6.秘めた気持ち(2)
夕暮れの浜辺。穏やかな波音に包まれながら結菜と綾音は黙々と流木やゴミを片付けていた。
大きな流木は二人で協力して運び、ペットボトルなどのゴミは袋に入れる。そうしている間に交わした綾音との会話はたった一度だけ。
「ところで、なんでいきなりゴミ拾いなんてしてんの?」
二人で一緒に流木を運んだあと、綾音は新しいゴミ袋を広げながら言った。結菜は手に持っていた発泡スチロールの破片をゴミ袋に入れて「それは――」と彼女へ視線を向ける。
どう答えたらいいのか考えてしまう。さっき綾音は言っていたのだ。陽菜乃の存在で結菜が変わることが嫌だった、と。
二人で今こうしている時間が陽菜乃と過ごすためだと知ったら綾音はどう思うのだろう。どんな気持ちになるのだろう。
そんなことを考えてしまう。けれど、ここでウソをつくことも違うような気がする。
「結菜?」
綾音が不思議そうに結菜を見つめる。そんな彼女を見返しながら結菜は「土曜日の夜に、ね」と微笑んだ。
「ここで陽菜乃とピクニックしようって言ってて」
「……へえ」
彼女は「そうなんだ」と笑みを浮かべると腰を屈めてゴミを拾い始めた。
「じゃ、そのスペース分くらいは綺麗にしとかないとね。ピクニックってからには何か食べるんでしょ? さすがにゴミの中でそれはね」
「うん……」
結菜は頷いて綾音を見つめる。しかし、それきり彼女は何も言わない。結菜を見ることもない。ただ黙々と砂地に顔を俯かせながらゴミを拾い続けている。次に彼女が口を開いたのは、それから二十分ほど経ってからだった。
「これくらいでいいんじゃない?」
口から息を吐きながら彼女は屈めていた身体を起こし、結菜に向かってニッと笑みを浮かべる。
「階段からこの辺りまではいい感じに綺麗になったと思うんだけど。流木も無くなったから歩きやすいし。暗くても平気でしょ」
綾音はゴミ袋の口を結んで足元に置くと、腰に手を当てて満足そうにグルリと周囲を見渡した。結菜もゴミ袋の口を結びながら「うん」と頷く。
「ありがとう、綾音」
「いいってことよ」
彼女はいつもと変わらぬ軽い調子で言ったが、その表情は少し寂しそうに見えた。
「夜のピクニック、ね。どっちが言い出したの?」
彼女はなぜか新しいゴミ袋を出しながら聞く。
「陽菜乃。したいんだって、ピクニック」
「なんで夜の海なの? しかも結菜と二人ってさ」
綾音は言いながら新しいゴミ袋を一枚結菜に手渡した。そして自分が持っていた一枚を綺麗になった砂浜に広げると、彼女はその上に腰を下ろした。結菜は彼女に倣い、その隣に袋を広げて座る。
「――なんでだろうね」
膝を抱え、海を見つめながら結菜は答える。沈みかけた太陽に照らされた海はキラキラと光って不安定に揺らめいている。
「わからないの?」
「うん」
「ほんとに?」
結菜は答えず、ただ海を見つめる。
わからない、とは違うのかもしれない。陽菜乃の気持ちはわかっている。けれど彼女の言う『好き』がどういう類いのものなのかはわからない。
だから、答えられない。
「結菜はさ、陽菜乃のこと好きなの?」
結菜は思わず綾音に顔を向けた。彼女は両足を抱えて身体を小さく丸めながらじっと海を見つめている。
「……嫌いじゃないよ」
そう答えると、綾音は「なんだそれ」と乾いた声で笑った。そして「じゃあさ」と微笑みを結菜に向ける。
「わたしのことは?」
「大切」
まっすぐに綾音を見つめながら答える。すると彼女は「ふうん」と微笑んだまま、視線を海へと戻した。
「――ずるいなぁ、それ」
ザッと波が強く押し寄せてきて結菜もそちらへ視線を向ける。
沖の方を船が横切っている。漁船だろうか。船によって作られた大きな波がザーッと結菜たちの近くまで海水を運んでくる。それが引いていく様子を見つめていると「三年前――」と綾音が口を開いた。
「結菜のお母さんが亡くなったって連絡が来た日。結菜ね、ここにぼんやりと一人で立ってたんだよ」
