5.失われた約束(5)
バイト先の食堂はいつも通りの賑わいだった。落ち込んでいた気持ちも忙しく動いている間は気が紛れる。しかし、バイトが終わって帰宅する頃になると再び心は重くなっていった。
真っ暗な道。外灯も少なく、自転車のライトだけが心許なく細い道を照らしている。いつもなら、それでも平気だ。暗闇の中、風を切る音に混じって聞こえる波の音や潮の香りが心地良かった。
しかし、今日は違う。
結菜はブレーキを握り、ゆっくりと自転車を停めた。いつものように、いつもの場所で自転車に跨がったまま一つ息を吐く。視線は自然と砂浜へ向いてしまう。
弱い月明かりに照らされたそこには、まだ流木などが散乱している。波は昼間よりも穏やかになったようだが、それでもやはり少し荒い。いつもとは違う波音が結菜の心を不安定に揺らす。
「……いない、か」
砂浜をじっと眺めて、ポツリと呟く。
当然だ。土日にしか会わないと決めたのだからいるはずがない。自分が会いたいときにいてほしいなんて、そんな都合の良い考えを持ってしまった自分に結菜は思わず笑ってしまう。
――なにを期待してんだ、わたしは。
自嘲しながら結菜はスマホを取り出した。もしかすると綾音から何か連絡が来ているかもしれない。そう思って開いたそこにはメッセージが一件届いていた。
一瞬、心臓が大きく脈打つ。しかし開いたメッセージの送信主を見て結菜はホッと息を吐いて微笑んだ。表示された名前は陽菜乃。その名前を見ただけで少し心が和らいでしまうのはどういう効果なのだろう。思いながら結菜はメッセージを見つめる。
『ちゃんと話せた?』
――うん。ちゃんと話せた。たぶん明日からはいつも通り。だから大丈夫。
そう返せたら陽菜乃も安心してくれるだろう。しかし、そんなウソを返したところで明日になればすぐにわかってしまう。
突然、ザバッと波が砕ける音が響いた。結菜はハッと我に返るとため息を吐く。そして笑顔マークのスタンプを一つだけ返した。
帰宅するとすぐに、カナエからリビングに来るよう言われた。彼女の様子もやはりいつもとは違う。怒っているわけではない。どこか緊張しているような、そんな雰囲気だ。
「結菜ちゃん。なんか、大丈夫?」
床の上でクッションに座ったカナエが心配そうに眉を寄せる。結菜はソファに座りながら「なにが?」と聞き返した。
「だってなんだか、落ち込んでるっていうかそんな感じに見えるから」
結菜はカナエに視線を向けると笑みを浮かべた。
「バイトで疲れただけ。それで? 話があるんでしょ? なんか真面目な話が」
「ああ、うん。そうなんだけど」
カナエはそれでも心配そうに結菜を見ていたが、やがて背筋を伸ばして「実はね」と話し始めた。
「一月にある千紗都さんの三回忌、わたしたちも参列できることになったから」
カナエの口から出た母の名を聞いて、結菜はぼんやりと頷いた。
「そう……」
結菜の反応にカナエは「結菜ちゃん?」と不安そうな声を上げた。
「おばさん、行ってきたの? 母さんの実家。それで帰れなくなったんだ?」
「うん。ご当主……、千紗都さんのお父様がね、昨日の午後から少しだけなら時間が取れるって仰ってくれて。それでお願いに行ってきたの」
「へえ。よく会えたね」
そして、よく母のことで話ができたものだ。母が亡くなったときには、死に目に会えなかったどころか葬儀にだって参列させてもらえなかったというのに。
「ご当主もね、結菜ちゃんには申し訳ないことをしたって謝ってくださったの。あのときは気が動転してひどいことをしてしまったって」
そのとき、唐突に脳裏に蘇ってきたのは病院の香りだった。そして嫌悪感を隠そうともしない男の声。
「……しょうがないよ。だって、母さんが死んだのは父さんと駆け落ちしたせいなんでしょ? あの人の言い分では」
ああ、そうだ。少しだけ思い出してきた。三年前の僅かに思い出せる記憶のうちの一つ。
あれは意識不明だった母が目を覚ましたと連絡を受けた日のこと。結菜はカナエに連れられて遠く離れた知らない土地の病院まで行ったのだ。そこで母の父親だという和服姿の男に会った。
強い消毒薬の匂いが漂う病院の廊下で、彼は結菜に言ったのだ。
「あの男の子供が、よくものこのこと顔を出せたものだ。これっきりだからな。もう金輪際、千紗都との縁は切ってもらう」
母が父と駆け落ちをして結婚したということは知っていた。まだ結菜が幼い頃に母がよく話してくれたのだ。父と一緒にいたかったから家を飛び出したのだ、と。実家は古くから続く立派な家系だったけれど、そこで暮らすよりも父と暮らした方が何倍も幸せだと思ったから、と。
