6.秘めた気持ち(3)
身体に伝わる綾音の温もりを感じながら、どれほどの間そうしていただろう。ふいに綾音がそっと身体を離した。
彼女はしばらく顔を俯かせていたが、やがて息を吐き出して結菜に笑みを向けた。
「帰ろっか……」
そう言って立ち上がった彼女の表情が、まだ少し泣いているように見えて結菜は思わず彼女の手を掴む。
綾音は驚いたのか、一瞬動きを止めた。そして「何してんの、結菜」と軽く笑いながら結菜の身体を引っ張り起こした。
「ほら、帰るよ。暗くなって冷えてきたし。あ、袋に入れたゴミも運ばなきゃね。近くのステーションに置いとけばいいかな」
言いながら綾音は腰を屈めると自分が敷いていたゴミ袋を拾い上げた。結菜はその間も彼女の手を離さずに握り続ける。綾音はそんな結菜を見て困ったように笑う。
「手、塞がってたらゴミ運べないよ?」
それでも結菜は手を離さない。
離してしまえば綾音がいなくなってしまう。そんな気がしたから。だって、こうして結菜に向けられる笑みは温かくて優しくて、そして遠く感じる。きっと今この手を離せば綾音は離れていく。
彼女は、いなくなってしまう。
「結菜? 手、離してってば」
「やだ」
結菜は綾音の手を強く握る。
「やだって、なに言ってんの。子供じゃないんだから」
綾音は冗談交じりの口調で言うと、少しだけ目を伏せた。
「……痛いよ、手」
「絶対に離さない」
綾音を見つめながら結菜は言う。彼女はしばらく困ったように結菜のことを見返していたが、やがて顔を俯かせた。
「――ありがとう」
波の音に混じって聞こえたのは、消え入りそうな綾音の声。
「綾――」
「じゃあ、結菜には片手でゴミ袋何個持てるかチャレンジしてもらおうかな」
彼女は明るくそう言うと、結菜が座っていたゴミ袋も拾い上げた。そして結菜の手を引っ張りながら移動する。その先に並んでいるのは三つのゴミ袋。どれも限界まで詰め込んだので今にも破れんばかりに膨れ上がっている。
「さあ、結菜! 持ってみよう!」
明るく振る舞う綾音に、結菜は「よし、任せろ」といつもの調子で返事をする。そして空いている左手で三つのゴミ袋の結び口を掴むと勢いよく持ち上げた。しかし予想通りというべきか、袋はわずかに持ち上がったものの、すべて砂浜に落ちてしまった。
軽い物ばかりを詰め込んでいるので重量はさほどではない。しかし、三袋を一度に持つことができるほどの握力が結菜にはなかったようだ。
「……いや、これ無理かも。指、めっちゃ痛かった」
思わず呟く。すると綾音が吹き出すように笑った。結菜はムーッと綾音を横目で睨む。
「なんで笑うの」
「いやいや。だって、ほんとにチャレンジするとは思わないじゃん。普通、わかるでしょ。こんなパンパンになってる袋、三つも片手で持てるわけないって。何よ、任せろって。どこからその自信は来たわけ?」
「中身軽そうだから持てるかと思ったの!」
「なるほど。さては結菜、自分の非力さを自覚してないな?」
「綾音だって似たようなもんでしょ」
「わたしはバスケで鍛えてますから」
「……たしかに」
結菜は納得する。そして今度は二つの袋を持ち上げてみる。すると、なんとか安定して持つことができた。
「あ、二つなら大丈夫そう」
「そう? なんならわたしが三つ持つよ? バスケ部パワーで」
「一つでいいから。綾音は一つだけ持って」
「はいはい」
綾音は答えながら残っていた一袋を持つ。そして二人で顔を見合わせると、どちらともなく歩き出した。
ザクッ、ザクッと足元で砂が鳴る。波の音がやけに大きく聞こえるのは太陽が沈んで聴覚が鋭くなっているせいだろうか。視界は暗い。それでも、道路からわずかに届く街灯の明かりは綾音の表情を見るには充分だ。
彼女は足元に視線を落として無表情に歩いていた。さっきまで見せていた明るい笑顔は、もうそこにはない。
やがて砂浜から上がり、ゴミステーションに袋を置いて家へ向かって歩き出す。その間も綾音は何も言わなかった。結菜も何も言わない。ただ繋いだ手を決して離さないように握り続けていた。
