3.家族(1)
ガタゴトと揺れる車内。窓の向こうを流れていく風景を結菜はぼんやりと眺めていた。
秋だというのにすっきりしない天気。暗い色の雲が覆った空を見ていると、なんだか鬱々とした気持ちになってくる。
「結菜ちゃん、眠くない? 体調は大丈夫?」
その声に視線を向けると、ボックス席の向かい側に座ったカナエが心配そうな表情を浮かべていた。結菜は苦笑する。
「大丈夫だって。子供じゃないんだから」
「でも、こないだ風邪ひいたばかりだし。今日は朝も早かったし」
カナエはそう言うと「ごめんね」とため息を吐いた。
「え、なにが?」
「わたしが車の運転得意だったら、もう少しのんびり移動できたのかなって」
「いいよ、別に」
結菜は言って、再び窓の向こうに視線を向ける。
「わたし、けっこう好きだよ。お父さんのところに行くまでの電車移動」
「そう?」
「うん。ずっと海が続いてるし」
「……そう」
沈んだ声だった。ちらりと横目で見た彼女は複雑そうな表情を浮かべていた。
きっとカナエにはよくわからないのだろう。結菜が海にこだわる理由が。
あんなことがあったのだから、海なんてもう二度と見たくないと思うのが普通ではないのか。そう、カナエは思っているのかもしれない。
実際のところ、結菜自身も海にこだわっている理由はよくわからない。それでも、海を見ていると落ち着くのだ。
「開いてるかな」
ポツリとカナエが言った。結菜は視線で問う。彼女は微笑みながら「兄さんが好きだったおまんじゅうのお店」と言った。
「ああ、去年は臨時休業だったっけ」
「うん。代わりにコンビニで買ったおまんじゅうお供えしたよね」
「きっと父さん、これじゃないってブツブツ言いながら食べてたよ」
「絶対そうだよね。今年はちゃんと持って行けるといいな。綾音ちゃんたちにもお土産に買って帰りたいし。みんな大好きだもんね、あのおまんじゅう」
「そうだね」
頷く結菜をカナエは何か言いたそうな表情で見つめていた。
なんだか今日のカナエはいつもと様子が違う。それは、父の墓参りに行くからというわけではなさそうだ。なんだかソワソワしたような様子で、窺うような表情を結菜に向けている。
「おばさん? どうしたの」
「え、何が?」
「変な顔してる」
「え、変って。いやいや、そんなはずは……」
カナエは自分の頬に両手を当ててから、浅く息を吐いた。そして「あのね、結菜ちゃん」と視線を俯かせながら言う。
「うん」
「その、千紗都さんの三回忌なんだけどね」
「母さん……?」
口の中で呟く。
カナエが結菜の母の名を口にするのは年に一度。母の命日の時だけだ。それ以外では、結菜の前でその名を口にすることは今まで一度もなかった。
結菜は怪訝に思いながら首を傾げた。
「どうしたの、急に。まだ先じゃん。母さんの命日は」
「そうなんだけど、ちゃんと聞いておこうと思って」
そう言ってカナエは顔を上げた。強い表情だった。あまり見たことのないカナエの表情に、結菜はなんとなく膝の上でギュッと両手を握る。
「三回忌法要、結菜ちゃんはどうしたい?」
まっすぐに結菜の顔を見つめながらカナエは言う。結菜は彼女の顔を見返し、そして膝に視線を落とす。
「どうしたいって?」
「行きたい?」
「……そんなの、わたしに選択肢なんかないでしょ」
結菜は自分の手を見つめながら言った。
「どこにお墓があるのかも教えてもらえないのに、わたしにその案内がくるわけない」
「でも会いたいでしょ? 千紗都さんに」
「――なにそれ」
結菜はさらに強く両手を握りしめる。
「死んだ人に会えるわけないじゃん」
もう子供ではないと言っておきながら、こんな子供じみたことを言ってしまう自分が嫌だ。