「……ここに?」
「うん。わたしは塾に行く途中で、たまたまここを通りかかってさ。結菜のお母さんが亡くなったっていうことも知らなくて。なんで結菜がここにいるのか不思議だった。だってそれまでは二人でここに来ることが多かったじゃん? 夜、二人でさ」
懐かしそうに綾音が微笑む。その横顔を見て、結菜も微笑んだ。
そうだ。
たしかにそれまでは綾音とよくここへ来ていた。いつもというわけではなかったが、それでもほとんど綾音と一緒にここで、こうやって過ごしていた気がする。
特に会話があったわけではない。結菜が先にここに来ていて、そしていつの間にか綾音がやってきて、静かに二人で夜の海を眺めていた。寒い日は手を繋いだりして。その繋いだ手がとても温かかったのを覚えている。
「――でも、あのときはまだ夕方だったし」
綾音は続ける。
「なんで結菜、海に来てるんだろうって不思議に思って。それで声かけたら結菜が言ったの。お母さんが死んじゃったんだって。わたしがお母さんに大好きって言ったから、だからお母さんは死んじゃったんだって」
綾音の視線は遠く沖の方を向いていた。何かを思いだしたのか、辛そうに目を細めている。
「わたしのせいで死んだ。わたしのせいで、てさ。何度も何度も……。結菜、全然泣いてもなかったし、わたし最初は何かの冗談なのかと思ってたんだけど、そのうち結菜の様子が変だって気づいて。それで本当なんだってわかった」
「……変?」
綾音は小さく頷いた。
「結菜、ずっと海を見てたの。一度だってわたしのこと見ようともしなかった。海を見つめたまま、わたしのせいでお母さんが死んだんだって言うばっかりでわたしの言うことは何も聞いてくれない。そんな結菜、初めてだったからどうしたらいいのかわからなくて、ただ見てるしかできなかった。そしたらさ、結菜、いきなり海の中に入って行っちゃって――」
綾音はそこで言葉を切ると一つため息を吐いた。
「わたし、慌てて止めたんだよ? だけど、なんか結菜、別人みたいに暴れてわたしのこと突き飛ばしてさ、どんどん海に入っていくの。風も強くて波が荒い日だったから、少し深いところにいけばすぐ波に呑み込まれちゃうような、そんな感じだったのに……」
結菜は目を閉じた。しかし、覚えていない。そんな記憶は欠片すらも頭の中には残っていない。
「……わたし、なんでそんなこと?」
訊ねると彼女は「消えたいって言ってた」と短く答えた。そして結菜の方へ身体を向けると、そっと右手を伸ばした。その手が結菜の左手に触れる。
「自分のせいで自分の大切な人たちがいなくなっちゃうから自分は消えた方がいいんだって。それ聞いて、わたし頭きちゃってさ。結菜の手を思いっきり引っ張って海から引きずり出したの」
グッと結菜の左手を掴んだ綾音は、そう言って笑う。
「そしたら勢い余って二人共倒れて、わたしまでびしょ濡れになっちゃって。めちゃくちゃ寒かったなぁ、あのとき」
綾音は「それでも」と結菜の左手に視線を向けた。
「それでも結菜は海に行こうとするから、わたし必死にこの手を掴んで言った。ここで結菜が死んだら、わたしはわたしのせいで結菜が死んだと思うよって。一生、わたしは自分を責めて生きる。それでもいいのって」
耳の奥で、綾音の必死な声が響いてくる。泣きながら、痛いほどに掴まれた左手の感覚がぼんやりと脳裏に蘇ってくる。結菜は首を横に振った。
「……よくないよ、そんなの」
すると綾音は少しだけ目を見開き、そして薄く笑った。
「うん。あのときの結菜も同じこと言った。そして泣き出した。どうしたらいいのかわからないって。自分がいると、また大切な人がいなくなるかもしれないのに何もできないって」
綾音は笑みを消すと目を伏せる。
