。


「ねー、結菜」


 十二月。すっかり冬が近づいたある金曜日の夜。結菜の家のソファで仰向けに寝転んだ綾音がスマホを眺めながら言った。

 綾音は、いつの間にか平日の夜は結菜の家で過ごすようになっていた。まるで失っていた時間を取り戻すかのように、自宅で食事を済ませると結菜の家に来て思う存分お喋りをして帰って行く。カナエも以前のように綾音が遊びに来てくれるのが嬉しいのか、毎晩のように遊びに来る綾音に対して何も言わない。そしてカナエが遅番のときにはこうしてソファで過ごしたり、結菜の部屋で過ごしたりする。

 それだけだ。

 ただ、共に時間を過ごすだけ。

 彼女は結菜に何かを求めたりもしない。きっと待ってくれているのだろう。静かに、辛抱強く結菜の答えを待ってくれている。


「ねーってば、聞いてる?」


 綾音は身体を起こすと、ソファにもたれて座る結菜の背中に抱きついてきた。


「結菜ちゃーん?」


 耳に綾音の吐息がかかって結菜は首をすくませた。


「もう、近いっての。くすぐったいから!」


 身をよじって彼女から逃れようとするが、綾音は放してくれない。以前と変わったのは、二人でいるときにこうしたスキンシップが増えたことだろう。

 彼女は結菜の気持ちを待ってくれている。何かを求めたりもしない。ただその代わりのように、こうして自分の存在を結菜の心に刻んでいく。

 いつもそばにいるのは自分なのだ、と。

 最初は戸惑っていた結菜だったが、次第に綾音の思惑通りになっている自分に気づいた。こうして感じる綾音の体温が、柔らかさが、そして匂いが結菜の心を温かくする。結菜は小さく息を吐くと抵抗を諦めて「なに?」と横目で彼女を見た。


「――あのさ、デート行かない?」


 ギュッと腕に力を入れながら綾音は囁くように言った。そして少し恥ずかしそうに結菜の首元に顔を埋める。その吐息がくすぐったくて結菜は「くすぐったいって言ってんじゃん。離れてよ」とさらに身をよじる。それでも綾音は放してくれない。


「嫌なの?」

「え、なにが?」

「こうしてるの」


 横目で見ると、綾音は怒られた子供のような表情で結菜のことを見ていた。結菜は困りながら「嫌じゃないけど」と答える。


「ただちょっと……」

「ちょっと?」


 含みのある笑みが結菜の顔を覗き込んでくる。結菜は彼女から顔を逸らすと「恥ずかしいじゃん」と答えた。頬が赤くなっていることは、もう彼女にはバレているだろう。

 綾音は嬉しそうに笑うと「それで」と結菜から離れた。


「行こうよ、デート。明日」


 言いながら彼女はソファから降りて結菜の隣に座る。


「え、明日?」

「うん。バイトは休みでしょ?」

「なんで知ってんの」


 結菜は基本的に毎週土日はシフトに入っている。そのことは綾音だって知っているはずだ。しかし明日は店主夫婦が外せない用事があるということで臨時休業となっていた。

 綾音はニッと笑うと「知ってるよー。結菜のことは何でも知ってる」と冗談めかして言った。


「いやいや、それちょっと怖いって。どこでわたしの個人情報漏れてんの?」


 結菜が言うと綾音は「カナエさんから聞いた」と肩をすくめた。


「おばさん?」

「そ。昨日、結菜がお風呂入ってるときに」

「何の話してんだか……」


 結菜は深くため息を吐く。綾音は「カナエさんが心配してたからさ」と言いながら結菜に寄りかかる。


「明日、カナエさん仕事なんでしょ? 休みの日なのに結菜を一人にするなんて心配だって」

「……わたし、もう高校生なんだけど?」


 ククッと綾音は笑うと「行くでしょ?」と言った。結菜は彼女を見る。綾音は期待の目で結菜のことを見ていた。


「まあ、いいけど。でも夜は――」

「はいはい。陽菜乃とデートでしょ。わかってる、わかってる。お邪魔はしませんよー」


 少しだけ拗ねた顔で彼女は言う。こういうところも以前と変わったなと結菜は思う。前までの綾音はこうやって結菜の前で子供のような振る舞いをすることなんてなかった。なんだか本当の綾音を知ることができたようで少しだけ嬉しい。

