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4.穏やかな嵐(2)

 陽菜乃に連れて行かれた先は、古い平屋の一軒屋だった。年季の入った表札には『速川』とある。引き戸を開けて中に入ると温かな香りがした。


「ちょっと待ってて。タオル持ってくるから」


 陽菜乃は振り返りもせず静かにそう言うと、そっと結菜から手を放して廊下の奥へと駆けていった。結菜は俯きながらその場に立って陽菜乃が戻ってくるのをおとなしく待つ。ポタポタと身体から落ちていく水滴が、玄関のタイルに模様を作っていく。

 家の中は静かだった。香ってくるのはシチューの匂いだろうか。誰かが夕飯の支度をしていたに違いない。けれど、この家に陽菜乃以外の人の気配は感じられない。玄関にある靴も陽菜乃のものだけだ。

 バタバタと廊下を走って戻ってきた陽菜乃は結菜の頭にバスタオルをかけた。そしてワシワシと力任せに拭いていく。


「……痛いよ、陽菜乃」


 軽く抗議するも、彼女は何も答えない。そしてあらかた水滴を拭き終わると、彼女はバスタオルを結菜の肩にかけて「お風呂、入ってきて」と言った。


「え?」

「ちょうどお湯張ったところだったから。ほら、こっち」


 言いながら彼女は再び結菜の手を掴んで廊下を奥へと進んでいく。


「いや、でも陽菜乃も濡れちゃってるし」

「いいから」


 陽菜乃は低くそう言うと脱衣所のドアを開けた。


「これ、着替えね。下着は新品のやつだから結菜にあげる。安物だから気にしないで」


 そう言いながら陽菜乃は着替えを結菜に手渡す。彼女の髪からはまだ雫がポタポタと落ちていた。結菜のことは問答無用で拭いたくせに、自分の身体は一切拭いていないようだった。


「あの、やっぱり陽菜乃が先に入った方が。ていうか、わたしは別に大丈夫だから。家に帰ってから――」


 そのとき、バッと陽菜乃が服を脱ぎ始めた。突然のことに結菜は慌てて視線を逸らす。


「な、なにしてんの、陽菜乃」

「一緒に入れば文句ないでしょ? ほら、結菜も脱いで」


 そっと彼女に視線を戻せば、相変わらず怒ったような表情。しかし、その声は不安そうだった。結菜は少し迷ってから「わかった」と頷いた。


 ――なにしてるんだろう。


 陽菜乃と並んで湯船に浸かりながら結菜は膝を抱える。顔を俯かせると、顎がチャプッと湯に沈んだ。

 自分がなにをしているのかよくわからない。

 どうしてあんなことをしようとしていたのかも、よくわからない。ただ記憶に誘われるように、身体が勝手に動いていた。

 ガタガタと風が窓を揺らす音が浴室に響く。外ではさらに風が強くなってきているようだ。結菜はちらりと横目で陽菜乃を見た。

 結菜と同じように膝を抱えて湯船に浸かった彼女の表情は、落ち込んでいるかのように沈んでいた。彼女はギュッと膝を抱え込んで浅く息を吐くと、おもむろに立ち上がる。


「陽菜乃……?」

「先に出るね。結菜は、ゆっくり温まって」


 そう言って陽菜乃は浴室を出て行く。一度も、結菜の顔を見ないまま。

 結菜はため息を吐きながら口元まで湯に沈んだ。あんな顔をさせたいわけじゃない。どうすればいいのだろう。


 ――なにしようとしてたの!