カナエが言いたいことはそういう意味ではない。それは理解しているのだ。それでもこんなことを言ってしまうのは、きっと望んでもそれが叶わないということも理解しているから。
こうして父に会いに行くように、母に会いに行くことはできない。
「わたしは会いたいよ」
結菜はハッと顔を上げた。カナエは強い表情のまま、結菜を見ていた。そして「こうして、結菜ちゃんと一緒に千紗都さんにも会いに行きたい」と続ける。
「千紗都さん、きっと結菜ちゃんの成長した姿を見たいと思うんだよね。結菜ちゃんの成長を、わたしだけが独り占めしちゃったら怒られそう」
何かを思い出したのかカナエは笑った。懐かしそうに、悲しそうに。そして結菜に微笑む。
「結菜ちゃんはどうしたい?」
ゆっくりと電車が止まり、ガゴガゴと音を立てて扉が開く。乗客の乗り降りはない。結菜は開いた扉の向こうへ目を向けた。
高台にある駅の向こうには、どんよりとした空に覆われた海が広がっている。少し風があるのか、広い海の中で白波が跳ねていた。
「わたしは――」
向かいのホームに入ってきた電車が、甲高いブレーキの音をたてながら止まった。視界に映るのは海に代わって、無機質で冷たそうな車体。
「会いたいな」
鈍い銀色の車体を見つめながら結菜は呟いた。
――会えるものなら、また。
そうすれば、受け入れることができるかもしれない。
母との最後の記憶が上書きされたら、母はもういないのだと納得ができるかもしれない。だから――。
「会いたい」
結菜はカナエに視線を向けて言った。カナエは微笑んだまま「うん。わかった」と頷いた。それきり、何も言わない。
発車のベルが鳴り響き、扉が重たそうな音をたてて閉まった。そしてゆっくりと電車は走り出す。
「はい、これ」
ふいに差し出されたのはラップに巻かれたおにぎりだった。
「また作ってきたの?」
結菜は苦笑しながらそれを受け取る。カナエは膝に置いたタッパーの中からおにぎりを一つ取ると「いいじゃない」と笑う。
「朝は始発で出るからお店も開いてないし、道中の駅に売店もない。乗り換え続きで時間もないけど、お腹は減るでしょ?。それに、おにぎり食べながら電車って遠足みたいで楽しいから」
「いや、遠足は電車でおにぎり食べないし、お墓参りも行かないから」
カナエは「もう、結菜ちゃん」と、まるで子供のように頬を膨らませた。
「そういう真面目な返しはいりません」
「はいはい。すみませんでした」
言いながら結菜はおにぎりを口に運ぶ。そして思わず笑みを浮かべた。
「明太子だ」
「好きでしょ? 結菜ちゃん」
結菜はカナエへ視線を向け、そしてただ微笑んだ。そのとき一瞬だけカナエが見せた表情が記憶の中の母と重なる。ほんの少しだけ、悲しそうな顔。きっと期待とは違う反応だったのだろう。だけど――。
――もう、その言葉はいらない。
結菜はおにぎりを口に運びながら窓の外へ視線を向けた。
乗客の少ない車内では、ただガタゴトと電車の走る音だけが響いていた。
父の墓は結菜がカナエの元へ来るまで暮らしていた街にある。
きっと父はこの街に一生腰を据えるつもりだったのだろう。まだ三十代だというのにすでに霊園の一区画を購入していた。しかし墓石はなかった。だからきっと、この場所をそのまま使う必要もなかったはずだ。カナエの一存で松岡家の墓に父を連れて行くこともできたはず。けれど、カナエはわざわざここに墓石を建てた。
父は、家族がいるこの街が大好きだったから、と。
「兄さん。今年はちゃんとあのお店のおまんじゅう、買ってきたからね」
そう言って墓石に微笑みかけるカナエの隣で、結菜は街を見下ろしていた。
高台に作られたこの霊園からは街がよく見える。昔暮らしていた家もきっとどこかに見えるのだろう。
