最強の魔法使い(後編)第三幕、第四幕、終幕
「最強の魔法使い(前篇)」の続きです。そちらを読まないとわけがわからないと思いますので、そちらからお読みください。この後編で完結しています。
「最強の魔法使い」(前篇)第二幕からの続き
第三幕 雷鳴の決別
「…ようやくだ。」
低く、ささやかれた声音は、ぞくりと肌が粟立つような、凄みと艶を帯びていた。
「ようやく、貴様と決着がつけられる。」
狂気が混じるほどの歓喜に、青い瞳が危険な輝きを放っている。
「この時を待ちわびたぞ、ヘルツ。」
ヘルツは、魅入られたようにシュラの瞳から、視線が逸らせない。
空気が、薄い。呼吸が、うまくできない。
一瞬でも気を抜けば、この青い視線に、絡め取られてしまう。
自分の奥底から、共鳴するように湧き上がる感情がある。
自分が自分でなくなりそうなほどに、昂ぶっている。
ヘルツは、に、と唇の両端を引き上げて、笑う。
「…ああ。オレも、待っていた。ずっと。おまえと、全力で闘える日を。」
風が吹く。
曇天に似合いの、湿り気を含んだ、重い風。
シュラのまとう青藍のマントを、亜麻色の髪を揺らして、吹き過ぎる。
シュラの耳にかかる髪が吹き上げられ、両の耳朶を飾る青い宝玉が光るのが、ごく短い間だけ見える。
(龍王の泪石…。)
神である龍王を召喚できた魔法使いなど、人類の長い歴史を紐解いても、片手で数えるほどしかいない。謂わば、シュラは、生きた伝説だ。
龍王は、自らを召喚した魔法使いに、泪を結晶させた守護の石を贈る。伝承によれば、龍王の右目の泪は、勇気を、そして、左目の泪は、希望をもたらすのだという。もっとも、シュラは、わざわざ古文書を調べ上げて教えたヘルツに対し、「どっちが右で左か、区別なんぞつかんわ。」と、一蹴したが。
それでも、神に贈られた守護石なので、一応身に着けている。真の銀で五芒星をかたどったピアスを作らせ、星の中央に、泪石を入れた。
シュラの瞳が、澄み切った青空の色彩なので、「同じ色の石は、とてもよくお似合いです。」と、イリスが絶賛していた。もっとも、シュラに傾倒しきっているイリスは、シュラの一挙手一投足の全てを褒めるのだが。
だが、この件に関しては、ヘルツも異論はない。
生憎の曇り空で、鮮やかな蒼穹が見えなくても、シュラの瞳と、龍王の泪石は、青空を切り取ったように眩い。
シュラとヘルツは、同時に叫んだ。
「魔法戦闘!」
☆
時間は、一月ほど遡る。
魔術結社<ヴァールハイト>の最奥、総帥の執務室。部屋の主たるイデアルに、シュラは向き合っていた。
「何の用だ。」
シュラは、目の前に座る相手を見下ろし、居丈高に問う。相手が誰であっても、この尊大な態度は揺らがない。
イデアルは、もはや咎めても無駄なので、やれやれと苦笑するに留める。シュラの傲慢さは、実力に見合うものなので、目をつぶらざるをえないところもあるのだ。
イデアルは、シュラ相手に小細工をする気はないので、本題をずばりと告げた。
「シュラ・エーアガイツ。君に、総帥の位を譲りたい。近いうちに…少なくても、半年以内には。」
多少のことでは動じないシュラだが、わずかに息を呑み、イデアルを見返した。
「ああ。うれしいな。君を驚かせることなんて、滅多にできないからねえ。」
くすくすと、子どものように、イデアルは笑う。落ち着いた美丈夫のくせに、時々子どもっぽい言動をし、それが妙に似合う。
「…理由は?」
シュラが問う。多方面に攻撃的に見えるが、シュラはけっして短絡的ではない。むしろ、思慮深く聡明で、明晰だ。
イデアルの力が、いささかも衰えていないことも、自分の年齢は、総帥どころか、賢者としても若すぎることを理解している。
イデアルは、アイス・ブルーの目を細める。シュラは、魔法の腕が優れているだけではない。総帥の座を任せても、問題はない。
「シュラ。私はね…ずいぶん、長く生きたよ。」