「何もしなくていいよって何度も言ったんだけど、結菜は何もしなかったらダメなんだって言ってきかなくて。自分が誰かを好きになるとその誰かは死んじゃうから、自分なんか消えた方がいいんだって。そう言って泣いてる結菜はすごく苦しそうで、辛そうで、見てられなくて。だからつい、忘れちゃえって言ったんだよね。わたし」
結菜の左手を掴む綾音の手に力が込められた。結菜は彼女を見つめる。綾音は「辛いなら忘れちゃえばいいじゃんって」と続ける。
「誰かを好きになることが辛いなら、好きだっていう感情を忘れちゃえばいい。お母さんに言った言葉を後悔してるのならそれも忘れちゃえばいい。今日の辛いことも全部忘れたら楽になれる。明日からはまたいつもみたいにわたしと馬鹿なこと言ったりして、笑って過ごせるようになる。だから、忘れちゃえって……。そんな無責任なこと言っちゃったんだよ、わたし」
そのとき弾かれたように蘇ったのは、泣きじゃくる綾音の姿だった。
ちょうど、こんな風に向かい合って座り込んでいた。綾音に握られた左手がズキズキと痛くて……。
『全部、忘れたらいいじゃん!』
泣きわめくように綾音が言う。そのとき結菜はグチャグチャな思考のまま言ったのだ。
「忘れたら、一人になる――」
綾音が目を丸くして結菜を見ている。結菜はそんな彼女に微笑みながら「一人は、嫌だ」とあのときの言葉を繰り返す。
ゆっくりと、忘れていた記憶がまるで映画のように脳内で流れ出した気がする。綾音は結菜のことを見つめていたが、やがてそっと手を離して両手を結菜の頬に当てた。
「一人じゃないよ」
冷たい頬に仄かに温もりを感じる。綾音の言葉が、記憶と重なる。彼女はあのときのように泣き笑いのような表情を浮かべながら「わたしがいるから」と続けた。
「結菜が今までのこと全部忘れたとしても、わたしはずっとそばにいる。だから一人じゃないよ。わたしが結菜のこと守るから。ずっと、守るから。だから、結菜もずっとわたしのそばにいてよ」
「……それが、約束?」
結菜が聞くと、綾音は両手を下ろして微笑む。
「ね? たいしたことじゃないでしょ。約束でも何でもない。子供が考えなしに言った戯れ言、みたいな」
「戯れ言って……」
結菜は思わずフッと笑う。綾音も笑ったがすぐに「でも」と表情を曇らせた。
「結菜、そのあとすぐに気絶しちゃってさ。目を覚ましたら、別人みたいになっててびっくりした。もしかしたらわたしが忘れちゃえばいいとか、そんなこと言ったせいなんじゃないかって。実際、結菜はなぜか一年分の記憶だけなくしてたし。それでもお母さんとのことは覚えたままでさ。辛いことだけは覚えてて……。そんな変な忘れ方ある? 正直、何やってんだよって思った」
「ほんとだね」
結菜が苦笑しながら言うと、綾音は「やっぱり、忘れたくなかったんだよね」と申し訳なさそうに眉を寄せた。
「大切な人のこと、忘れたいわけないって普通ならわかるのにね」
「綾音……?」
「わたし、知ってたんだ。結菜のスマホにお母さんとの画像があること」
「え……」
「結菜、覚えてないだろうけどね。あの後しばらくの間、よくスマホの画像を眺めてたんだよ。何も話さないし何も聞いてくれないのに、あの画像だけは、ずっと見てた。きっと忘れたくないから見てたはずなのに、わたし、この画像があるから結菜が元に戻らないんだって思って――」
「消したんだ?」
結菜が問うと、彼女は小さく頷いた。
「結菜が病院で検査を受けるとき荷物を預かったんだ。そのときに……。ほんとは一枚だけ消すつもりだったんだけど焦ってて、一年分消しちゃった」
「スマホの暗証番号は?」
「知ってた。結菜だって知ってたでしょ? わたしの暗証番号」
「まあ、よく目の前でロック解除してたもんね。指紋認証ないとき」
「――ごめん」
綾音は膝を抱えて身体を小さくしながら謝った。まるで幼い子供が何かに怯えているように。結菜は「いいよ、別に」と微笑む。瞬間、綾音は驚いたように顔を上げた。
「なんで? よくないでしょ。わたし、結菜の大切な画像を消したんだよ?」
