5.失われた約束(1)
翌朝、目を覚ました結菜はいつものように頭の上へ手を伸ばしてスマホを探した。しかし見つからない。それどころか、手が触れているのはどうやら畳のようだ。
自分がどこにいるのかわからず、結菜はぼんやりとした意識のまま身体を起こした。そして部屋を見渡して「ああ、ここ……」と呟く。
豆電球に照らされた室内は静かだった。外からは雨の音も風の音も聞こえない。もう台風は通り過ぎたのかもしれない。
隣へ視線を向けると、そこにあるのは畳まれた布団だけ。陽菜乃の姿はどこにもなかった。
何時なのだろうと部屋を見回すが、やはりここにも時計は見当たらなかった。
結菜は布団から這い出て襖を開ける。すると、廊下の向こうから香ばしいトーストの香りがしてきた。その香りに誘われてキッチンへ向かうと、陽菜乃がフライパンで焼いた目玉焼きを皿に移しているところだった。
「あ、おはよう。いいタイミングだね」
結菜に気づいた陽菜乃が笑みを浮かべる。
「おはよう。起こしてくれたらよかったのに」
「いや、まだ時間も早いから」
陽菜乃は苦笑しながらフライパンをコンロに戻す。
「いまって何時? この家、時計なさ過ぎじゃない?」
「あー、スマホとかテレビで時間わかるから必要なくて。ちなみに、今はまだ四時前です」
「え、早っ……」
「だから言ったでしょ。さすがに早く寝ると早く目が覚めるよね」
陽菜乃は笑いながらマグカップを用意すると「コーヒーとココアと牛乳、どれにする?」と首を傾げた。
「ココア」
「了解。準備しとくから顔洗っておいで」
「……うん。ありがとう」
結菜は洗面所へ向かいながら自然と微笑んでいた。
陽菜乃の態度は何も変わらない。結菜に同情するような雰囲気も、気遣うような表情もない。それが少し、嬉しかった。
顔を洗ってスッキリと目を覚ました結菜が戻ると、すでにテーブルには朝食の準備がされていた。陽菜乃はテレビを見ながら待っていたらしく、結菜がテーブルの前に座ると「じゃ、食べよっか」とテレビの音量を小さくした。
「結菜って朝ご飯はいつもどっちなの? パン? ご飯?」
「んー。どっちも。おばさんが作ってくれるときはご飯。わたしが作るときはパン」
結菜はバターがたっぷりと塗られたトーストをかじりながら答える。陽菜乃は「へぇ」と不思議そうに頷いた。
「結菜、おにぎり好きだからご飯派かと思ってた」
「それはお弁当っていう前提があったからでしょ」
「あー、なるほど」
「陽菜乃はパンが好きなんだね。あ、もしかしてアメリカに住んでたから?」
「ううん。わたしはご飯の方が好き。でもパンは色々と楽だから。時間ないときはそのまま食べられるし」
「なるほど。なんていうか、陽菜乃って合理的だよね。なんか意外」
「そう?」
「うん。かなり意外」
結菜は頷き、そしてテレビに視線を向けた。ちょうど天気予報が流れている。やはり台風はすでに通り過ぎ、日本海へ抜けたようだ。
「台風一過、だね。今日は晴れだって」
同じようにテレビに視線を向けて陽菜乃が言う。
「うん」
「学校、普通にありそうだね」
「だね」
「……サボっちゃう?」
結菜は視線を陽菜乃に向ける。彼女は微笑みながら「今日は、ここでゴロゴロ過ごすっていうのもアリかと思うんだけど」と続けた。しかし、結菜は首を横に振る。
「学校は行くよ」
すると陽菜乃は少しだけ残念そうに「うん。そっか」と頷いた。
「じゃ、結菜は一度家に帰らないとね」
「え……」
思わず声を上げてから「あ、そうか」と納得する。学校へ行こうにも制服も鞄も何もない。一度帰宅してから着替えなければならなかった。
「そういえば、わたしが着てた服って」
「ああ、寝る前に乾燥機かけたからもう乾いてるよ。畳んでそこに置いてる」
陽菜乃は部屋の隅に視線を向ける。そこにはたしかに昨日、結菜が着ていた服が綺麗に折り畳まれて置かれてあった。
「いつの間に……」
「わたし、出来る子だから」
「なにそれ」
結菜は笑う。陽菜乃も笑う。そして陽菜乃は「結菜」と柔らかな声で言った。
「大好きだよ」
驚いた結菜は言葉に詰まり、そして眉を寄せる。
「……なんで今?」
「結菜と二人でいるときには必ず伝えておこうと思って」
「なんで」