 そう声を荒げた陽菜乃の声が耳の奥に残っている。その問いに答えればいいのだろうか。しかし、いくら考えても答えとなる言葉は出てこない。

 ガタッと音が響いて結菜は顔を上げる。窓の外を何かが飛ばされていったようだった。


 ――そういえば、綾音に何も連絡してなかったな。


 結菜はぼんやりと思い出す。

 家の玄関の鍵も開けっ放しで出てきたような気がする。カナエが連絡しておくと言っていたから、きっと結菜がいつまでも綾音の家に行かなければ変に思うに違いない。心配しているかもしれない。


 ――連絡しなくちゃ。


 そう思ってからスマホも持ってきていないことに気づく。結菜は再びため息を吐いて俯いた。


「……なにやってんだろ、わたし」


 一人で大丈夫。

 すべてを忘れたからもう大丈夫。

 そう自分に言い聞かせていたのに、結局は何も忘れられていなかった。あの日の記憶はいつまでも残っている。楽しかったことや嬉しかったこと、幸せだった日の記憶は願わなくとも薄れていってしまうのに。

 ガタガタと風が窓を震わせている。その音がまた結菜の記憶を呼び起こそうとする。結菜は目を閉じて一度深呼吸をすると、ゆっくりと湯船から上がった。

 ノロノロと陽菜乃が用意してくれた服に着替えて脱衣所から廊下に出る。すると、トントンとまな板を叩く音が聞こえてきた。

 結菜は誘われるように廊下を進み、調理の音が聞こえてくる部屋へと顔を覗かせる。居間だろうか。そこは畳の部屋だった。続き部屋となっているキッチンには陽菜乃の姿があった。

 彼女はコンロにかけたフライパンで何かを炒めているところだった。どうしようか少し迷ってから、そっと畳の上へ足を置く。


「あの……」


 浴室での陽菜乃の表情を思い出し、どう声をかけたらいいのかわからない。結菜は俯きながら、ただ声をかけた。


「もっとゆっくりしてよかったのに」


 聞こえたのは、柔らかな陽菜乃の声。

 結菜は顔を上げる。彼女はフライパンを持ったまま振り返り、薄く微笑んでいた。


「そこ座ってて。もうすぐできるから」

「え……?」

「夕飯。まあ、ちょっと時間は早いけど。万が一、停電しちゃうとアレだし」


 言って彼女はフライパンからウィンナーを皿へと移していく。


「いや、でもわたし帰らないと」

「綾音には連絡しといたから平気だよ」

「え、なんで……?」


 しかし陽菜乃は答えず、フライパンをコンロに戻しながら「話は食べながらにしよう」と言った。


「すぐできるから」


 言いながら彼女は手際良くサラダを盛りつけ始めた。その様子を見ながら結菜は「えっと、手伝う?」と聞いてみる。


「平気。座ってて」


 陽菜乃の声は穏やかで、しかし有無を言わせない強さがあった。結菜は俯きながら頷くと、おとなしく畳の上に腰を下ろす。

 他人の家に上がるなど、綾音の家以外では初めてだ。しかも和室は結菜の家にも綾音の家にもない。結菜は落ち着かない気持ちで部屋を見回した。

 古い家のようだが、あまり生活感はない。そしてやはり、陽菜乃以外の誰かがいる気配はなかった。もしかして一人暮らしなのだろうか。それとも、両親とも働いていて職場から帰れなくなっているのか。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、陽菜乃が盆を持って部屋に入ってきた。


「おまたせ」


 言いながら彼女は盆の上に乗せていた皿をテーブルへと並べていく。メニューはシチューとサラダ、それにトーストだ。

 温かそうなシチューの甘い香りとトーストの香ばしい香りが鼻をくすぐる。じっと皿を見つめていると「もしかして、ご飯のがよかった?」と困ったように首を傾げた。


「元々、わたしだけの予定だったからご飯炊いてなくて……」

「あ、ううん。違う。美味しそうだなと思って」

「そっか」


 陽菜乃はそう言うと微笑んだ。それはあの浜辺で見せてくれるような笑みに似ていて、結菜は少しだけ安堵する。


「じゃ、食べよっか」

「うん……」


 向かいに陽菜乃が座るのを待ってから二人で「いただきます」と手を合わせて食事を始める。


「あの、お家の人は?」

「いないよ」

「仕事?」

「まあ、そんなとこ」


 陽菜乃の答えは素っ気ない。結菜は「そっか……」と頷くとシチューを口に運んだ。陽菜乃が作ってくれたシチューは、カナエが作ってくれるものよりも甘くてトーストによく合った。