魔法使いは、召喚する精霊の加護を受けることで、肉体の老化がゆるやかになる。力の強い魔法使いほど、高位の精霊を召喚するので、その傾向が顕著である。<ヴァールハイト>総帥にイデアルは、本当に長い間、二十代後半の姿を保っている。
「長く生きた魔法使いはね、勘が鋭くなるんだ。それは、魔法とは別の領域でね。予感がするんだよ。」
イデアルは、静かな、その本来の年齢に見合った深い眼差しで、シュラを見た。
「大いなる危機が訪れようとしている。<ヴァールハイト>どころか、グラナト王国全土…否、この世界そのものを呑みこみ、揺るがすような危機が。それに対処できるのは、私ではない。」
シュラは、ふとまばたきをした。ふいに、イデアルの印象が変わった気がした。影が差した、というのか。外見は何一つ変わらぬままに、気配だけが老いたような。
「必要なのは、若い力だ。その時に、君こそが、<ヴァールハイト>の頂点に立っているべきだと、私は思う。」
シュラは、ニッと笑った。
「ハハハハハハハハハッ!」
執務室に、傲慢な高笑いが響き渡る。
イデアルは、度肝を抜かれて、シュラを眺めた。
「いいだろう。」
シュラは、閃光のように、鮮やかな笑みを閃かせる。
「<ヴァールハイト>総帥の座は、最強の証。いつか貴様から奪い取ってやるつもりだった。だが。」
シュラは、笑みを消し、青い目に危険な輝きを宿す。
紅い炎よりも熱い、青き炎か。天を裂き、地を貫く、蒼い雷光か。
「最強を名乗るために、オレには、まだ倒さねばならない相手がいる。」
シュラが、脳裏に誰を思い浮かべて闘志を燃やしているのか、イデアルにはわかる。
誇り高い、孤高の天才が、唯一、自分に並び立つと認めたライバル。
「大規模な魔術戦闘の大会を開いてもらおうやつを、そこで完膚なきまでに叩き潰してこそ、オレは最強を名乗れる。」
☆
「その話なら知ってますって。五年前の、若獅子たちの闘いって、もはや伝説ですから。シュラさまとヘルツさんの一騎打ち。結局、決着つかなかったんでしょう。」
「…伝説…?」
「はい。オレたち、よく論争になりますよ。あれは、ウィル・オ・ザ・ウィスプの炎に突っ込んだシュラさまの勇気を讃えて、シュラさまの勝ちだ、とか。」
「…どっちかって言うと、無謀じゃないか?」
「そんなことありませんっ!シュラさまを侮辱したら、ヘルツさんでも許しませんよっ!」
「いや、オレは当事者としての感想を。」
「当事者だって関係ありませんっ!」
「…それにしても、イリスはなんであの魔術戦闘の流れを知っているんだ?五年前じゃ、入学してもいないだろう。」
「若獅子たちの闘いの公式記録は、許可をとれば閲覧できます。オレは一字一句、暗証できますよっ!ていうか、シュラさまの魔術戦闘の公式記録なら、全部おぼえてますけどねっ!」
「…オレ、ちょっとおまえが怖くなったぜ…。」
総帥の執務室から出て、廊下を少し歩いたところで、シュラは足を止めた。
(珍しい組み合わせだな。)
と思う。
総帥の執務室は、<ヴァールハイト>の最奥なので、入れる人間は限られている。よって、しんと静まり返っているのが常だ。こんな風に、賑やかな会話が交わされていることなど滅多にない。
そもそも、成績優秀な特待生とはいえ、<アカデミア>の一生徒のイリスは、こんなところまで入れないはずなのだが。
と、考えていると、気配を察したのか、イリスが振り向いた。
「シュラさまっ!」
パッと顔を輝かせ、走って来て、青藍のマントにまとわりつく。
主人のもとにまっしぐらに走って行く、かわいらしい愛玩犬のようだなと、ヘルツは思う。
「何か用か?」
イリスに尋ねるシュラの声や表情は、他の人間に向けるそれらよりも、心なしか険が少ないように、ヘルツには見える。
(まあ、こいつは、自分じゃ気づいていないんだろうがな。)
小さくくすりと笑い、ヘルツは、つきりと胸を刺した痛みに目を見張る。
(何だ…今のは…。)
それは、たとえるなら、不吉な予感。避けられない運命の片鱗のような…。
ヘルツを置き去りに、シュラとイリスの会話は進む。