幼い頃の結菜はそれはとても素敵なことだと思っていた。しかし、結菜にとっての素敵なことは、母の実家からすればまったくそうではなかったのだろう。
事故の直後、母が入院していたのは結菜が生まれ育った街の病院だった。しかし、父の葬儀が終わってすぐに母はいなくなってしまった。昨日まで母が眠っていたベッドには白いシーツだけが残されていた。
そのとき大人たちの間でどういうやりとりがあったのか、結菜は知らない。ただ、呆然と立ち尽くす結菜をカナエが泣きながら「ごめんね」と抱きしめてくれたのを覚えている。
母がどこか知らない土地の病院へ転院したとカナエから聞かされたのはカナエの元に引き取られて少し経った頃だった。そのときの結菜は、母が転院したのは良い設備の病院で良い治療をしてもらうためだと疑いもせずに思っていた。遠い場所にいるからすぐには会えないけれど、いつかきっと会いに行けるはず。そう信じていた。
実際に会いに行くことはできた。
たった、一度だけ。
あの日、結菜はあの男の態度から母に会えるのはこれが最後なのだろうとなんとなく悟った。それならば伝えておかなければ。自分の気持ちを。
「お母さん、大好きだよ」
ベッドの上で、記憶よりもずいぶんと細く小さくなってしまったように見える母は、結菜の言葉に涙を浮かべながら微笑んでくれた。そして小さく動いた唇はこう言っていた。
『わたしもよ』
それが結菜の記憶に残る母の最後の姿。その翌日、母は逝ってしまった。それきり母のことは何もわからない。どんな葬儀で見送られたのか。どこに埋葬されたのか。結菜は何も知らない。
「――本当に申し訳なかったって何度も謝ってくださったの。それで三回忌の折には、最初から結菜ちゃんに知らせを出すつもりだったって」
「そうなんだ……」
「うん」
カナエは頷くとおもむろに立ち上がり、結菜の隣に座った。そしてそっと結菜の肩を抱き寄せる。
「やっと、会えるね。千紗都さんに」
「……そうだね」
「大きくなった結菜ちゃんの姿、千紗都さんにようやく見せてあげられる。あ、兄さんが好きだったおまんじゅうも持っていってあげようかな。あれ、千紗都さんも好きだったでしょ?」
結菜は思わず笑みを浮かべる。
「いいの? 怒られるんじゃない?」
「言わなきゃわかんないでしょ」
カナエはいたずらっ子のように笑って言った。そして強く結菜の肩を抱いて「……余計なこと、だった?」と不安そうに言う。
「なんで?」
「だって結菜ちゃん、全然嬉しそうじゃない。そりゃ、嬉しいことじゃないっていうのはわかってるよ? あの家の人たちに会うのだって、きっと……」
結菜はカナエへ視線を向け、そして「嬉しくないわけじゃないよ」と静かに答えた。
「ただ、突然だったから」
「そう。そうよね」
「――ねえ、おばさん」
結菜はカナエに身体を預けながら、ぼんやりと真っ暗なテレビ画面を見つめた。
「なに?」
「わたし、三年前って何してた?」
「え……?」
突然、カナエの手に力が入ったのがわかった。結菜はちらりとカナエを見る。彼女の顔は少し強ばっているようだった。
「なんでそんなこと聞くの?」
「よく覚えてなくて。三年前のこと。母さんのことについては、なんとなく覚えてる。病院に行ったことや、亡くなったっていう連絡を受けたときのことは。でも、それ以外のことは覚えてない」
「それは、ほら。結菜ちゃんってば忘れっぽいところがあるじゃない? だから――」
「スマホに画像が一枚も残ってない。三年前のだけ。なんでだと思う?」
そっとカナエが結菜から離れた。そして「結菜ちゃん」と結菜の顔を覗き込む。悲しそうに微笑みながら。
「いいじゃない。覚えてなくても」
「おばさん、知ってるんだ? わたしがなんで覚えてないのか」
しかし、カナエは首を横に降った。
「ウソだよ。だって、いつものおばさんならもっと大騒ぎするんじゃない? 記憶喪失だとかなんとか言ってさ」
するとカナエは視線を彷徨わせ、そして諦めたように「たしかに」と力なく笑った。
「……教えてよ。なんでわたし、三年前のことほとんど覚えてないのか」
「それは、本当にわたしにもわからなくて。ごめんね、結菜ちゃん」
それでもカナエは何か知っているはずだ。結菜はじっとカナエを見つめて次の言葉を待つ。彼女はそんな結菜の瞳を見つめていたが、やがて「ただ」と迷うように続けた。
