6.秘めた気持ち(4)
翌朝。目を覚ました結菜は寝ぼけた意識のまま部屋を出てキッチンへ向かう。今日の朝食当番は結菜だったはずだ。そう思っていたのだが、階段の下からは甘くて良い香りがしてくる。
カナエが作ってくれているのだろうか。
不思議に思いながらキッチンに入った結菜は、そこで朝食を作る人物の姿を見て思わず「なんで?」と呟いた。
「あ、結菜。おはよー」
眠さを微塵も感じさせない声でそう言ったのは綾音だった。カナエのエプロンを身につけた彼女は、ご機嫌な様子でコンロの前に立っている。
「おはよう、結菜ちゃん」
聞き慣れた声に視線を向けると、カナエがのんびりとテーブルで新聞を広げていた。彼女は入り口で突っ立ったままの結菜に「ほら、結菜ちゃんも座って。もうすぐできるみたいだから」と微笑んだ。
「……えっと、今日の当番はわたしじゃなかった? いや、ていうかそれ以前に、なんで綾音が」
状況が飲み込めず、結菜はとりあえずテーブルに着きながら訊ねる。するとカナエが「だって」と笑った。
「わたしが新聞取りに出たら門の前で綾音ちゃんが待ってるんだもん。びっくりしちゃった」
「え、そんな早くに?」
結菜は目を丸くして綾音へ視線を向ける。彼女は得意げな顔で頷いた。
「言ったじゃん? 結菜が寝てる時間に来てやるって」
「いや、それは冗談じゃ……」
「カナエさんが寝てるかもしれないからインターホンは鳴らさずに待ってたんだけど、カナエさん起きてたし。聞いたら、朝食当番の結菜はまだ寝てるっていうから、だったらわたしが作ろうかと思って」
「……えーと、うん。待って。どうしてそういう結論になったのか、よくわかんなかったんだけど」
額に手を当てながら結菜は考える。しかし綾音は「ま、細かいことはいいじゃん」とフライパンを置くと両手に皿を持ってやってきた。
「はい、完成。フレンチトースト!」
「わー、すごい! 美味しそう。綾音ちゃん、ありがとう!」
「味が好みに合うといいけど」
彼女は言いながら結菜の前にも皿を置く。そこにはシナモンシュガーが振りかけられた、見紛うことなきフレンチトーストがある。
結菜はそれをじっと見つめてから綾音へ視線を向ける。自分の分のフレンチトーストを持ってきた彼女はその視線に気づいて「なに?」と首を傾げる。そして目の前の皿へ視線を落として「あ、これ?」と笑った。
「いや、じつは早起きしすぎて朝ご飯食べてなくてさ。学校行く前にどっかで買おうかと思ってたんだけど――」
「じゃなくて。綾音、料理できたの?」
「あ、そこ? ていうか、こないだもお粥作ってあげたでしょ?」
「あれはレトルトだった」
「そうだっけ?」
「自分でそう言ってたじゃん」
結菜が言うと彼女は笑って肩をすくめた。
「まあ、たしかにあれはレトルトだけど、これは正真正銘わたしが作ったよ。ほら、わたしってば何でもできちゃうから。といってもこれは超簡単なレシピだけどね」
綾音は得意げに言いながら紅茶の準備をする。ずいぶんと手慣れた様子である。調理後のキッチン周りも綺麗に整頓されていた。普段からしていないと、こうも手際良くはできないだろう。
綾音の母親が料理上手なのは知っていたが、綾音がその手伝いをしているところを見たことはなかった。だから勝手に綾音は料理ができないと思っていたのだが。
「……意外だ」
「ギャップ萌えした?」
呟いた結菜の声が聞こえたのか、綾音は結菜の前に紅茶のカップを置きながら顔を覗き込んできた。結菜は思わず少し身を引く。
「いや、なにそれ」
「わたしはしたよ。綾音ちゃんにギャップ萌え!」
力強くカナエが答える。その右手には切り分けられたフレンチトーストが刺さったフォークが握られていた。綾音は「カナエさんに萌えられてもなぁ」と苦笑しながらカナエの前と自分の前にも紅茶のカップを置いた。そして結菜に笑みを向ける。
「今は、結菜にそう言ってもらいたかったんだけど」
「――言わない」