「オレ、どうしても、すぐにシュラさまに聞いていただきたいことがあって!そうしたら、ヘルツさんが、ちょうど、総帥のところに、任務完了の報告をしに行くところだったから、つれて来てくれたんです!」
賢者のヘルツの同行者としてなら、執務室のエリアにも入れる。
「オレに聞かせたいこと?」
「はいっ!オレ、一か月後の若獅子たちの闘いに出られるんですよっ!」
シュラは、けげんな顔になる。イリスが、目を輝かせ、白い頬を紅潮させて報告することにも思えなかった。
「若獅子たちの闘いなら、入学して一年の生徒なら全員出られ…。」
「それはシュラさまたちの代までです。今は、魔術理論、精霊知識、召喚実践、魔術戦闘の全ての分野で優秀な成績を収めていないと、出場資格が与えられないんです。それから、トーナメント方式になって、優勝者も決めるんですよ。」
若獅子たちの闘いに出られるというだけで、大変な名誉だが、優勝できれば、将来は賢者の位も確実なのだと、イリスは、はしゃいで告げる。
「そうか。選抜方式になったのか。」
頷くシュラを見て、イリスは、
「変わった原因、オレは間違いなくシュラさまにあると思うんですが…ケルンって人に、バトルを申し込まれて、身の程知らずがって怒ったシュラさまが、半殺しにしかけたって…ねえ、そうですよね、ヘルツさん。」
突然ふられ、ヘルツは、はっと我に返る。
「…ああ。オレも、おまえが原因だと思うぞ。」
「フン。」
シュラは、全く悪びれず、鼻先でせせら笑った。ヘルツを見下ろし、居丈高に言う。
「そんなくだらん話をしていないで、貴様はさっさと執務室に行け。」
「わかってるさ。」
ヘルツは、肩をすくめ、シュラたちから離れて歩き出す。
その背中に。
「イデアルから、おもしろい話があるはずだ。」
ひどく思わせぶりな、シュラの台詞が投げられた。
思わずヘルツが振り返ると、シュラは、笑みを含んだ青い瞳を向けてくる。策を巡らしている、不穏で剣呑な眼差し。そんな表情でも、見惚れるほど綺麗なのは、単に顔立ちが整っているだけではないのだろう。
無条件で人の視線を釘付けにする、抗いがたい魅惑の力。ヘルツが、声を低くした。
「…シュラ。何を企んでいるんだ?」
「さてな。」
ここで答える気は無いらしい。問い詰めてもどうせ無駄なので、ヘルツは諦めて歩き出す。
「イリス。優勝できたら、褒美をやるぞ。」
「本当ですかっ!オレ、がんばりますねっ!」
イリスの明るい声が響くのを、背中で聞きながら、ヘルツは、胸を押えた。
焦燥が、ある。
いつもは気にならない執務室の廊下の薄暗さが、今日はやけに気に障った。
☆
そして、時間は進む。シュラとヘルツの魔法戦闘の舞台へと。
魔術結社、<ヴァールハイト>最大規模の円形闘技場、エアスト・コロシアム。収容人数は、千を超えるが、席は、ほぼ満席になっている。
ヘルツは、ふと思い出す。
(若獅子たちの闘いをやった、ツヴァイト・コロシアムの比じゃないな。)
あの頃は、ツヴァイト・コロシアムの威容にさえ圧倒された。萎縮はせず、逆に高揚したが。
あそこで、初めて、シュラと闘った。五年たった今も、心に鮮明に焼付いたままの記憶。
五年前までの記憶が無い自分にとって、振り返ることのできる過去があることが、どれほどの喜びか、シュラにはわからないだろう。
この記憶をくれたシュラに対する思いも。
(オレも、ずっと、思っていたんだ。決着をつけたいと、な。)
餓えるように、焦がれるように。取り繕えない、むき出しの欲望が、胸の奥でずっと燻っていた…。
<ヴァールハイト>中の魔法使いが固唾を呑んで見守る中、稀代の天才たちの闘いの幕が、切って落とされた。
ヘルツは、シュラをまっすぐに見据える。
シュラの白皙に肌が、沸き立つ感情に、紅潮している。
空気を震撼させるオーラを感じる。肌がぴりぴりと痛む。そのうちに、ぱっくりと割れて血が噴き出しても不思議には思わない。
全開のシュラの闘気。
対峙するだけで、魂が焼かれる。
狂気に変わる寸前にまで高まった高揚。
ゾクゾクする。