「千紗都さんが亡くなった連絡を受けた日、結菜ちゃんがいなくなっちゃって。わたしも気が動転してたから気づくの遅れてね。サヤカたちに手伝ってもらって探したの。そうしたら綾音ちゃんが浜辺で倒れてる結菜ちゃんを見つけてくれた」
「綾音が……?」
「うん。もう、ほんとにびっくりして慌てて救急車呼んで……。そして病院で目を覚ました結菜ちゃんはね、まるで人形のようになってたの」
「なにそれ……。どういう意味?」
意味がわからず、結菜は眉を寄せる。
「言葉のままの意味。何を話しかけても、何をしても無表情で反応がなくて。全然喋ってもくれなくて。お医者様は精神的なものだろうって。焦らず、普通に接し続けていれば時間と供に回復するはずだって言われて。実際その通りだった。夏になる頃には、ほとんど元通り。だけど――」
カナエは言葉を切ると悲しそうに目を伏せた。
「だけど?」
「元通りになった結菜ちゃんは覚えてなかったの。さっき結菜ちゃんが言ってた通り、千紗都さんが亡くなる前後のことはなんとなく覚えてる様子だったけど。でもそれ以外の、その年にあったことは何も。スマホの画像だって、なぜか一年分だけなくなってて」
「わたしが何も撮ってなかったわけじゃなく?」
「うん。だって、わたしが結菜ちゃんのスマホでこっそり撮った画像だってあったのよ? それも、なくなってて」
「こっそりって……。何を撮ったの?」
しかしカナエは答えない。ただ俯き、膝に置いた両手を握りしめていた。
「おばさん?」
「――結菜ちゃんと、千紗都さんのね」
「え……?」
「病室で、二人で話してるところを撮ったの。もし、これっきり会えないのなら何か残しておいてあげたいと思って、こっそり。結菜ちゃんがその画像に気づいてたかどうかわからないけど」
「そう……」
「ごめんね、結菜ちゃん」
カナエは顔を上げると申し訳なさそうに表情を歪めた。
「結菜ちゃんが知りたがってること、おばさん何もわからなくて。兄さんや千紗都さんの代わりに結菜ちゃんを守るんだって、そう思ってたのに。ほんとにこんな頼りなくて、不甲斐なくて……」
「そんなことないよ」
結菜はカナエの手に自分の手を重ねた。
「おばさんには感謝してる。すごく感謝してるんだよ。こんなわたしを引き取って育ててくれてさ。本当に、ありがとう」
「結菜ちゃん……」
「母さんとの画像も、わたしが気づいてたかどうかわからないけど。でも、わたしのことを想って撮ってくれたんでしょ? 三回忌のことだって、わたしが行きたいって言ったからお願いしに行ってくれたってわかってるから。だから、ありがとう」
結菜は笑みを浮かべて言葉を伝える。すべての気持ちを言葉にすることはできないけれど、それでも精一杯の自分の気持ちを込めて。すると、カナエは目に涙を浮かべながらなぜか声を上げて笑い始めた。
「え、なんで笑うの? いま笑うとこだった?」
「ごめんね。なんか、嬉しくて」
「いや、嬉しくて笑ってるっていう感じの笑い方じゃないんだけど」
「そんなことないよ? 嬉しすぎて笑わずにはいられないっていうか」
「そんな、大げさな」
「だって初めて結菜ちゃんがありがとうって言ってくれたんだもん」
「え……」
結菜は思わず言葉に詰まる。そして眉を寄せて記憶を探った。たしかにカナエに対して感謝を直接言葉で伝えたことはなかった気がする。
「ごめんなさい。おばさん」
「やめて。今はありがとうがいいの!」
カナエは子供のようにそう言うと、まるで何かを待っているかのようにソファに正座をして背筋を伸ばした。結菜は「まったく」と息を吐く。
「おばさん、ほんとそういうところ子供みたいだよね」
「いいから、ほら。もう一回」
結菜は半分呆れながらも、カナエと同じように正座をして姿勢を正す。
「ありがとう、おばさん。これからも、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
結菜とカナエは互いに頭を下げた。そしてひとしきり笑い合ってからカナエが「あ、そうだ。綾音ちゃんなら」と思いついたように言った。
「綾音?」
「うん。綾音ちゃんなら何か知ってるかもしれない。あのとき結菜ちゃんを見つけてくれたの、綾音ちゃんだし。それに、あの後しばらくは綾音ちゃんの様子も少しおかしかった気がするし」
「え、そうなの?」
「うん。なんとなく、だけどね。あのときは綾音ちゃんも結菜ちゃんのことが心配で不安定になってるのかと思ってたんだけど」
カナエは困ったように微笑んだ。
「ごめんね、やっぱり頼りにならなくて」
結菜は笑みを返して首を横に振った。
――綾音が、知ってる?
