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7.三つの想い(3)

「……ごめん」


 謝った陽菜乃の声が悲しそうに聞こえて、結菜は彼女に手を伸ばす。


「どうしたの、陽菜乃」


 キーホルダーを握った彼女の手は震えていた。陽菜乃は顔を俯かせると「結菜、前に聞いたでしょ」と小さな声で言う。


「わたしが結菜に対する好きはどういう種類なのかって。それはね、こういう好きだったんだよ」

「……でも」

「ウソついてた」


 陽菜乃は泣きそうな顔で笑う。


「だって結菜には綾音がいるもん」

「なんで、綾音の名前が出てくるの」


 結菜は彼女の右手を強く握る。陽菜乃は結菜を見ると「初めて結菜を見たとき」と目に涙を浮かべながら言った。


「ここに一人で座ってた。すごく悲しそうで寂しそうで、辛いこと全部抱え込んでるみたいに見えて、大丈夫かなって思った。だけど綾音が来た瞬間ね、結菜は笑ったの。心から安心したように、すごく綺麗な笑顔を綾音に向けてた。その笑顔にわたし、たぶん一目惚れしちゃったんだよ。わたしに向けられたものじゃないのにね」


 陽菜乃は息を吐くようにして自嘲する。


「それから結菜を見かけるたび、気づけば目で追ってた。あの笑顔が見たくて。だけど、結菜が笑うのは綾音の前だけ。二人の関係は端から見てても特別なもので、わたしなんかが割って入れるような隙はない。それもわかってたから、見てるだけでもよかったんだ」


 彼女はそう言うと膝を抱えて結菜を見た。


「初めてだったんだよ? 誰かのことを恋愛として好きになったの。だけど、そのせいでアメリカへの引っ越しが決まっちゃって。ああ、やっぱりかって思った。わたしは好きな人と一緒にはいられない。好きな人の笑顔を見ることすら許されない」

「そんなこと、ないよ」


 わからない。自分が綾音にどんな笑顔を向けていたかなんてわからない。


「ここに戻って結菜と再会して、またわたしが結菜のこと好きだって思ったら三年前と同じことになっちゃう。そんなのは嫌だった。そんなことになるくらいなら、この気持ちを全部忘れてしまえばいいって思ったの。それなのに、結菜は――」

「わたしが邪魔しちゃった?」


 結菜はいつかの陽菜乃の言葉を真似て言う。陽菜乃は頷いた。その瞳に溜まっていた涙がこぼれ落ちる。


「キーホルダーを捨てたって結菜との思い出は消えなかった。むしろ忘れたくないって、気づけば海に入ってキーホルダーを探してた。そしたら本人が来るんだもん。ほんとにびっくりしちゃった」


 陽菜乃は泣きながら笑った。だからあのとき、あんなに驚いた顔をしていたのかと納得する。同時に陽菜乃の行動のすべてが繋がったような気がした。

 陽菜乃があの日、ここで結菜にキスをしたのも、ここで結菜に会いたがったのも、結菜のことをあんなにも親身になって考えてくれていたのも全部、その相手が結菜だったから。

 誰でも良かったわけではない。結菜だったから。

 そうだ。彼女はすでに言っていたではないか。

 結菜だから大好きだ、と。


「……そんなに好きなんだ?」


 たった二度、話をしただけなのに。それで陽菜乃を助けることができたわけでもない。それどころか陽菜乃との思い出すら忘れているというのに。

 結菜は強く陽菜乃の右手を握る。

 それなのに、こんなよくわからないキーホルダーを大切に持ち続けてくれるほど。


「うん。大好き」


 陽菜乃は泣きながら微笑んだ。澄んだ、とても綺麗な笑顔は同時にとても悲しそうに見える。その笑顔が結菜の心を締めつけて苦しい。

 結菜は自然と両手を彼女に伸ばしていた。そして彼女の身体を引き寄せる。


「結菜?」


 耳元で陽菜乃の心地良い声がする。結菜は彼女の首元に顔を埋めた。


「結菜、泣かないで」

「――泣いてない」


 答えた自分の声を聞いて、初めて結菜は自分が泣いているのだと気づいた。

 わからない。この気持ちの正体がわからない。ただ、わかっているのは陽菜乃も同じだったということだ。

 彼女も結菜と同じように好きという感情を隠していた。誰にも知られないように、自分の気持ちにウソをついて。そうして結菜のことを支えてくれた。自分だって同じように苦しかったはずなのに。いや、きっと結菜の何倍も苦しかったはずだ。