結菜は彼女から視線を逸らして、ナイフとフォークを手に取る。少し頬が熱い。
綾音は小さく息を吐くと「ちぇ、残念」と呟いて紅茶を一口飲んだ。その様子を見ていたカナエは、嬉しそうな笑みを浮かべて「仲良しねぇ」と美味しそうにフレンチトーストを食べていた。
朝食後、結菜が自室で登校の準備をしていると食器の片付けを終えた綾音が「結菜、準備できた?」とノックもせずに入ってきた。ちょうど制服に着替えかけていた結菜は「ちょっと!」と慌てて綾音に背中を向ける。
「綾音、なんでノックしないわけ?」
「あー、ごめん。つい」
「つい、じゃない! ちょっと後ろ向いてて」
「はいはい」
頷いた綾音は、しかし嬉しそうな笑みを浮かべている。そんな彼女を見て結菜はため息を吐いた。
「なんで嬉しそうなの」
「なんでって、そりゃ結菜の反応が嬉しいから?」
「は?」
綾音が後ろを向いたことを確認して結菜は急いで制服に着替える。なんとなく、近くに綾音がいると思うと落ち着かない。そのときフフッと綾音の笑い声が聞こえた。
「なんで笑ってんの」
「だってさ、昨日まではそんな反応しなかったじゃん。結菜がわたしのことちゃんと意識してくれてんだなぁと思って」
「それは、だって……」
着替えを終えて結菜は振り返る。するとニッと笑みを浮かべる綾音と目が合った。
「……後ろ向いてって、言ったよね?」
「まあ、いいじゃん。結菜の着替えなんて見慣れてるって」
「今度そういうことしたら殴る」
「殴るだけなんだ? 嫌いになるとか言われるかと思った」
結菜は綾音を睨むと、ため息を吐いて「もういいや。行こう、学校」と鞄を手にした。
嫌いになるなんて、そんなことを冗談でも言えるわけもない。綾音の気持ちを知る前ならともかく、今は言えない。
「……綾音、変だよ。今日」
「うん。今日からわたしは変かもね」
「なにそれ」
階段を降りながら振り向く。彼女は真面目な表情で「大人しく待つつもりはないからね」と言った。結菜は足を止め、綾音を見つめる。彼女は少し首を傾げた。
「――って、昨日も言ったじゃん?」
「言ったけど。でも、やっぱ、なんか変だよ」
「うん、変だね。たぶん、これが本当のわたしだよ。結菜」
「本当の……?」
「うん」
綾音は頷くと「だから」と柔らかく微笑んだ。
「これからは、ちゃんとわたしを見てね」
まっすぐに綾音の気持ちが伝わってくる。結菜は頬が熱くなるのを感じながら顔を逸らすと、再び階段を降り始めた。
「じゃ、カナエさん! 行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい。二人とも気をつけてねー」
「……行ってきます」
いつもと変わらぬのんびりとしたカナエの声に返事をしながら、結菜は今までとは違う綾音との関係に戸惑っていた。
からっとした秋の朝。風は少し冷たく、吸い込むと清々しい気持ちになる。それは綾音も同じなのか「いやー、今日は気分がいいね」と眩しそうに空を見上げながら言った。
「余裕のある登校って最高」
「だったらいつも早く起きたらいいのに」
「じゃあ、そうしよっかな」
こともなげに言って彼女は結菜に笑みを向けた。
「そうしたら、毎日一緒に学校行けるし?」
結菜は息を吐きながら微笑んだ。
きっと、彼女は朝に弱いわけではなかったのだ。ただ結菜と距離を置くために、そういうウソをついていただけ。
今にして思えば一緒に登校していた頃はいつだって綾音の方が結菜のことを迎えに来ていた。今日みたいに、まったく眠さを感じさせないほど元気な様子で。それがいきなり朝に弱くなるなんて不自然だったはずなのに。
――わたしは、何も見えてなかったんだな。
そんなことを考えていると「あ、陽菜乃だ」という綾音の呟きが聞こえた。見ると、少し先をゆっくり歩いている女子生徒がいた。その後ろ姿は陽菜乃に間違いない。