 結菜が微笑んでいると、それに気づいた綾音はムッとしたように結菜の肩を小突いてきた。


「痛っ。いきなり何すんの」

「なんかムカついたから」

「ひどくない?」


 結菜は笑って言いながら「それで」と綾音を見た。


「どこ行くの?」

「結菜はどこ行きたい?」


 嬉しそうに綾音は言う。


「わたしは別に、綾音の行きたいとこでいいけど」

「わたしが行きたいところは結菜の行きたいところ」

「えー、それ困るやつなんだけど」

「でもあるでしょ? どっか行きたいとこ。映画とかでもいいよ?」

「映画ねぇ。今って何やってんだっけ」


 呟きながら結菜はスマホで上映スケジュールを確認する。


「どう? なんかやってる? 恋愛映画とか観たい感じだけど」


 綾音が結菜のスマホを覗き込んでくる。結菜は笑って「面白そうなのはないねー」と答えた。


「てか綾音、そういう系って普段観ないでしょ?」

「結菜とだったら観たい」

「またそういうことを……」


 二人で恋愛映画を観ている姿を想像すると恥ずかしくなる。結菜はため息を吐いた。


「恋愛映画は無し」

「えー。じゃ、アクション系?」

「んー」


 結菜は画面をスクロールさせていく。綾音はよく見えないのか、さらに身を寄せてくる。そのとき、チャリッと何かが落ちたような音がした。


「綾音、何か落ちた?」

「ん?」


 綾音は体勢を戻して「ああ、鍵が落ちてた」とキーホルダーを拾い上げた。


「ポケットに入れてたから」

「危ないなぁ。それ、家の鍵でしょ? ちゃんと鞄に入れときなよ」

「はいはい」


 言いながら彼女は再びそれをポケットに収める。


「人の話、聞いてる?」

「まあまあ、いいじゃん。ここで落としたってすぐに分かるんだし」


 彼女がポケットを叩くと鍵がチャリッと鳴った。その音が、あの夜に聞いたものと重なる。


 ――これは、その日からわたしの宝物。


 ふいに耳の奥に蘇ったのは陽菜乃の声。そして彼女の細い指にぶら下がった傷だらけのキーホルダーが揺れる音。


「――結菜?」


 ぼんやりしていると綾音が不思議そうに首を傾げた。結菜は「あのさ」とスマホのブラウザを切り替える。


「行きたいところ、思いついたんだけど」

「ほんと? どこ?」

「えっと……」


 結菜は目的地を検索バーに入力していく。そして検索結果を綾音に見せた。彼女は「動物園かぁ……。あれ? ここって」と呟く。


「たしか、子供の頃に行かなかった?」

「うん。わたしがここに来たばかりの頃に行ったよね」

「へえ。いいじゃん。行こうよ。動物園といえばデートの定番だし」


 綾音は嬉しそうな笑みを結菜に向ける。その笑みに結菜の胸がなぜか少しだけ痛んだ。

 結菜は眉を寄せてその痛みの理由を探ったが、よくわからない。


「あそこに行くのって、あのとき以来かも。何か変わってたりするのかな」


 綾音は嬉しそうな様子のまま、結菜のスマホを取り上げて動物園のホームページを眺めている。そして思い出したように「ここってフラミンゴいたよね」と結菜を見た。瞬間、再びチクッと胸が痛む。