しかし、きっと聞いても話してはくれないのだろう。それどころか今は顔を合わせてくれるかどうかもわからない。
「結菜ちゃん、どうかした?」
心配そうなカナエの声。結菜は「なんでもないよ」と微笑む。
「それよりおばさん。明日こそは仕事行かなきゃなんじゃないの? 早く寝なくて大丈夫?」
「あ! そうだった! 明日は早番になったから早く寝なくちゃ! ごめん、結菜ちゃん。先にお風呂もらうね!」
カナエは慌てて部屋を出て行った。結菜は笑ってそれを見送るとテレビをつけてニュース番組を選ぶ。画面の左上に表示されている明日の天気は晴れ。気温も平年並に戻るようだ。
結菜はソファの上で膝を抱えながら右手に視線を向けた。朝、綾音と手を繋いでいたのが遠い過去の記憶のように感じる。しかし、彼女の優しい手の感触はまだしっかりと残っていた。
結菜はため息を吐くとソファの背に寄りかかるようにして天井を仰ぐ。
「明日こそ、ちゃんと綾音と話さなくちゃ」
――例え、避けられたとしても。
「……避けられたら、やだなぁ」
自分の心の声に結菜は力なく笑いながら呟く。
いろいろなことがあって心の整理が追いつかない。涙が勝手に滲んでくるのは、悲しいからだろうか。不安だからだろうか。それともカナエに気持ちを伝えることができた嬉しさか、あるいは母の元へ行くことができる喜びか。
よくわからない。
感情が迷子になってしまったようで、ただ涙だけが滲んでくる。そのときスマホが鳴った。着信だ。
――でもきっと、綾音からじゃない。
結菜は天井を仰いだまま、画面の名前を確認することもなく通話をタップした。
「あ、結菜?」
スマホの向こうから聞こえてきた声に結菜は微笑んだ。
「陽菜乃だ」
「え、うん。わたしだけど。え、なに? どういう反応?」
「ごめん。画面見ないまま出ちゃって」
「そうなんだ? 器用だね?」
困惑した陽菜乃の声に結菜は泣きながら笑って「それで、どうしたの?」と聞いた。
「ああ、うん。返信、スタンプだけだったから気になって。ていうか、なんか声変じゃない? 大丈夫?」
柔らかな声が結菜の心に染みていく。ついさっきまでぐちゃぐちゃだった心が一気に穏やかになっていくようだ。結菜は鼻を啜りながらフッと笑った。
「――結菜、泣いてるの?」
「ううん。笑ってるの」
「え? なんで」
「陽菜乃が絶妙なタイミングで電話してくるからさ」
「あー、もしかして何か邪魔しちゃった?」
「全然。むしろ助かった、かな」
「……よくわかんない」
結菜は今度は声を出して笑った。
「気にしないで」
「そう言われても気になるよ。でも、まあ、結菜が笑ってくれたからいっか」
「うん。ありがとう、陽菜乃」
「どういたしまして。それで、綾音とはどうなったの?」
「頭を冷やしてるところだからって会ってくれなかった」
「……そっか」
陽菜乃の声が沈んだのがわかった。結菜は「でも」と明るく言う。
「ちゃんと話せるまで諦めないから、大丈夫」
「……うん。そっか」
陽菜乃はそう言うと「なんだ」と安心したように続けた。
「もっと落ち込んでるのかと思ったけど、わりと平気そう?」
「平気っていうか、平気になったっていうか」
「なった?」
「うん。陽菜乃の声を聞いたらすごく安心した。陽菜乃の声はすごい」
「いや、声だけなの?」
不満そうな陽菜乃の声に結菜はフフッと笑う。
「陽菜乃もすごいよ。なんかわたし、陽菜乃の名前を見るだけで元気が出るもん」
「そ、そう? そこまで言われると、なんか照れるけど」
目を閉じると少し恥ずかしそうに笑っている陽菜乃の顔が浮かんでくるようだ。結菜は微笑みながら「ありがとう、陽菜乃」と礼を言う。陽菜乃は「うん」と息を吐くように返事をした。
「じゃ、また明日」
「うん。おやすみ、結菜」
「おやすみ、陽菜乃」
そして静かに通話が切れた。結菜は暗くなってしまったスマホの画面を見つめて微笑むと「よし」と自身に気合いを入れる。
たとえ明日も綾音に避けられたとしても、明後日また会いに行けばいい。それでもダメならまた次の日に。そうしたらきっと綾音は『結菜、ウザいって』と笑いながら言ってくれる気がする。そうしてまた元通り、軽口を叩きながら話せるようになる。自然といつもの関係に戻れるはず。
「結菜ちゃん、お風呂どうぞー」
「はーい」
カナエの声に返事をし、結菜はソファから立ち上がった。




