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6.秘めた気持ち(5)

 しかし、学校に着いて時間が経つにつれ、陽菜乃の様子はいつのまにか普段通りに戻っていた。


「結菜、綾音と仲直りできて本当によかったね」


 そう言って微笑む彼女は、いつものように柔らかな視線を結菜に向けてくれる。結菜がじっと彼女を見つめると、彼女もまたじっと結菜の目を見返して「どうしたの?」と首を傾げた。


「あ、いや。別に……」

「ていうか、わたしと結菜、別にケンカしてたわけじゃないからね?」

「えー、そうなの? でもあの雰囲気は綾音が何か怒ってるようにしか見えなかったよ?」


 昼休憩。結菜は綾音、陽菜乃、そしてミチと一緒に昼食をとっていた。ミチは「松岡さん、すごい凹んでたんだからね」と綾音をたしなめるように続けた。


「だから、それはもう謝ったから。ね、結菜?」


 困った様子で綾音は結菜に同意を求めてくる。結菜は笑って「そうだね」と頷いた。しかしミチは「ほんとにー?」と疑わしそうに結菜のことを見てくる。


「うん、まあ、ほんとだよ。なんでそんな目で見てくるの」

「いや、だってさ。なんか今日の松岡さん、ちょっと大人しいっていうか」


 結菜は苦笑する。


「そう? わたし、いつもこんな感じだと思うけど」

「んー、でもなんか、ちょっと違う感じするんだよなぁ」

「それを言うなら綾音もじゃない?」


 食事を終えた陽菜乃は弁当を袋に入れながら言う。綾音は「わたし?」と首を傾げた。


「うん」

「そうかな。どんなふうに?」


 すると陽菜乃は「柔らかくなった」と言った。それを聞いてミチが眉を寄せる。


「柔らかい……。綾音が? どこが?」

「え、わかんない? ミチはまだまだだなぁ」

「なんだとー」


 ミチは心外だとばかりに陽菜乃を睨む。陽菜乃は笑いながら綾音へ視線を向けると「結菜を見る目が、柔らかくなったよね」と言った。


「……そうかな」


 綾音は呟くように言いながら結菜を見てきた。結菜も彼女を見返す。目が合った瞬間、綾音は嬉しそうに微笑んで「うん」と頷いた。


「そうかも」


 ニッと笑って陽菜乃に答えた綾音を、ミチは珍しそうに見つめて「なるほど」と頷いた。


「つまり、二人は以前よりもラブラブだと」

「いや、は? ミチ、なに言ってんの? そんなこと――」


 思わず結菜は否定しようとしたのだが、その言葉を止めるように綾音が結菜の肩をグイッと抱き寄せた。


「いやいや、ミチの言う通りじゃん?」

「ちょ、綾音? ジュース零れるから!」


 いきなりのことで結菜は持っていたパックジュースを強く握ってしまった。勢いよくストローから溢れたジュースが机の上を濡らしていく。


「あー、もう。なにやってんの、結菜」

「綾音のせいじゃん!」

「はいはい。ごめんごめん」


 綾音は悪びれた様子もなく謝ると、自分のハンカチを出して机を拭き始めた。


「あ、いいよ。ティッシュで拭くから」

「大丈夫だって。わたし、部活用にタオルも持ってるし」


 綾音は言いながら机を綺麗にしてくれる。その様子をミチは微笑ましそうに見つめていた。しかし、彼女の隣では陽菜乃が寂しそうな笑みを綾音に向けている。