綾音が口を開いたのは道の先に互いの家が見えてきた頃だった。彼女は立ち止まると、前方を見つめたまま「わたしさ」と静かに言う。
「我慢するのは、もうやめるね」
結菜は彼女を見る。綾音は視線を結菜に向けると微笑んだ。
「もう、自分の気持ちを隠すのはやめる」
彼女はそう言うと結菜と向き合った。そして繋いだ手に視線を下ろす。
「自分の気持ちを隠して苦しいのは、もう嫌だから。それならいっそのこと全部さらけ出して苦しい方がいいなって、そう思うんだよね」
「綾音……」
それでも苦しいということは変わらないと彼女は言っている。その原因は明白だ。
「ごめん、綾音」
結菜のせいで彼女は苦しんでいる。ずっと前から。そして、きっとこうしている今も。しかし綾音は「それは何に対して謝ってるの?」と首を傾げた。
「だって、わたしのせいで――」
「そういうとこ、ダメだと思う」
ふいに綾音が強い口調で言った。結菜は驚いて目を見開く。綾音はそんな結菜に笑みを向けて「結菜のせいじゃないじゃん」と言った。
「わたしが結菜のことを好きになったのは結菜のせいなの? 結菜のこと好きなのは悪いこと?」
結菜は答えられず、ただ綾音を見返す。彼女は「違うでしょ」と笑った。
「結菜はすぐ自分のせいだって思い込む癖がついてるよ。良くないって、それ。もっと軽く考えなきゃ」
「軽く?」
「そう。この綾音ちゃんの気持ちを射止めた自分ってすごい! とか」
「……なにそれ」
結菜が苦笑すると綾音も一緒になって笑った。そして笑いを残したまま深く息を吐き出す。
「結菜のこと好きだって気づいたとき、この気持ちは絶対に言えないって思った」
彼女は顔を俯かせながら続ける。
「結菜が苦しんでるの、わかってたから。だからずっと言わないでおこうって、隠しておこうって思ってた。でも、今こうしてちゃんと言えてさ、嬉しいんだよ。結菜がちゃんと向き合おうとしてくれてることが嬉しい。伝えることができてよかったって、心から思ってる。そんなわたしの気持ちに対して謝ったりしないでほしい」
「――綾音」
「まあ、結菜がこういう気持ちに向き合おうとするきっかけになったのが陽菜乃ってところが複雑なんだけど」
彼女は悲しそうに笑みを浮かべる。そして「だから、さ」とまっすぐに結菜の目を見つめた。
「すぐに答えが欲しいなんて言わない。でも、せめて、待っててもいいかな」
すがるような綾音の瞳には結菜しか映っていない。繋いだ手が痛いほど握りしめられる。その痛みを感じながら結菜は思う。
綾音は一体どれだけ苦しんできたのだろう。自分の気持ちを隠して、それでも結菜のそばにいてくれて、助けてくれて。
そんな彼女を自分はどれほど苦しめていたのだろう。そして、もしかするとこれからも苦しめてしまうかもしれない。もし、これから先も――。
「――わたしがずっと答えを見つけられなかったら?」
つい口をついて出てしまった言葉だった。綾音はハッとしたように目を見開いた。しかしすぐに「待ってる」と微笑む。
「それでもわたしは待ってるよ。結菜の隣で、ずっと待ってる。ほら、わたしってけっこう辛抱強いし」
どこか苦しそうな笑みで、彼女はそう言った。結菜は彼女から目を逸らして顔を俯かせる。
「――ごめん、綾音」
「また謝ってる」
フッと笑ったような息遣い。そしてふわりと頭に乗せられたのは、綾音の優しい手。
「ま、大人しく待ち続ける気はないんだけどね」
「え……」
顔を上げると彼女は結菜の頭をポンと叩いて「言ったじゃん」とニッと笑った。
「もう自分の気持ちを隠さないって。だから、昨日までのわたしは今日で終わり。明日からは一歩前進したわたしだから覚悟しとくように」
「……覚悟って」
結菜は思わず笑ってしまう。
「何するつもり?」
「ん?」
綾音は結菜の頭から手を下ろすと「んー、そうだなぁ」と視線を夜空に向けながらゆっくり歩き始めた。
「まずは……」
「まずは?」
「内緒」
「え、なにそれ」