今はカナエの知り合いに貸し出していると聞いたことがある。いつか結菜がそこで暮らしたいと思ったとき、すぐに戻れるように処分はしない、と。しかし、そんな気持ちに自分がなるかどうか、今はわからない。
結菜は視線を移した。街の向こうに広がる海には、やはり少し白波が跳ねている。空を見上げると、朝よりも雲が厚くなっている気がした。
生暖かい風に吹かれて線香の香りが結菜を包み込む。
「結菜ちゃんも兄さんに近況報告とかする?」
声に振り返ると、カナエはまんじゅうを食べながら首を傾げた。結菜は思わず苦笑する。
「おばさん、食べるのもう少し我慢できなかった?」
「だってお腹減っちゃって。兄さんだって一緒に食べた方が喜ぶかなって。ほら、結菜ちゃんも食べようよ」
言ってカナエは袋の中からまんじゅうを取り出して結菜に差し出す。しかし結菜は首を横に振った。
「帰ってから綾音と食べるよ」
「そっか」
カナエは笑みを浮かべて頷くと「兄さん」と墓石に向き直った。
「結菜ちゃんと綾音ちゃんは相変わらず仲良しで可愛いです」
「……何の報告なの、それ」
カナエは笑いながら腕時計へ視線を向けた。
「そろそろ行かないと電車に間に合わないかなぁ。兄さん、そろそろ行くね」
言って彼女は手を合わせる。結菜もその隣で同じように手を合わせた。そして顔を上げる。
「ちゃんと挨拶できた?」
カナエが墓石を見つめながら結菜に問う。結菜は頷いた。
「大丈夫だよ。ちゃんと言えたから」
――ちゃんと、今年も謝れた。
自分のせいで死んでしまった父に、ちゃんと今年も謝ることができた。
だから大丈夫。
結菜はカナエに笑みを向ける。
「帰ろう、おばさん」
「うん。じゃ、兄さん。またね」
霊園を後にしながら結菜はスマホを見る。そこにはメッセージが一件届いていた。綾音からだ。
『今日はごちそうだよ!』
そんなメッセージと一緒に、スーパーの買い物かごが写された画像が表示される。そのかごには山のように食材が積まれてあった。
「おお、ごちそうだ……」
つい呟いてしまった結菜に、前を歩いていたカナエが「なに?」と不思議そうに振り返る。
「綾音から、今日はごちそうだって。ほら」
「わー、すごい! ごちそう楽しみ!」
子供のように嬉しそうな笑みを浮かべて、カナエは歩く足を速めた。
「早く帰ろう、結菜ちゃん。今日は藤代家でタダ飯食べ放題だよ!」
「おばさん、少しは遠慮しようね……」
結菜は苦笑しながら彼女の後に続いた。
いつからそういう習慣になったのかわからないが、父の墓参りに行った日は夕食を綾音の家で食べることが当たり前になっていた。
子供の頃はよくそのまま綾音の家に泊まったりもしたが、それもここ数年の間になくなってしまった。だが、それでいい。いつまでも綾音の家族に甘えたくはない。
「今年は泊まっちゃう?」
ぼんやりと考えながら歩いていると、カナエがそんなことを言って振り返った。結菜は笑って「泊まらない」と答える。
「えー、泊まろうよ」
「おばさん、酒がぶ飲みするつもりでしょ。恥ずかしいんだからね。おばさん酔うとめちゃくちゃ泣くんだから」
「そんなことないでしょ。わたし、お酒は強い方だよ?」
「……本気で言ってる?」
結菜はカナエをジトッと見つめてから「ご飯食べたらすぐ帰るからね」と歩調を速めてカナエを追い抜く。
湿気を帯びた風が気持ち悪い。なんだか嫌な気候だ。
父の墓参りのときくらい晴れていてほしかったのに。そうすれば、あの脳天気な父の笑顔を思い出せたかもしれないのに。
――なんで、あのときみたいな天気なんだろう。
おかげで、思い出すのは嫌な記憶だけだ。
あの日、結菜が軽い気持ちで言ってしまった言葉を父は嬉しそうに聞いていた。しかし、きっとそのせいで父は――。
「結菜ちゃん、タクシーで駅まで行こう」
