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5.失われた約束(3)

 学校に着いてからの綾音はいつも通りのように見えた。友人たちに笑顔で挨拶をし、普通に授業を受ける。休憩時間になれば結菜と会話をする。しかし、その視線が結菜に向くことはなかった。

 話している間、彼女はずっと遠慮がちな表情をしていて、会話だってまともに続かない。一言、二言続いたかと思うと沈黙が降りてくる。そのたびに、結菜の耳の奥では綾音の言葉が蘇っていた。


 ――どうして、あんなこと。


 綾音の言葉の真意が分からない。結菜の行動に怒ってしまったのだろうか。気づかないうちに綾音を怒らせるようなことを言ってしまったのか。しかし、綾音は怒っているような様子ではない。

 よそよそしい態度。素っ気ない返事。遠慮がちな笑顔。だけど、そばにはいてくれる。怒っているわけではないが、いつもとはまったく違う。こんな綾音は初めてだった。


「――ねえ、綾音」


 昼休憩。騒がしく昼食を食べ始めるクラスメイトたちの中、前の席に座ったまま動かない綾音に結菜は意を決して声をかけた。


「ん、なに」


 答えた綾音は振り向いてはくれない。結菜は小さく息を吐き出し、机に置いた手に視線を落とした。


「綾音、怒ってる?」

「なんで?」

「だって綾音、全然こっち見てくれないし。それに、朝言ってたことだってさ。あれ、どういう――」


 そのとき、ガタッと音を立てて綾音が立ち上がった。結菜は驚いて顔を上げる。綾音は鞄から財布を取り出すと「購買、行ってくる」と顔だけを振り向かせて言う。


「え、購買?」

「今日、お弁当持ってくるの忘れたからさ。あ、そういや結菜も今日、ご飯ないんじゃない?」


 笑みを浮かべながら彼女は言う。その笑顔はまるで無理して貼りつけたようで、結菜はどんな顔で彼女を見たらいいのかわからずに視線を逸らした。


「うん。そういえば、そうだね」


 結菜は頷き、そして鞄に手を伸ばす。


「じゃあ、わたしも一緒に――」

「いいよ。わたしが買ってくるから」

「え、でも」

「行ってくる。結菜は待ってて」

「綾音――」


 しかし綾音は結菜の言葉を待たずして、そのまま教室を出て行ってしまった。結菜は出しかけた財布を鞄に戻して項垂れる。


「なに、あんたらどうしたの」


 その声に振り向くと、ミチと陽菜乃が驚いたような顔でこちらを見ていた。


「喧嘩でもした? あんな綾音って珍しい……。いや、珍しいどころか初めてなんだけど」


 言いながらミチは綾音が出て行った教室の戸へ視線を向けた。陽菜乃は結菜に視線を向けたまま「大丈夫?」と心配そうに眉を寄せる。


「うん。大丈夫、だと思う」

「だと思うって……」

「昨日のことで喧嘩したの?」


 陽菜乃が問う。するとミチが不思議そうに「昨日のって……?」と首を傾げ、そして思い出したように「ああ、そういや」と頷いた。


「綾音から電話あったな。松岡さんが帰ってないって、すごい慌てた様子だったけど。それのこと?」


 ミチの言葉に陽菜乃は頷いた。


「すごく心配してる様子だったから」

「あー、心配させたことを怒ってる、と」

「うん」


 結菜は頷き、そして「そうかも」と微笑む。


「朝、謝ったんだけど」

「許してくれなかった?」


 結菜は陽菜乃を見つめ、そして「よく、わかんない」と目を伏せた。

 きっと心配させたことが原因ではないのだろう。だって、来る途中まではいつも通りだったのだから。あの海で会話をしているときに綾音の様子が変わってしまった。その原因は結菜にあるはずだ。しかし、何が原因なのかわからない。

