5.失われた約束(2)
「結菜ちゃん、本当にご飯はいいの?」
「はい。友達の家で済ませてきたから」
午前七時三十分を過ぎた頃。結菜は綾音の家の食卓で温かなコーヒーを飲んでいた。隣の席では入浴を済ませて制服に着替えた綾音が朝食を食べている。癸羽はまだ寝ているようだ。きっと、遅刻ギリギリに起きてくるのだろう。サヤカも綾音の向かいの席に座って朝食を食べながら「でも、本当に良かった」と微笑んだ。
「カナエから結菜ちゃんが泊まりに来るからって聞いてたのに全然来ないんだもの。心配しちゃった」
「ごめんなさい……」
「友達の家、海の近くだって聞いたけど大丈夫だったの?」
「あー、はい。思ってたより海とは距離があって」
「そう。でも越してきたばかりの子、一人だったんでしょ? 結菜ちゃんがいてくれて心強かったと思うわ」
「ですかね」
結菜は笑って誤魔化しながら、隣で眠そうにご飯を口に運ぶ綾音へ視線を向けた。
どうやらサヤカには、結菜が最近越してきた友達を心配して様子を見に行ったと伝わっているらしい。そして雨と風が強くなって帰れなくなった、と。
綾音がそう伝えてくれたのだろう。サヤカがカナエへ連絡することを見越して。そして、二人が結菜のことを心配しないように。
「だけど、今度からはちゃんとスマホを持って行ってね。わたしもそうだけど、綾音がすごく心配して大変だったんだから。海まで行ってくるとか言っちゃって。おまけに泥棒が入るかもしれないからって、結菜ちゃんの家に泊まり込んじゃってね。もうほんと、手がつけられなくて」
「うるさいな。余計なことは言わないでよ、母さん」
「余計なことじゃないでしょ。ていうか、あんた。濡れたまま家に上がり込んでたのは知らなかったわよ。ソファーとかカーペットとか、大丈夫でしょうね?」
「ああ、それなら大丈夫なんで」
「そう?」
「はい」
実際のところはよく見てないのでわからないが、別に少しくらい汚れていても問題ない。カナエに何か言われても、自分が汚したと言えばいいだけだ。
「まったく……。綾音は昔から結菜ちゃんのことになると――」
「ごちそうさま!」
綾音はサヤカの言葉を遮ってそう言うと、朝食を半分ほど残して席を立った。そして結菜の腕をグイッと引っ張る。
「行こう、学校」
「へ? もう行くの?」
「もう行くの!」
綾音は言いながら玄関で靴を履くと「行ってきます!」と不機嫌そうに声を投げ、結菜の腕を掴んで外へ出た。サヤカの声が聞こえた気がしたが、何と言ったのかわからなかった。
「ねえ、綾音」
「んー?」
「なんか怒ってんの?」
結菜は少し前を歩く綾音の背中に問う。
「は? なにが」
「いや、なんかさっき、態度が悪かったというか何というか……。珍しくない? サヤカさんにああいう態度とるの」
すると綾音は立ち止まり、深く息を吐き出しながらがっくりと項垂れた。
「え、なに。どした?」
思わぬ反応に驚いて訊ねると彼女は「だってさぁ」と振り返って苦笑した。
「母さん、余計なことばっか言うんだもん」
余計なこと、と結菜は口の中で呟く。そして「あー」と笑った。
「綾音がわたしのこと心配しまくってたこととか? それなら陽菜乃に聞いて知ってるけど」
「陽菜乃、なんて言ってた?」
「周りに止められても海までわたしを探しに行こうとしてたとか」
「……それから?」
結菜は綾音の顔を見つめ、そして少し首を傾げて「泣きながら電話してきた、とか?」と言った。
それを聞いて綾音は再び深く項垂れてしまった。
「わたし、めっちゃカッコ悪い」
「えー、そんなことないでしょ」
結菜は言いながら綾音の隣に立った。しかし綾音は片手で頭を抱えるようにしながら「いや、カッコ悪いって」と結菜から顔を逸らす。
