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4.穏やかな嵐(1)

「ただいまー」


 陽菜乃と別れ、帰宅した結菜は玄関を開けながら声をかける。しかし、家の中から返ってくる声はない。室内は暗かった。


「おばさん?」


 結菜はびしょ濡れになってしまった靴下を脱ぎながらカナエを呼ぶ。しかし、やはり返事はない。


「いないのか……」


 まだ綾音の家で寝ているのだろうか。そんなことを考えながら、ひとまず着替えるために風呂場へ向かった。

 湯船を張るのも面倒だったので、手早くシャワーを浴びて出た結菜はスマホを確認する。そこにはカナエからの着信履歴が何件も表示されていた。


「うわ。めっちゃかかってきてる……」


 呟きながら結菜はリビングへ行くとソファに座った。そしてテレビをつけてからカナエに電話をかける。するとワンコールで「もしもし! 結菜ちゃん?」とスマホが軽く振動するほど大きな声が聞こえた。思わず結菜はスマホを少し耳から離す。


「……っくりした。もうちょっと声のボリューム落としてよ、おばさん」

「あ、ああ。ごめんね、つい。結菜ちゃん、学校は午後から休校になったんでしょ? さっき連絡が来て」

「うん、そう。もう家に帰ってるよ」

「大丈夫? 濡れてない? 傘とか飛ばされなかった?」

「平気。濡れたけど、今シャワー浴びてきたから」

「そっか。ああ、だから電話出られなかったんだね」


 カナエの声に混じって車のエンジン音や人の声がザワザワと聞こえてくる。どうやらどこか外にいるようだ。結菜は不思議に思いながら「おばさん、今どこにいるの?」と訊ねた。


「もしかして仕事? 今日は休んだのかと思ってたけど」

「あ、ううん。仕事じゃないんだけど、ちょっとだけ遠くに来てて」

「遠くって……」


 テレビではワイドショーが台風についての情報を流している。すでに公共交通機関には遅延や運休などの影響が出てきているらしい。


「どの辺に行ってんの? 早く帰らないと、そろそろ電車止まりそうだけど」


 結菜が暮らす街の電車は、少し荒れた天候になるとすぐに運休となってしまうことで有名だ。まだ辛うじて動いてはいるようだが、止まるのも時間の問題だろう。しかし、カナエは「うん、そうなんだけど……」と困ったような声で言った。


「おばさん?」

「あの、ごめん。すでにこっちの電車、動いてなくて」

「は?」

「電車はダメだから高速バスで帰ろうと思ったんだけど列がすごくて。もしかしたら今日は帰れないかもしれない。本当にごめんね。結菜ちゃん」

「え、いやいや。待って? おばさん、どこにいるの?」

「今は、えっと――」


 しかし、カナエが答えたのは三つ隣の県にある街だった。テレビに表示されている天気図を見ると、そちらはすでに台風がかなり接近している。交通にもかなりの影響が出ている地域だった。


「もー、おばさん。なんでそんなとこにいるわけ? しかも今日に限って」


 結菜はため息を吐きながら低い声で言う。カナエは「ごめんって。怒らないでよ」と弱々しい声で答えた。


「どうしても会わなきゃいけない人がいたの。でもその人、忙しくて今日しか時間とれないって言うから、何も考えずに出てきちゃって」

「ちゃんと考えてよ。大きな台風来てるって知ってたでしょ」

「だから、ごめんってば」


 カナエは泣きそうな声で謝ると「それでね。さっきも言ったけど、今日もしかしたら帰れないかもしれないから」と続けた。


「だから結菜ちゃん、今日もサヤカの家に泊めてもらって?」

「え、なんで」

「いいから。サヤカにはわたしから連絡しとくから。いい?」

「いや、一人で平気だってば」

「そうかもしれないけど、わたしが心配なの! いい? 今日はサヤカのところに泊まりなさい」


 珍しく強い口調でカナエは言う。本当に心配してくれているのだろう。結菜はため息を吐くと「わかった」と頷いた。


「絶対よ?」

「わかったってば。てか、おばさんも無理して帰ろうとしなくていいからね? ていうか、今日はもう帰ってこないで」

「え……?」


 結菜はソファの上で膝を抱えながら「――危ないから」と続ける。

 電話の向こうから返事はない。聞こえてくるのは強い雨の音と少し騒がしい街の音。

 それらをしばらく聞いていると、ふいに「わかった」とため息交じりのカナエの声が聞こえた。


「じゃあ、大人しく今日はどこかに泊まることにするね」

「うん。そうして」


 結菜はホッと息を吐きながらそう答えると通話を切った。

 テレビでは台風が最接近している地域の状況を伝えるリポーターの声が聞こえてくる。画面には大きく岸壁に打ちつける波が映し出されていた。どこかに設置されている無人カメラの映像のようだ。