 自然と顔を俯かせていると、カサッと近くで袋の音が聞こえた。顔を上げるとミチと陽菜乃が気遣うような笑顔で立っていた。


「松岡さん、よかったら四人でご飯食べようよ」

「え、でも」

「もちろん結菜が嫌じゃなかったら、だけど」

「あと綾音もね」


 ミチの言葉に陽菜乃は頷く。結菜は笑みを浮かべて「わたしはいいけど」と頷いた。


「じゃ、綾音が戻るまで待ってることにしますかね」


 ミチと陽菜乃は近くの机を移動させて結菜の机とくっつけると、椅子を持ってきて座った。


「綾音は購買行ったんだよね?」


 ミチが教室の時計に視線を向けながら言う。


「うん。お弁当持ってくるの忘れたって」

「松岡さんは?」

「わたしも持って来てなくて」

「よかったら、一つ食べる?」


 陽菜乃が袋からパンを取り出して机に置いた。結菜は首を横に振る。


「綾音が、一緒に買ってきてくれるって」

「ふうん」


 ミチは不思議そうに首を傾げた。


「怒ってるわりには優しいよね? 休憩時間だって、ぎこちない雰囲気だったけど、いつもみたいにお喋りはしてたし」

「そうだね。見てた感じでは怒ってるっていうよりは元気がないって感じだったけど」

「元気がない、か。なんだろうね?」

「それはわたしたちにはわからないでしょ」


 陽菜乃はそう言うと結菜を見つめた。結菜も彼女を見つめ、そして首を横に振る。


「ま、綾音が戻ってきたら話を聞いてみようよ。なんか、こんな雰囲気の二人見てるの嫌だし」

「ごめんね、二人とも。気を遣わせて」


 結菜が謝るとミチが困ったような笑みを浮かべた。


「こういう松岡さんを見るのも初めてだ」


 その言葉に結菜は首を傾げる。


「そう?」

「うん。けっこう素直で意外。ま、今まであんまり話したことがなかったからっていうのもあるのかもしれないけど」


 結菜は自然と視線を陽菜乃へ向ける。彼女は優しく微笑みながら結菜のことを見ていた。

 大丈夫だよ。

 まるで、そう言っているかのような眼差しに結菜も微笑みを返す。


 ――大丈夫。綾音が戻ってきたらちゃんと話をしてみよう。わたしが何かを

したのなら、ちゃんと謝ろう。


 そう思いながら結菜は教室の戸へ視線を向ける。しかし、昼休憩の半分を過ぎた頃になっても綾音は戻ってこなかった。


「今日に限って購買がめちゃくちゃ混んでるとか?」


 ミチが頬杖を突きながらぼやくように言った。陽菜乃も困った様子で「それはないんじゃ……?」と時計へ視線を向けている。

 このままでは二人も昼食を食べないまま休憩が終わってしまう。結菜は「ごめん」と口を開いて席を立った。


「わたし、ちょっと見てくるから。二人は先に食べてて」

「でも、結菜――」

「ちゃんと話してみるから」


 結菜は陽菜乃に笑みを向ける。一人でも大丈夫。その意思を込めて。「――うん。わかった」


「くれぐれも午後の授業をサボらないように」


 ミチの言葉に笑って答えて、結菜は教室を出た。そしてとりあえず購買へと向かったのだが、もうそこに生徒の姿はほとんどなかった。当然、綾音もいない。

 結菜は綾音が行きそうな場所を考える。中庭は台風によって落ちてしまった木の枝が散らばっており、ベンチも湿ってるので生徒は誰も出ていなかった。部室棟は、たしか昼休憩には開いていないはずだ。

 あと思いつくのは保健室、食堂。しかし、そのどちらにも綾音はいなかった。


「……綾音、どこに」


 呟きながら廊下の窓から外を見る。そこから見えるのは体育館だ。だが、どうやら今日は体育館も施錠されているようだ。この位置からでも扉が閉まっているのがわかる。しかし、結菜は閉まっている体育館を見つめながら足を止めた。


 ――もしかして。


 気づけば、結菜は体育館に向かって駆け出していた。

 生暖かい空気の中、人気のない体育館の周りをぐるりと走って裏手へと回る。歩道用のコンクリートはまだ乾いておらず、ところどころに水たまりさえあった。

 そんな濡れたコンクリートの上に、俯きながら座り込んだ女子生徒が一人。


「――綾音」


 結菜は肩で息をしながら、彼女の名を呼んだ。綾音はビクリと肩を震わせて結菜の方へを顔を向ける。


「結菜……?」


 掠れたような声に結菜はニッと笑う。


「マジ、なんでこんなとこにいるんだっての」


 言いながら綾音の隣に立つと「購買はどうした、購買は」と続ける。その様子をきょとんとした表情で見ていた綾音だったが、すぐに気づいたのか「似てない」と苦笑した。


「全然似てないから、それ」

「そんなことないでしょ」


 結菜は笑って腰に手を当てる。


「こないだの綾音を完全再現。我ながら完璧だと思う」

「どこが」


 綾音は鼻で笑いながら立ち上がった。その右手にはビニール袋がある。どうやら購買には行っていたようだ。


「制服、濡れちゃったんじゃない?」

「ああ、うん」


 スカートをパタパタと叩きながら綾音は頷く。そして「あー、えっと」と顔を俯かせた。


「ごめん。昼ご飯、わたしが買ってくるって言ったのにね。もう昼休憩終わっちゃう感じ?」

「綾音」

「あ、ご飯。ちゃんと買ってるから。結菜が好きそうなやつ。最初は購買に行ったんだけど――」


 言いながら綾音は持っている袋の中に手を伸ばす。その手を結菜はグッと掴んだ。綾音は驚いたのか、目を丸くして結菜を見る。


「え、なに。痛いよ? 結菜」


 それでも結菜は手の力を緩めず、綾音を見つめる。綾音は気まずそうに視線を逸らすと、再び顔を俯かせてしまった。


「綾音。わたし、なにかしたかな」

「……なにかって?」

「わかんないよ。全然わかんない。でも、もしわたしが綾音を怒らせるようなことをしたんだったら謝りたい」

「わかんないのに、謝るんだ?」


 綾音の声は震えていた。

 綾音は顔を上げてくれない。結菜を見てくれない。それどころか結菜から逃げようとしているかのように、少し身体を引いている。まるで綾音との間に深くて大きな溝が生まれてしまったようだ。