 見たこともないほど、寂しそうに。


 そんな彼女の表情を見ていると胸のあたりがズキッと痛む。結菜は彼女から視線を逸らすと、ストローをくわえた。

 一体この違和感は何なのだろう。朝、陽菜乃に送ったメッセージには未だ返信はない。どうして何も言ってくれないのだろう。どうしてそんな顔をするのだろう。


 どうして、こんなに胸が痛むのだろう。


 ズズッとストローを吸うとパックがペタッと潰れた。結菜は深く息を吐き出す。


「なに、結菜。ジュース足りないの? あ、零したからか。買ってこようか?」

「うん――」


 綾音の言葉に反射的に頷きかけた結菜だったが、ハッと我に返って「いや、大丈夫!」と立ち上がろうとしていた綾音の腕を掴んだ。


「そう?」

「うん。てか、なんで綾音がわたしのジュース買いに行くのか謎だから」

「え。わたしのせいって言ったの、結菜じゃん」

「まあ、言ったけど……」

「ほんっと仲良しだねぇ、お二人さん」


 頬杖をついてニヤニヤしながらミチが言う。綾音はニッと笑って「まあね」とまんざらでもない様子で頷いている。結菜は笑って誤魔化すと「ゴミ、捨ててくるね」と席を立った。そのときチラリと見た陽菜乃の顔に笑みはなく、ただ無表情にスマホを見つめていた。



 放課後。部活に行くという綾音を見送ってから結菜は陽菜乃の席を振り返った。しかし、そこに彼女の姿はない。


「ミチ、陽菜乃は?」


 一人で帰り支度をしていたミチに声をかけると彼女は「なんか、急いで出て行ったんだよね」と首を傾げた。


「用事でもあったんじゃないかな」

「そう……」

「なに、松岡さんも陽菜乃に用事?」

「そうじゃないけど。なんか今日の陽菜乃、元気ない感じじゃなかった? テンション低かったというか」


 しかし、ミチは「そう?」と思い出すように視線を上向かせた。


「別にいつも通りだったと思うけど。陽菜乃、いつもそんなテンション高くないし」

「まあ、そうなんだけど……」


 そのとき、廊下からミチを呼ぶ声がした。どうやら今日は別の友人と下校するようだ。


「じゃ、松岡さん。バイバイ」

「うん、さよなら」


 教室を出て行くミチに手を振ってから、結菜はスマホを取りだした。やはり陽菜乃からメッセージは届いていない。


 ――明日のことも聞きたかったのに。


 明日は土曜日。約束していたピクニックの日。それなのに、彼女は何も言ってこない。何か一言くらいメッセージがあっても良いはずなのに。

 こちらから明日のことを聞いてみようか。なにか準備するものがあるか聞く程度なら不自然ではないだろう。

 そう自分に言い聞かせてみるが、なぜか指が動かない。また無視されてしまうのではないかと思うと恐怖心が芽生えてくる。

 結菜はしばらくスマホを見つめていたが、結局そのまま帰宅することにした。

 海を見に行くこともせず、まっすぐ家に帰った結菜は制服のままベッドへ倒れるように寝転ぶ。


「……疲れた」


 ゴロッと仰向けに転がりながら結菜は天井を見つめた。なんだか今日はいつも以上に疲れた気がする。それは綾音のことを意識するようになったからだろうか。それとも綾音の結菜に対する態度が少し変わったからか。考えながら結菜は額に腕を乗せて目を閉じる。

