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3.家族(4)

 油断すると傘がひっくり返ってしまいそうな強風と叩きつけるような雨の中、結菜はいつもとは違う下校の時間を過ごしていた。


「陽菜乃! 傘はこう、グッと持った方が良いよ、ほら、松岡さんも」


 少し前を歩くミチが傘を低く持ち、身体に近づけるようにしながら振り返った。


「こ、こう?」


 陽菜乃がミチの真似をして傘を低くして身体に近づける。そのとき予想外の方向から吹き抜けた風に煽られ、結菜の傘は危うく飛ばされかけてしまった。それをなんとか堪えた結菜は、ミチに言われた通りの持ち方へと変えた。


「あー、こわ。危な……」

「風、どっちから吹いてくるかわかんないからね。こうやってできるだけ煽られないようにしないと」


 ミチは言いながら、まるで結菜と陽菜乃の盾にでもなるかのように先頭を歩き続けている。


「ねえミチ、並んで歩かない?」


 風よけ役を買って出てくれていることがわかったのだろう。陽菜乃がそう声をかける。しかしミチは振り返りもせず「このままでいいよ」と言った。


「なにせ、綾音に松岡さんのこと頼まれちゃったしね。せめて分かれ道までは無事に送り届けないと」

「いいよ、ミチがそんな頑張らなくて」


 結菜は苦笑しながら言ったが、ミチは「ダメだよ。これは重要任務」と言ってそのまま先頭の座を譲らない。結菜は傘を握りしめながらため息を吐いた。

 それは、授業の打ち切り連絡が担任から告げられた後のことだ。


「綾音、ちょっといい?」


 クラスメイトの一人が帰り支度をする綾音に声をかけた。いつも綾音と一緒に部活へ向かっている子なので、同じバスケ部なのだろう。綾音は鞄を机の上に置きながら「なに? さすがに今日は部活ないでしょ?」と首を傾げた。


「そうなんだけど……。あのね、ちょっと手伝ってほしいんだ。部室棟の片付け」

「部室棟の?」

「うん。今から風、もっと強くなるって予報で言ってるでしょ? だから部室棟周りで飛んでいきそうなものを徹底的に部室の中に入れろって先生に言われちゃって」


 困った顔で言う彼女に綾音は「えー」と面倒くさそうな声を上げた。


「それ、うちの部も関係ある? うちの部室周り、何もなかったと思うんだけど」

「そうなんだけど! でも、他の部室のところも全員で協力して片付けろって。頼むよ、綾音ー。他の一年、もう帰っちゃってるんだよー」

「え、早ッ! 先輩たちは?」

「わかんないけど、一年が誰も行かないってヤバくない?」

「まー、確かに。でもなぁ……」


 綾音は言いながら結菜を振り返った。帰り支度を終えた結菜は鞄を肩に掛けながら首を傾げる。


「え、なに」

「いや。結菜、平気?」

「なにが」

「なにがって……」


 綾音は結菜を見つめながら小さく息を吐くと困ったように頭を掻いた。そして「あっ!」と何かに気づいたように視線を結菜の後ろへ向ける。


「ミチ、陽菜乃! 今から帰るの?」


 振り返ると二人がちょうど席から立ち上がったところだった。ミチは不思議そうに「そうだけど」と頷く。


「帰りって二人だけ?」

「うん。陽菜乃と途中まで一緒に」

「そっか。じゃ、悪いんだけど結菜も入れてやってくれない?」

「は?」


 思わず声を上げたのはミチたちではなく結菜だ。


「いやいや。何言ってんの、綾音。わたしはいつも通り一人で」

「ダメ。今日はダメ」

「なんで」

「危ないでしょ。風も強いし。自主的集団下校だよ、集団下校」

「……なに言ってんの? マジで。熱でもある?」


 結菜は思いきり眉を寄せて綾音を見つめた。しかし綾音は「まあ、いいから」と笑ってミチたちに「頼んでもいい?」と声を投げた。


「途中まででいいから」

「ちょっと綾音!」

「別にわたしはいいよ。陽菜乃は?」

「わたしもいいよ」

「じゃ、決まり」

「ねえ、わたしに選択権はないわけ?」


 結菜が言うと綾音は笑顔で「ない」と答えた。


「ちゃんとミチたちと帰れよ? あとで結菜が良い子にしてたかミチに確認とるからな?」

「お前は過保護な保護者か」


 しかし、綾音は何も言い返すこともなく「じゃ、わたしも早く帰るからさ。気をつけてね」と軽く手を振ってクラスメイトと出て行ってしまった。いつもなら軽口が返ってくる流れだったはず。