結菜はそんな綾音に微笑むと「そんなことないよ」と彼女の手を取った。綾音は目を丸くして顔を上げる。
「綾音は昔からわたしのことすごく心配してくれてるもんね」
「え……」
「わたしのこと心配して綾音がずっとそばにいてくれてるの、わかってるから」
「えっと、結菜?」
綾音が戸惑ったように首を傾げる。それでも結菜は「だから」と笑みを浮かべる。
「カッコ悪いとか、今さらじゃん?」
瞬間、綾音は首を傾げたまま眉を寄せた。
「だから、の繋がりがおかしい」
結菜は声を上げて笑うと「いやいや、おかしくないって」と綾音の手を引っ張って歩き出す。
「ずっと一緒にいてくれてるから、綾音のカッコ悪いところなんて珍しくもないし」
「いやいやいや、それはないでしょ。わたしはいつでもカッコいいし、可愛いはず」
「はいはい。まあ、それでもいいけど」
結菜は頷き、そしてふと足を止める。学校への道は、この大通りを真っ直ぐだ。しかし、ここを左へ行くと海に出る。
「……行く?」
綾音に視線を向けると、彼女は微笑んでいた。
「海、ちょっと見てから学校行こっか。まだ時間もあるし」
「うん。そうだね」
素直に頷いた結菜に、綾音は驚いたような表情を見せた。結菜は眉を寄せる。
「なに、その顔」
「いや、別に」
「別にって感じじゃないけど」
しかし綾音は答えず、結菜の手を引っ張って歩き出した。
静かな空間には少し向こうから聞こえる荒い波の音だけが響いている。人の姿はない。そういえば、台風が過ぎた直後の海を見に行くことなど初めてかもしれない。
いつも台風前後の海は避けるようにしていたから。
結菜はそっと隣を歩く綾音に視線を向けた。彼女は何か考えているのか、無表情に前方へ視線を向けている。
「――海、まだ荒れてるね」
ふいに綾音が口を開き、結菜は彼女の視線を追った。そこには濁った海水が打ち寄せる砂浜が見える。さっき帰宅するときは暗くてよく見えなかったが、砂浜には流木やどこかから流れ着いたのだろうゴミなどが散乱していた。
「砂浜、掃除しなくちゃ」
できれば、週末までに。
少しでもいいから綺麗に。
でなければ、きっと陽菜乃はがっかりするだろうから。汚い砂浜でピクニックなんて可哀想だ。
海岸沿いを歩きながらそんなことを考えていると、繋いでいた綾音の手に力が込められた。不思議に思って視線を向けると、彼女を海を見つめながら「昨日、さ」と言った。
「陽菜乃と、なにかあった?」
「陽菜乃と? なんで?」
「なんでって、だって……」
綾音は言いにくそうに言葉を濁す。綾音らしくない態度だ。結菜は手を離すと彼女の前に回り込んだ。
「だって、なに?」
綾音は足をとめて結菜を見つめると、少しだけ困ったような表情を浮かべた。
「結菜、やっぱりなんか変なんだもん。前まで、台風のあとの海なんて絶対来なかったでしょ?」
「そうだね」
「……ほら、その反応もさ」
言いながら綾音は目を伏せる。
「なんか、結菜っぽくないっていうか。わたしの調子が狂うっていうか」
「なにそれ」
結菜は笑って綾音に背を向けた。そしてゆっくりと歩き出す。
台風のあとの湿った空気に潮の香りが混じっていて、少しだけ重たい感じがする。そんな空気を吸い込みながら、結菜は「陽菜乃に話したんだよね」と言った。
「わたしのこと、全部」
「全部?」
「うん。あの日のことも」
「――話せたんだ?」
結菜は立ち止まって振り返る。綾音は薄く微笑んでいた。結菜は頷く。
「へえ、そうなんだ……」
呟いて彼女は視線を地面に向けた。
「それで、陽菜乃はなんて?」
「うん……。逃げてもいいんじゃないかって。逃げ道がないなら、陽菜乃が逃げ道になってくれるって」
「逃げ道?」
綾音は視線を上げる。
