7.三つの想い(2)
陽菜乃の手の中でキーホルダーがチャリッと音を鳴らす。結菜はそれを見つめながら「それ、陽菜乃の?」と訊ねる。彼女は頷き、そして暗く揺らめく海へ視線を向けた。
「一回なくしちゃったんだけど、見つけたんだ」
「なくした……?」
「そう。ここで、わたしたちがびしょ濡れになった日」
陽菜乃の苦笑交じりの言葉に結菜も「ああ」と思い出して笑う。
「そういえば言ってたね。キーホルダーをなくしたから探してたんだって。それが、これ?」
「うん」
陽菜乃は微笑むとキーホルダーへ視線を落とした。
「一昨日、見つけたんだ。台風のおかげで浜に戻ってきたのかも」
「ふうん」
頷きながら結菜もキーホルダーを見つめる。そしてふと疑問に思った。
「落としただけなら、あんな深いところまで探しに行かないよね?」
すると陽菜乃は「そうだね」と頷いてキーホルダーを握りしめる。
「――本当は捨てたんだ。あのとき」
「でも探したんだ?」
「うん。やっぱり捨てられないって思って」
「……大事なもの?」
聞くと、陽菜乃は「とっても」とキーホルダーを結菜の方に差し出した。結菜は手を出してそれを受け取る。
「それ、見覚えない?」
「え……」
言われて結菜はあらためてキーホルダーを見る。それはプレート部分に何か鳥の姿が刻まれたものだった。フラミンゴだろうか。
海水に浸かっていたからか、それとも経年のせいか、チェーンが少し錆びてしまっているように見える。プレート部分も傷だらけだ。しかし、たしかにどこかで見た覚えがある。どこだっただろう。
記憶を探っていると「結菜がくれたんだよ」と陽菜乃が言った。
「え、わたしが?」
彼女は頷くと「覚えてないんだよね、結菜」と寂しそうに言った。
「でも、陽菜乃は――」
言いかけてハッと思い出す。そうだ。たしか前に陽菜乃は言っていた。アメリカに行く前はこの街に住んでいた、と。そして陽菜乃がアメリカで暮らしていたのは三年。
「わたしがアメリカに行く直前……。三年前の秋、ここで結菜がくれたの」
「三年前の、秋……」
結菜は彼女の言葉を繰り返しながらキーホルダーを見つめた。
――また、三年前。
どうして三年前なのだろう。どうしてそのときだけ、自分はすべて忘れてしまっているのだろう。
「陽菜乃、わたし――」
「大丈夫。知ってるから」
陽菜乃は「綾音から聞いた」と結菜の手の中にあるキーホルダーへ視線を向けていた。
「昨日、ちょっと話したときにね。詳しくは聞いてないけど、なんとなく……。結菜、覚えてないんでしょ? 三年前のこと」
結菜は頷く。
「ごめん」
「いいよ、別に。もしかしたら、そうでなくても結菜は忘れてたかもしれないし」
彼女はそう言うと、懐かしそうに微笑んだ。
「たった二回、ここで会っただけなんだもん」
「友達だったんじゃないの?」
結菜の問いに彼女は「違う」と結菜の手からキーホルダーを拾い上げる。
「たしかに同じ中学だったけどね。わたし、小六の終わりに転校してきて中一の秋に転校したから。クラスも違ったし。だから結菜はわたしのこと知らなかったはず」
陽菜乃は結菜を見ると「わたしは、結菜のこと知ってたけど」と続けた。結菜は首を傾げる。
「どういうこと?」
「……三年前に住んでた家って、いまわたしが住んでるところだったからここにもよく来てたの。結菜も、よく来てたよね。綾音と一緒に」
「見てたんだ?」
「うん。見てた……。見てるだけだった」
そう言った彼女の口調が気になって結菜は眉を寄せる。陽菜乃はキーホルダーを見つめながら続けた。
「アメリカへの引っ越しは両親がケンカしたわけでもなくて、単純に父の仕事の都合だったの。だから当然のように家族みんなで行くことになって。だけど、やっぱり別の国で暮らすなんて初めてだったし、怖いでしょ? わたし、本当は行きたくなかった。だけど言い出せなくて……。もうあと二日で引っ越すってなったとき、本当に怖くなっちゃって。夜、こっそり家を抜け出したの。家出するつもりで」
結菜はただ彼女の顔を見つめながら話を聞く。陽菜乃は「徒歩十分程度の場所に来ただけで家出なんて言えないけどね」と笑った。
「でも、あのときは本気でどこか遠くへ行こうって思ってた。そしたら、結菜が来たんだ」
結菜は思わず微笑む。
「あの頃は、たぶん毎晩のように来てたから」
「うん。だから、ここは結菜の場所だったんだよね。なのにわたしが先に場所を取っちゃってたから結菜、びっくりした顔してたよ」
「そうなの?」
陽菜乃は「そうなの」と、そのときのことを思い出したのか懐かしそうに笑った。
「怒られるかなって思ったんだけど、結菜はすぐに心配そうに声をかけてくれた。どうしたのって」
彼女の手が動いてチャリッとキーホルダーが鳴る。その音が、なぜか少し懐かしい。
思い出してみても、やはりその頃のことは何も思い出せない。けれど想像はつく。
きっと彼女はここで一人、小さくなって座っていたのだろう。心細そうに背中を丸めて。そんな彼女を見て結菜は驚いたはずだ。しかしそれは彼女が言うように、自分の場所が取られていたからではない。おそらく、怯えたように小さくなった彼女の姿が自分と重なっていたから。