気を抜けば殺される気さえするのに、酔ったように心地よい。
極上の美酒だ。もしかしたら、麻薬か。
シュラがこんな目を向ける相手は、自分だけだと知っているから。これから始まる闘いが、至上の喜びになる。自分も、シュラも。
ヘルツは、大きく息を吸い込んだ。空気を叩き斬るように叫ぶ。
「召喚、火の序列二位、オルタナティブ・フェニックス!」
炎の翼が羽ばたいた。
観衆がどよめく。
「最初から、第二位かよっ…。」
叫んだのは、ケルンか。
ゴウッと、炎が生んだ熱風にあぶられ、シュラの亜麻色の髪がなびく。耳朶にかかる髪がふわりと上がり、ピアスの石が青く冷たく光る。
シュラが、フッと薄紅の唇に笑みを飾る。
最上級の聖獣か、と青い目が煌めいた。
ヘルツは、同じ笑みで応えた。
オルタナティブ・フェニックスは、ヘルツが召喚可能な、最強の聖獣。この上には、神しかいない。
(最初から、全開。)
でなければ、面白くない。
シュラの白い手が翻る。
「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」
その手に現れたのは、シュラの身長ほどもある長剣。柄の意匠の蛇の目が、凍てつく青さを放つ。
シュラは、そのままオルタナティブ・フェニックスに向かって突っ込む。
火の亜不死鳥が羽ばたく。出現した炎の壁を、シュラが剣で薙ぎ払う。
サーペント・ソードには「永続」がかかっている上に、オルタナティブ・フェニックス本体に触れたわけではないので、この程度で剣は折れはしない。
肺まで焼く、灼熱の空気の中を、全く怯む気配もなく駆け抜ける。
しかし、それくらいは、ヘルツも読んでいる。シュラの闘争本能と、蛮勇と紙一枚の好戦さも。
「召喚、火の序列二位、エクスカリバー!」
ヘルツの手に出現したのは、黄金の剣。神の金属、オリハルコンが、目を射る輝きを放つ。柄の細工は、フェニックスを模した火の鳥。目に埋め込まれたのはルビー。
ギインッ!
耳をつんざく金属音が響き渡った。
二振りの名剣がぶつかり合って、火花が散る。
シュラのサーペント・ソードと、ヘルツのエクスカリバー。
水と炎の二位、どちらも、武器型の聖獣の、最高位。
シュラとヘルツは、刃ごしに視線をぶつけ合った。
息がかかるほど間近から、紺碧の双眸に見下ろされ、ヘルツは、歯を喰いしばってにらみ返す。シュラは、身長差を利用して、上から体重をかけてくる。
「剣で受けたのは失敗だな。」
冷たくせせら笑うシュラ。
ヘルツの腕が震える。だが、ニヤリと不敵に笑った。
「そうかな?」
挑発的な笑みに、シュラは目をすがめる。ヘルツが叫んだ。
「オルタナティブ・フェニックス!」
亜不死鳥が、突っ込んでくる。
シュラに向かって。
シュラは、背中に、炎獄が迫るのを感じながら、振り向かない。
「召喚、水の序列二位、アジ・ダハーカ!」
シュラの背に、三つ首の竜が出現する。
それぞれの首の口からは、猛毒と電撃と、全てを凍てつかせる氷の息吹を放つ。
炎の鳥と、三つ首の竜が激突した。
炎と猛毒と電撃と吹雪。
全てがぶつかり合い、爆発する。
爆風と閃光。
至近距離でまともに喰らい、シュラもヘルツも、闘技場の石の床に叩き付けられる。
百戦錬磨の二人だが、衝撃が凄まじすぎて、流石に受け身がとれなかった。それでも、シュラは、体が上げる悲鳴など無視して、立ち上がる。ヘルツも、歯を喰いしばって、膝に力を入れた時。
ポツッ。
鉛色の曇天から、限界だというように、滴が落ちる。
パラパラッという軽い音は、すぐにザーッと一気に降り注ぎ、視界を白く染める。
シュラは、亜麻色の髪から、滴を落としながら、微動だにしない。
ヘルツは、額にかかる濡れた前髪をかき上げた。
二人とも、雨ごときに、影響は受けない。
しかし。
閃光が、灰色の雲を切り裂いた。
数秒遅れ、獣のうなり声にも似た、低い音。
イデアルが、すっと立ち上がった。銀の髪をサラリと背に流して。
「召喚、光の序列二位、ユニコーン。」