ハッと顔を上げるとカナエが心配そうに微笑んでいた。
「え、バスでいいじゃん」
「早く帰ってごちそう食べたいんだもん。今からタクシーで行けば一本前の電車に乗れるかもしれないよ」
気を遣ってくれているのだろう。カナエは無邪気な笑顔でそう言うとスマホでタクシーを呼び始めた。
結菜はため息を吐きながらスマホを見る。もう一件、メッセージが届いていた。しかし綾音からではない。表示されている名前は陽菜乃だった。その名前を見て、ほんの少しだけドキッとする。
「……なんだろ」
呟きながら開いてみると、送られてきていたのは画像だけだった。それは、光の筋で作られたハートマーク。昨日の夜、花火で宙に描いた落書きだ。
そういえば、最後にまとめて花火をつけたときに陽菜乃がスマホでしきりに何か撮っていたなと思い出す。そのとき、ポンッと新たに画像が三枚送られてきた。
そこには花火の光で描かれた『ユ』と『イ』、そして『ナ』の文字。さらに続けてメッセージが届いた。
『上手に描けてるでしょ! 綺麗!』
「自画自賛か」
思わずツッコミながら、少しだけ疑問に思う。
――忘れるつもり、あるのかな。
あの場所でのことは、あそこから離れると忘れる。そうするつもりではなかったのだろうか。それでも忘れたくないほどに花火が楽しかったのだろうか。
結菜は昨日の陽菜乃の楽しそうな笑顔を思い出しながら微笑んだ。
不思議と、さっきまでの鬱々とした気持ちが晴れていくような気がする。
「結菜ちゃん! タクシー来たよ!」
いつの間にか、カナエが先に国道まで出ている。結菜は陽菜乃にスタンプで返信すると、急いでカナエの元へと走った。
帰りの電車は時間帯のせいか、朝よりも混んでいた。しかし座れないほどではない。楽しそうな会話が聞こえる車内は、どこかのんびりとした空気に包まれていた。
「駅に着くの、十七時くらいになりそうね」
隣に座ったカナエが時間を確認しながら呟く。
「十七時。いつもより早いね」
「うん。やっぱり一本早いと全然違うね。でも、夕飯には少し早いかなぁ」
「……おばさん、ほんとにご飯楽しみにしてんだね」
「当たり前でしょ! だってサヤカのご飯は美味しいんだから!」
力を込めてカナエは言った。結菜はただ苦笑するしかない。
サヤカというのは綾音の母だ。かなりの料理好きで、昔からカナエはよく食事を作ってもらっていたらしい。そのときにカナエも料理を教わったそうだ。
「おばさんのご飯も美味しいけどね」
結菜が言うとカナエは嬉しそうに笑って「ありがとう!」と結菜に抱きついてきた。
「おばさん、やめて。恥ずかしいから。マジで」
冷静に返すと、カナエはシュンとして「ごめんなさい」と離れてくれた。結菜はため息を吐きながらスマホを取り出す。
「結菜ちゃん?」
「到着時間、綾音に連絡しとこうと思って」
「ああ、そうね。わたしもサヤカに連絡しとこうかな。ご飯の時間、調整してもらわなくちゃだし」
「もー、おばさんってば……」
結菜の反応は気にせず、カナエは嬉しそうにスマホを取り出した。
「しょうがない大人だなぁ」
呟きながら結菜は綾音にメッセージを送る。するとすぐに了解というスタンプが戻ってきた。
「早っ……」
思わず笑ってスマホの画面を閉じる。そのとき「台風来てるらしいぜ?」という子供の声が聞こえた。顔を上げると、扉の近くに立った小学生くらいの男の子二人がスマホを見ながら話していた。
「この辺に来るの、明後日くらいだって。かなりでっかいって書いてある」
「マジ? 学校休みにならないかなぁ」
「休みになっても台風じゃつまんなくね?」
「ゲームし放題だろ」
「たしかに。あ、そういえば――」
