6.秘めた気持ち(1)
翌朝、まだ生徒の姿もまばらな時間。結菜は教室でぼんやりと机に頬杖をついて綾音の席を見つめていた。
綾音は風邪で欠席するらしい。登校前に家へ行くとサヤカから綾音が熱を出して寝込んでいると伝えられたのだ。昨夜は三十九度くらいまで熱が上がって大変だったのだ、と。今朝もまだ熱は下がっていないらしい。サヤカが言うのだから仮病というわけでもないのだろう。
結菜は頬杖をついたまま片手でブレザーからスマホを取り出し、綾音へメッセージを送る。
『学校終わったら行くから。欲しい物あったら言って』
既読にはならない。眠っているのか、無視されているのか。
結菜はスマホを見つめたままため息を吐く。そのとき、ふと人の気配を感じた。視線をそちらへ向けると、陽菜乃が自席に鞄を置いて結菜のことを見つめていた。彼女は「おはよ」と言いながら結菜の隣まで来ると、綾音の席へ視線を向ける。
「綾音、休みだって」
結菜は言って陽菜乃に微笑んだ。
「熱が出ちゃったらしくて」
「……じゃあ」
「うん。まだ話せてない。メッセも返信来なくて」
「そっか」
陽菜乃は頷く。そして「――結菜と綾音の間に何があるのか、わたしにはわからないけどさ」と結菜に微笑みかけた。それは教室ではあまり見せない、柔らかくて優しい笑み。
「大丈夫だよ、絶対。だって、あんなに二人仲良いんだもん。誰も間に入れないような、そんな二人だけの世界があるっていうかさ」
あの海で見せるような表情で彼女は言う。羨ましそうに。そしてなぜかほんの少しだけ悲しそうに。
「そうかな……」
「そうだよ。二人だけの特別な何かがある、みたいな……。いいよね、そういうの」
そう言った彼女の笑みは結菜に向けられていたが、その視線はどこか遠くを見ているようだった。
「――陽菜乃?」
不思議に思って首を傾げると、彼女は「なんでもない」と誤魔化すように笑った。
「また放課後に行くんでしょ?」
「うん、行く」
綾音の席を見つめながら結菜は頷く。
「仲直りできるよ。絶対」
結菜の髪に陽菜乃が手を触れたのがわかった。しかし、それも一瞬のことですぐに彼女の手は下ろされる。見上げると、彼女は慌てたような表情で誤魔化すように笑っていた。つい手が動いてしまった。そんな感じだ。
結菜は「陽菜乃ってば大胆だなぁ」と笑う。
「誰かに見られたら変な噂たっちゃうかもよ?」
「ごめん。つい……」
「別にいいけど」
「え、いいの?」
目を見開き、わずかに笑みを浮かべる陽菜乃を結菜は両手で頬杖をつきながら見上げた。
「なんか陽菜乃って、学校でも素が出るようになってきたよね?」
「え……」
「学校では壁、作るんじゃなかったっけ?」
すると陽菜乃は視線を彷徨わせながら「それは、だって結菜が」と口の中で呟く。頬が仄かに赤く染まっている。
「わたしが?」
「……結菜のせいじゃん」
口元に手をあて、彼女は視線を結菜から逸らしながらそう言った。結菜は軽く声を上げて笑う。
「えー、なにそれ」
そのとき「お? 二人とも早いね?」とミチの声が響いた。陽菜乃が弾かれたようにパッと後ろを振り返る。
「お、おはよ。ミチ」
「おはよー。なに、陽菜乃。なんで声上擦ってんの?」
「な、なんでもないよ」
「ふうん?」
ミチは不思議そうにしながら鞄を机に置くと陽菜乃の後ろからヒョコッと綾音の席を覗いた。
「綾音、今日は遅刻?」
結菜は首を横に振った。
「熱が出て休み」
「マジかー。仲直りは?」
結菜は力なく笑いながら再び首を横に振った。ミチは「そっか」と気遣ったような笑みを浮かべた。
「ま、大丈夫だって。綾音も元気になったら機嫌よくなるでしょ」
「いや、別に綾音は機嫌悪かったわけじゃないと思うんだけど」
「まあまあ、気にしない気にしない。あ、そだ。今日は一緒に食べる? お昼」
「ああ、うん。じゃあ、お願いしようかな」
「はいはい、喜んで。いいよね? 陽菜乃も」
「もちろん」
結菜は陽菜乃に視線を向ける。彼女の表情はすでに学校モードに戻っていた。綺麗な笑みの中に、あの海で見るような無邪気さも柔らかさも感じられない。
「――残念」
思わず呟くと、陽菜乃がミチに気づかれないように背中を小突いてきた。結菜は思わず「痛ッ」と声を上げる。
「ん、どうしたの。松岡さん」
「ああ、うん。なんでもない」
「そう? にしても、綾音の熱って高いの?」
「昨日は三十九度まで出てたって聞いたけど」