結菜は思わず綾音を見る。彼女はわずかに強ばった表情を浮かべていたが、すぐに笑みを浮かべて「陽菜乃!」と彼女の元へ駆けていった。
「え、綾音。ちょ、待って」
慌てて結菜も陽菜乃の元へ走る。声に気づいた陽菜乃は振り返り、そして驚いたように目を丸くした。
「綾音。それに結菜も。おはよう。えっと、なんか早いね?」
「今日は超早起きしたからさ。ていうか、昨日はごめんね」
「え……?」
「お見舞い来てくれたって、結菜に聞いて」
「ああ、うん。そう。ミチと一緒に……」
「わたし病院行っててさぁ」
言いながら綾音は陽菜乃と並んで歩き出す。その隣を歩きながら結菜は少し安堵していた。
綾音の陽菜乃に対する態度は変わりない。無理をしているようにも見えない。彼女の表情は穏やかだった。
しかし、なんとなく別の違和感を覚えて、結菜は陽菜乃を見つめた。彼女は「タイミング、悪かったみたいだね」と苦笑している。
「熱はもう大丈夫なんだ?」
「うん、もう平気。すっかり元気だよ」
「そう……」
陽菜乃は頷くと「よかったね」と微笑んだ。しかし、その笑顔がどこかいつもと違うように思う。いつものような壁を感じる笑みではない。どちらかというと無理して笑っているような、そんな笑みだった。よく見ると、彼女の目が少し腫れているような、そんな気もする。
「――陽菜乃」
思わず結菜が声をかけると彼女は「ん?」と歩きながら答えた。
「あの……」
「なに?」
不思議そうに陽菜乃が結菜に顔を向ける。
つい心配になって名前を呼んでしまったが、何を聞いたらいいのだろう。大丈夫か、というのはおかしい気がする。別に陽菜乃は元気がないというわけでもないのだ。なんと言うべきだろう。
「結菜、なに変な顔してんの?」
綾音が少し心配そうに結菜のことを見ている。
「いや、えっと、陽菜乃、もしかして体調悪かったりするのかなぁって」
考えた結果、そんな不自然な言葉しか出てこなかった。綾音は心配そうな顔のまま陽菜乃に視線を向ける。
「そうなの? 今度は陽菜乃が体調不良? 最近、気温差も激しいし風邪流行ってるのかも」
しかし陽菜乃は返答に困ったように「ううん」と首を傾げた。
「……普通に元気だけど。なんで?」
「あ、そっか。そう……。あー、気のせいかな。ごめん」
「変なの。それより、綾音――」
陽菜乃は綾音と会話を再開する。穏やかな笑顔だ。綾音もいつもと変わらない様子で陽菜乃と接している。しかし、なぜだろう、妙な違和感から抜け出せない。結菜はじっと陽菜乃を見つめる。
しばらく彼女のことを見つめていたが、やがてその違和感の理由に気づいた。たしかに陽菜乃の笑顔が無理をしているようだというのもある。しかし、それだけではない。
――目、合わせてくれない。
陽菜乃は時折、結菜にも話題を振ってくれる。しかし、一度も結菜と目を合わせようとはしなかった。いや、結菜だけではない。綾音ともだ。
彼女の視線はどこか俯きがちで、結菜のことも綾音のことも見ていないようだった。
――こんなこと、なかったのに。
陽菜乃とは、すれ違っただけでも目が合うことだってあった。会話をしているときは、いつだって温かな視線を向けてくれていた。それなのに今日はまったく目を合わせてくれない。
結菜は歩調を緩めて二人から数歩後ろに下がった。そしてポケットからスマホを取り出すと陽菜乃へメッセージを送る。
『何かあったの?』
「結菜?」
綾音に呼ばれて顔を上げる。少し先の方で綾音と陽菜乃が立ち止まって結菜のことを待っていた。陽菜乃はメッセージに気づいたのか、スマホを見ている。しかし、すぐにそれをポケットに収めると薄く笑みを浮かべて「行こう、二人とも」と歩き出してしまった。
「……うん」
結菜は二人に追いつきながらスマホの画面を見る。送信したメッセージの横には既読の文字。それだけだ。
「結菜、どうした?」
不思議そうな綾音の声に結菜は「ううん。なんでもない」と返して前を向く。胸に、モヤッとした何かが広がっていくのを感じた。




