5.失われた約束(4)
もう午後の授業は始まっているだろう。しかし結菜は教室に戻る気にもなれず、さきほどまで綾音が座っていた場所に腰を下ろしていた。そしてぼんやりと雑木林を眺める。台風の影響か、以前よりも荒れているように見える。まるで結菜の心のようにグチャグチャだ。
結菜は深くため息を吐き、膝に置いていた袋の中身を取り出した。
おにぎり弁当には大きめのおにぎりが二つと唐揚げ。そして卵焼きとたくあんが入ったシンプルなものだった。結菜はしばらくそれを見つめ、やがて割り箸を手にして食べ始める。
綾音は何も食べていない様子だった。これも結菜の分だけを買ってきたのだろう。お礼すら言っていなかったことに、いまさら気づく。
「わたし、なにやってんだろう……」
――なにもやってないのか。
おにぎりを頬張りながら思う。なにもやっていないから綾音を傷つけることになったのだ。周囲と勝手に距離を置いて、自分だけで生きていくのだと一人で頑張ってるつもりで。
「約束、か」
結菜はスマホを手にして写真を遡ってみる。この機種に変えたのは去年のことだが、データはそのまま移行している。きっと三年前の写真だって残っているはずだ。そう思ったのだが、画像を遡りながら結菜は眉を寄せた。
なかったのだ。
三年前の画像だけが、一枚も。
元々、そんなに写真を撮る方ではない。しかし一年の間に一枚も撮らないなんてことはないはずだ。結菜は画像をスクロールさせていく。
初詣、夏祭り、お花見、文化祭。何か行事があれば少ないながらにも必ず何枚か撮っている。しかし、三年前の記録だけが一つも存在しない。
「なんで……」
そのとき、画面の上部にメッセージの通知が表示された。陽菜乃からだ。
『大丈夫?』
開いた画面にはそれだけが表示されていた。結菜はじっとその文字を見つめる。そしてゆっくりと文字を打った。
『わかんない』
『どこにいるの?』
『体育館裏』
『行こうか?』
結菜は指を止めた。そして微笑みながら返信する。
『戻るから大丈夫』
すると笑顔のスタンプが送られてきた。
陽菜乃は優しい。きっと頼ればそれに応えてくれるだろう。どんなに結菜が弱音を吐いたとしても受け入れてくれる。しかし、この件に関しては彼女に頼ってはいけない気がした。これは、綾音と自分の問題なのだから。
授業中の校内は、どこか緊張感のある空気に包まれている。そんな気がするのは、自分が授業をサボっているという自覚と罪悪感があるからだろうか。教師の声だけが響く廊下を結菜はゆっくりと歩く。
この授業が終わったら綾音ともう一度話をしてみよう。そう思った瞬間に別れ際の綾音の表情が蘇り、なんとなく弱気になってしまう。
ちゃんと話せるだろうか。それよりも先に三年前のことを思い出すべきではないか。彼女と交わしたという約束のことを。しかし、今のようにぎこちない雰囲気のまま過ごすのも嫌だ。
もやもやとした気持ちを抱えたまま教室に戻った結菜は、そっと後ろの戸を開けた。音を立てないように開けたつもりだったが、静かな教室では微かな音でも大きく響いてしまう。
「松岡さん、今までどこに?」
現国の女性教師が結菜に気づいて授業を中断した。
「あの、ちょっと保健室に」
他に思いつかず、適当なウソを答える。教師はそれを素直に信じたのか「具合が悪いの?」と心配そうに首を傾げた。
「少しお腹が痛かったんですけど。でも、もう大丈夫です」
「そう……?」
教師はそれでも心配そうに結菜を見ていたが、やがて「わかりました。席に着いてください」と名簿を開いた。結菜は頷きながら教室に綾音の姿を探す。しかし、彼女はいなかった。ただ誰も座っていない席だけがそこにあった。
「松岡さん? 早く席に着いてください」
「……はい」
結菜は頷き、自分の席に着く。そして教科書とノートを取り出しながら綾音の席を見つめた。机には鞄もかかっていない。帰ってしまったのだろう。
――なんでだよ。話、できないじゃん。
結菜はぼんやりと綾音の机を見つめながら授業を再開した教師の声を聞く。何を言っているのか、なんだか理解できない。まったく言葉が頭に入ってこない。その授業中、結菜はノートを取ることもせず、ただぼんやりと座ることしかできなかった。
そして休憩時間、結菜の席には陽菜乃とミチが飛ぶようにやってきた。
「松岡さん、さっき綾音に会えた?」
ミチは言いながら綾音の席へ視線を向ける。
「五限始まる直前に教室戻ってきたと思ったら、何も言わずに鞄持って出て行っちゃってさ」
「様子、変だったよ。なんか思い詰めた感じに見えた。綾音」
陽菜乃が心配そうに結菜を見つめる。
「結菜も戻って来ないし」
