3.家族(2)
「あー、なんでこうなるのかなぁ」
結菜は綾音の部屋で、ベッドに寄りかかるようにして座りながら深くため息を吐いていた。階下ではカナエの泣き声が響いている。フフッと息を吐くような笑い声に結菜は「あのさぁ」と振り返った。
「笑い事じゃないでしょ。あの酔い方、半端ないって。このままだとおばさん、綾音の家に泊まることになるよ?」
「まあ、いいんじゃない? 別に」
ベッドの上で仰向けに寝転んだ綾音は微笑みながら言った。
「前は毎年泊まってたじゃん」
「……そうだけど」
結菜は再びため息を吐いた。
もう綾音の家には泊まらない。綾音の家族には甘えない。そう思っていたのに。
「泊まっていきなよ。結菜も」
綾音は微笑んだまま結菜に視線を向ける。
「家に一人で帰っても寂しいでしょ」
「……別に平気だし」
結菜は綾音から視線を逸らしてスマホを開いた。
「素直じゃないなぁ」
「うるさい」
アプリゲームを開きながら結菜は低く言う。すると再び息を吐くような笑い声が聞こえた。
カナエの泣き声はすこしずつ小さくなってきたようだ。綾音の両親が宥めてくれているのだろう。コンビニで酒を買うことは阻止したものの、綾音の両親が酒を大量に用意していたのは誤算だった。
「ねえ、綾音」
「んー?」
「なんで今日、ごちそうだったの?」
「嫌だったの?」
「いやいや。美味しかったし嬉しかったけどさ。でも、お酒とか、あんなに用意してたらおばさんがどうなるかって容易に想像つくじゃん?」
「んー」
ベッドの上で綾音が動く気配がして、結菜は振り返る。彼女は身体を起こすと「たぶん」と言いながら結菜の横に足を下ろして座った。
「カナエさんを元気づけたかったんじゃないかな」
「おばさんを? なんで? 全然元気だったけど」
「母さん曰く、最近のカナエさんはちょっと様子が変だったって」
「様子が……?」
「うん。何か、思い詰めてるというか、悩んでる感じだったって。今日、買い物してるときに言ってた」
「そうかな。別にそんな感じには――」
見えなかった。しかし、きっとカナエは結菜の前では何があっても平然を装うのだろうこともわかっていた。
彼女はいつだって結菜に心配をかけまいとしてくれるのだ。だから結菜の前ではきっと無理をしている。
そのことに結菜は気づけない。
気づきたいのに……。
そのとき、ふいに思い出したのは今朝の電車での会話だった。
「結菜?」
黙り込んだ結菜を不思議に思ったのだろう。綾音が結菜の顔を覗き込んできた。結菜は「今日さ」とスマホを床に置く。
「朝、電車の中でおばさんに聞かれたんだよね。お母さんの三回忌、どうしたいかって」
意味がよくわからなかったのか、綾音が不思議そうに首を傾げる。結菜は「会いに行きたいかどうかって。お母さんに」と続けた。
「……ふうん」
綾音はため息を吐くように言うと、ベッドに両手を突いて天井を仰いだ。
「三回忌か。なるほどねぇ。カナエさん、そのことで様子が変だったってことか」
「うん。おばさん、三回忌法要に行きたいって言ってたから。きっとそのことを考えて――」
「違うでしょ」
綾音の声に結菜は振り向く。彼女は両手をベッドに突いたまま結菜を見ていた。
「あんたに聞かなきゃって、思い詰めてたんじゃないの?」
「え、わたし?」
「だって、どうしたいって聞かれたんでしょ?」
「うん」
「カナエさんがあんたの前でお母さんの話題を出すの、どれだけ勇気がいることかわかってる?」
「勇気……」
結菜は首を傾げる。
「なんで? 命日のときは、お母さんの話してるよ?」
「それ以外のときは?」
「それは――」
結菜は首を横に振った。
「でしょ? カナエさん、かなり頑張ってあんたに聞いたんだと思うよ」
