3.家族(3)
「なんっで起こしてくれないかなぁ!」
月曜日。どんよりとした空の下、学校へと走りながら結菜は声を荒げた。
「わたしのせいかよ!」
結菜の隣を走りながら綾音が不満そうに答える。
「そうだよ! 普通、目覚ましくらいセットしてるでしょ。なんで何も鳴らないわけ?」
「いつもはしてるっつうの。昨日はあんたが先に寝ちゃうわ、ベッドに運ぶの大変だわで、すっかり忘れてたの!」
「なにそれ。わたしのせいってこと?」
結菜は横目で綾音を睨む。綾音はニヤリと笑って「まー、そうなるね」と頷いた。
「もっとも、わたしは目覚ましをセットしてても寝坊した自信があるけどね」
「持つなよ。そんな自信」
そのとき、遠くからチャイムが聞こえてきた。結菜は走りながらスマホで時間を確認する。
「あー、無理。予鈴だ、これ」
結菜は言いながら足を止めた。それに気づいた綾音も「ちょ、結菜!」と慌てて走るのを止める。
「遅刻するよ?」
「ダメ。もう間に合わないって。どうせ間に合わないなら無駄な体力使いたくない。お腹減るし」
「あー、たしかにお腹減ったね。起きてから飲まず食わずで飛び出してきたから」
肩で息をしながら、二人の視線は自然と前方に見えるコンビニへと向けられる。
「……ねえ、綾音」
「うん」
「背に腹は」
「かえられないね」
結菜は綾音と顔を見合わせて笑うとコンビニへ向かった。そして適当にパンを買ってから再び学校へと向かう。ただし、今度は普通に歩いて。
「でも、結菜がこうも簡単に遅刻を受け入れるのって珍しいよね」
モシャモシャとパンを食べながら綾音が言う。
「そう?」
「そうでしょ。昔から学校には真面目に無遅刻で通ってたじゃん」
「それはただ遅刻する要素がなかっただけで。別に真面目にってわけじゃない」
「そうなの?」
綾音が首を傾げる。結菜はサンドイッチを食べながら「いや、まあ、できれば真面目に通おうとはしてたけど」と答えた。できるだけカナエに心配をかけないように。
迷惑にならないようにしようと決めていたから。
「でも今日は仕方ないでしょ。おばさんなんか、二日酔いで仕事休んでたし。ていうか、まさかリビングで寝てるとは思わなかった……」
結菜が言うと、綾音は「たしかに」と軽く声をあげて笑った。
「あの後もけっこう続いてたみたいだよ? 酒盛り」
「マジで?」
「マジで。うちの父さん、よく普通に仕事行ったよ。母さんは癸羽を送り出したら寝直したみたいだし。わたしたちを起こしもしないでさぁ」
「そういえば、このお弁当ってほんとにわたしの分だった? 綾音が言うから持ってきたけど……」
結菜は肩に掛けた鞄に視線を向けた。
朝、バタバタと準備をしているとテーブルには二つの弁当が並んでいたのだ。綾音がそれは結菜の分だというので勢いのまま持ってきてしまったが、本当はカナエの分だったらどうしようと不安になる。しかし綾音は笑って「結菜の分だから大丈夫だって」と頷いた。
「なんでわかんの」
「だってそのお弁当箱、わたしのだし。いくらなんでも高校生のお弁当箱をカナエさんには使わないでしょ。それに中身は昨日の残り物だから別に気にしなくていいよ。ただ詰め込んでるだけ」
「だから、それもなんでわかんの」
「出掛けにキッチン見たけど、作った痕跡がなかった」
「なるほど……」
結菜は頷き、サンドイッチの最後の一欠片を口に放り込んだ。そして隣で二つ目のパンを食べ始めた綾音を見る。
彼女はしばらくモグモグと食べ続けていたが、結菜の視線に気づいたのか無言で首を傾げた。
「いや、昨日ありがとね」
「……なにが?」
口にパンを詰め込んだまま綾音は不思議そうに言う。
「ベッド使わせてくれて。綾音、床で寝てたじゃん」
「ああ、それか。まあ、しょうがないよ。結菜ってば寝相が悪いんだもん」
「は?」
「最初は一緒に寝ようかなぁって結菜の横に寝てたんだけど、すごい蹴ってくるからさぁ。仕方なく床で寝たんだけど」
「またそんなウソばっか」
「なんでウソだって思うんだよ」
「わたしは寝相悪くないって知ってる」
「なんだ。つまんない」