「綾音、どうしたんだろね」


 ふいに近くで声が聞こえて結菜は視線を向ける。ミチが不思議そうな顔で綾音が出て行った教室の戸を見つめていた。


「いつもならもうちょっと漫才するじゃん?」

「いや、待って。漫才はしてないから。でも、うん。なんか変だったかな」

「結菜も変だったけど」


 ミチの隣に立っていた陽菜乃が窺うような視線を結菜に向けた。


「わたしが? どこが」

「どこがって……」


 陽菜乃は迷うように視線を彷徨わせ、そして「ううん。なんでもない」と首を横に振った。


「ていうか、陽菜乃。いつの間に松岡さんのこと名前呼びするほど仲良くなったの?」


 視線を向けると、ミチが目を丸くして陽菜乃と結菜を見比べていた。陽菜乃はフフッと笑って「内緒」と意味深な返事をしている。


「え、なにそれ。超気になるんですけど。ねえ、松岡さん」

「あー、別に。ただ好きに呼べって言っただけだから」

「え、じゃあ、わたしもいいの?」

「どうぞ?」

「マジか……。えっと、じゃあ」


 しかし、ミチはなぜか照れたように頬を掻きながら俯いてしまった。


「……なにその反応」

「なんか、いまさら名前呼びって恥ずかしい」

「恥ずかしがる意味がわからない。けど、じゃあ今まで通りでいいじゃん?」


 結菜の言葉にミチは「そうだね」と頷いた。


「んじゃ、ま、帰りますか。松岡さんの家って、綾音の家の近くだよね?」

「あ、うん。でも別にわたしは一人で――」

「じゃあ、陽菜乃の方が家近いね。わたし、バスだから先に別れるけど、その先は陽菜乃が一緒に帰るからね」

「いや、ミチ。人の話を――」

「じゃ、帰ろう。ミチ、結菜」


 陽菜乃が笑みを浮かべて結菜の腕を引っ張る。少しだけ嬉しそうに。結菜は深くため息を吐いて「はいはい。よろしくお願いします」と呟く。

 こうして今日、結菜は彼女たちと一緒に下校することになったのだ。

 バタバタと傘に叩きつけられる雨の音を聞きながら結菜は陽菜乃と並んでミチの後ろを歩く。歩いているうちにも雨風は強くなる一方で、お喋りをしている余裕はなくなってきた。

 三人で黙々と歩いていると、やがてミチが立ち止まって振り返った。


「わたし、こっちなんだ。あそこからバス」

「あ、そうなんだ」


 結菜は頷きながらミチが指したバス停へ視線を向ける。すでにバスを待つ学生がかなりの人数集まっているようだ。


「一緒に待とうか? バスが来るまで」


 陽菜乃の提案にミチは「大丈夫」と笑った。


「それより松岡さんのこと頼むね。陽菜乃」

「うん。任せて」


 陽菜乃が嬉しそうな笑みを浮かべて力強く頷いた。結菜は再び深くため息を吐く。


「ねえ。わたしは一体何なの? 小さい子供? ったく、一人で帰れるって言ってんのに」

「ダメだってば」


 ミチは真面目な顔で結菜を睨むように見た。


「あの綾音がわたしに松岡さんのこと頼んだんだよ? これはただ事じゃないって。あ、もしかして松岡さん体調がかなり悪いとか? 気圧で体調悪くなるとか綾音、言ってたじゃん。まさか我慢してんの?」