話題は最近のゲームの話に移っていく。結菜はスマホを再び開いて気象情報を確認する。たしかに大型の台風が近づいてきている様子だった。
今年最後となるだろう台風は、例年にない強い勢力となる予想。
そう書かれてある。
「台風、来るんだ……」
口の中で呟く。そのとき肩に温かさを感じた。見るとカナエが結菜の肩に手を置いていた。そして微笑む。大丈夫だと言っているような、温かな表情で。結菜は頷き、微笑み返してから電車の窓の向こうに視線を向ける。
雲に覆われたままの空は、すでに夜の雰囲気を纏っていた。
それから電車に揺られ続けて地元駅に到着したのは予定通りの十七時過ぎだった。ずっと居眠りをしていたカナエを引っ張るようにしてホームに降りて改札に向かう。すると「あ、来た!」と可愛らしい少女の声が聞こえた。その声にいち早く反応したのはカナエだ。
「あー! キーちゃん!」
「カナエちゃん! おかえりなさい!」
そう言ってカナエの胸に飛び込んでいったのは藤代癸羽。綾音の妹だ。たしか今年で九歳になったはずだ。
「キーちゃん、迎えに来てくれたんだねー。ありがとう!」
「うん! お姉ちゃんが行こうって」
言って癸羽は振り返る。そこには綾音が「余計なことを……」とバツが悪そうな表情で立っていた。結菜はニヤリと笑う。
「へえ? 綾音がねぇ」
「なんだよ、その顔は」
「綾音ちゃん! ありがとう!」
カナエは相手が綾音でも遠慮無しに抱きついていく。綾音は慌てた様子で「ちょ、カナエさん! 離れて!」とバタバタしている。
その様子を微笑みながら見つめていると、ギュッと右手を握られた。見ると癸羽がニコニコしながら「おかえりなさい。結菜ちゃん」と見上げていた。
「うん。ただいま」
結菜は答えながら癸羽の頭を撫でてやる。
「なんか、ちょっと大きくなったね?」
「成長期だから!」
自慢げな表情で癸羽は胸を張る。
「ていうか、結菜が最近会ってないからでしょ」
なんとか解放されたらしい綾音が、カナエから少しだけ距離をとりながら言う。
「そうだっけ」
「そうだよ。たしか春に会ったきりでしょ?」
「んー、そうだっけ?」
癸羽に聞くと、癸羽も首も傾げて「そうだっけ?」と言った。そして二人で笑う。綾音はため息を吐いた。
「まあ、いいけど。ほら、さっさと帰ろうよ」
「うん」
「あ、癸羽ちゃんにお土産あげるー。はい、おまんじゅう」
その声に振り向くと、カナエが袋からまんじゅうを取り出して癸羽に手渡していた。
「カナエさん、帰ったら夕飯なんですけど」
困ったように綾音が言う。しかしカナエは悪びれた様子もなく「大丈夫よ」と笑った。
「ご飯、もう少しかかりそうだってサヤカから連絡あったから」
「お姉ちゃん、食べてもいい?」
癸羽はしっかりと両手でまんじゅうを握って綾音を見上げている。綾音はため息を吐きながら「ご飯、食べられる?」と聞いた。
「食べられる! 今日はね、おやつも食べてないんだよ? あ、あと宿題だって終わらせたし、お母さんのお手伝いもしたよ。それから――」
「あー、はいはい。いいよ、食べて。ちゃんとお礼を言ってね」
綾音が言うと、癸羽は勢いよくカナエに「ありがとうございます!」と頭を下げた。そして嬉しそうにまんじゅうの包み紙を開けて頬張る。綾音はそんな癸羽に微笑みながら「ほんと、最近よく食べるね」と頭を撫でる。
「成長期だから!」
「はいはい。さっきも聞いた聞いた」
綾音は笑いながらも、優しく包み込むように癸羽の頭を撫でていた。
綾音が面倒見が良いのは、やはり妹がいるからだろうか。綾音にとっては自分も妹みたいなものなのだろうか。
そんなことを思っていると、目の前にまんじゅうが差し出された。
「……え?」
「結菜ちゃんのよ。向こうで食べなかったでしょ? それからこっちは綾音ちゃんの分」