「――綾音がね、連絡くれたんだ」


 しばらく無言で食事を続けていると、ふいに陽菜乃が口を開いた。


「綾音が?」

「うん。結菜、本当は綾音の家に泊まることになってたんでしょ? それなのに来てないって。家にもいないしスマホも置きっ放しになってて、何かあったんじゃないかって……。すごく、取り乱してた」

「……綾音が」


 そんな綾音の様子を思い浮かべ、結菜は申し訳なさに顔を俯かせた。


「さっき、お風呂から出て連絡したんだけど、すぐにでも迎えに来るって言ってきかなくて。でも、さすがに今から来てもらうのは危ないからさ。今日はうちに泊めるからって言ったんだ。綾音、それでもすごく結菜のこと心配してたよ」


 結菜は俯いたまま頷く。

 きっと、そうだろう。連絡もせずにいなくなってしまえば、綾音はきっと誰よりも結菜のことを心配するはずだ。

 綾音は優しいから。

 もしかすると、この嵐の中を探し回ってくれていたかもしれない。危険な目に遭わせてしまったかもしれない。


「綾音は知ってるの?」


 その言葉に結菜は顔を上げる。陽菜乃はスプーンに手を添えたまま、じっと結菜のことを見つめていた。


「結菜がいなくなったって連絡をもらったとき、綾音、泣いてたの。泣きながら、海かもしれないって」

「え……」

「綾音の家族の人はそんなわけないって言ってたらしいんだけどね。危ないからって止められて、綾音、海まで探しに行けなかったみたいで。わたしも、まさかこんな天気の中、海にいるわけないって思ってた。でも気になって、ちょっとだけ様子を見に行ってみようって――」


 陽菜乃は言いながら目を伏せたが、すぐにキッと強い視線を結菜に向けた。


「そうしたら、本当にあなたはいた。あんな、一歩間違えば死んでしまうかもしれない場所に」


 結菜は再び顔を俯かせた。陽菜乃の声は穏やかだったが、どこか距離を感じさせるものだった。

 陽菜乃はまるで知らない人と話すような口調で続ける。


「綾音は知ってるの? あなたが海にいた理由を。それを知ってるから、あんなに取り乱してたの? あんな、泣きながらわたしに結菜のこと探してくれって頼んできたの?」


 結菜は答えられなかった。俯いたままスプーンを握りしめる。

 綾音は結菜の事情を知っている。それは確かだ。しかし、こんな状況下で結菜が海へ行ってしまった理由まで知っているとは思えない。結菜にすらよくわからないのだから。

 けれど、もしかすると彼女は知っているのだろうか。結菜すら知らない、何かを。

 結菜が無言のままでいると、やがて陽菜乃はカチャンとスプーンを置いた。


「わたしには、話してくれないの?」


 顔を上げた先で陽菜乃は微笑んでいた。とても、寂しそうに。


「まだ出会って間もないわたしじゃ、結菜の力にはなれない?」


 辛そうな陽菜乃の笑顔を見ていられなくて、結菜は視線を俯かせる。

 違う。そうじゃない。ただ、自分でもよくわからないだけなのだ。何を話せばいいのかすらわからない。

 そう言葉にすればよかったのに、それすらも言い出すことができない。何を言っても陽菜乃を悲しませてしまいそうな気がして、何も言葉が出てこなかった。

 そのときスッと畳を擦る音が聞こえた。視線を上げると、陽菜乃が部屋から出て行くところだった。


「――陽菜乃?」

「布団、準備してくるね。結菜の分」


 低く言った彼女は、そのまま部屋から出て行く。残された部屋で、結菜は甘い香りのするシチューを見つめながら「ごめんなさい」と呟いた。


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