「なんでそんな。だって、わたしは別に――」
「大丈夫なのに?」
綾音が結菜の言葉を先回りした。結菜は頷く。しかし、綾音はそんな結菜を悲しそうに見つめてから「それで?」とため息交じりに言った。
「なんて答えたの?」
「え?」
「お母さんに会いたいかどうか」
「ああ、うん」
再び階下からカナエの泣き声が聞こえてきた。結菜は膝を抱え込みながら「会いたいって」と小さく答える。
「……そっか」
少しの間を置いて、綾音は言った。結菜は頷き「でも」と息を吐く。
「おばさん、どうするつもりなんだろ」
「そりゃ頑張るんじゃない?」
「なにを」
「いろいろ。大人にしかできないことを、さ。あんたのために、カナエさんは頑張るんだよ。きっと」
「わたしのために……」
結菜は響いてくるカナエの泣き声を聞きながら、膝を抱えた両腕に力を込めた。
「うん。だから今日くらいは思う存分、酔わせてあげてもいいんじゃない?」
綾音はどこまで知っているのだろう。結菜の母のことについて。全部知っているのだろうか。だからカナエのことまでわかってしまうのか。同じ屋根の下で暮らしているというのに、結菜にはカナエの考えていることはまだよくわからない。
「――すごいね、綾音は」
人の気持ちがわかってしまう綾音はすごい。それに比べて自分は何もわからない。自分の気持ちすら、よくわからない。
そのとき、ふわりと結菜の頭に綾音の手が乗せられた。見上げると、綾音は優しいけれど悲しそうな笑みで結菜のことを見ていた。
「結菜も頑張ってるじゃん」
「なにを」
「んー……」
綾音は考え込んでしまう。
「おい」
結菜が綾音を睨むと彼女はニヤリと笑って「いろいろ?」と言った。
「何も思いつかなかった、と」
綾音は軽く声をあげて笑ってから結菜の頭を撫でる。
「とりあえず、素直にお母さんに会いたいと言ったのは偉い」
「なにそれ」
「頑張ったね」
「別に頑張ってない」
「頑張ってるよ、結菜は。ずっと、頑張ってる」
そう言った綾音の声にからかいの色はなく、そしてやはり少し悲しそうだった。
「綾音」
「ん?」
「なんでそんな顔してんの?」
言いながら結菜は綾音の顔を見上げた。
「なにが?」
「……変な顔」
「可愛い顔の間違いでは?」
綾音が不思議そうな表情を浮かべて首を傾げた。その表情の中に微かに残る、悲しそうな雰囲気。結菜は「バカじゃないの?」と彼女から視線を逸らすと、膝を抱えたまま床を見つめた。
「バカじゃありませーん」
言いながら、綾音はまるで猫を撫でるかのように結菜の頭をゆっくりと撫で続けている。その手の動きが心地良くて、結菜はゆっくりと瞼を閉じた。
「――あの、結菜?」
珍しく少し動揺したような綾音の声に、結菜は目を閉じたまま「んー?」と答える。
「えと、嫌じゃないの?」
「何が?」
「頭、撫でられるの」
「あー、うん」
「……駅では嫌がってたのに?」
「なんか落ち着く」
呟きながら、結菜は自分が言った言葉に納得していた。
そう、落ち着くのだ。
綾音に頭を撫でられると、なぜか安心してしまう。そして気持ちが落ち着いてくる。
嬉しいという感情とは、少し違う。
「やっぱり癸羽ちゃんが言ってたのとは少し違った」
「え、癸羽? なに。なんのこと?」
「そういえば癸羽ちゃんは?」
「答えろよ……」
綾音のため息が聞こえた。
「癸羽ならとっくに寝たよ。カナエさんが酔って泣き出したあたりから」
「マジかぁ。癸羽ちゃんの部屋って下でしょ? おばさんの泣き声の中、よく寝られるね」
「まあね。癸羽、寝つきいいし、眠りが深いから。寝かしつけるのは楽だけど、朝とか全然起きないから大変でさぁ」
「そっか。それで綾音はいつも遅刻ギリギリなのか」
「それもあるね」