結菜が言うと綾音は「ま、いいじゃん」と繋いだ手を大きく振った。その笑顔はもう、いつもの綾音と変わらない。
「そういえば綾音。風邪、大丈夫なの? 熱は?」
家に辿り着くまであと何歩だろう。その距離を惜しむように歩幅を小さくしながら結菜は聞いた。
「あー、熱。熱ね……」
綾音の歩幅も結菜に合わせて小さくなっていく。
「まさか、やっぱり仮病だったり」
「いや、熱は出てたんだけど風邪ではなくて」
「違うの?」
「うん。お医者さん曰く、心因性なんとかって」
「え、病気?」
「いや.ストレスだって。子供でいうところの知恵熱みたいな」
「知恵熱……」
結菜は綾音の横顔を見る。彼女はチラリと結菜を見てから「まあ、そのストレスもさっき全部吐き出したから大丈夫」と恥ずかしそうに笑った。
「そっか……」
「うん」
街灯に照らされて足元から二人の影が伸びている。その影を追いかけるようにゆっくりと歩き続けたが、やがて結菜の家の前で二人の影はピタリと止まってしまった。
「――着いちゃったね」
綾音が言う。
「うん」
結菜は頷く。そして繋いだ手に力を込めた。
「手、離してくれなきゃ帰れないんだけど」
「うん、そうだね」
それでも手を離してしまうのが怖かった。綾音は、そのまま動かない結菜の手に自分の右手を重ねて「明日の朝」と口を開いた。
「迎えに来るね。学校、一緒に行こうよ」
結菜は綾音を見つめる。彼女は微笑んでいた。その笑顔に、もう距離は感じない。結菜は「うん」と頷き、そっと彼女の手を離した。そして笑みを向ける。
「寝坊したら置いてくから」
「お? 望むところだ。なんなら結菜が寝てる時間に来てやる」
「それはおばさんに迷惑だから却下」
「あー、カナエさんって朝に弱いもんなぁ。朝から怒られるの嫌だし、気をつけよう」
綾音はそう言うと「じゃ、また明日」と手を挙げて結菜に背を向ける。
「うん、また明日」
答えながら結菜は綾音の背中を見送った。彼女は自宅の門に入る直前、足を止めて振り返った。そして結菜を見ると嬉しそうに笑みを浮かべてから家へと入っていった。
「また明日、か……」
明日から綾音との関係は今までとは違うものになっているのだろう。
綾音は勇気を振り絞って今まで通りの関係を壊したのだ。二人の関係がどういう形であれ、きっと前に進めると信じて。それならば次は結菜が勇気を振り絞る番だ。もう、今まで通りを望むことはできない。
「ただいま」
声をかけながら玄関を開ける。カナエはまだ帰ってきていない。結菜はそのまま自室に戻って部屋着に着替えた。そしてベッドに仰向けに倒れると、右手を天井にかざす。
まだ、綾音の温もりが残っている気がする。そして口元には綾音の乾いた唇の感触も。
結菜は唇に指を当て、一つため息を吐く。そしてゴロンと身体を横向きにすると、スマホを手にして陽菜乃とのトークルームを開いた。
『綾音と話、できたよ』
送信。既読。そしてすぐに返信。
『よかった。仲直りできた?』
『うん。綾音、明日は学校行くって』
『そっか。頑張ったね』
えらい! と吹き出しがついた犬のスタンプが送られてきた。結菜はそのスタンプを撫でるように指を乗せる。
「えらくは、ないよ。頑張ってもない」
まだ、自分は何も変われていない。
何も答えを見つけられていない。
自分の気持ちがどこにあるのかすら、よくわからない。
ただ変わるための一歩を踏み出そうとしているだけ。
「変われるかな、わたし……」
結菜は陽菜乃のアイコンをそっと撫でた。そして画面を変えて綾音のアイコンを見つめる。
考えながら結菜はスマホを置くと目を閉じた。
変われるか、ではない。変わらないといけないのだ。これ以上、大切な人たちが苦しい想いをしないように。
結菜は枕を抱きかかえて身体を小さくする。しかし、いくら自分の気持ちを探ろうとしても、遠くどこかに忘れてきた感情はすぐには戻ってきてくれない。
――なんで、わからないんだろう。
自分に苛つきを覚える。結菜は枕に顔を押しつけながら自分の気持ちを探し続けた。