訊ねると、彼女はそっと右手を伸ばしてきた。そして「いつか」と結菜の左頬に触れる。
「結菜がこの言葉を聞いても、そんな怯えた顔しなくてもよくなるように」
結菜は思わず彼女の瞳を見つめる。
大きくて真っ直ぐな瞳が結菜を優しく捉えている。そのすべてを包み込むような深い瞳は、やがてふわりと細められた。
「なんてね」
「え……」
「結菜、顔赤いよ?」
「――うっさい」
「あー、結菜が怒った」
いたずらっ子のように陽菜乃は笑う。しかし、きっと彼女の言葉は冗談ではないのだろう。真っ直ぐに、本気で結菜のことを考えてくれている。
――どうして。
結菜のことが好きだから、なのだろう。好きだったら、こんなにも相手のことを考えて想うことができるのだろうか。
――わたしはどうだろう。
考える。しかし、よくわからない。
結菜の中にある陽菜乃への感情は、果たして陽菜乃が結菜に対して抱くものと同じなのかどうか。
「結菜?」
ふいに陽菜乃が不安そうな声で結菜を呼んだ。彼女は窺うような視線で結菜を見ている。
「もしかして、ほんとに怒った?」
結菜は息を吐き、微笑みながら首を横に振る。
「ちょっと、考えてた」
「なにを?」
「今後の陽菜乃との付き合い方を」
「……やっぱ怒ってるじゃん」
「ウソ」
「え、なにそれ」
陽菜乃は怒ったような顔で結菜を見てくる。結菜は笑いながら「陽菜乃」と彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。陽菜乃は不思議そうに首を傾げる。
「ありがとう」
「……うん」
陽菜乃は静かに頷く。そして二人で微笑み合うと、食事を再開した。
朝食を食べ、着替えも済ませた結菜は帰宅するために陽菜乃の家を出た。陽菜乃は家まで送っていくと言ってくれたが、さすがにそこまで迷惑はかけられないと断った。
「もう平気だからさ」
玄関から出て門へ向かいながら結菜は言う。
「……ほんとに?」
「うん。また、学校でね」
しかし、陽菜乃はそれでも心配そうな表情を浮かべている。結菜はそんな彼女に笑みを向け、そして「ピクニック」と続けた。
「楽しみにしてるから」
すると陽菜乃は「うん」と嬉しそうに笑った。
「お弁当、期待しててね!」
「うん。じゃあ、後でね」
結菜は手を振って門を出ると、細い道を海の方に向かって歩く。振り返ると陽菜乃が笑みを浮かべたまま、見えなくなるまで手を振っていた。
まだ少し台風の余韻を残す湿った空気を吸い込みながら、結菜は空を見上げる。
いまは何時だろう。朝食を食べているときが四時くらいだったので、おそらく五時過ぎか。夜明けはまだ少し先のようで、薄ぼんやりとした空には小さな星たちがまばらに輝いていた。
陽菜乃の家があるのは、結菜が普段あまり通らない住宅街。それでも何度かは通ったことがある道なので迷うことはない。この細い路地を抜ければ、いつも歩いている砂浜への小道に繋がっているはずである。
それにしても、と結菜は後ろを振り返り、もう屋根しか見えない陽菜乃の家を見つめた。
あの古い家はずっと空き家だったような気がする。しかし、表札は随分と年季の入ったものだった。陽菜乃の祖父母の家だったのだろうか。そして今は陽菜乃が家族と暮らしているのか。
「……でも、一人で暮らしてるみたいだったな」
歩きながら呟く。
玄関にあった靴は陽菜乃の物だけだった。食器も棚にはたくさんあったが、よく使われている食器類は少なそうだった。そしてあの、ほとんど物がない部屋。
もちろん他の部屋を全部見たわけではないのでわからないが、それでも陽菜乃の家事に慣れた様子を思い出すと、普段からそういう生活をしているのだろうことは明らかだった。家の人のことを聞いたときも、あまり話したくないような雰囲気だった気がする。
考えてみれば結菜は陽菜乃のことを何も知らない。彼女から家族の話を聞いたのは一度だけ。転勤が多かったという話をしたときだけだ。陽菜乃が学校で自分の周りに壁を作っている理由を話してくれたとき。そういえば、あのとき彼女はなんと言ったのだろう。
引越しの度に仲良くなった相手と別れてしまう。それきりの関係になってしまう。そう彼女は言っていた。悲しそうに。そして……。