 跳ね上がった波はそのまま海沿いの車道へと流れている。車道に車は一台もいないので被害はないのだろう。

 もう、近くの人たちは避難した後なのだろうか。リポーターがそういった状況も伝えているのかもしれない。音をもう少し大きくしてみよう。

 そう思ってリモコンに手を伸ばしかけたとき、映像の中に一台の車が映り込んできた。それは波が押し寄せる車道を走り抜けていく。


「まだ通行できるのでしょうか? 危ないですねぇ」


 スタジオで映像を見ているコメンテーターの誰かが、暢気にそんなことを言っている。


 ――お、まだ通れるぞ?


 懐かしい声が記憶の中で言う。


「……ダメだよ。その道は」


 結菜は呟きながら強く膝を抱えた。そして目を閉じて深く息を吐き出す。

 また、呼吸が苦しくなってきた。心臓がドクドク鳴るたびに胸が痛む。


 ――よかったな。ちゃんと買えて。で、それって何なんだ?


 閉じた瞼の裏に、そう言ってバックミラー越しに結菜を見る父の笑顔が浮かんでくる。

 ガタンッと窓が大きく揺れて、結菜はビクッと身体を震わせた。目を開けると、映像はまだ海岸沿いを走り行く一台の車を映していた。

 結菜はリモコンに手を伸ばす。


「――綾音、もう帰ってるかな」


 もし帰っていなくてもサヤカはいるだろう。癸羽もいるに違いない。きっと、ここで一人でテレビを見ているよりは気が紛れる。さっさと準備をして綾音の家に行こう。

 そう考えながらリモコンの電源ボタンに指を置いたそのとき、テレビから「あっ!」と声が響いた。思わず視線を向けると、押し寄せてきた大きな波が岸壁を乗り越え、そこを走る車を覆い隠した瞬間だった。

 その光景を見ながら、結菜は呆然とその場に立ち尽くした。


 思い出したくなかった記憶が、波が押し寄せるように一気に蘇っていく。


 テレビの中では、なんとか波に耐え抜いた車が車道を走り続けていた。コメンテーターが騒いでいる声が聞こえる。しかし結菜の耳に届いてくるのは焦ったような父の声、そして必死に結菜の名を呼ぶ母の声だけだ。


 ――大丈夫よ。大丈夫。すぐに助けが来てくれるからね。


 苦しそうな母の息遣いがすぐ近くで聞こえた気がした。

 結菜はリモコンを取り落として両手で耳を塞ぐ。それでも聞こえてくる両親の声は止まらない。そして追い打ちをかけるように聞こえてきたのは、ザッと押し寄せる鋭い波の音と何かが外れたような大きな音。

 結菜はその場に倒れるようにしゃがみ込むと口で荒く息を繰り返す。そのとき、スマホから大きな音が響き始めた。


 それは緊急速報の音だった。


 いつまでも響き渡る嫌な音が、あの日の記憶をさらに呼び起こしていく。ザンッと響いた波の音と同時に大きく傾いた車体。そして消えた父の声。懸命に結菜の名を呼ぶ母の声。そして、一瞬だけ感じた浮遊感。


「……助けなくちゃ」


 結菜は荒く呼吸を繰り返しながらフラリと立ち上がると玄関に向かう。


 だって、待っていても助けは来ない。

 それを結菜は知っているから。


 結菜は靴を履くとそのまま外へ出た。

 叩きつけるように大粒の雨が降り注いでいる。風も強く、視界が悪い。けれど早く行かなくては。


 ――どこへ?