綾音は笑って残りのパンを平らげた。結菜は近づいてきた学校の校門を見つめながら「……あのさ」と綾音に問う。
「昨日、わたしが寝落ちするときに何か言ってなかった?」
「誰が?」
「綾音」
「何を?」
「それを聞いてんだけど……」
結菜はため息を吐く。
「なんか、あのときは眠すぎてよく覚えてないんだけど。なんかこう、綾音がさ――」
綾音の声が、とても悲しそうだった。
そんな気がするのだ。しかし何を言われたのか覚えていない。ただモヤッとした気持ちが心に残っている。
その原因を知りたくて結菜は綾音へ視線を向ける。綾音は結菜の視線を受けて優しく微笑むと「よく眠れた?」と聞いた。
「……え、まあ」
「だったら、いいじゃん」
彼女はそう言うと「ほら、早く行こう。あんまり遅いと家に連絡がいくかもよ」と歩くスピードを速めた。結菜も彼女に続いて足を速める。そのとき生ぬるい風が吹き抜けていった。
――そういえば天気予報、見てなかったな。
校庭を歩きながら空を見上げる。今にも雨が降り出しそうだった。
結菜たちが教室に着いたのは、一限が始まって十五分ほど経った頃だった。
後ろの戸からこっそり入れば、そんなに目立たないのではないか。そんなことを思っている結菜を余所に、綾音は「すみません。遅刻でーす」と堂々と前の戸から入って行ってしまった。教室が一瞬静まり、そしてクスクスと笑い声が響く。
「なんだ。二人揃って遅刻か?」
呆れた表情で教師が言う。
「寝坊しちゃって」
「潔いのはいいけどな、藤代。もう少し申し訳なさそうに入ってこい?」
教師は苦笑を浮かべながら言うと結菜たちに席に着くよう促す。結菜は自席に向かいながら教室の後ろへ視線を向けた。すると、どこか安堵したような笑みを浮かべた陽菜乃と目が合った。
彼女は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと口を動かす。その動きから読み取れた言葉は「おはよう」だ。結菜は彼女に微笑み返すと席に着いた。
「なんで嬉しそうなの」
ガタガタと椅子を引き、前の席に座りながら綾音が小声で聞く。
「何が?」
「笑ってる」
「笑ってない」
「ふうん?」
「そこ二人。さっさと授業の準備をしなさい」
教師に怒られ、結菜と綾音はそれぞれ「はーい」と返事をしながら教科書を取り出した。
それから過ごす学校での時間は至っていつも通りだ。特に変わったことは何もない。いや、少し変わったことが一つだけ。ときどき、休憩時間に陽菜乃からメッセージが届くようになった。
別に何か話題があるわけでもないようで、ただとりとめも無い質問ばかりが送られてくる。
洋画と邦画のどっちが好きか。
サンドイッチとおにぎりではどっち派なのか。
そんな、よくわからない他愛もない質問。そのくせ返信すると、そこでやりとりは終わってしまう。
『なんなの、この生産性のないやりとり』
昼食を食べながら送ってみると、すぐに返信が来た。
『別に。結菜のこと知りたかっただけ』
振り返ると陽菜乃もちょうどスマホから顔を上げたところだった。そしていたずらっ子のような笑みを浮かべる。結菜はため息を吐いて『物好きだね』と返信してスマホを閉じた。
「……なにニヤついてんの。キモいよ? 結菜」
「うっさい」
若干、引いた表情を浮かべる綾音を睨んで結菜は唐揚げを口に入れる。いつものカナエが作る唐揚げとは違う味付けが新鮮だ。
「お? なんか二人のお弁当の中身、今日は似てない?」
たまたま横を通りがかったミチが弁当を覗き込みながら言った。綾音は「やっぱわかっちゃう?」と笑う。
「なんだなんだ。まさか、綾音が松岡さんの分まで作ってあげたとか?」
「んー、まあ似たような感じ?」
「全然違うでしょ」
「えー。でも今日は珍しく二人一緒に遅刻してきたし。怪しいなぁ」
ミチがニヤつきながら綾音と結菜を見比べている。
結菜はため息を吐いて窓の外へ視線を向けた。昼前から降り始めた雨は、少し強くなってきていた。
「実は、昨日は結菜たち家族がうちにお泊まりしてさぁ。母さんが張り切って料理作り過ぎちゃって。お弁当はその残り」