「いや、別に……。というか、わたしもなんで綾音がミチたちにこんなこと頼んだのか理解不能」


 結菜の言葉にミチは笑って「綾音は松岡さんのこと大好きだからねぇ」と言った。瞬間、結菜の心臓が跳ねた。


「え……」

「だって、めちゃくちゃ仲良いし。綾音、いつも松岡さんのこと守ってる感じするもん。きっと大好きなんだよ」


 ――大好き。


 その言葉が耳の奥で響く。

 なぜか綾音の声が聞こえる。

 泣きそうな声で彼女がその言葉を怒ったように怒鳴っている。それに重なるようにして聞こえるのは自分の声だ。

 無邪気に自分の気持ちを告げる声。

 迷いながらも気持ちを告げる声。

 それらが何重にも重なって聞きたくない言葉を響かせ続けている。


 ――嫌だ。


 少しずつ息が苦しくなって結菜は口で浅く息を繰り返した。


「あ、バスもうすぐ来るから! じゃあね。二人とも気をつけてね」

「うん。ミチも気をつけて」


 陽菜乃が片手を挙げてミチを見送っている。結菜も同じように彼女に声をかけようとした。しかし、声が出ない。呼吸が上手くできない。


「結菜?」


 すぐ近くで陽菜乃が呼んでいる。

 大丈夫。なんでもない。そう答えなくてはいけないのに喉から出てくるのは荒い呼吸の音だけだ。

 結菜は傘の柄を抱きしめるようにしながら、なんとか息を吸い込み続ける。


「結菜!」


 バサッと音を立てて傘が飛ばされていったのが見えた。結菜は苦しさに眉を寄せながら傘を少しだけ上げる。


「どうしたの? 大丈夫?」


 心配そうに見つめてくる陽菜乃の顔がすぐ近くにある。その瞳は不安そうで、だけど濁りのない綺麗な色をしていた。

 彼女の瞳を見つめているうちに、耳の奥に響いていた声たちが少しずつ消えていく。


「結菜?」


 頬にそっと陽菜乃の手が触れる。温かいけれど少し冷たいのは雨のせいだろうか。それでもこの手の柔らかさは心地良い。

 結菜は瞼を閉じ、しばらく陽菜乃の手の感触を確かめる。そして一つ、深呼吸をした。


「うん。ごめん。もう、平気」


 瞼を開け、結菜は笑みを浮かべる。しかし、陽菜乃は両手で結菜の頬を挟んだまま「でも……」と心配そうに眉を寄せた。


「平気だよ」

「ほんとに?」


 陽菜乃が確かめるように顔を近づけてくる。

 雨の匂いに混じって香ってくるのは甘い、陽菜乃の香り。それは少しだけドキドキして、けれど不思議と落ち着く香り。

 濡れた彼女の綺麗な肌を雫が流れて落ちていく。制服もすっかり濡れてしまって冷たそうだった。


「ほんとに平気? すごい苦しそうにしてたよ?」


 それでも彼女は結菜の心配をしてくれる。結菜は「平気だってば」と笑った。


「絶対?」

「もう、しつこいな。てか、顔!」

「顔?」


 陽菜乃は怪訝そうに首を傾げる。


「近い!」

「……えー、キスした仲なんだからそんな恥ずかしがらなくても」


 結菜の反応に満足したのか、陽菜乃は安心したような笑みを浮かべて結菜から一歩離れると人差し指を自分の唇に当てた。結菜はため息を吐いて「それ、あの場所以外で持ち出すのはどうなの?」と陽菜乃を軽く睨む。


「あ、ごめん。つい……」


 二人きりになって気が緩んでしまったのだろうか。彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。

 結菜は視線をバス停へ向ける。いつの間にかバスが来ていたらしく、バス停にはすでに誰の姿もなかった。


「ま、いいけど。てか、わたしもごめん」

「ん、なにが?」

「わたしのせいで陽菜乃の傘が行方不明になった。それと全身びしょ濡れ」

「あ、あれ? ほんとだ。傘……」


 陽菜乃が慌てて周囲を見渡すが、傘はすでにどこか遠くへ飛ばされた後のようだった。陽菜乃は困ったように視線を彷徨わせていたが、やがて諦めたように「ま、いいや」と笑った。


「どうせびしょ濡れだし。今さら傘差したところで意味ないっていうか」

「ふうん……」


 結菜は頷き、そして自分の傘の柄へ視線を向けてから陽菜乃を見た。


「入る?」

「えっ! 相合い傘? やりたいの?」


 嬉々とした表情を浮かべる陽菜乃を見て、結菜は「いや」と顔をしかめた。


「やりたいか、やりたくないかで言えばやりたくないけど」

「え、なにそれ。言い出しておきながらひどくない?」

「そっちは?」

「え?」

「やりたいの? やりたくないの?」


 結菜の問いに陽菜乃は一瞬、きょとんとした表情を浮かべてから、すぐに満面の笑みを浮かべて「やりたい!」と結菜の傘の下に入り込んできた。彼女の身体から水しぶきが散って結菜の顔や制服も濡らしていく。


「もー、わたしまでびしょ濡れじゃん。これ意味なくない? てか被害拡大してる気がする」

「なんか、あの夜みたいだよね」

「あの夜?」

「二人ともびしょ濡れ」


 陽菜乃が結菜の手を握るように傘の柄を一緒に持って笑った。さっきまで少し温かったはずの手は、すっかり冷えてしまったようだ。


「確かに。でも、今度は陽菜乃のせいだからね」


 結菜は笑って彼女の冷たい手の上に自分のもう片方の手を乗せる。不思議そうにする陽菜乃に「手、冷たいから」と言うと、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。そして、二人で寄り添うように身を小さくして歩き出す。

 そうしながら結菜はチラリと陽菜乃へ視線を向けた。

 彼女の方が少し背が高いので顔の位置も結菜より少し高い。頬に張りついた細い髪からは雫が落ちていた。全身が濡れてやはり寒いのだろうか。白い肌は、いつもより青白く見える。薄く開いた唇からフウッと息を漏れたのがわかった。


「――ねえ」


 ずっと地面に向けられていた彼女の瞳がふいに結菜へ向いた。結菜は思わず視線を逸らす。


「なに」

「さっき、どうしたの」


 横目で見た彼女は心配そうに眉を寄せていた。


「学校でも結菜、変だった。話してるとき別人みたいな怖い顔してたよ。それで、何か呟いてた」


 真っ直ぐで真剣な表情。心から結菜のことを心配している。そんな顔だった。

 別に何でもない、と答えたところで彼女は納得しないのだろう。結菜は地面に視線を落としてから「ちょっとね」と呟くように答える。


「嫌なこと、思い出しちゃっただけだから」

「嫌なこと?」

「うん。だから、気にしないで。もう大丈夫だから」


 陽菜乃に向かって微笑む。


「今は陽菜乃がいてくれるから、大丈夫」


 彼女はじっと結菜の瞳を見つめていたが、やがて「うん。そっか」と頷いた。そして、分かれ道まで無言で歩き続ける。

 街に響き渡る防災無線が、今年最後の台風の最接近予想時刻を告げていた。


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