 だって彼女は、好きという気持ちの正体を知っている。


「結菜はほんとに優しいね。ありがとう」


 陽菜乃の手が優しく結菜の背中を撫でる。結菜は彼女を抱きしめる腕に力を込めた。


「なんでそんなこと言うの」


 ――まるで、もうお別れのように。


「結菜には綾音がいるから」

「なんで綾音のこと、そんなに」


 すると背中を撫でていた陽菜乃の手が止まった。


「このキーホルダーを見つけたのはね、一昨日の陽が落ちた頃だったの」

「……え」


 結菜は思わず腕の力を緩めた。陽菜乃はそっと結菜から離れると「見ちゃった」と微笑んだ。そして結菜の唇に手を伸ばす。


「転校先に、しかも同じクラスに綾音がいてびっくりした。同時に期待も、不安もあった。結菜がいるんじゃないかって。前みたいに、結菜が綾音にだけあの笑顔を向けているのを見るのが怖かった。でも――」


 陽菜乃の細い指が結菜の唇に触れる。


「二人は前よりも距離があるように見えて、結菜はあのときみたいな笑顔を綾音に見せなくなってたから、わたし、ちょっとだけ期待しちゃったんだよ。欲が出た。いまなら結菜の近くにいられるんじゃないかって。だからきっと罰があたったんだね。身の程を知れって、神様に怒られたんだ」