淡い紫の光に包まれた、一角獣が出現する。優美にたてがみをなびかせた馬の背に乗り、イデアルは、闘技場に舞い降りる。
シュラとヘルツの、対峙する中央へ。
雨の中でさえも、その気迫と闘気が肌を焦がす、戦場にも似た緊迫感の張り詰めた中へ、気負いなく。
その姿は、確かに、世界有数の魔術結社、<ヴァールハイト>の現総帥にふさわしかった。
イデアルが、両手を広げる。左右の掌を、それぞれ、二人の賢者にさらして。
「そこまで。」
静かだが、雨音の中でも、不思議とよく通る声。
「この魔法戦闘、一時中断とする。」
☆
雨はやまない。世界を水の幕で覆うように降り続ける。そして、時折、雨も曇天も貫いて、閃光が走った。
「やまないな、雨。」
ヘルツが、雨に打たれ続ける舞台を眺めながら呟いた。
コロシアムは、舞台は空の下だが、選手控室や観客席には屋根がある造りだ。シュラとヘルツは、控室に移動していた。
イデアルからは、
「雨くらいなら構わないが、落雷の危険が去るまでは、魔法闘技を再開するわけにはいかない。」
と言い渡されている。
「なあ、シュラ、魔法戦闘の再開は、いつ頃になると思う?」
「長くても数時間待つだけだ。」
答えるシュラの声は、素っ気ない。そして、冷ややかな視線を向けてくる。
「で、貴様は何故、オレの控室にいる。」
「いいだろ、べつに。お互い、一人でいても退屈なだけだ。」
ヘルツは軽い口調で言うが、シュラは一蹴した。
「ふざけるな。」
闘う相手と慣れあう気は無い、と言わんばかりの、氷の声音。
ヘルツは、肩をすくめた。
「つれないな、相変わらず。」
まあ、友好的なおまえなんて、想像できないけどな、と笑い、シュラに、射殺しそうな目で睨まれた。
「シュラさまっ!」
バタン、と控室の扉が勢いよく開いた。
黒髪をなびかせて飛び込んできたのは、紫水晶の瞳の美少年。
「イリス。」
シュラが、かすかに青い目を見開いて、少年の名を呼ぶ。
「おまえ、どうやって、ここへ。」
「シュラさまっ!見てくださいっ!オレ、約束通り、<若獅子たちの闘い>、優勝しましたよっ!」
誇らしげに掲げて見せるのは、燦然と輝く金のトロフィーだ。
「ほお。」
と、シュラは、かすかに笑う。
ヘルツとイリスの二人が息を詰めた。見惚れるほどに綺麗な笑み。
頬を赤く染めたイリスが、トロフィーを、テーブルに置き、早口に言いながら、シュラに近づく。
「まったく、困っちゃいます。なにも、シュラさまたちの闘いと、<若獅子たちの闘い>を、同じ日にしなくてもいいと思いません?こっちは、雨が降る前に決勝戦まで終わったから、飛んで来たんです。」
「そうか。」
シュラは頷き、白く長い指を、自らの右の耳朶に置いた。器用に優雅に動く指先で、ピアスを外し、イリスに向かって、無造作に投げる。
五芒星がきらりと、銀の軌跡を描く。
「っ!シュラさまっ?」
シュラのコントロールとイリスの反射神経の両方がよかったのだろう。シュラの突然の行動だったが、イリスは、龍王の泪石をー値などつけられない、至高の宝玉を何とか落とさず受け止めた。
シュラは、溜めもなく、あっさり言い放つ。
「褒美だ。くれてやる。」
「!」
イリスは、大きな暗紫の瞳を丸くした。すぐには声も出ない。何度か、ぱくぱくと口を開け閉めして、ようやく細い声を絞り出した。
「そんな、いただけません。こんな…こんな、大事なもの…。」
シュラの左の耳朶と、イリスの手の中で眩く透明に煌めく、澄み切った青い石。これは、この世にたった二つしかないもの。世界を創造した神の一柱、龍の泪が結晶した、神の力を宿す石。
金銭的価値以上に、これは、シュラの魔法使いとしての力を示すもの。シュラの矜持の象徴だ。
ピアスを握るイリスの両手が震えた。震えが止まらないままの手を、シュラに向けて差し出す。
だが。
「いらんなら捨てろ。」
シュラの声は、いっそ冷たいほどに迷いがなかった。イリスに、ひた、と青い視線を据える。龍王の泪石と同じ色の、それよりも強く輝く、生きた宝玉の双眸。