 違う。原因は陽菜乃だ。今日の陽菜乃の様子が気になって仕方がない。

 あの寂しそうな笑顔の意味を知りたい。何かあったのなら力になりたい。彼女が結菜にそうしてくれたように。なのに、彼女は何も話してはくれない。

 結菜は目を開けるとポケットからスマホを取り出す。情けない表情をした自分の顔が写る黒い画面に指を這わせ、そのまま自身の顔を見つめる。


「――電話なら」


 出てくれるだろうか。

 声を聞かせてくれるだろうか。

 いつものような、温かくて安心できる優しい声を。

 そのとき真っ暗だったスマホの画面がパッと明るくなった。そして着信音が鳴り始める。結菜は呆然とその画面に表示された名前を見つめた。


「陽菜乃……?」


 呟き、そしてハッとして身体を起こすと急いでスマホを耳に当てる。


「もしもし、陽菜乃?」


 自分の口から出た声があまりにも情けなく、結菜は一度咳払いをする。


「結菜。いま、大丈夫かな」


 耳に響く柔らかな声に結菜は安堵しながら「う、うん。大丈夫」とベッドに座り直した。


「あの、ごめんね。メッセージ、返信しなくて」

「うん。ショックだった」


 素直に気持ちを伝えると、息を吐く音がスマホの向こうから響いてきた。


「だよね。ごめん、ほんと……」


 結菜は無言で陽菜乃の次の言葉を待つ。しかし、彼女は黙り込んでしまった。何か言ってくれるような気配もない。


「言ってくれないんだ?」

「え……?」

「何かあったんでしょ?」

「うん、あった」


 陽菜乃は言い淀むこともなくそう言った。そして「でも、今はまだ話せない」と続ける。


「どうして?」

「どうしても」


 フッと笑うような息遣いに結菜は眉を寄せる。


「なんで笑うの。本気で心配してんのに」

「そうだね。ごめん。でも、うん。ちょっと嬉しくて」

「人に心配させといて嬉しいとか、どうかと思うんだけど」

「だって、結菜が心配してくれるから」


 陽菜乃の声は穏やかで柔らかい。しかし、やはりどこか寂しそうに聞こえる。昼休憩に見た彼女の笑顔が蘇ってくる。


「――結菜はさ、えらいね」


 少しの沈黙のあと、陽菜乃がポツリと言った。


「なにが?」

「変わろうとしてる」

「……陽菜乃?」

「自分を変えようとしてる。えらいよ。そして、強い……」

「それは陽菜乃のおかげでしょ?」

「わたし?」

「そうだよ。だって、陽菜乃がわたしの逃げ道になってくれるって言ったんじゃん」

「……でも、結菜は逃げてない。前に向かってる」

「それも陽菜乃のおかげ」


 結菜は空いている方の手をベッドに突くと少し身体を逸らしながら微笑んだ。


「言ったじゃん。陽菜乃がいれば大丈夫なんだよ。わたしは」

「そっか」

「そうだよ」


 陽菜乃はフフッと笑うと「ねえ、結菜。お願いがあるんだけど」と言った。


「うん、いいよ。なに?」

「……頑張れって、言ってくれないかな」

「ん、なにを?」


 結菜の問いに、陽菜乃は「そこは気にしなくていいから」と声を小さくしていく。


「お願い」


 囁くような声に、結菜は身体を起こすと「わかった」と微笑んだ。そして息を吸い込む。


「――頑張れ、陽菜乃」


 少しの沈黙。そして深く息を吐く音。


「うん……。うん、頑張るね」

「えっと、やっぱり気になるんだけど。なに頑張るの?」

「明日のピクニック、楽しみにしててね!」

「え? あ、もしかして明日のお弁当のこととか?」

「さあ、どうでしょう」


 よくわからないが、陽菜乃の声は何かが吹っ切れたかのように明るい。それだけで結菜もなんとなく嬉しくなる。


「まあ、いいや。明日、楽しみにしてるからね。陽菜乃が作ってくれるお弁当」

「うん。美味しいの、作っていくから」

「期待してる。じゃあ、明日」

「――結菜」

「ん?」

「ありがとね」


 プツッと通話が切れた。結菜はスマホを持った手を膝に置くと小さく息を吐く。


「……よかった」


 避けられていたわけではなかったことに安堵する。しかし、彼女に何があったのかわからないままだ。何か悩みがあるのだろうか。それは、結菜には言えないことなのか。

 安堵したばかりの気持ちに再びモヤモヤしたものが混じり始める。

 そのとき、再びスマホが鳴り響いた。

 結菜は「うわ、ビックリした!」と両手でスマホを握りしめる。しかし、今度は陽菜乃からではない。綾音からだった。結菜は一度息を吐き出し、気持ちを落ち着けてから通話をタップした。


「あ、結菜。いま、忙しかった?」

「ううん。大丈夫」


 答えながら部屋の時計に視線を向ける。


「てか綾音、まだ部活中なんじゃないの?」

「休憩中」

「サボりだ」

「休憩だって言ってんのに」


 結菜は声を出して笑った。そして「それで、どうしたの?」と訊ねる。


「うん。ちょっと、謝っておこうかと思って」

「なにを?」

「んー。今日、わたしちょっと浮かれてたかもなって」

「まあ、変だったけど。今日から変なんでしょ?」


 結菜が言うと綾音は「あー、そうなんだけど。そういうつもりはなくて」と困ったような口調で言った。


「そういうって、どういう?」

「だから――」


 綾音はため息を吐くと小さな声で「結菜、困ったんじゃないかと思って」と続けた。


「学校では今までと変わらないようにしようって決めてたんだよ、一応。でもなんか、ちょっと今日はいつも通りじゃなかったかもって、さっきボールを追いかけながら思ったわけなんだけど」