「だって覚えてないから。どんな画像だったのかも今は知らない。だから、別にいいよ」
結菜の言葉に、綾音は泣きそうな顔で「――ごめんなさい」と呟く。結菜は「謝らないでよ」と彼女の頬に手を触れた。
すっかり冷えてしまったのだろう。柔らかな頬は冷たい。
「綾音はわたしの命の恩人でしょ?」
結菜は冷たい彼女の肌を温めるように手を押し当てる。
「きっと、あのときのわたしは忘れるどころか、捨てようとしてたんだ。辛い。悲しい。苦しい。だから全部捨てよう。全部捨てて、消して、楽になろう。そんな単純な考えしか持ってなかったんだと思う」
「……思い出したの? 全部」
結菜は「ううん」と首を横に振る。
「でも一つだけ……。綾音がわたしのことを守るって言ってくれたことだけ思い出した」
綾音が鼻を啜りながら「なんでそこだけなんだよ」と少し笑う。恥ずかしそうに。
「約束ってことはさ、わたしも言ったんだよね?」
「……なにを?」
「綾音のそばにいるって」
しかし綾音は「さあ、どうかな」と視線を海へと向けた。
「結菜、気絶しちゃったから。だから実際は約束なんかじゃないんだって。わたしが一方的に言って、一方的に守ってるだけだった。それでわたしは良かったし」
「でも、綾音とは距離ができたような気がしてた」
結菜は綾音の頬から手を下ろす。彼女は視線だけを結菜に向けていた。
「いつからそう感じてたのかわからなかったけど、いま分かった。きっと、そのときからだよ」
「――気のせいでしょ」
「違う。だって綾音が言ってたんだよ。三年前、母さんが亡くなるまではよく二人でこの海に来てたって。だけど、母さんが亡くなってからは綾音はここに来てくれなくなった」
いつも隣にいてくれた綾音はいなくなってしまった。だから結菜は一人で海を眺めるようになっていた。
「結菜、何のためにここに来てたの?」
不意にそんなことを聞かれ、結菜は「それは……」と考える。
「忘れるため」
「なにを?」
「……何もかも全部、を」
言って結菜は呆然とする。
結菜はこの海に来るのが好きだった。すべての感情を忘れさせてくれる気がしたから。
だが、最初は違ったのだ。
この街に越してきたばかりの頃は一人で海を眺めていた。父が眠る場所だから。父に会いたかったわけではない。許してもらいたかったのだ。しかし、いつしか綾音が隣にいてくれるようになって、その気持ちは変化していた。
ただ黙って静かに二人で海を眺めている時間は心地良く、ほんの少しだけ心が穏やかになる気がした。一人じゃない。そう感じることができていた。
それなのに、今はどうだ。すべてを忘れたいという想いだけで海を眺めるようになっていた。その理由は――。
「結菜って、たぶん自分で思ってるよりかなり単純だよね。素直っていうか」
綾音は膝を抱え込んだまま結菜を見る。
「わたしが言ったことをどこかで覚えてたんだね、きっと。あれから結菜はさ、忘れるためにここへ来るようになったんだよ。好きとか、嫌いとかそういう感情も全部。だから、わたしはここで結菜と一緒に過ごせなくなった」
「……なんで? だって、約束してくれたんでしょ? いつでもわたしのそばにいてくれるって」
「うん。したね」
「その約束、守ってくれてたんだよね?」
「うん。そのつもり」
「じゃあ、なんで前より距離を感じるの?」
以前より、綾音と距離ができていたのは明らかだった。
一緒に登下校することはなくなり、海にも一緒には来なくなった。休日に遊ぶことだって少なくなった。それは結菜がバイトを始めたせいもあるだろう。しかし、その変化は高校に入学するよりも前からあったのだ。
結菜は綾音を見つめる。綾音はゆっくりと膝を抱えていた腕を下ろした。そして一つ、ため息を吐く。しかし答えてはくれない。結菜は続ける。
「なんであんな約束したの? あの約束、綾音には何の得もないじゃん」
すると綾音は吹き出すように笑った。