――しかも、いつだってわたしが誰かに。
その続きは波の音で聞こえなかった。
今度、もう一度聞いたら話してくれるだろうか。それとも、はぐらかされてしまうだろうか。
結菜は少し考えてから深呼吸をするように息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
それでも聞いてみよう。
もっと、陽菜乃のことを知りたいから。
小道を抜けて見えてきた海は、まだ波が高かった。だが、そんな海を見ても昨日のような気持ちになることはない。息苦しくなることもない。
結菜は、どこか穏やかな気持ちで荒い音が響く暗い海を眺めながら自宅への道を歩く。
昨日は玄関の鍵を開けっ放しで出てきてしまったが、大丈夫だろうか。泥棒でも入っていなければいいのだが。そんなことを考えながら自宅の門の前に立った結菜は、あることに気がついて眉を寄せた。
「電気が……?」
玄関の外灯、そしてリビングの灯りが点いているのだ。リビングは結菜が点けたまま出てきたので不思議ではない。しかし、外灯を点けた覚えはなかった。
もしかするとカナエが帰ってきているのかもしれない。そう思いながら玄関を開ける。そして、そこに揃えて置かれた靴を見て結菜はさらに眉を寄せた。
それはカナエの靴ではなく、泥だらけになったスニーカー。綾音が学校にいつも履いて行っているものだった。
「……綾音? いるの?」
声をかけてみるも返事はない。結菜は家に上がるとリビングに向かう。そして部屋の中を見て、思わず足を止めた。そこにはソファの前で綾音が抱えた膝に額をつけ、小さくなって座っていた。
「綾音……?」
彼女の名を呼びながら結菜は近づく。しかし返事はない。肩がゆっくりと上下に動いている。眠っているのだろう。
「綾音、なんでこんなとこで」
言いながらその肩に手を置く。そしてヒヤリとした感触に思わずその手を離した。彼女の服が冷たく濡れていたのだ。結菜はそっと綾音の髪に触れる。その柔らかな髪もまた、しっとりと湿っていた。
「綾音……」
そのとき、綾音が小さく呻きながら顔を上げた。ぼんやりとした瞳が結菜を捉える。
「――結菜?」
掠れた声で綾音は言う。結菜は頷き、そして微笑む。
「待っててくれたの?」
瞬間、綾音はハッとしたように目を見開き、そしてパンッと両手で結菜の頬を挟んだ。
「結菜、本物?」
「ちょっ、痛い。綾音」
しかし綾音は両手の力を緩めることなく、深くため息を吐いた。そして「よかった……」と呟きながら結菜の額に自分の額をくっつける。
「結菜、平気? 何ともない?」
「……うん。大丈夫」
結菜の答えを聞いて、綾音はじっと結菜のことを見つめてくる。
「死ぬほど心配した」
「うん。ごめん」
「めっちゃ探した」
「ごめん」
「迎えに行きたかったけど、母さんたちに止められた」
「うん。陽菜乃から聞いた」
「だから、ずっと待ってた。結菜、ふらっと戻ってくるかもしれないと思って」
「うん。ふらっと戻ってきた」
「朝帰りじゃん。不良娘」
結菜はフッと笑って「そうだね」と綾音の背中に両腕を回した。綾音は驚いたのか、ビクッと結菜の頬を挟んでいた手を離した。
「ゆ、結菜?」
「ただいま、綾音」
言いながら綾音の身体を抱きしめる。綾音は少し身体を強ばらせていたが、やがてそっと結菜の背中に手が回されたのがわかった。
「どうしたの、結菜。なんか変」
戸惑ったような綾音の声。抱きしめた彼女の身体は温かったが、その服は全身が濡れているようだった。
結菜のことを探し回り、そのままここで待っていてくれたのだろう。
濡れたまま。
いつ結菜が戻ってきてもいいように。
「綾音」
「ん?」
「ありがとう」
首元にフッと温かな吐息を感じた。そして「……うん」と囁くような綾音の声。
「結菜、あったかいね」
「綾音はちょっと湿ってるね」
「誰のせいだよ」
フフッと結菜は笑う。
「それでもあったかいよ。綾音は」
綾音の心が、とても温かい。
陽菜乃の心と同じくらいに、温かい。
「やっぱ結菜、変だよ」
「かもね」
結菜は答えながら綾音を抱きしめた両手に力を込める。
まだ怖いけれど、それでも少しだけ自分の気持ちに素直になろう。
そう、心に誓いながら。