寝坊した綾音が癸羽を必死に起こす姿を想像しながら結菜は笑みを浮かべる。そしてゆっくりと身体を傾けた。ちょうど綾音の膝が枕になって温かい。
「……眠いの?」
「んー、そうかも」
「かもって何だよ」
綾音が笑ったような声で言った。
たしかに今日は始発の電車だったので朝は早かった。昨日の夜は陽菜乃と花火をして目一杯遊んだうえ、帰るのも遅くなってしまったので寝不足である。
「やっぱ、眠い」
「素直でよろしい。ベッド使う?」
「ううん。お風呂、まだ入ってないし」
「いいよ。寝ちゃいなって」
「んー」
しかし、一度眠気を自覚してしまった身体は素直に動いてくれそうにない。それに綾音の体温や頭を撫でてくれている手の動きが心地良くて、このまま動きたくないという想いに負けてしまう。
「ねえ、結菜さ。ほんとにもう大丈夫なの?」
意識の遠くに綾音の声が聞こえる。結菜は必死に意識を保ちながら「なにが?」と答えた。
「結菜のお母さんのこと」
「大丈夫だよ。もう、三年だよ?」
「ふうん……」
サワサワと綾音の手が結菜の髪を掬う。結菜は息を吸い込んでからぼんやり思った。
――落ち着く香りがする。
「じゃあさ、聞いてもいい?」
少しだけ遠慮したような綾音の声。
「……なに?」
うつらうつらした意識の中、結菜はなんとか思考を働かせる。
「あの日、結菜は何をしてたか覚えてる?」
「あの日?」
「……結菜のお母さんが、亡くなった日」
――あの日は。
結菜は記憶を探る。
あの日は、寒い日だった。雪がちらついていたような気がする。
学校から帰ると、目を真っ赤にしたカナエが涙を必死に堪えながら母が亡くなったということを告げた。そして結菜は……。
「なに、してたっけ」
呟きながらさらに記憶を探る。よく思い出せないのは眠いからだろうか。
たしか母の死を知った後、カナエの泣いている姿を見ていたくなくて家を出たのだ。そしてそのまま、どこかへ。
「ああ、そうだ。海」
「え……」
「海に、いたんだ。わたし」
あの砂浜で、海を見ていた。
陽が沈んで暗くなっても、ずっと。
頭を撫でてくれていた綾音の手が止まった。彼女の手の温もりが伝わってくる。
「そこで、さ。その海で、わたしがあんたに言ったこと覚えてる?」
「――綾音が?」
結菜は考えてから瞼を上げようとした。しかし、もう眠気がピークにきているのか、瞼が重すぎて開けることができない。
「いなかった、でしょ」
眠気に逆らいながら声を絞り出す。
「え?」
聞き返した綾音の声は掠れていた。
「あのとき、あそこにはわたしだけだったじゃん。ずっと、一人だった」
結菜は力を振り絞って瞼を開けると綾音の顔を見た。
ぼんやりとした視界の中に見えた綾音の顔はとても悲しそうで、ひどくショックを受けているように見えた。
「……綾音?」
――なんで、そんな顔をしてるの。
そう聞こうとしたが、もう意識を保っていられない。結菜は重たい瞼を閉じた。
結菜の頭に乗せられていた手が頬に触れる。柔らかくて温かな綾音の手は、なんだか懐かしい感じがする。
「なんだよ。やっぱ、大丈夫じゃないじゃん。忘れてるよ、結菜」
消え入りそうな綾音の声が遠くに聞こえる。
――忘れてる? なにを?
しかし、思考はもう働かない。
綾音の手が再び結菜の髪を掬っては優しく流していく。
息を吸い込めば、落ち着く香りが全身を包み込んでいくようだ。
何の香りだろう。
いつも近くにある香り。
気持ちが落ち着く香り。
――ああ、綾音か。
結菜は眠りながら微笑んだ。
――いいや、今は。何を忘れていても。だって、こうしてると落ち着く。今日は、よく眠れそう。
結菜は心地良い温もりと香りに全てを預け、意識を手放した。
すぐ近くで、誰かのすすり泣くような声が聞こえた気がした。