「そう。なんか、そう言ってくれた陽菜乃がさ、わたしのこと全部受け入れてくれたような、そんな気がして……。だからかな。ちょっとだけ、楽になった気がする」
――自分だけで頑張らなくてもいいのだと、わかったから。
結菜は思いながら荒れる海へ視線を向けた。
「――なにそれ」
ふいに聞こえた低い綾音の声に、結菜は視線を戻す。彼女は顔を俯かせていた。その両手が微かに震えているような気がする。
「綾音、寒いの?」
結菜は手を伸ばして彼女の右手を握る。その手は、さっき繋いでいたときよりも少し冷たい感じがした。
考えてみれば、濡れたまま一晩中待っていてくれたのだ。風邪を引いてもおかしくない。しかし、綾音は首を横に振って顔を上げた。
「寒くないよ」
そう言って微笑む綾音の表情を見て、結菜は眉を寄せる。
「ほんとに?」
「うん。なんで?」
「だってなんか、辛そう……」
「そんなことないって。いつも通りの可愛いわたしでしょ」
綾音はニッと笑う。しかし、やはりどこかぎこちない笑顔だと思う。結菜がじっと彼女の顔を見つめていると、綾音はぎこちない笑顔のまま視線を地面に向けた。
「……そんな、仲良かったっけ?」
「え?」
「陽菜乃とさ」
「あー、うん」
そういえば綾音は知らないのだ。あの砂浜で結菜が陽菜乃と会っていたことを。そのことに気づいて結菜は逆に不思議に思う。
「綾音はさ、なんで陽菜乃に連絡したの?」
「それは……。最初はミチに連絡したんだけど、陽菜乃の方が家が近いって聞いて。昨日は一緒に帰ってたでしょ? だからなにか知ってるんじゃないかと思って」
彼女はそう言って、一つ大きく息を吐いたかと思うと「知らなかった」と続けた。
「結菜と陽菜乃が、そんな仲良かったなんてさ」
綾音は軽く笑った。しかし、その目は結菜を見ようとはしない。
「いつの間に仲良くなったわけ? あ、まさか昨日の帰り道とか? いや、あり得ないか。結菜がそんな短い時間で他人と距離詰められるわけないし」
「……夜の海でね、何度か会ってて」
握っていた綾音の手がピクリと動いたのがわかった。彼女は逸らしていた視線を結菜へ向ける。
「海?」
「うん、ここで」
言いながら結菜は砂浜へ視線を向けた。
「最初は陽菜乃が転校してくる二日くらい前だったかな。偶然ここで会って。それからも、わたしのバイト終わりになんとなく。それで、色々と話したり遊んだり」
「え、でも学校ではそんな感じなかったのに……」
「そうだね。陽菜乃、学校では壁を作ってるから。わたしも最初は陽菜乃の態度に驚いちゃって」
「……ああ。それで」
綾音は何か納得したように頷いた。そして「へえ」と呟くと握っていた結菜の手にもう片方の手を添えた。
「綾音?」
「よかったじゃん、結菜」
綾音は笑う。柔らかく。しかし、どこか苦しそうに。
「わたし以外に友達できないって心配してたんだけど、ようやく結菜にも新しい友達ができたかぁ」
「綾音……?」
なんとなく綾音の表情に不安を覚え、結菜は彼女の手を強く握る。綾音は苦しそうな笑顔のまま結菜のことを見つめた。
「――もう、わたしがいなくても大丈夫なのかな。結菜は」
「なに、言ってんの?」
結菜はさらにギュッと綾音の手を握る。しかし、その手を彼女はすっと引いた。すり抜けて離れた綾音の手は、まるで逃げるように彼女の後ろへ回される。
「ほら、そろそろ行こう」
ニッと笑って綾音は結菜の先を歩き出す。
「綾音」
呼びかけても彼女は振り返らない。少し顔を俯かせて、ただ静かに歩き続けている。
「――なんで、そんなこと言うの」
呟いた声が聞こえたのか、綾音は下ろした両手をグッと握った。しかし、それだけだ。
学校に着くまで、俯いた彼女の顔が上がることはなかった。