「おー、それはかなり……。お見舞いは遠慮した方がいいかな」
ミチは心配そうに綾音の席へ視線を向けた。陽菜乃も頷く。
「結菜が放課後行くって言ってるから、わたしたちは遠慮した方がいいかも。大勢で行くのも迷惑だろうし」
「じゃ、松岡さんがわたしたちの代表ってことで。お大事にって伝えといてくれる?」
「うん、わかった」
――会えるかどうかわからないけど。
そんな結菜の予想通りというべきか、その日は綾音に会うことはできなかった。
放課後に訪ねてみたものの、サヤカに止められてしまったのだ。綾音が風邪をうつしたくないから部屋に来させるなと言ってきかない、と。そんなことを言われてしまっては結菜も無理に綾音の部屋まで行くことはできない。
結局、差し入れとして持って行ったジュースやプリンなどをサヤカに渡すことくらいしかできなかった。
そしてその翌日も綾音は学校に来なかった。昨日から送り続けているメッセージは、どれもすべて未読のままだ。
無視されているのかもしれない。
そう思っていたが、どうやらミチや陽菜乃のメッセージにも返信はないらしい。となると単純にスマホの充電が切れているだけという可能性が高い。綾音は元々、スマホをそんなに使う方ではないのだ。寝込んでいるのなら尚更だろう。
そう自分を納得させて、避けられているのではないかというマイナスの思考を心の奥底に押し込めた。それでも不安な気持ちは消えることなく、ジワジワと平静を装う心を浸食していく。
そんな浸食された心がまるで重石になってしまったかのように、結菜は放課後になっても教室に残ったままだった。
一人、椅子に座ってため息を吐く。ミチと陽菜乃はすでに下校した後だ。二人はきっと今頃、綾音の家に行っている。
見舞いに行こうと思うと言われたのは午後の授業が終わった後だった。みんなで一緒に行かないかと、陽菜乃が誘ってくれた。
――二人と一緒なら綾音も会ってくれるかもしれない。
一瞬、そんな考えが頭をよぎった。きっと陽菜乃もそう考えて提案してくれたのだろう。しかし、結菜はその誘いを断った。
「……みんなで会ったって、意味ないじゃん」
ポツリと呟く。いや、そうじゃない。怖かったのだ。もし部屋に入れてくれたとしても、彼女が結菜を見てくれなかったとしたら。そのときのことを考えると無性に怖くなってしまった。
結菜は深くため息を吐くと「帰ろ」と誰にともなく呟き、席を立った。
部活をしていない生徒たちはすでにほとんど帰った後なのだろう。学校の周囲に生徒の姿は少ない。
静かな通学路。
トボトボと足元へ視線を向けながら結菜は家への道を歩く。そうしながら、たまにスマホの画面を確認するが、誰からもメッセージは届かない。
陽菜乃たちは綾音に会えたのだろうか。それとも会えなかったのか。いや、会えなかったのならきっと陽菜乃が何か連絡してくれるはず。ということは会えたのかもしれない。
いま、彼女の部屋で楽しくお喋りをしているのかもしれない。綾音が避けているのは結菜だけなのだから。
――なんか、真っ直ぐ帰りたくないな。
家の前で綾音の家から陽菜乃とミチが出てくるのを見てしまうかもしれない。そのとき自分はどんな顔をすればいいのかわからない。きっと笑うことはできないだろう。そんな結菜を見て陽菜乃はどう思うだろう。また気を遣わせてしまうことは間違いない。
結菜は小さくため息を吐いて立ち止まった。ロックしたスマホの画面には今日の日付が表示されている。
「……木曜日」
呟きながら結菜は脇道へと視線を向ける。その向こうから聞こえてくるのは、すっかりいつも通りになった波の音。
結菜はしばらくその穏やかな波音に耳を澄ませてから、踵を返してコンビニへ向かうことにした。
穏やかな秋の夕暮れ。砂浜に打ち寄せる波には台風の余韻はもはや感じられない。その影響が残っているのは、この砂浜だけだ。
「まあ、全部はムリだよねぇ」
結菜はゴミ袋を片手に、もう片方の手を腰に当てながら流木やゴミが散乱した砂浜を眺めた。
通常、砂浜の清掃活動は自治会が定期的に行っているが、次の清掃日はまだ先だ。土曜日には間に合わない。だが、別に砂浜を全部綺麗にする必要はないのだ。自分と陽菜乃が座って過ごす場所だけ確保できればそれでいい。
「ご飯食べるんだから、やっぱり周辺は綺麗にしといた方がいいし……。あ、あと通り道か。夜は足元見えづらいし、流木はできるだけ移動させよう」