「そうだよ。わたしたち心配したんだからね? あれほど午後の授業サボらないようにって言ったのに二人してサボるなんて」
「うん。ごめん」
結菜は謝りながら微笑む。陽菜乃とミチは困ったように顔を見合わせる。
「……もしかして、さらに喧嘩した?」
ミチの言葉に結菜は軽く笑って「最初から喧嘩してないって」と答える。そして小さく息を吐きながら「ただ」と椅子の背にもたれた。
「わたしが、何か忘れてるみたいで」
「何かって?」
「さあ……。何だろう」
結菜は呟きながらスマホを取り出すと、綾音とのトーク画面を開いた。そしてメッセージを打とうと画面に指を乗せる。だが、指はそのまま動かない。
何を送ればいいのかわからない。
「――わたしたちにできることある?」
陽菜乃の声に結菜は微笑みながら顔を上げた。
「平気。帰ったら会いに行ってみるから」
「そう?」
「うん」
「まあ、何が原因なのかよくわからないけど大丈夫だって。綾音は松岡さんのこと大好きなんだから。すぐに元通りの仲良しコンビに戻るよ」
「……大好き、か」
結菜は呟く。そのとき、わずかに陽菜乃の表情が変わった。どこか気遣ったような、心配そうな顔。結菜はそんな彼女に微笑んだ。
微妙な空気を感じ取ったのか、ミチが「え、あれ?」と困惑しように陽菜乃と結菜を見比べる。
「わたし、なんか変なこと言った?」
「なに、変なことって」
結菜は首を傾げる。
「いやいや、それをわたしが聞いてんだけど。え?」
「なんでもないよ。ただミチは友達想いだなぁって思っただけ。ね、結菜?」
「だねぇ。ミチってほんとに良い奴」
「お? おお、ありがとう。なんか誤魔化された感じがするけど」
「気にしない、気にしない」
眉を寄せるミチに笑みを向け、結菜はスマホの画面に視線を戻す。
『学校が終わったら、家行くから』
送信した直後に既読になった。結菜はじっと画面を見つめ続ける。しかし、返信が来ることはなかった。
授業が終わり、結菜は急いで帰り支度をして学校を出た。スマホを確認しても綾音からの返信はない。かわりに陽菜乃からメッセージが届いていた。
『きっと、ちゃんと話せるよ』
そして頑張れという犬のスタンプ。結菜はスマホを握りしめて胸に抱くと、一つ深呼吸をしてから綾音の家へと走った。
「あ、結菜ちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは。あの、綾音は?」
玄関で出迎えてくれたサヤカは、結菜の言葉に困ったような表情を浮かべて階段の方を振り向いた。
「綾音ねー、なんか体調が悪いみたいで、早退してからずっと部屋にこもってるのよ」
「あの、上がってもいいですか?」
「もちろん。でも、部屋に鍵かけてるから」
「鍵……?」
「そうなの。変でしょ? 今まで鍵なんか掛けたことないのに。これじゃ様子も見られやしない」
サヤカはため息を吐いて「あの子がドア開けたら、意地でも鍵かけさせないようにしといてくれる?」と言った。
「結菜ちゃんが相手なら開けると思うから」
結菜は笑みを浮かべて頷き、階段を上がった。
きっと綾音は結菜が行っても鍵を開けてはくれない。いや、むしろ結菜が来るからこそ部屋に鍵を掛けたのだろう。
――そんなに、会いたくないんだ。
綾音の部屋の前に立って結菜は胸に手をやる。なんだかひどく息苦しい。
いつも当然のように入っていた綾音の部屋。しかし固く閉ざされたドアを見ると、まったく知らない人の部屋のように思える。
結菜は一度深く息を吐き出し、そして胸に当てていた手を握りしめた。
「……綾音。わたしだけど」
そっとドアをノックする。返事はない。
「お昼、ありがとね。ちゃんと食べたから。おにぎり弁当。あれ、めっちゃレアなやつじゃん? すぐ売り切れるって評判の。たしかに美味しかった。シンプルだけど、おにぎりの塩加減が最高」
部屋の中からは物音一つ聞こえてこない。結菜は息苦しさに耐えながら、手の平をドアに当てて顔を近づけた。少しでも、綾音に声が届くように。
「今度、わたしも綾音の分買ってくるから。昼休憩、ダッシュで食堂行くし。だから、次は一緒に食べようよ」
静かな廊下には結菜の声だけが響いている。いくら待っても、綾音が返事をしてくれる気配はない。
「ねえ、綾音」
結菜は言いながら、そっとドアに額をくっつけた。
「わたしさ、思い出すから。ちゃんと」
「――なにを?」
微かに綾音の声が聞こえた。その声に結菜は少しだけ安心して微笑む。
「約束。わたし、たぶんすごく大切な約束をしてるんでしょ? それなのに忘れちゃってて……。ごめん。綾音が怒るのも当然だよ」
だが、綾音は答えてくれない。結菜はドアに額をつけたまま続ける。