「結菜は、やっぱり結菜だね」
意味がわからず結菜は眉を寄せる。
「三年前も同じこと言ってたよ。何の得もないのに、なんでそんなこと言うのって」
綾音は言いながら自嘲するように笑った。
「前より距離を感じる、か。そりゃだって、しょうがないよ。わたしだって人間だし。感情だってあるもん」
「どういう意味?」
「考えてよ、結菜。約束のことだって考えたらわかるじゃん。なんでわたしがあんなこと言ったのか。なんで海に一緒に来れなくなったのか」
結菜は眉を寄せて綾音を見つめる。そしてしばらく考えてから「……幼なじみだから? わたしのこと、可哀想だって思ったから?」と答える。しかし綾音は「ハズレ」と悲しそうに微笑んだ。
そしてそっと両手を伸ばして結菜の頬を優しく挟むように触れると顔を近づける。すぐ近くに迫る綾音の瞳は夕陽に輝いて綺麗だ。
「――好きだからだよ」
囁くような綾音の声が聞こえた。そう思った瞬間、唇に冷たく柔らかなものが押し当てられた。
それはほんの一瞬の出来事。
気づくと綾音は少しだけ結菜から距離を置くように身体を引き、そして悲しそうに笑っていた。
結菜は自分の唇に指を当てる。乾いていて冷たくて、そして柔らかな感触が残っている。
「綾音……?」
呆然と、結菜は綾音を見つめる。彼女は悲しそうな笑みのまま「やっと言えた」と呟くように言った。
そのときようやく結菜は納得した。どうして綾音と距離ができてしまったのか。そうさせていたのは結菜だったのだ。
綾音が結菜に抱く感情を、結菜が拒絶していたから。
「怒らないんだね?」
「え……?」
「キス、したのに」
結菜は唇に当てていた手を下ろして「……びっくりした」と呟いた。綾音はきょとんとした表情を浮かべると「それだけ?」と困ったように首を傾げた。
「嫌じゃないの?」
「よく、わかんない」
「へえ。じゃあ、告白のお返事は?」
綾音の口調は軽い。けれど、その表情は真剣だった。不安そうな瞳が結菜をじっと捉えている。そんな彼女を見返しながら結菜は「わかんないよ」と目を伏せながら答える。
「綾音はずっとわたしのそばにいてくれて、大切な人で……。でも、そういう感情は、わたし、よくわからなくて」
「ふうん」
綾音は頷くと「じゃあさ」と結菜を見つめる。
「陽菜乃とわたし、どっちにそばにいてほしい?」
「……そんなの」
選べるわけがない。結菜にとってはどちらも大切な存在なのだから。しかし、どちらにもそばにいてほしいと思うのはただの我が儘なのかもしれない。
どちらかを選べば、どちらかはいなくなってしまうのだろうか。
だったら選べない。
選びたくない。
結菜が答えられないでいると綾音が「ごめん、わかってるから」と結菜の身体に両手を回した。そしてしがみつくように結菜のことを抱きしめる。
「今の結菜がそんなの選べないってこと、わかってるから。ちょっと意地悪なこと言ってみたくなっただけ。ごめん。困らせたね」
ギュッと綾音は結菜を強く抱きしめる。海風に冷えた身体に綾音の体温がじんわりと伝わってくる。
「わたしさ、実は今、すごく嬉しいんだよね。幸せっていうか」
綾音は結菜の首元に顔を埋めるようにしながら、そう言った。
「……なんで? わたし、綾音に何も返事できてないよ?」
「それでも、拒否されなかったから」
さらに強く、綾音が結菜のことを抱きしめてくる。
「もっと早くこうすればよかったのかな……」
泣いているような声で綾音は呟く。結菜は彼女の背に手を回した。
「結菜、好きだよ」
温かな吐息が首筋にかかって、少しくすぐったい。
「ずっと、そばにいてよ。結菜――」
すすり泣くような綾音の声。温かな吐息に混じって彼女の涙が首筋をひやりと濡らしていく。結菜はその言葉に答えることができず、ただギュッと綾音の細い身体を抱きしめる。
夕陽が、夜の始まりを告げるように海の向こうへと沈んでいった。