土曜日のピクニックを想定して結菜はいつも陽菜乃が陣取っている周辺を綺麗にすることに決めた。
今日と明日でどこまで綺麗になるかわからないが、それでもこんな荒れた状態の砂浜で過ごすよりはマシだろう。何より、こうしていれば時間は過ぎるし気も紛れる。
――逃げ、かな。
自覚はしている。しかし、これは必要なことでもある。
陽菜乃がガッカリする顔を見たくはない。せめて陽菜乃にだけは笑っていてもらいたかった。
結菜に笑顔を向けていてほしい。気を遣った笑顔ではなく、いつもここで見るような子供みたいに無邪気な笑顔を。
「よし、やるか」
小さく気合いを入れて、まずは小さなゴミから拾い始める。ペットボトル、発泡スチロール、海藻。黙々と拾ってはゴミ袋に投げるように入れていく。
静かな波音と共にそよいでくる冷たい海風に、時々結菜は首を竦ませた。さすがに制服だけでは防寒性に欠ける。海風に吹かれるほど身体が冷えていってしまう。
そんな寒さにも負けずに黙々と清掃活動を続けていると、ポケットに入れていたスマホが軽く震えた気がした。出してみると、陽菜乃からメッセージが届いていた。
『綾音には会えなかったよ。病院にひとりで行ったらしくて。待ってたんだけど帰ってこなくて……。病院混んでるのかも』
結菜は画面をじっと見つめる。
「そっか。会えなかったんだ」
この胸に沸いた気持ちが安堵なのか焦りなのか、それとも落胆なのかわからない。
『わかった。ありがとう』
それだけを返して結菜はポケットにスマホを収めると、近くに転がっていた小さな流木を拾い上げて遠くへ投げた。そしてもう一つ。今度は少し大きな流木に手をかける。だが、予想外に重くて持ち上がらない。
「……このっ」
気合いを入れて持ち上げようとしたとき「なにしてんの」と声が聞こえ、結菜は思わず動きを止めた。
――聞き間違い?
流木を見つめたまま息を吐き出す。強い風が吹き、持っていたゴミ袋がバタバタと騒ぐ。
「なに、結菜。一人でボランティアでもしてんの?」
微かに笑いを含んだような声。
からかいの色を含んだ声。
聞きたかった、いつもの声。
結菜は流木から手を離して身体を起こすと、声が聞こえた方へ顔を向けた。
「――綾音」
口の中で呟く。彼女は微かに笑みを浮かべながら階段からジャンプして砂浜に飛び降りた。ザンッと鈍い砂の音が響く。
「あ、わかった。カナエさんに怒られたんでしょ? だからバツ掃除やらされてんだ」
ジャケットのポケットに両手を入れて歩いてくる彼女はニヤリと笑う。
「――なんでわたしが怒られんの」
結菜は掠れた声で言いながら笑う。ザッと結菜のすぐ前で立ち止まった彼女は苦笑を浮かべて首を傾げた。
「だね。怒られるのは、わたしだ。カナエさんじゃなくて結菜に、だけど」
結菜はそんなことを言う彼女を見つめる。
「なんでわたしが怒るの」
すると綾音は「だって」と笑みを浮かべたまま目を伏せた。しかし次の言葉が出てこないのか、黙り込んでしまった。
「……仮病でも使ってたっていうのなら、そりゃちょっとは怒るけど」
結菜の言葉に綾音は「いや、それは」と視線を上げて肩をすくめた。
「ちゃんと熱出てたよ?」
「なに、ちゃんとって。ていうか、病院行ったんじゃなかったの?」
「え、なんで知ってんの」
「さっき、ミチと陽菜乃がお見舞いに行ったんだよ。でも病院行って帰ってこないから会えなかったって」
「あ、そうなんだ。それは悪いことしたな」
「メッセも返信してないでしょ」
「あー、スマホ。そういえば学校の鞄に入れっぱなしかも」
「それ充電切れてるでしょ、絶対」
予想通りの答えに結菜は思わず笑ってしまう。綾音は首を傾げたが、やがて一緒になって笑う。そして彼女は脱力したように口から深く息を吐き出した。
「……よかった」
彼女は呟きながら結菜を見つめる。結菜は不思議に思いながら「なにが?」と彼女を見返す。すると綾音はそっと両手で結菜の右腕を掴んだ。
「結菜が、また前みたいに笑ってくれるから」
泣きそうな笑顔で彼女は言う。その手が微かに震えているのは、きっと気のせいではない。結菜は「それはこっちの台詞だから」と微笑んだ。
「綾音に嫌われたんだって思った」
「――んなわけないじゃん」
「だって綾音、わたしのこと避けてた」
「ごめん」
「メッセも無視した」
「……ごめん」
「もう前みたいに笑ってくれないんじゃないかって、怖かった」