 頭のどこかで冷静な自分が問う。

 そんなの決まってる。海だ。

 父が消えた、海へ。





 防災無線のサイレンが鳴り響いている。しかし、その音すら結菜には微かにしか聞こえていなかった。

 脳内でグルグルと回る過去の記憶に引きずられるように、フラフラと足を進める。

 いつもの通い慣れた道は、まるで知らない道のように水が溢れている。海へと続く細い小道には、どこから飛ばされて来たのか木の枝が所々に落ちていた。そして小道の先に広がった海は、もはや結菜が知るいつもの海ではなかった。

 大きく荒い波が押し寄せている砂浜。

 今が満潮なのか干潮なのか、その間なのかもよくわからない。海水は白く泡立ち、浜辺にあるものすべてを呑み込まんばかりに押し寄せていた。

 いつもの穏やかで静かな海は、そこにはない。あの浜辺へ降りてしまえば命が危ない。それもちゃんと理解できている。しかし、それでも結菜の足はフラフラと浜辺へ向かっていた。


 ――あの海に、お父さんがいる。


 あの日、結菜のせいで父はこの荒れ狂った海に消えてしまったのだ。


 ――ありがとう! お父さん、大好き!


 そんな声が耳の奥に響く。

 結菜は「バカじゃん」と記憶の中にいる幼い自分に向かって呟いた。その言葉を結菜が言えばどうなるのか、あの頃の自分にも分かっていたことなのに。

 結菜は浜辺への階段を一段降りた。ザンッと鋭い音と供にすぐ目の前まで波が押し寄せる。それでも構わず、もう一段階段を降りる。


「……ごめんなさい。お父さん」


 呟きながらまた一段、階段を降りる。再び白い波が砂浜を覆っていく。あと一段降りてしまえば、きっと結菜の身体など簡単に波にさらわれてしまうだろう。父のいる、あの海の中へ。


 ――結菜!


 父が呼んでいる気がする。焦ったようなその声は、あの車内で最後に聞いた父の声。


「ごめんなさい」


 呟きながら、足を踏み出す。そのとき「結菜!」と耳元で声が響いた。その声にハッとして結菜は思わず足を止めた。そして振り返る。そこには、全身ずぶ濡れになった陽菜乃が真っ青な顔をして立っていた。


「……陽菜乃?」


 結菜はゆっくりと首を傾げて笑みを浮かべた。


「なにしてんの。こんなとこに来たら危ないよ?」


 陽菜乃は怒ったような険しい表情を浮かべて結菜の腕を力一杯掴んだ。そして、そのまま階段の上へと引きずるように結菜を引っ張っていく。掴まれた腕に陽菜乃の指が食い込んで痛みが走った。


「陽菜乃、痛いって」


 しかし、彼女は手の力を緩めることなく結菜のことを引っ張って歩き続ける。やがて小道まで戻ってきたところで、ようやく彼女は足を止めた。そしてそっと手を放して結菜と向き合う。その表情は険しいままだ。


「陽菜乃。ねえ、どうしたの。なんで怒ってるの」


 ヘラッと笑って彼女に問う。そのとき、彼女の右手が大きく振り上げられた。そう思った次の瞬間、左の頬に鋭い衝撃が走った。

 結菜は思わずよろけながら左の頬に手を当てる。ジンとした痛みが頬から全身に広がっていく。


「……なにしようとしてたの?」


 雨と風の音に混じって聞こえた陽菜乃の声は低く、震えていた。結菜は頬を押さえたまま視線を俯かせる。


「ねえ!」


 陽菜乃は声を荒げて結菜の両肩を掴んだ。


「なにしようとしてたの!」


 結菜は視線を上げる。陽菜乃は泣きそうな表情で、必死に結菜のことを見つめていた。いや、実際に泣いているのかもしれない。ずぶ濡れになってしまっている彼女の頬を流れているのが雨なのか、それとも涙なのかわからなかった。

 再び防災無線のサイレンが鳴り始めた。陽菜乃はじっと結菜のことを見つめていたが、やがて気持ちを落ち着けるように深く息を吐き出すと結菜の手を取って「来て」と歩き出す。


「……どこに?」


 しかし彼女は答えない。ただ怒ったような泣いているような複雑な表情を結菜に一度向け、そのまま歩き続けていく。繋いだ彼女の冷たい手が震えているのは、寒いからだろうか。

 結菜は陽菜乃に手を引かれながらそっと背後を振り返った。

 荒れ狂った海は、もう見えない。

 耳の奥にずっと聞こえていた過去の記憶の音たちも、もう何も聞こえない。

 ただ雨と風が混じり合う音だけが、結菜の周りに響いていた。

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