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1.月明かりの下で(2)

 しかし一限が終わった頃、結菜の体調はさらに悪化していた。帰宅するまでの記憶はほとんどなく、気がついたときには自分の部屋のベッドでパジャマを着て横になっていたほどだ。


「あ、起きた?」


 見慣れた天井をぼんやり眺めていると、すぐ近くで声がした。顔を向けると綾音がベッドに背をもたれて座り、結菜の方を振り返っていた。手にはスマホがある。ゲームでもしていたのだろう。


「……何時?」

「昼の一時」


 言いながら彼女はスマホを床に置いて立ち上がる。そして結菜の額に手をあてた。


「ん。熱、下がってきたね。薬効いたかな」

「飲んだっけ、薬」

「帰宅して寝落ちする直前に飲ませたんだよ。帰るときとか、すっごいフラフラするから連れて帰るの苦労したんだぞ」

「覚えてない」


 結菜の言葉に、綾音は乾いた声で笑った。


「だろうね。あんた、ウケるくらい意識朦朧としてたよ。ザ・病人って感じ」

「なにそれ」


 結菜は呟きながら綾音の後ろに視線を向ける。テーブルの上にはスポーツドリンクとミカンのゼリー、そして風邪薬やタオルなどが置かれていた。


「あ、食べる? お粥もあるけど」

「まさか作ったの?」

「んなわけないじゃん。レンチンするやつ買ってきたの。ま、おばさんは台所好きに使ってもいいって言ってくれたけど」


 綾音は言いながらテーブルからゼリーとスプーンを取って結菜の枕元に置いた。結菜は身体を起こしながら「連絡したの?」と訊ねる。


「うん。今日はできるだけ早く帰ってくるってさ」

「……余計なことを」


 呟きながらゼリーの蓋を取る。そして一口スプーンですくって食べると、ミカンの酸味が口の中に広がった。しかし、それだけだ。味がよくわからない。結菜はため息を吐いてゼリーを綾音に差し出した。


「あげる」

「いや、食えよ。なんで一口でやめてんの。いらないよ、食べかけなんて」

「食欲ない。味わかんないし」

「ダメだ。食べろ」

「いらない」


 結菜はゼリーを綾音に押しつける。綾音はそれを受け取るとニヤリと笑いながらベッドに座り、結菜の方へ身を寄せてきた。


「は? なに」

「いや、我が儘を言う悪い子には口移しで食べさせてやろうかと」


 ニヤニヤしながら顔を寄せてくる綾音を冷たく見つめながら、結菜は「たしか殺す気で殴って蹴って全力で逃げろ、だったっけ。あ、そういえばハサミがこの辺に」とベッド脇の棚に手を伸ばした。瞬間、綾音は慌てて身を引く。


「いやいや。なに、その真顔。怖すぎ」

「どっちが怖いんだよ、変態」


 すると綾音は小さく舌打ちをしてゼリーをテーブルに置いた。


「ゼリーが嫌なら、お粥だな。あったかい方が胃も動いて食べやすいかもしれないし」

「いらないって言ってんのに」

「ふうん。いいの? 食べないと風邪長引くかもよ? カナエさん、めっちゃ心配するんじゃない? まあ、さっき電話したときもけっこう取り乱してたけど」


 結菜は深くため息を吐いた。


「おばさん、心配性だからなぁ」

「あんたが頼らないからでしょ」

「……うるさい」


 結菜は言葉を返して布団の中に潜り込んだ。呆れたようなため息が静かな部屋に響く。


「とにかく作ってくるから。横になっててもいいけど寝るなよ? 寝てたらそのまま口に流し込むぞ?」


 そう言い残して綾音は部屋を出て行った。結菜はもう一度ため息を吐いて顔を布団から覗かせる。

 叔母である松岡カナエは結菜の父親の妹だ。そして、九年前からは結菜の母親代わりとなった。

 カナエの性格は天真爛漫。涙もろくて情に熱い。父と、とてもよく似ていた。だから結菜のことも引き取ってくれたのだろう。

 カナエは結菜がこの家に来てから今まで、本当の母親のように愛情を注いでくれている。この家は、温かくてとても居心地が良い。だからこそ頼れないのだ。


もう、いなくなってほしくないから。


 そのとき、玄関から「ただいまー」と声が響いてきた。カナエが帰宅したらしい。綾音と会話する声が聞こえてくる。そしてすぐに近づいてくる足音。結菜は身体を起こした。


「結菜ちゃん?」


 控えめなノックの後に聞こえたカナエの声。そしてそっとドアが開けられる。

 カナエは様子を窺うように顔だけをドアから覗かせ、結菜が起きていることを確認すると「あ、良かった。もう起きてても平気なの?」と安堵したような笑みを浮かべて部屋に入ってきた。


