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7.三つの想い(1)

 土曜日。バイトを終えた結菜は店を出ながら自然とスマホを確認していた。

 昨日の電話以来、陽菜乃から連絡は何もない。それは不安になるようなことではないはずだ。ちゃんと約束はしているのだから今さら連絡するようなこともない。

 きっと彼女は待っていてくれる。

 月明かりの浜辺で、いつものように海を眺めながら結菜のことを待っていてくれる。

 そう思うのだが心の底にはいつまでも不安が居座ったままだ。結菜はその不安を振り払うように軽く首を振ると、自転車に乗って海へと急いだ。

 普段よりスピードを上げて辿り着いた、いつもの場所。そこに自転車を停めて結菜は砂浜へ視線を向ける。

 薄暗い浜辺に響く静かな波音。

 淡い月明かりが照らす浜辺には、誰の姿もなかった。


「――なんで」


 肩で息をしながら結菜は自転車を降りた。もしかすると少し離れた場所にいるのかもしれない。そう思いながら階段を降りる。だが、薄暗い砂浜のどこを見ても人の気配はなかった。


「なんで、来てないんだよ」


 膨れあがってくる不安のせいか、胸が苦しい。結菜は項垂れながら階段まで戻ると腰を下ろした。そしてスマホで時間を確認する。

 陽菜乃とは時間を決めていたわけではない。

 今日は遅刻しているだけ。

 きっと、弁当の準備に時間がかかっているだけ。


 ――だったら、連絡くらいするでしょ。


 自分の考えを自分で否定する。結菜は両手でスマホを持つと、その真っ暗な画面を見つめた。

 電話をしてみようか。それとも家へ行ってみようか。

 考えていると、波とは別の音が聞こえてくることに気づいた。それは靴音。誰かがこちらへ駆けてくる音だった。結菜は思わず立ち上がり、音が聞こえる方へ視線を向ける。


「あ、結菜! ごめん、遅れた!」


 大きなバッグを抱えて走ってくる陽菜乃はそう言って結菜の前で立ち止まった。彼女は肩で大きく息をしながら「もっと早く来るつもりだったんだけど」と苦笑する。結菜はそんな陽菜乃の顔をじっと見つめた。


「けっこう荷物がかさばっちゃってさ。忘れ物してないといいんだけど」


 そう言いながらバッグの中を覗き込む彼女の顔に、結菜はそっと手を伸ばす。


「やっぱりシチューは持って来られなかったよ。でも、代わりにコンソメスープを――」


 結菜の手が頬に届くと、陽菜乃はビクッとして動きを止めた。そして結菜を見て首を傾げる。


「びっくりした。なに。どうしたの、結菜?」


 道路脇に設置された街灯が陽菜乃の顔を照らしている。結菜は彼女の顔を見つめながら「それは、こっちの台詞だよ」と指で彼女の目元に触れた。陽菜乃がわずかに顔をしかめる。


「どうしたの、これ」


 その目元にはアザがあった。白くて綺麗な肌は痛々しく紫色に変色している。


「あー、これはさっきぶつけちゃって」

「ウソが下手すぎない?」

「いや、ほんとに」

「さっきぶつけたなら、こんな色にはならない」


 結菜の強い口調に陽菜乃は困ったような笑みを浮かべた。


「……暗いからわからないって思ってたんだけど」


 結菜は無言で陽菜乃を睨む。彼女は結菜から視線を逸らすと小さく息を吐いた。そして力なく微笑みながら「とりあえず、降りようよ」と頬に触れていた結菜の手を取り、そのまま階段を降りていく。


「なんか、この辺りだけ綺麗だね。ほかの場所は台風のゴミが残ってるのに」

「そうだね」


 手を引かれながら結菜は短く答える。陽菜乃は苦笑しながら振り向いた。


「怒らないでよ、結菜」

「怒ってない」

「えー、怒ってるでしょ。ほら、おいしいお弁当もあるからさ。機嫌直して?」

「怒ってないってば。まだ何も聞いてないし。それとも、わたしが怒るようなことがあるの?」


 すると陽菜乃は足を止めた。彼女は結菜を見つめると「ここにしよっか」と手を離す。そしてバッグの中からレジャーシートを取りだして砂の上に広げた。


「ほら、結菜。座って」

「……うん」


 言われるがまま、結菜はシートの上に腰を下ろす。

 少し先で波が寄せては引いていく。今日はそこまで寒くない。そう思えるのは風がないからだろう。いつもほど潮の香りも感じない。

 ふいに視界が明るくなって結菜は陽菜乃へ視線を向ける。彼女は持ってきた小さなランタンをシートの真ん中に置いて「よし」と頷いていた。


「じゃ、お弁当タイムといきますか」


 彼女は笑みを浮かべながらバッグから弁当と水筒を取り出した。そして楽しそうに「今日の唐揚げは絶品だと思うよ」と弁当を広げていく。


「おにぎりの具もね、けっこう色々入ってるんだ。結菜がどれくらい食べるかわかんないから一杯作っちゃったけど、残しても大丈夫だからね。はい、お皿と箸」


 陽菜乃はテキパキと準備を進めていく。結菜は彼女を見つめながら、ただ差し出されたものを受け取っていく。そんな結菜を見て、陽菜乃は「結菜」と微笑んだ。


「食べようよ、お弁当。今日、わたしすごい楽しみにしてたんだから」


 ――それは、わたしだって。


 結菜は視線を弁当に向ける。唐揚げ、卵焼き、フライドポテトにポテトサラダ。小さなカップに入ったグラタンのような物もある。そしてたくさんのおにぎりたち。手渡されたコップからはコンソメスープの良い香りと温もりを感じる。