でもね、と陽菜乃は続ける。
「わたし、何も話せなくて。頭の中もグチャグチャだったし、まさか結菜が話しかけてくれるとは思ってもなかったから。だから、黙って座り続けてた。そうしたら結菜、隣に座ってね。ずっと一緒にいてくれたの」
「うん……」
きっと今でも結菜はそうするだろう。それが陽菜乃ではなくても。だってここは、結菜にとってそういう場所なのだから。
嫌なことをすべて忘れるための、大切な場所。
「――ほんとにずっとずっと一緒にいてくれて、それこそ深夜近くになっても結菜は帰ろうとしなかったから、わたし、つい心配になっちゃって、帰らないの? って聞いたの」
結菜は笑う。
「なんで陽菜乃が心配してんの」
「だよね」
陽菜乃も笑った。そして優しい表情を結菜に向ける。
「そのとき結菜が言ったんだ。帰りたくないの? って。その言葉を聞いてわたし、なんだかすごく安心しちゃって。この子なら、わたしのことわかってくれるかもしれないって。それでつい、話しちゃったの。引っ越しのこと。そうしたら結菜ってば――」
陽菜乃は言葉を切ると嬉しそうな笑みを浮かべた。結菜は首を傾げる。
「なに? わたし、何か変なこと言った?」
「ううん、全然。ただ――」
「ただ?」
「うちに来ればいいよって、そう言ったの」
結菜は「えー……」と苦笑する。
「なにそれ。わたし、三年前から成長してない感じ?」
「だから言ったでしょ? 結菜は変わってないって。変わらず、優しいんだよ。とっても」
言って、陽菜乃は小さく息を吐いた。
「その日は結局、結菜のおばさんが迎えにきて帰ったんだけどね。わたしも親に見つかっちゃって。すっごい怒られた。でも、わたしは嬉しかったんだ。結菜の言葉が本当に嬉しかった。だって普通は言わないでしょ? 知らない子に、うちで暮らせばいいなんて」
「たしかに……」
結菜が言うと陽菜乃は「でしょ?」と笑った。
「その場しのぎの言葉だったとしても、わたしは嬉しかった。最後に結菜と話ができてよかったって、そう思ったんだけど、結菜ってば翌日もここに来てくれたんだよ。それで、このキーホルダーをくれた」
陽菜乃がキーホルダーを右手の人差し指に掛けた。チャリッと小さな音が響き、ランタンの灯りに照らされたそれは鈍く光る。
「なんでこれ……?」
思わず聞くと、陽菜乃は「お守りだって」と呟くように言った。
「うちで暮らせないかおばさんに頼んだけどダメだったって、結菜すごく泣きそうな顔で言うんだよ。わたし、冗談だと思ってたのに結菜は本気でそれを考えてくれてた。でもダメだったから、これをあげるって。一人じゃないよって」
陽菜乃の指にぶら下がったフラミンゴのキーホルダー。結菜は首を傾げながら「ほんとに、なんでこれ?」と呟く。陽菜乃はフフッと笑った。
「そのとき、これしか持ってなかったみたい。わたし、その翌日が引っ越しの日だったから」
「それにしたってさ……。えー、これ? これ、たしか小学生のときに遊びに行った動物園で買ったやつだよ」
「思い出したんだ?」
「うん」
結菜は頷きながら記憶を探る。
「この街に来たばかりの頃、おばさんが綾音たちも誘って連れて行ってくれて。お土産になんでも一つ買ってあげるって言われて選んだのが、これだったような」
「なんでフラミンゴ?」
「なんでだろ……。綺麗だったのかな」
結菜が言うと陽菜乃は「うん。綺麗だったな」と頷いた。結菜は首を傾げる。
「これを手渡してくれたときの結菜、すごく綺麗だった」
「……なに言ってんの?」
少し恥ずかしくなって結菜は顔を俯かせる。
「ほんとに綺麗だった。そしてほんとに嬉しかった。一人じゃないよって、初めて言われたから。これは、その日からわたしの宝物」
「でも、それ――」
それを陽菜乃は捨てようとしていたのではなかったか。その結菜の気持ちを察したのか、陽菜乃は「うん」と頷いた。
「ここに戻ってくることになって、もしかしたらまた結菜に会えるかもって思った。同時に、結菜はわたしのことなんて忘れてるかもしれないとも……。だけどきっと結菜に会ったら、わたしのことを覚えていてもいなくても、わたしはまた三年前と同じ気持ちになるから。これを持ってる限り、この気持ちは忘れられない。だったらもう捨ててしまおうって、そう、思って……」
陽菜乃はキーホルダーを握りしめると視線を結菜に向けた。吸い込まれるように真っ直ぐな瞳だった。結菜はその瞳を見つめながらスッと息を吸い込む。冷たく、少し湿った空気が胸に広がる。
キーホルダーを握った陽菜乃の手が伸びてきて結菜の頬にサワッと触れる。それがくすぐったくて結菜は少し目を細めた。
「――気持ちって?」
「知りたい?」
「まあ」
「……こういう気持ち」
囁くように言った陽菜乃が身体を寄せてくる。近づく陽菜乃のまっすぐな瞳は結菜だけを映しているようで、結菜も彼女の瞳から視線を逸らすことができない。
ふわりと鼻をくすぐる甘い香り。そしてゆっくりと、しかし強く押し当てられる柔らかな唇の感触。結菜は体勢を崩して後ろに手を突いた。
「陽菜――っ」
一度離れた陽菜乃の唇が再び結菜の口を塞ぐ。そして熱い吐息と共に離れていった。




