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4.穏やかな嵐(4)

 真っ暗な室内にモゾモゾと布団が擦れる音が聞こえる。そしてガタガタと窓が揺れる音。強い風が吹き荒れる音や、風に流されて窓を叩きつける雨の音もうるさいくらいに聞こえてくる。

 結菜は早く眠ってしまおうと目を閉じた。しかし、当然のことながら眠気などやってこない。むしろ、暗闇で敏感になった聴覚が嵐の音に刺激される。

 思わず息を漏らすと「豆電にしよっか」と陽菜乃の声がした。


「え……?」

「なんか、真っ暗だと結菜の顔が見えないから」


 言葉と供にオレンジ色の淡い灯りが点る。隣に顔を向けると、身体を横向きにして結菜の方を見る陽菜乃がいた。彼女は「ね、結菜。手、出して?」と囁くように言う。


「なんで?」

「いいから」


 不思議に思いながら結菜は布団から手を出して陽菜乃の方へ伸ばす。すると彼女はその手を両手で握るように掴んだ。


「うん。これで良し」

「え、なにが良し?」

「これで、すぐ隣にわたしがいるって分かるでしょ?」


 ギュッと結菜の手を握りしめながら陽菜乃は微笑む。もしかすると、暗闇の中で不安になってしまった結菜に気づいてくれたのかもしれない。

 陽菜乃の温もりが、握られた手からじんわりと身体に広がっていくような気がする。


 一人じゃない。だから大丈夫だよ。


 そんな陽菜乃の声が聞こえた気がした。

 結菜は自然と微笑み、そして天井へ視線を向ける。陽菜乃は何も言わず、ただ手を握り続けてくれる。


「――よく、わからなくて」


 天井から照らされるオレンジ色の灯りをぼんやりと眺めながら結菜は口を開いた。


「え……?」

「何をしようとしてたのか。あの海で」


 陽菜乃の手が僅かに強ばったのがわかった。


「……じゃあ、どうして海に行ったの?」


 結菜はチラリと陽菜乃を見る。彼女は横になったまま、まっすぐに結菜のことを見つめていた。


「台風、だったんだ」


 言いながら結菜は再び天井へ視線を戻した。


「お父さんが死んだ日。今回みたいな、かなり大きい台風でさ。けっこう被害も大きかったやつで、時期もちょうど同じで……」


 結菜は息を吐き出す。陽菜乃の手にギュッと力が込められた。


「別に、無理に話してくれなくてもいいよ?」

「……ううん、聞いて欲しい。逃げ道になってくれるんでしょ?」


 結菜は陽菜乃に視線を向けると微笑む。彼女は辛そうに眉を寄せながら「わかった」と掠れた声で言った。結菜は頷き、そして陽菜乃の手を握り返しながら目を閉じる。


「その頃住んでた街も、ここみたいな海辺の街でさ。台風が近づくとわたしが住んでた地区に避難勧告が出たんだ。お父さんもお母さんもそろそろ避難しとくかぁみたいな感じで準備してたんだけど、わたし、そのまま避難所に行きたくなくて駄々こねちゃって」

「――どうして?」

「その翌日、お父さんの誕生日だったから」


 そのときのことを思い出して結菜は思わず自嘲する。


「わたし、貯めてたお小遣いとかお年玉でお父さんにプレゼント買ったの。お母さんと相談して、便利そうな手帳型のスマホケースに決めてさ。あの頃はまだそんなに主流でもなかったから取り寄せしなくちゃいけなくて。それが届くのが、台風の日だった」

「取りに行ったの?」

「うん。当然、危ないから一人で行かせてもらえなくて。だからいっぱい駄々をこねて、避難の前にお店に寄ってくれることになった。お店がある地域は避難勧告も出てないから、まだやってるだろうって」


 ――お父さん、大好き!


 そんな子供の頃の自分の声が頭に響いて結菜は目を開ける。そのとき、外で何かが飛ばされたような音が響いた。

 陽菜乃は何を言うでもなく、結菜の次の言葉を待っているようだった。

 結菜は一つ深呼吸をして「ラッピングされたプレゼントを受け取って、ようやく避難先へ向かい始めたとき」と続ける。


「もう通行禁止になっててもおかしくない海沿いの道が、まだ通れたんだ。お父さん、ラッキーだなって笑いながらその道へ車を走らせて、そして、波に……」

「結菜――」

「車は波消しのブロックに引っかかって辛うじて海に落ちなかったんだけど、何度も打ちつける波で運転席のドアが開いて。気づいたらお父さん、いなくなってた」

「――結菜、もういいよ」

「お母さんも、そのときの怪我が原因で意識不明のまま病院に……。わたしだけ、たいした怪我もなく助かったの。お母さんが守ってくれて。お父さんも、声が消えるまでわたしとお母さんのこと必死に励ましてくれてて」