「――いただきます」


 結菜は言って、スープを口に含む。ふわりと香るコンソメは柔らかな味がした。


「どうかな」

「うん、おいしい。すごく」


 結菜の言葉に陽菜乃は安堵したように笑った。


「よかったぁ。それ、インスタントじゃないからね。ちゃんと作ったの。ネットでレシピ見ながら。こっちの唐揚げもね、同じように見えるけど実は違う味付けになってるんだよね」


 言いながら彼女は結菜の皿を手にすると唐揚げを取り分けてくれる。嬉しそうに。それはいつもここで会う陽菜乃と同じように見える。

 しかし、違うのだ。

 陽菜乃はこうやって自分の気持ちを誤魔化したりはしない。きっと今までの彼女は自分の気持ちに正直でいたはずだ。それなのに――。


「何が、あったの?」


 結菜の言葉に陽菜乃は手を止めた。そして一瞬、目を伏せると「親子ゲンカ」と困ったような笑みを浮かべながら皿を結菜に手渡した。

「親子ゲンカ?」

「うん。ちょっと、母親とケンカしちゃって。殴られただけ」

「殴られただけって、そんな……」


 陽菜乃は自分の皿にもおかずを取り分けると、それを膝に置いて小さく息を吐いて笑った。


「わたしも殴り返したからおあいこなんだけどね」


 結菜は答えず、ただ陽菜乃の笑顔を見つめる。すると彼女は少し気まずそうに視線を逸らして「――うちの親ね」と続けた。


「父親はアメリカにいて、母親は東京にいるの」


 結菜は眉を寄せる。なぜ、母親と一緒に暮らしていないのだろう。その疑問が顔に出ていたのか、陽菜乃は「本当は、ここにも母親と一緒に来るはずだったんだけど」と言った。


「あの人、田舎がダメなんだよね。わたしが住んでる家って父方の祖父母の家なんだけど、それがまた嫌だったみたいで。仕事もやりやすいからって東京に部屋借りちゃったんだよ。でも、わたしはこの街が好きだから、お願いして一人で住むことになったの」

「……両親、仲が悪いの?」


 結菜の問いに彼女は「そうだね」と微かに頷いた。


「ちょっと前までは、すごく」


 よくわからず結菜は首を傾げる。それに気づいた陽菜乃は「変だよね」と呆れたような表情を浮かべた。


「うちの両親って、なんていうか、やたら頭がいいんだ。仕事もできるし、それぞれで独立してもやっていけるような感じで。だからプライドも高くて。そのせいでよくケンカしては離れたり、仲直りしてくっついたりしてんの。どっちも働いててお金も持ってるから、離れるときはもうすごい離れるんだ」