「ごめんね。なんで忘れちゃってるのか、わたしもよくわかんなくて。あの後、思い出そうとしたんだけど……。わたし、三年前のことってほとんど覚えてなくて。もう、本当に何で覚えてないのか全然わかんないんだけど。でも、思い出すから。約束のことだけは絶対に思い出すからさ」
「いいよ。思い出さなくて」
消え入りそうな綾音の声は、弱々しく続ける。
「別に、思い出さなくてもいいから。約束だって、たいしたことじゃない。わたしが勝手に約束して勝手に守ってるつもりだっただけだし」
「でも、わたしは――」
「結菜は!」
結菜の声を遮るように、綾音の声が響いた。結菜は思わず顔を上げてドアを見つめる。
「結菜は悪くないってさ、言ったじゃん。それにわたしは別に怒ってるわけでもない。これは、違う」
違うから、と綾音は静かな声で言った。
「だったらなんで、わたしを避けるの?」
「別に避けてないし」
「ウソだ」
「ウソじゃない」
「だったら鍵、開けてよ」
「ムリ」
「なんで」
綾音は答えない。結菜は口から短く息を吐く。沈黙が結菜の心を押しつぶそうとしているかのようだ。結菜はドアに再び額をつけて「なんでって、聞いてるじゃん」とドアを軽く叩いた。
「……頭冷やしてくるって言ったじゃん。いま、絶賛冷却中だから」
「じゃあ、わたしも一緒に冷やす」
そのとき綾音が笑ったような、そんな気がした。鍵を開けてくれるのではないか。そんな期待から、結菜は一歩ドアから離れる。
きっと綾音は出てきてくれる。
なに言ってんの、と笑いながら。
いつものように。
しかし、そんな期待も虚しくドアは閉ざされたままだった。
「結菜、今日バイトじゃなかった? 遅刻したら給料減るでしょ。早く行きなよ」
「……そうだね」
結菜は呟きながらもう一歩、ドアから離れる。
「綾音」
「ん?」
「明日の朝、迎えに来てもいい?」
再びの沈黙。結菜は下ろした両手を握りしめた。
「ダメ。明日はわたし、寝坊する予定だから」
いつもなら冗談に聞こえる言葉。
しかし、これは違う。
これは、きっと拒絶の言葉だ。
「……そっか」
結菜はさらに一歩、ドアから離れた。
「じゃあ、明日。学校で」
しかし、綾音からの返事はなかった。結菜は俯きながら階段を降りる。そこではサヤカが心配そうな顔で待っていた。
「どうだった? あの子、鍵開けた?」
結菜は首を横に振る。
「すみません」
「なんで結菜ちゃんが謝るの。もう、そんな悲しそうな顔しないで。たぶん結菜ちゃんに風邪うつしたくないだけなのよ。ほら、あの子ってばずぶ濡れで一晩いたじゃない? きっとそのせいだと思うから」
必死にフォローしてくれようとするサヤカにできる限りの笑みを向け、深く頭を下げてから結菜は綾音の家を後にした。
――何が悪かったんだろう。
トボトボと俯いて歩きながら結菜は考える。
約束を覚えていなかったから。きっとそのせいで綾音は怒っている。そう思っていたのに違うと彼女は言う。思い出さなくてもいい、と。
「……わかんないよ」
何もかも、わからない。
結菜は浮かんできた涙を乱暴に制服の袖で拭った。
鬱々した気持ちで自宅に戻ると、玄関にはカナエの靴があった。無事に帰ってくることができたのだろう。
「ただいま」
声をかけると、リビングから出てきたカナエが「おかえり! 結菜ちゃん!」と勢いよく抱きついてきた。
「なに、いきなり」
「だって結菜ちゃん、行方不明になったって聞いて」
「友達の家にいたって聞かなかった?」
「聞いたけど、でも心配で! 今だって、こんな顔で帰ってくるし。心細かったんでしょ? ごめんね。おばさん、やっぱり頑張って帰るべきだったよね」
「いや、別に大丈夫だから。てか、離して。今からバイトだから」
するとカナエは「えっ!」と心から驚いたように目を見開いた。
「今日バイトなの? 休めたりしない?」
結菜はため息を吐いて「なんで?」と聞く。するとカナエは真面目な表情を浮かべた。
「ちょっと、結菜ちゃんに話があってね」
「話……?」
カナエは神妙な面持ちで頷いた。彼女がこんな顔をするときは怒っているときか、あるいは母の話をするときだけだ。
結菜はカナエから視線を逸らすと「いきなり休むと、お店にも迷惑だから」とシューズボックスの上に置いていた自転車の鍵を手に取った。
「そう」
カナエは神妙な面持ちのまま頷くと「じゃあ、今日は早く帰ってきなさい」と続けた。いつもとは違う、強い口調で。
「ん、わかった……」
結菜は頷き、玄関を出る。
生ぬるい空気は夕方になっても変わらない。自転車を押して門を出た結菜は綾音の家を振り返る。
まだ綾音の部屋の窓にカーテンは閉められていない。しかし、そこに彼女の姿を見つけることはできなかった。