「結菜!」


 陽菜乃の声は泣いているようだった。それでも結菜は続ける。


「わたしね、たぶん謝りたかったんだと思う。海にいるお父さんに。今日はあの日によく似てたから、だからきっと、海に行けばお父さんが――」

「結菜は悪くないでしょ?」


 陽菜乃の声は震えていたが、しかし優しい色をしていた。視線を向けると彼女は涙を流しながら微笑んでいた。


「結菜は悪くないじゃん。それは誰のせいでもない。そんなことが起きるなんて、誰もわからなかったんだから」

「わかってた」

「え……?」

「わたしは、わかってた」


 結菜は空いている方の手を額に乗せて目を閉じた。


「だって、おじいちゃんもおばあちゃんも、小さい頃に飼ってた猫だって同じだったんだから」

「同じ……?」

「わたしが大好きって伝えると、いなくなっちゃうんだ。みんな、二度と誰にも会えない場所に行っちゃう」

「なに言ってんの。そんなこと」

「あるんだよ」


 結菜は笑って陽菜乃を見た。彼女は涙に濡れた目を結菜に向けている。


「おじいちゃんもおばあちゃんもさ、お正月にわたしに会いに来てくれるって言ったんだ。いつもはわたしたちが行ってたのにね。そのときだけ、うちに来ることになってて。お年玉もお土産もいっぱいあげるからねっていう二人の言葉に、ありがとう、大好きって……。でも、来なかった」


 乗っていた高速バスが事故に遭ったという知らせが届いたのは。大晦日だった。


「それからしばらくして、ずっと落ち込んでたわたしを励まそうとしてお父さんとお母さんが子猫をもらってきたの。すごく可愛くて、よく懐いてくれて、一緒に寝ると暖かくて。あの子といると悲しい気持ちもなくなって。だから、大好きだよって……。でも、いなくなっちゃった」


 元々、心臓が弱かったのだと両親は残念そうに言った。猫は病院で息を引き取ったのだそうだ。


「わたしが好きだって気持ちを伝えるといなくなっちゃう。それを、あのときのわたしもわかってたのに。それなのに……」


 やはり、まだ子供だったから。つい気持ちが口をついて出てしまった。

 その結果、父はいなくなってしまったのだ。


「違うよ」


 陽菜乃が静かに言う。


「そんなわけない。結菜の気持ちが誰かを不幸にするなんて、そんなことあるわけないよ」

「あるよ。お母さんだって……」


 母も、同じだった。

 意識不明だった母が目を覚ました。たった一度だけ許された面会。そのときに伝えた感謝と、母のことが大好きだという自分の気持ち。

 そして翌日、母は逝ってしまった。


「わたしが会いに行かなかったら、大好きだよって伝えなかったらお母さんはまだ生きてたかもしれない」


 たとえ自分とは二度と会えないとしても、この世のどこかに存在してくれていたかもしれない。

 結菜は涙で滲んだ視界を閉ざそうと瞼を下ろした。


「わたしは、謝りたい。わたしが大好きだった人たちに――」

「結菜、やめて」


 陽菜乃の強い声は怒っているようで、結菜はしゃくり上げながら「ごめんなさい」と謝った。


「もう誰のことも好きにならないから。そんな言葉、二度と誰にも伝えないから。だから――」


 ごめんなさい、と結菜は繰り返す。それで許されるとは思っていないけれど、それでも――。


 そのとき、結菜の手がグイッと引っ張られた。あまりの勢いに結菜は転がるようにして陽菜乃の身体にぶつかり、ふわりと柔らかな感触に包まれた。そう思った次の瞬間には、ギュッと力強く抱きしめられていた。