 結菜は思わず声を出して笑う。


「なんで笑うわけ? 人が気にしてるのに!」

「だって今日の綾音、わざとわたしを困らせようとしてんのかと思ってたから」

「あー、やっぱ困ってたんだ? なに、距離近すぎた? それとも構い過ぎ? てか、いつも学校でわたしってどんなだったっけ? 明日からは気をつけるから――」

「いいよ、別に」


 結菜が言うと「へ?」と綾音の素っ頓狂な声が返ってきた。


「別にいいって。みんなの前でも、本当の綾音でいればいいじゃん」

「でも変な勘ぐりされたりするかもよ? ミチだって、今日はなんかそんな感じにからかってきてたし」

「わたしはそういうの、別に気にしないから」


 すると綾音は「……たしかに、結菜は昔から他人を気にしないもんな」と納得したように言った。


「じゃあ、いいか」

「いや、軽いな」

「別にいいんでしょ?」

「いいけど……」


 結菜が言うと綾音は「じゃあ、明日からもこのわたしでいくからね」と明るい声で言った。


「あ、でもさ、もし変なこと言って絡んでくる奴がいたら教えてよ。シメとくから」

「綾音ってさ、逞しいよね」

「わたしは一生結菜を守るって心に誓ってるからね」

「――そういうの、恥ずかしいから本人に言うのやめてくれない?」


 結菜は俯きながら言った。電話越しでもそういう真っ直ぐな言葉を言われると、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。


「ドキッとしたでしょ?」

「しない」

「残念」


 綾音は声を出して笑うと「それと、さ」と少しトーンを落として続けた。


「さっき、陽菜乃と話したんだけど」

「え、陽菜乃?」

「うん。あ、別に結菜に近づくなとかそんなこと言いに行ったわけじゃないよ?」

「いや、そんなことは全然思ってないから」


 結菜は苦笑する。綾音は「だよね」と笑って言葉を続ける。


「ただちょっと、お礼を言っておきたくて。結菜が変わるきっかけを作ってくれてありがとうって。結菜の幼なじみとしてね。でも、そのときの陽菜乃が、なんか、ちょっと変な感じだったから気になって」

「変?」

「うん。よくわかんないこと言ってたんだよね」

「……どんな?」

「えっと、たしか、結菜にはもう進むべき道があるんだねって、そんな感じのこと」

「なに、それ」


 結菜は思わず呟いた。その言葉はまるで逃げ道はもう必要がないと言っているように聞こえる。自分はもう必要がない、と。

 結菜の耳の奥で、ついさっき交わしたばかりの陽菜乃との会話が蘇ってくる。その会話を思い出せば思い出すほど、陽菜乃の言葉はどれも別れを意識させる言葉に思えてきて、結菜は「なんで……」と声を漏らした。しかし綾音には聞こえなかったのだろう。彼女は「まあ、それだけだったんだけど」と続ける。


「そのときの様子が元気なかったからさ、気になっちゃって」

「……うん。わたしも明日、話してみるね」

「ああ、明日ってピクニックだっけ」

「そう」

「そっか……。風邪、引かないようにね」

「うん。ありがとう」


 そのとき、電話の向こうから誰かが大声で綾音を呼んでいるのが聞こえた。


「あ、やば。バレる」

「やっぱサボってんじゃん」


 結菜が笑うと綾音は「自主休憩だったの!」と言い張った。そして通話を終えると、結菜はベッドに仰向けに倒れ込む。


 ――陽菜乃、なんでそんなこと。


 明日、ちゃんと話を聞こう。何があったのか話してくれるまで、ずっとそばにいよう。今度は自分が彼女の逃げ道になる番なのだから。


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