 陽菜乃の指が結菜の唇を撫で、そしてそっと離れた。彼女はその手を弱々しく握ると「結菜には綾音がいる」と笑みを浮かべた。


「ずっと結菜のそばで、一番に結菜のことを支えてくれた子がいるんだから大丈夫」


 ――違う。


「わたしがいなくても、大丈夫だよ。結菜は」


 ――違う。大丈夫じゃない。


「だから、わたしは――」

「大丈夫じゃない!」


 結菜は陽菜乃の手を掴んで思い切り引っ張った。そして倒れてきた彼女の身体を包み込む。


「ちょ、結菜?」

「大丈夫じゃない」

「大丈夫だよ、結菜は――」

「わたしじゃなくて!」


 結菜は陽菜乃を抱きしめながら声を荒げた。陽菜乃は驚いたのか、びくりと身体を硬くする。


「陽菜乃が、大丈夫じゃないじゃん」

「え……?」

「そんな顔して、全然大丈夫じゃないじゃん。嫌だよ、陽菜乃が苦しいのは」


 耳元で微かにすすり泣くような声が聞こえる。しかし陽菜乃は「大丈夫だよ」と言い張った。


「わたしは慣れてるから。引っ越し。ほら、見たでしょ? 部屋だっていつでも引っ越せるように――」

「陽菜乃の気持ちはどうなの?」


 陽菜乃の声が途切れた。そしてギュッと結菜にしがみついてくる。


「陽菜乃は、どうしたいの?」

「――行きたくない。ここに、結菜のそばにいたいよ」


 陽菜乃の静かな泣き声が耳元で聞こえる。結菜は彼女の首元に顔を埋めながら「わたしも」と呟く。


「陽菜乃にそばにいてほしい」

「……綾音は?」

「綾音にもいてほしい、けど」


 するとフッと吐息が首筋にかかった。笑ったのだろう。くすぐったさに結菜は少し首をすくめる。


「二股だ」

「なっ! 違うし! そういうのじゃなくて、その、二人ともわたしにとっては大切だから……。だから、二人ともそばにいてほしい。ずっと」

「欲張りだなぁ、結菜は」


 涙混じりの声は、しかしどこか明るい。結菜はホッとしながら彼女の背中をさすった。


「そういうわたしにしたのは陽菜乃だからね?」

「わたし?」

「自分の気持ちに正直になれって」

「言ったっけ、そんなこと」

「そんな感じのこと言ってたよ。わたしの気持ちが知りたいって。だから、言った」

「そっか」


 フフッと陽菜乃は笑う。結菜も笑う。


「こんな欲張りなわたしにしたのは陽菜乃なんだから、ちゃんと責任とってもらわないと。約束もしたでしょ。ずっと一緒にいてくれるって」

「……そうだね」


 陽菜乃は呟くと結菜から離れようとするかのように、身体を引いた。結菜は腕を下ろして彼女を解放する。彼女は手の甲で涙を拭うと「ねえ、結菜」と結菜を見つめた。


「わたしのこと、好き?」


 結菜は彼女の瞳を見つめ、そして言葉を失う。

 彼女の求めている言葉はわかっている。ふいに脳裏によぎったのは、この場所で見た綾音の姿だった。綾音が求める言葉だってわかっている。言葉にするのはきっと簡単だ。言ってしまえば、きっと二人とも喜んでくれる。だけど口に出すことができない。

 二人への好きという気持ちの種類が、まだわからないから。


「じゃ、質問を変えようかな」


 彼女は結菜の頬に手を添えると「もう一度、キスしてもいい?」と言った。結菜は目を見開き、そして少し迷ってから「いいけど」と答える。


「え、いいの?」


 陽菜乃が目を丸くして驚いている。


「……まさか、冗談なの?」


 結菜は陽菜乃を睨む。すると彼女は嬉しそうに笑って「ううん。本気」と唇を近づけた。

 触れた唇は柔らかくて温かい。結菜は瞼を閉じてその温もりを受け入れる。


「……っ」


 少し息が苦しくなって身を引くと、熱い吐息が頬にかかる。そして再び口を塞がれる。まるで陽菜乃が結菜への想いをすべて注ごうとしているかのように、強く、優しいキスだった。

 短く熱い息を漏らしたのはどちらだったのだろう。それを合図にしたかのように陽菜乃は少し顔を引いた。結菜と陽菜乃は互いに見つめ合い、そしてゆっくりと身体を離す。


「……ちょっとだけ、結菜の気持ちがわかったかも」


 陽菜乃は自分の唇に指を当てながら呟いた。


「なにそれ」


 なんとなく恥ずかしくなって結菜は視線を逸らす。フフッと笑う陽菜乃は嬉しそうだ。


「ねえ、結菜」


 真面目な声に視線を戻すと、彼女は穏やかな表情で結菜を見つめていた。


「わたし、頑張るね」


 そう言った彼女の瞳には強い意志があるように見えた。


「ずっと結菜のそばにいられるように、親を説得してみるから」


 結菜も彼女に微笑み返す。


「うん。わたしも何か考えてみる」

「居候案は無理だったからね? たぶん、今でも結果は同じだから」

「……それ以外で考えるから。それと」


 結菜は言葉を切って陽菜乃を見つめた。彼女は笑みを浮かべたまま首を傾げる。


「わたしも、陽菜乃の逃げ道になるからね」


 陽菜乃はきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうに笑った。


「頼りにしてる。お守りもあるから百人力だね」


 言いながら陽菜乃はずっと握りしめていたキーホルダーを指にかけて揺らした。結菜はそれをなんとも言えない気持ちで見つめる。


「それ、別のにチェンジしちゃだめ? もっとこう、普通のお守り的な」

「ダメ。これは宝物なんだから」


 言って彼女は大切そうにそれを鞄に収めると「それより、お弁当食べようよ」とシートの上に置いていた皿を手にした。そしてコンソメスープを一口飲む。


「さすがにコップに入れてたのは冷めちゃったね」

「冷めても美味しいよ」

「んー。でも、やっぱり温かいのがいいよ。ほら、結菜。それ全部飲んで。温かいの入れるから」


 陽菜乃は言いながら水筒を手にする。そうして今度こそ、楽しみにしていた夜のピクニックが始まった。

 風もない穏やかな海。

 淡い月明かりと小さなランタンの灯り。

 いつものように他愛も無い会話をして二人は笑い合う。

 陽菜乃が作ってくれた料理はどれも美味しく、そして少しだけ海の香りがする気がした。


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