「……うん。いたね。覚えてるの? 綾音」

「んー、いや? なんとなく覚えてるくらいで。でも楽しかったのは覚えてるなー。初めて結菜と一緒に遊びに行ったところだし」

「え、初めてだった?」

「そうだよ。まあ、家族みんなでだったけどね。ほんとは二人で行きたかったんだけど、子供の小遣いじゃ無理だったよね」


 綾音は苦笑する。そんな綾音を見ながら結菜はふと思ったことを聞いてみる。


「綾音は、いつからなの?」

「んー、なにが?」

「いつから、その、好きなのかなって。わたしのこと」


 すると綾音はピタリと動きを止め、そして「え、なに急に」と戸惑った顔で結菜を見てきた。


「だって、なんか気になって」


 まるで、動物園に行ったときにはすでに結菜のことを好きだったと、そういう風に聞こえたのだ。綾音は「んー」と困ったように眉を寄せて考え込む。


「答えたくなかったら別にいいんだけど」

「いや、そうじゃなくて。よくわかんなくて」

「わかんない?」

「うん」


 綾音は頷くと「気づいたら好きだったもん」と笑った。

 まっすぐな言葉だった。自分の気持ちを隠そうともせず。まるで子供のように純粋な瞳で彼女は結菜を見つめる。


「そうなんだ……」

「そうなんだよ。なんでだろうね?」

「わたしに聞かれても……」

「結菜ってさ、初めて会った頃は無愛想だったじゃん? 全然笑わないし、何考えてんのかわかんない感じだったし。どっちかっていうと陰キャタイプみたいな」

「そうなの?」

「そうなんだよ。え、それも覚えてない?」


 綾音は目を丸くする。結菜は眉を寄せて「覚えてないっていうか」と首を捻った。


「自分では気づいてなかった、ていうか?」

「ふうん? まー、わたしは結菜の事情は聞いてたから、色々あるんだろうなぁって思ってたんだけど。でも、なんか目が離せなくて……」


 綾音は呟きながら何かを思い出しているのか、遠い目をして両足を抱えた。そして膝に顎を乗せながら「最初はカナエさんや母さんに言われたから一緒に行動してたんだけど」と続ける。


「でも、一緒にいるうちに結菜が笑ってくれるようになって。それが嬉しくてさ。結菜の笑顔が見たいから一緒にいるようになった。結菜の一番になりたいって思った。でもそのうち、それだけじゃ満足できなくなっちゃって……」


 綾音は「そういう気持ちになったときを好きの始まりとするなら、中学に入った頃かなぁ」と苦笑気味に言った。


「そういう気持ちって……?」


 結菜が聞くと綾音は一瞬驚いたように眉を上げ、そして苦笑した。


「それ、言わせたいの?」


 綾音の手が伸びてきて結菜の唇に触れる。結菜は慌てて「いや、いい。言わなくていいから」と顔を俯かせた。彼女は息を吐くようにして笑うと「でもきっと」と結菜の頬を撫でる。


「初めて会ったときから、わたしは結菜のこと好きだったよ。最初から結菜は放っておけない感じだったから」

「……ふうん」


 頬を撫でる綾音の手は温かい。結菜は顔を俯かせたまま綾音の手からスマホを取り戻すと、意味もなく触り始めた。


「恥ずかしくなるなら聞かなきゃいいのに」


 何も言い返すことができず、結菜はただスマホを見つめる。綾音は結菜の頬から手を下ろすと「何時にしよっか?」と自分のスマホで電車の時刻を検索し始めた。


「できるだけ結菜と一緒にいたいから開園時間に合わせて行きたいんだけど、いい?」

「いいけど。開園って朝九時だよ?」

「おお、けっこう早いな。じゃ、電車はこれかな」


 綾音が見せてくれた時間は午前七時三十分発。結菜は苦笑する。


「早いなぁ。綾音、大丈夫? 寝坊しない?」

「するわけないじゃん。結菜とのデートなのにさ。じゃ、この電車に間に合うように、七時に家を出るってことで」

「わかった」

「結菜こそ、寝坊しないでよ?」

「しないよ」


 結菜は微笑みながら綾音に頷く。彼女は嬉しそうに「楽しみだなぁ」と自分のスマホで動物園のホームページを眺め始める。


「どこから見ようか。結菜、フラミンゴ好きじゃなかった? まだいるといいね」

「……うん。そうだね」


 チクリとした胸の痛みを隠して結菜は微笑む。

 この痛みは、きっと小さな罪悪感。

 陽菜乃が宝物だと言ってくれたキーホルダーがまだあるかもしれない場所。そこへ綾音と行こうとしている。

 綾音は知らない。

 その場所で手に入れたものが陽菜乃の宝物になっていることを。


 このチクチクとした罪悪感は、一体どちらに向けられたものなのだろう。


「何から見る? 結菜、体力ないから途中で休憩もいれないとね。カフェとかあるかなぁ」


 ウキウキした様子で明日のコースを考え始める綾音に、結菜は「さっき見た園内マップにカフェっぽいスペースあった気がする」と言いながらスマホに視線を向けた。

 心に少しずつ広がっていく痛みを必死に隠しながら。


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