「結菜、大好きだよ」

「……っ! やめて!」


 結菜は頭を振って陽菜乃の身体を押し返そうとする。しかし、彼女は思い切り力を込めて結菜のことを抱きしめてくる。


「わたしは、結菜のこと大好きだからね」

「いらないから、そんな言葉! わたしはいらない! 聞きたくないの! 陽菜乃、人の話聞いてた?」

「聞いてた。聞いてたから、わたしは結菜に大好きだって伝えたい」

「わたしは好きじゃない! 全然、陽菜乃のことは好きじゃ――」

「ほんとに?」


 耳元で聞こえた悲しそうな声に、結菜は思わず言葉を呑み込む。


「もし、ほんとに結菜がわたしのこと好きじゃないなら、それはとても悲しいけど。それでもわたしは結菜が好き」


 ――違う。


 心の中で結菜は否定する。


「だから、結菜が自分の気持ちを殺しちゃうようなことをするのは嫌。そんなの、ダメだと思う。だって結菜はこんなに優しいんだから」


 そんなはずはない。自分は優しくなどない。

 優しいのは綾音やカナエ、そしてこうして結菜のことを慰めようとしてくれる陽菜乃だ。


「まだ会ってそんなに経ってないけど、今の話を聞いてわかっちゃった。結菜がバイトしてる理由も、学校で綾音以外とあまり関わらないようにしてる理由も」


 陽菜乃の声が耳に優しく響いてくる。


「誰かを傷つけないように周りと距離を置いて、ひとりでちゃんと生きていけるように一生懸命働いて。それでも誰かのことを好きになったり、そういう感情は生まれてくる。だから夜の海で、あそこで自分の感情に蓋をしようとしてた。そうやって、結菜は生きてきたんだね。大切な人たちが幸せであるように」


 そうだ。母がいなくなってからそうやって生きてきた。

 全部、あそこで忘れようとしてきた。


「なのに、陽菜乃はさ……」

「うん。わたしが邪魔しちゃったね」


 陽菜乃は笑ったのか、耳にフフッと息がかかった。


「でも、これからも邪魔し続けるよ? わたしは結菜の気持ちが知りたいもん」

「わたしは、知りたくない」


 自分の気持ちに気づきたくもない。けれど、気づいてしまった自分がいる。


「結菜は、わたしのこと嫌い?」


 陽菜乃の言葉に、結菜は彼女へと身体を寄せる。


「――嫌いじゃない」

「じゃあ、綾音は?」

「嫌いじゃないってば」

「んー、おばさんのことは?」

「だから、嫌いじゃないって」


 陽菜乃は笑う。


「大丈夫だよ。誰も、どこかに行ったりなんてしない」

「そんなの、わかんないじゃん」

「少なくとも、わたしはどこにも行かないよ……。うん。行かない。絶対に」


 その言葉はまるで自身に言い聞かせているようだった。不思議に思って結菜は顔を上げる。そのとき、額に柔らかな何かが触れた。

 一瞬だけ触れたそれは、陽菜乃の唇。


「陽菜乃、何してんの?」

「いや、なんかしたくなっちゃって」

「またそれ……」


 結菜が眉を寄せると彼女は再びギュッと結菜のことを抱きしめる。


「ゆっくりでいいから、いつか結菜の気持ちをちゃんと聞かせてね?」

「……陽菜乃」

「ん?」

「陽菜乃の言うソレはさ、その、どういう種類の気持ち……?」


 陽菜乃の胸に顔を埋めながら結菜は訊ねる。彼女は「んー」と少し悩むように唸ると「友情か愛情かっていうことなら、よくわかんないけど」と少しだけ結菜の身体を離して顔を覗き込んできた。


「結菜だから大好き」

「全然わかんない」


 結菜はさらに眉を寄せる。すると陽菜乃はハッとしたように目を見開いて「もしかして嫌だった? おでこにチューなら許されるかと思ったけど、また怒った?」と早口に言った。


「いや、別に……。許すも何もないけど」


 結菜は頬が熱くなるのを感じながら再び陽菜乃の胸に顔を埋めた。

 陽菜乃の身体は温かくて柔らかい。息を吸い込めば、初めて会ったときと同じ甘くて良い香りに包まれる。

 綾音の香りは安心して落ち着くけれど、陽菜乃の香りはドキドキする。そして温かな気持ちになり、不思議と心が穏やかになった。

 気づけば暴風雨の音も気にならなくなっていた。今はただ、柔らかな温もりの中で陽菜乃の心臓の音が聞こえるだけだ。そのリズムは心地良く、目を閉じると眠気に誘われた。

 なんとなく気持ちがスッキリした気がするのは、すべてを話したからだろうか。それとも、結菜のすべてを陽菜乃が受け入れ、そして道を作ってくれたからだろうか。自分の気持ちにウソをつかなくてもいいのだ、と。


 まだ、その道を進むことはできないけれど。


 ウトウトとし始めた意識の中、結菜はそっと陽菜乃にしがみつくように手を回した。


「……ほんとに、どこにも行かない?」

「行かないよ」


 陽菜乃の手が動いて、結菜の頭を撫でたのがわかった。


「どこにも行かない。今度こそ、絶対に――」


 ――今度こそ?


 結菜の疑問はしかし、眠りの中に落ちていく意識に埋もれていく。


「――大丈夫だよ」


 眠りに落ちる意識の中、いつまでも陽菜乃の優しい声が響いていた。


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