「ああ、そうなんだ? 家族ぐるみの仲だって言ってたもんね」
「そうそう。大人同士が仲良くて。だからたまにね、そんな行事もやるわけですよ」
綾音はそう言って笑う。彼女はいつもこうやって当たり障りのない情報で結菜の家族の話題を濁してくれる。綾音の言うことには誰も疑いを持たないので、それが当然のこととして他人に受け入れられる。
人柄、なのだろうか。
結菜も綾音のように上手く話すことができれば、少しは友達も増えたのだろうか。
「でも、なんで遅刻したの?」
ふいに聞こえた陽菜乃の声に結菜は視線を向ける。ミチの隣にはいつの間にか陽菜乃が立っていた。
「寝坊したから」
結菜が答える。しかし陽菜乃は不思議そうに首を傾げた。
「二人揃って?」
「まー、わたしの部屋で寝てたしねぇ。目覚ましかけ忘れちゃって」
「ほう? 同じ部屋で」
ミチが顎に手をやりながらニヤリと笑う。
「あんたら、本当に仲良いんだねぇ。まさか同じベッドで寝てたりしないだろうね?」
「そうしようと思ったら寝相の悪い結菜に蹴り落とされた」
「え、マジで?」
「そうなの?」
ミチと陽菜乃の声が揃う。結菜は深くため息を吐くと綾音を睨んだ。
「そういうウソ、ほんとにやめて。綾音」
すると綾音はヘラッと笑って「ウソでしたー」とミチたちに言う。
その笑顔はいつもの綾音で、その声もいつもの綾音だ。では昨日、眠りに落ちる前に聞いた綾音の声は何だったのだろう。夢だったのだろうか。
結菜は再び視線を窓の向こうへ移した。
どうやら風も強くなってきたらしい。校庭に植えられた桜の木の枝や花壇の花々が大きく揺れていた。
こんな天気だから、少し悲しい夢でも見たのかもしれない。
「結菜、どした?」
綾音の声に結菜は「いや、天気予報どうなってんのかなと思って」と外を見たまま答える。
「あー、台風か。朝の予報では夜中から明け方にかけて近くを通過って言ってたよ?」
ミチの声に「でも」と陽菜乃が続いた。
「もしかしたら少し早まるかもってスマホには書いてある。昼過ぎからは要警戒、だって」
「けっこうデカいらしいもんねぇ」
陽菜乃とミチの声がなんだか遠くに聞こえる。代わりに聞こえてくるのは懐かしい声。
――台風、けっこうデカいらしいなぁ。避難の準備、しとくか?
懐かしい香りが記憶の中に蘇る。そして響くのは幼い自分の楽しそうな笑い声。
なんであんな無邪気に笑えていたのだろう。考えてから、そんなの決まってると思う。子供だったからだ。事態がよくわかっていなかっただけ。
あのときの自分が、もっとよく事態を把握できていれば何かが変わっていたかもしれない。
記憶の中の声が言う。
――ほら、結菜。準備しろー。避難の準備だ。一番大事なものを持って行こうな。
なんで? と幼い結菜は聞いた。避難の意味がよくわからない。学校で毎年行っていた避難訓練とは違うものだったから。
――なんでって、そりゃ台風が。
「――台風が。大きくて、強い台風が」
「結菜」
ベシッと頭に手を乗せられて結菜はハッと瞬きをした。そしてその手の主を見る。綾音が困ったような笑みでベシベシと結菜の頭を軽く叩く。
「なに、綾音。微妙に痛いんだけど」
「いやー、結菜が目を開けて寝てたから」
「は?」
「松岡さん、なんかブツブツ言ってたけど……。大丈夫?」
陽菜乃が心配そうに結菜を見てくる。結菜は「わたしが?」と首を傾げた。
「そんなこと言ってないって」
「でも――」
「気圧のせいで体調悪いんだよ。結菜、わりと天気に体調左右されるタイプだからさ」
陽菜乃の言葉を遮って綾音が言う。それでも陽菜乃は心配そうな表情を崩さない。結菜は「まあ、たしかに」と頷いた。
「こういう日は、気分が落ちるよね」
「わかる。家に引きこもりたいもん」
ミチが同意してしみじみ頷いた。そして彼女もまた外へ視線を向ける。
「なんか、また風強くなった感じする」
その言葉を証明するように、強い雨が風に流されて窓を叩きつけていく。
――学校、昼から休校になったりしないかな。
教室のどこかから聞こえたそんな願いが叶えられたのか、その日、五限が終わると同時に授業は打ち切りとなった。