「あー、ありがとうございます」
綾音は素直にまんじゅうを受け取ってから結菜を見た。
「食べなかったの?」
「綾音ちゃんと一緒に食べるからって、我慢したんだよね?」
「ちょ、おばさん」
「へえ? わたしとねぇ」
綾音がニヤリと笑う。結菜は彼女から視線を逸らした。
「別に、ただあのときはお腹減ってなかっただけだし」
「そっかそっか。結菜はわたしと一緒じゃなきゃ食べたくなかったかぁ」
そう言いながら綾音はポンと結菜の頭に手を乗せた。
「……なにやってんの」
「美味しいおまんじゅうを我慢して帰ってきた結菜を褒めてる」
「ふざけてんの?」
「超真面目。え、まさか嫌だった?」
「まさかって何? てか、それ以前の問題じゃない?」
「え?」
「は?」
そのときカシャッとスマホのシャッター音が響いた。気づくとカナエが嬉しそうな表情で結菜たちに向かってスマホを構えていた。
「いいわねぇ。仲良しで可愛いわぁ」
「おばさん」
「なに?」
「撮った?」
「うん。撮った」
「それ、わたしに送ってもらってもいいですか?」
すかさず綾音が言った。カナエは「おっけー。今から送るね」とスマホを操作する。
「え、ちょ、なに? 綾音、それどうするつもり?」
「もちろん、いざというときの為に持っておく」
「いざというときってなんだよ」
「いざというときは、いざというときしかないじゃん。うん。脅しのネタに使えそう」
「おい、こら」
「ねえ、結菜ちゃん。帰ろうよー」
すでにまんじゅうを食べ終えてしまったらしい癸羽が結菜の腕を掴んでグイッと引っ張った。
「あ、うん。帰るけど。帰るけど! 綾音、それさっさと消してよ? おばさんも」
「はいはい」
「わかってるわかってる」
綾音とカナエがまるでその気がなさそうな返事をする。結菜は深くため息を吐いて「行こう、癸羽ちゃん」と、癸羽と二人手を繋いで先に駅を出た。
「ねえ、結菜ちゃん。お姉ちゃんに頭撫でられると嬉しいよね!」
「へ? なに、突然」
「だって、さっき結菜ちゃん嬉しそうだったもん。癸羽もね、お姉ちゃんに撫でてもらうと嬉しいの。あったかい気持ちになるから」
「嬉しそう、だった?」
「うん!」
癸羽は結菜を見上げてニコッと笑う。結菜は空いている方の手で自分の頬を押さえる。
「あー、ちょっと癸羽、待って。お姉ちゃんとも手を繋いで。ほら、車道側には出ない。危ないから」
後ろから追いついてきた綾音が癸羽の空いている方の手を取った。そして怪訝そうに「結菜、どした?」と結菜を見てくる。
「何が」
「いや、変な顔してる」
「元からこの顔ですが」
「あー、そっか。そりゃ失礼」
「みんな、ちょっとコンビニ寄るよー。サヤカにお使い頼まれちゃったから!」
少し後ろを歩いていたカナエが言って、近くのコンビニへと方向を変える。ついでにアイスを買おう。そんなことを嬉しそうに癸羽と話す綾音の顔を見つめながら結菜は思う。
――嬉しかったのかな。
手を頭にやる。そこに残る綾音の手の感触を思い出して、少し違うかなと思う。けれど、そのときの気持ちは自分でもよくわからない。
「結菜?」
名前を呼ばれて結菜はハッと我に返った。
「なに」
「やっぱ変な顔してるよ。疲れた? それとも頭痛? 今日、気圧やばそうだし」
少しだけ心配そうな表情を浮かべて綾音は言う。こういうところは、やはり姉だからなのだろうか。結菜は笑って首を横に振る。
「平気。早く行こ。放っておくとおばさん、お酒ばっか買っちゃうから」
「おお、たしかに。それは阻止せねば。泣き上戸、めんどくさいからなぁ」
「カナエちゃん、よく泣くもんねー」
癸羽までそんなことを言うので結菜と綾音は同時に笑ってしまう。そして三人で手を繋いだままコンビニへと向かった。