「高熱で倒れたって聞いたからびっくりしたよ。大丈夫?」


 言いながらカナエはその温かな手を結菜の額に当てる。


「薬が効いてるみたいだって綾音ちゃんから聞いたけど、まだ油断はできないわね。風邪はこじらせると大変だから」


 結菜は苦笑する。


「平気だって。高熱なんて、綾音が大げさなんだよ」

「そんなこと言わないの。綾音ちゃん、自分も早退してまで結菜ちゃんの看病してくれてるんだからね」


 まったく、とカナエは呟くと「これは絶対に昨日、びしょ濡れで帰ってきたせいね」と続けた。


「まあ、そうだね」

「そうだね、じゃないよ。もう夏じゃないんだから海に飛び込んだりしちゃダメでしょ」

「それ、昨日も聞いた。てか、夏じゃなくても服着たまま海に飛び込んだらダメじゃない?」

「……確かに」

「おばさん、怒るポイントがちょっとズレてるよね」


 結菜が言うと、カナエは悔しそうな表情を浮かべた。しかし、すぐに心配そうに微笑む。


「とにかく今日はしっかり休んでね。いま綾音ちゃんがお粥作ってくれてるから」

「レンチンで?」

「夕飯は、おばさんがたまご粥作ってあげる」

「夕飯もお粥かぁ」


 結菜が笑うとカナエも笑った。そしてそっと結菜の頭を撫でる。


「ねえ、結菜ちゃん」


 結菜はカナエに視線を向ける。


「なに?」

「……無理はしないでね」


 そう言ってカナエは微笑むと、部屋を出て行こうとする。その背中に結菜は「ごめんね、おばさん」と声をかけた。


「ん? なにが?」

「仕事、早退しちゃったんでしょ? ごめんなさい。迷惑かけて」


 するとカナエは笑みの中に、どこか悲しそうな表情を滲ませながら「いいのよ」と小さく言って部屋を出て行った。その直後、入れ替わるように綾音がトレイを持って入ってくる。

 彼女は廊下を振り返りながらドアを閉めると、結菜を呆れた表情で見てきた。


「……なに」


 結菜が言うと、彼女は「別に」とトレイをテーブルに置いて器を結菜へ差し出した。


「ほれ。激熱にしといたから、ちゃんと全部食べて」

「わたし、猫舌なんだけど」

「知ってる」


 綾音は軽く笑うと「あんたさ、嫌いじゃないんでしょ? カナエさんのこと」と床に座ってベッドに頬杖をついた。


「そりゃね。おばさん、優しいし」

「だったらもう少しさ――」

「熱っ……」


 思わず悲鳴を上げる。予想以上に激熱の粥だった。電子レンジでの加熱時間を間違えたのではないだろうか。

 結菜は涙目になりながら綾音を睨む。綾音は「忠告したじゃん」と悪びれもせずに笑って肩をすくめた。そしてベッドの上に座り直すと「貸して」と結菜の手から器を取り上げ、粥に息を吹きかけ始めた。


「一応聞くけど、なにしてんの」

「冷ましてる」


 当然のように彼女は言う。結菜はため息を吐く。


「寝てもいい? 怠いんだけど」

「ダメ。ほら、食べて」


 自然な流れで綾音はレンゲで粥をすくって結菜の口元に差し出してきた。決して冗談ではない。彼女の表情はいたって真面目だ。


「いや、待って。なにこれ」

「いいから早く食べろってば」

「わたしは子供かっての」

「天邪鬼な子供でしょ。はい、あーん」


 結菜は諦めのため息を吐いて、差し出されたレンゲから粥を食べる。程よく冷めた粥は思ったよりも美味しい。


「で、何してたの?」

「何が?」


 二口目を食べながら結菜は聞き返す。


「昨日の夜、風邪をひくほど海でびしょ濡れになった理由は?」


 結菜は差し出されたレンゲを見つめて口を閉ざした。


「なんか様子も変だしさ。何かあったんでしょ。話してみなって。親友のよしみでちゃんと聞いてやるから」


 視線を向けると綾音はまっすぐに結菜のことを見つめていた。その瞳から感情を読み取ることができない。結菜はため息を吐いて「別に」と答える。


「綾音には関係ないことだよ」


 言ってレンゲから粥を食べようとしたとき、急に綾音が手を動かした。ガチンと前歯にレンゲが当たって顎に響く。


「いったぁ……」


 結菜は堪らず口を押さえて綾音を睨んだ。


「なにすん――」


 しかし、綾音の顔を見て結菜は口を閉ざした。彼女は悲しそうに眉を寄せて「そっか」と呟くと、器を結菜に押しつけるようにして手渡した。


「わたし、帰るわ」

「綾音……?」

「それ、残さず全部食べろよ。残したかどうか、あとでおばさんに聞くから。残してたらわたしの昼食一週間、結菜の奢りってことで」


 一方的に言って、彼女はさっさと鞄を持って出て行ってしまった。結菜は手渡された温かな器を見つめながらため息を吐く。


「……海に、行きたいなぁ」


 夜の海へ。

 そこで全部忘れてしまいたい。

 好きも嫌いも、この息苦しい感情も何もかも。


 そのときふいに、あの砂浜で佇む少女の姿が蘇った。結菜はそっと唇に指をあてる。

 彼女のことも忘れてしまいたい。

 彼女の香りも感触も、あのとき彼女に対して一瞬でも抱いてしまったよく分からない感情もすべて。

 結菜はもう一度大きく息を吐いて器の中の粥を見つめると、レンゲを手にしてモソモソと食べ始めた。

 ほどよく冷めた粥は、味が変わってしまったかのように美味しくなかった。

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