そのとき、綾音は目を見開いた。そして結菜の腕にすがるように顔を俯かせながら「ごめん」と呟く。
「どうして綾音がわたしを避けるのかもわからなくて、すごく考えて悩んで――」
「うん。ごめん。怒るのは当然だよ」
「違う。怒ってない」
結菜の言葉に綾音は視線だけを向けてくる。怯えたようなその瞳は、まるで幼い子供のようだ。結菜はそんな子供のような綾音をまっすぐに見つめた。
「わたしはただ、綾音がわたしのそばからいなくなっちゃうんじゃないかって怖かった」
綾音はわずかに口を開けて結菜を見つめる。そして乾いた声で短く笑った。
「なんでだろうね……。なんで同じこと思ってるのに、同じじゃないんだろう」
言いながら彼女は結菜の腕から手を離すと、涙を拭うように目を擦った。
「……どういう意味?」
「陽菜乃に――」
「え?」
「陽菜乃に、結菜を取られちゃうんじゃないかって思うと怖くなっちゃって、どうしたらいいのかわからなくなった」
綾音は赤くなった目で結菜を見つめていた。そこに笑みはない。真剣な表情で彼女は続ける。
「陽菜乃の存在が結菜を変えていく。それが許せなかった。嫌だった……。いつも結菜の隣にいるのはわたしで、結菜のこと一番わかってるのもわたし。結菜のことを守るのはわたしの役目なのにって。でも、そんなこと言ったって結菜困るだけでしょ? なにいきなりわけわかんないこと言ってんだって思うでしょ?」
「思わないよ」
「ウソだ。思うよ。わたしだったら思うもん。だから我慢しようと思った。良い方に考えようって。結菜は自分を変えようと努力してる。結菜が過去を乗り越えるのは良いことだって思おうとした。でも、結菜が変わろうとしてるきっかけはわたしじゃない。それがすごく情けなくて、すごく嫌な気持ちになって、だけどどうしようもなくて。だから――」
綾音は目に涙を溜めながら薄く微笑んだ。
「約束なんて言葉、持ち出しちゃった。結菜、三年前のこと覚えてないからさ。だから約束なんて意味深なこと言えば、結菜はまだもう少し、わたしのそばにいてくれるかなって」
結菜はじっと綾音の瞳を見つめた。その潤んだ瞳が微かに揺れる。
「……約束、したんだよね? 何か大切な約束を」
しかし綾音はヘラッと笑うと片手を振った。
「ないよ。ないない。何も約束なんてしてない。口から出任せ。だから、ほら、怒っていいよ? わたしのこと嫌いになってもいいからさ」
――そんなこと、思ってもいないくせに。
結菜は綾音を見つめながら思う。彼女は涙を堪えながら必死に笑みを浮かべている。その表情が、ふと蘇ってきた記憶と重なる。
「三年前のこと、おばさんに聞いた」
結菜が言うと、綾音は「え……」と笑みを消した。
「母さんが亡くなった日、わたしが行方不明になったって。綾音が浜辺で倒れてるわたしを見つけてくれたって。それ、ここのことだよね?」
「それは……」
綾音は俯いてしまった。結菜は続ける。
「わたし、それからしばらくの間は人形みたいに過ごしてたんだってね。そして回復した頃には三年前のことをほとんど覚えてなかった。スマホの画像も、一年分だけごっそり消えてたって」
「それは別に、結菜が撮ってなかっただけで」
結菜は首を横に降る。
「おばさん、わたしのスマホで撮ってくれてたんだ。わたしが母さんと最後に会った日、わたしと母さんが話してるところを」
綾音は俯いたまま、何も言わない。
「ここで何かあったんだよね? 約束、したんだよね?」
すると綾音はゆっくり顔を上げた。そして探るように結菜を見つめると、やがて深く息を吐き出した。
「……約束は、ほんとにたいしたもんじゃないんだよ? 結菜にとっては約束でもなんでもない。そんな感じの」
力なく彼女は笑う。そんな彼女を結菜はまっすぐに見つめた。
「そうだったとしても、普通は知りたいでしょ。自分が何を約束したのか。忘れたままっていうのはスッキリしない」
「まあ、そうかもね」
綾音は頷くと、腰に手を当ててさきほど結菜が動かそうとしていた流木へ視線を向けた。
「これ、どうするつもりだったの?」
「え……。あ、邪魔だからあっちに移動させようかと」
「うん。じゃ、そっち持って。わたしはこっち持つから」
「綾音……?」
結菜が首を傾げると、彼女は「とりあえず、落ち着いて座るスペースくらいは作りたいなって」と笑った。その瞳には何かを決意したような、そんな強さが込められている気がした。