 胸が苦しい。泣いてしまいそうだ。

 結菜は顎を引き、手に力を込めながら「わかんないよ」と声を絞り出す。


「なんで綾音があんなこと言ったのか、全然わかんない。なんで、そんなに悲しそうなのかも、苦しそうなのかも」

「……そうだね。結菜はいつだってそうだよ。人の気も知らないで」


 綾音は低く、呟くように言った。結菜は「ごめん」と目を伏せる。


「きっと、わたしは今までたくさん綾音に迷惑かけてきたんだよね。ほんとに、ごめん。今回のことだって呆れたよね? 高校生にもなって、たかが台風で動揺しちゃってさ。それで綾音にすごく迷惑かけたし。面倒見切れないって思われても当然だよ」


 ごめんね、と結菜は視線を上げて綾音にもう一度謝る。綾音が小さく首を左右に振った。しかし、それが何を意味しているのかわからない。


 綾音の気持ちが、わからない。


 結菜は零れてしまいそうな涙を必死に堪えながら「だけど」と続ける。


「わたしは綾音がいなくても大丈夫なんかじゃない。ワガママかもしれないけど、わたしは綾音にそばにいてほしい」


 その言葉に、綾音が顔を上げた。瞳が涙に濡れている。結菜はそんな彼女の瞳を見つめながら「だってわたしには綾音も必要なんだよ」と続けた。その瞬間、綾音の瞳が大きく見開かれた。そして涙が一つ零れ落ちる。


「わたしも、か……」


 呟いた彼女は、脱力したように肩を落として俯いた。


「綾音?」

「それって、陽菜乃もってことでしょ? 陽菜乃のことも頼りにしてるってことだ」

「そうだけど。でも陽菜乃だけじゃなくて――」

「約束したのに!」


 綾音が声を荒げて結菜の手を振り払った。突然のことに結菜は呆然と綾音を見つめる。彼女は溢れる涙を拭うこともせず「約束、したのに……」と続けた。


「約束……?」

「そうだよ。三年前、あの海で約束したのに。なんだよ。わたしだけ覚えてて、わたしだけ守ってて。なんで……」


 なんで覚えてないの、と綾音は両手で顔を覆った。しゃくり上げる綾音に結菜はそっと手を伸ばす、しかし、その手が届く前に綾音は「あー、もう!」と声を荒げると手を顔から放し、グイッと持っていた袋を結菜に押しつけた。


「綾音?」

「ごめん。頭冷やしてくる」


 そう言って彼女は結菜の横を通り抜ける。


「待って。綾音――」

「結菜はさ」


 綾音を足を止めると振り返った。


「何もしてないから。だから気にしなくていいよ。謝らなくてもいい。結菜は何も悪くないから」

「でも」

「悪くない。悪くないんだよ、結菜は」


 そう言って笑った綾音の顔を見て結菜の胸がひどく痛んだ。彼女は見たこともないほど弱々しく、そして傷ついたような表情をしていた。


「それ、ちゃんと食べろよ」


 綾音はそう言って結菜に背を向けると逃げるように去って行く。結菜は動くこともできず、ただ渡された袋を胸に抱えながら綾音が角を曲がっていくのを見ていた。


 ――三年前……。海で?


 しかし、よくわからない。わかっているのは綾音を傷つけてしまったということだけだ。

 結菜の言葉が、綾音の心を深く傷つけてしまったという事実だけ。


「違うのに……」


 零れてきた涙を制服の袖で拭いながら結菜は呟く。

 自分には綾音も陽菜乃も、そしてミチやカナエ、周りにいてくれるみんなが必要だと。自分は弱いからたくさんみんなに迷惑をかけるけど、それでもみんなにそばにいてほしい。そう伝えたかっただけなのに。


 ただ、自分の気持ちを伝えたかっただけなのに。


 結菜はそっと胸に抱いていた袋の中を覗いた。そこに入っていたのは、おにぎりだった。購買で売っているのはパンだけだったはずだ。思ってから、そういえばと思い出す。

 たしか食堂で、数は少ないがおにぎり弁当が売られていると聞いたことがあった。いつもすぐになくなってしまうので見たことはなかったが、きっとこれがそうなのだろう。

 入っているおにぎり弁当は一つだけ。


「綾音……」


 結菜はもう一度袋を抱きかかえながら目を閉じる。


 ――約束。


 綾音とした約束ならば忘れるはずがない。けれど結菜は覚えていない。その約束を、きっと綾音はとても大切にしてくれていたのに。

 三年前に何があっただろう。考えてすぐに思い浮かぶのは母の死だ。それ以外に覚えていることを考える。そして一瞬だけ蘇ってきたのは、海の音。

 結菜は目を開けて眉を寄せる。


「なんで……?」


 思い出そうとした三年前の記憶は、なぜかほとんど曖昧だった。ただ唯一はっきりと思い出せたのは、子供のように泣きじゃくる綾音の姿だけだった。


「なんで、覚えてないんだよ」


 結菜は呟き、しばらくその場に立ち尽くす。気づけば昼休憩終了のチャイムが鳴り響いていた。

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