 言ってから彼女は「まあ、今回みたいに国を跨ぐほど離れることは初めてだったけど……」と苦笑する。そして視線を海へ向ける。


「そのたびに、わたしはどっちかについて引っ越してた」


 呟くように言った彼女の目は昔を思い出しているのか、遠く海の向こうを見ているようだった。


 ――だから、あんなに物が少なかったのか。


 結菜は彼女の横顔を見つめながら思った。いつでも引っ越していけるように最低限の物で生活をする癖がついてしまったのかもしれない。彼女は海へ視線を向けたまま続ける。


「引っ越すことはしょうがないかなって諦めてた。子供だったしね。だけど、いつもタイミングが最悪で」

「タイミング?」

「うん」


 陽菜乃は視線を結菜に向けると悲しそうに微笑んだ。


「いつも、わたしが誰かのことを好きだなって思ったときなんだよね」


 その瞬間、結菜の脳裏には彼女の言葉が蘇っていた。あの日、陽菜乃の部屋で彼女が結菜を抱きしめながら言ってくれた言葉を。

 結菜は陽菜乃を見つめながら「もしかして……」と呟く。彼女は悲しそうな笑顔のまま頷いた。


「またアメリカに戻るって言ってきたの。一昨日の夜にね、急に電話してきてさ。お互いに頭も冷えたから年末には向こうに戻るって」

「……なにそれ」

「って、思うよね」


 乾いた声で笑って陽菜乃は膝に置いていた皿をシートの上に下ろした。そして膝を抱え、辛そうな表情で「わたしも思ったよ」と呟く。


「ほんと、どこまで子供を振り回せば気が済むんだって話だよね」


 その言葉に結菜の胸がギュッと痛んだ。結菜は手を伸ばすと彼女の服の裾を掴む。


「――行かないよね?」


 口から出た声は震えていた。しかし陽菜乃は答えず、ただ悲しそうに微笑むだけだ。結菜は掴んだ彼女の服をグイッと引っ張った。


「行かないでしょ? だって、変だよ。陽菜乃、一人でも生活できてるじゃん。親だって陽菜乃のことほったらかして自分勝手なことやってんでしょ? だったらこのまま――」

「悪い人たちじゃないんだよ。あの二人もさ」


 その言葉に結菜はハッとして手を離す。


「……ごめん」

「ううん。結菜の言いたいこともわかるよ。たしかに世間的に見たら、子供をほったらかしてる自分勝手な親って感じだもん。でも、ママは仕事が休みになる日曜日には必ず来るんだよね。田舎なんて嫌いだーって言いながらお土産とか持って朝早くに来るんだよ。ちゃんとやってんの? って話を聞いてくれるし心配もしてくれてる。ちゃんと母親なんだよ……。もちろん、パパもね。時差あるのに、こっちの時間に合わせて毎日のように電話をしてくれる。あんな二人でも、やっぱりわたしの親だから」


 彼女は自分の足を抱え込みながら言う。


「そうだよね……」


 結菜が両親を好きだったように、彼女だって自分の両親が好きなのだ。いくら陽菜乃がしっかりしていても所詮まだ高校生。親と一緒に暮らすのが普通であるはず。そして陽菜乃の家族関係に結菜が口を出す権利もない。

 そんなことはわかっている。しかし、それでも込み上げてくる気持ちを抑えることができない。


「行っちゃうの?」


 ――ずっとそばにいてくれるって言ったのに。


 結菜は泣きそうな気持ちをなんとか堪えて陽菜乃を見つめる。彼女もまた泣きそうな表情で眉を寄せ、視線を揺らす。そして「わかんない」と小さく答えた。


「今ね、家にママが来てるんだ。わたし、電話でアメリカに戻るって言われたとき、もう引っ越したくないって言ったの。生まれて初めて行きたくないって言った。それでママもびっくりしたみたいで。ちゃんと話をしたいって、昨日の夜から来てて――」


 陽菜乃は一度言葉を切ると薄く笑みを浮かべた。


「昨日、結菜に頑張れって言ってもらって、わたし頑張ったんだよ。いつもは諦めてたけど、今回は自分の意見を通そうって。でも全然聞いてくれなくて。ちょっとわたしもカッとなってひどいこと言っちゃってさ。それで、ケンカになっちゃって」

「殴られたの?」


 陽菜乃は息を吐くようにして「うん」と笑った。


「グーで一発。わたしも気がついたらグーで殴ってたんだけどね。さすが親子って感じ?」


 陽菜乃は笑ったが、すぐに力なく項垂れた。


「それから、一言も話してない」


 だからまだ引っ越すかどうかはわからない。そう彼女は言いたそうだった。しかし彼女の表情は別のことを言っているように見える。

 まるで、もう無理だと諦めているように。


「――今日は、帰りたくないな」


 ポツリと呟いた陽菜乃の言葉が静かな波音に紛れて聞こえた。

 帰ったら、どうなるのだろう。

 母親は問答無用で陽菜乃を連れて行ってしまうのだろうか。陽菜乃の気持ちを無視して、まだ子供だからと連れて行ってしまうのか。


 ――そんなの、ひどい。


 しかし、自分たちがまだ子供であるということも事実。この状況をどうにかするような力など結菜にはない。

 自分は、彼女の逃げ道にもなれそうにない。

 結菜は悔しさを覚えながら陽菜乃を見つめる。彼女の綺麗な横顔は今にも泣き出してしまいそうで、しかし必死に堪えているようだった。


「――だったらさ」


 結菜は呟きながら陽菜乃の手を握った。ひんやりとした手は驚いたようにビクリと震えた。その手を強く握って結菜は続ける。


「帰らなきゃいいじゃん」

「え……?」


 陽菜乃は目を丸くして結菜を見てくる。結菜は彼女に笑みを向けて「うちに来たらいいよ」と言った。


「今日だけじゃなくても、これからずっと。だったら引っ越さなくてもいいでしょ?」


 とっさに思いついたことだったが妙案のような気もする。

 頼み込めばカナエだってきっと了承してくれるはず。陽菜乃の両親だって、陽菜乃が一人で日本に残るわけではないとわかれば納得してくれるかもしれない。そう思ったのだが、陽菜乃はなぜか吹き出すようにして笑った。その予想外の反応に結菜は驚いて「なんで笑うかな!」と彼女から手を放した。


「真剣なのに!」

「ごめん、ごめん。結菜は、やっぱり変わってないんだなぁと思って」

「変わってないって……」


 不思議なことを言う陽菜乃に結菜は眉を寄せる。


「なに言ってんの? 陽菜乃と会ったのは――」

「うん。この海だよ。結菜と会ったのは、この海」


 彼女はそう言って懐かしそうに微笑む。そしておもむろにジャケットのポケットから何かを取り出した。ランタンに照らされたそれは、どこかで見た覚えのある古びたキーホルダーだった。


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