イリスは、呼吸さえ忘れて、シュラを見返す。魅入られた、では生温い。呪縛されたかのように。
「重いなら、強くなれ。それにふさわしいと胸を張れるまで。」
その声も、瞳も、けして甘くも優しくもない。けれど、イリスは、一生忘れないと思った。生涯、自分を支えてくれると思った。このシュラの言葉が。この先、何があっても、揺らがず立てると。
「はいっ…はい、シュラさま。一生、大切にします。いつか…シュラさまにいただいたこの石に、ふさわしい魔法使いになります。絶対っ!」
ぎゅっと、ピアスを握りしめ、イリスが深く、頷いた。瞳から零れ落ちそうになる涙を、必死に瞬いてこらえる。
潤んだ瞳は、朝露に濡れた葡萄のようだと、シュラは思った。その瞳が、喜びに輝くと、胸があたたかくなる。その感情の名を、まだシュラは知らない。
☆
ヘルツは、目の前の光景に、凍りついていた。
指一本どころか、瞬きすらできなかった。
シュラがイリスに向ける眼差しが、ヘルツに、戦慄に近いほどの恐怖をもたらす。
(雨が、うるさい。)
降り続ける雨の音が、やけに癇に障る。
声が、響く。
時は、満ちた。
聞きたくない、とヘルツは思う。それなのに、耳を塞げない。
わかっている。本当はわかっている。
この声は、自分の内側から響く声。
だから、拒絶することなどできない。
さあ、今こそ、おまえの使命を果たせ。
嫌だ、と思う。悲鳴のように。けれど、喉が干上がって、声も出ない。
おまえは、そのためにだけ在る存在。
ぷつりと、音をたてて。
ヘルツの中で、全ての糸が断ち切られた。
☆
ヘルツが叫んだ。
「召喚、闇の序列二位、堕天使ルシファー。」
漆黒の翼が、バサリと音をたてる。広がった翼は、部屋の端から端まで届くほど大きい。一気に部屋の明度が下がる。
邪悪で残忍な笑みを浮かべているのに、その天使は美しい。背筋が凍りつく美貌。その白い手には、刀身も柄も漆黒の剣。禍々しい輝きを放つ。
「やれ、ルシファー。」
感情の無いヘルツの声に命じられ、ルシファーが、漆黒の剣を一閃する。
「イリス!」
「え?」
眼前に迫った漆黒の閃光に。
よけるどころか、一切の反応ができなかったイリスの体を、シュラが抱えて跳ぶ。
さすがに、着地の姿勢は崩れた。床に転がったシュラが、イリスを腕に抱えたまま身を起こす。漆黒の光がかすったマントは、ばっさりと縦に断ち切られ、深い切れ込みが入った。
部屋の壁が、天井ごと吹き飛んでいた。
ザアッと、音をたて、雨が降りこむ。
吹きつけた雨を、まともに浴び、全身から水を滴らせているヘルツに、シュラが叫んだ。
「ヘルツ、貴様、どういうつもりだ!」
シュラの声には、本気の怒りがー殺気に近い憤怒がある。短気に見られるシュラだが、怜悧な彼が、思考が飛ぶほどの怒りにかられることは滅多にない。
シュラの胸にしがみついたイリスは、震えることもできず、完全に凍りついていた。
部屋の一角が瓦礫と化しているのは、遊びでもふざけていたわけでもなく、本気で殺そうとしていたという証拠。
テーブルも椅子も粉々に砕け散り、イリスのトロフィーも、無惨にひしゃげて潰れていた。
シュラに怒鳴りつけられたヘルツは、ゆっくりと唇の両端をつり上げた。
シュラが息を呑んだ。
ヘルツの笑った顔が…まるで別人のようだったから。
こんなに虚ろな、空っぽな笑いを浮かべるような少年ではなかった。シュラの知るヘルツは。
どんな絶望的な状況だろうと、最後まで屈することなく顔を上げる。
『おまえなら、神を呼べる。おまえなら、イリスを救える。』
あの声を、シュラは覚えている。今でも、はっきりと。
シュラは、青い目をすがめた。見えない何かを…ヘルツの紫の瞳の奥にあるものを、探ろうと。
「貴様…一体、誰だ。」
雨に濡れ、顔に水滴を落とす金髪を片手でかき上げて、
「何を言うかと思えば…。」
ヘルツは、くすりと笑みを深くする。
「オレは、オレだ。ヘルツ・ヘクサグラムだ。ただ。」
頬に、滴が伝う。
「遊びは終わったんだ、シュラ。」
透明な、水晶の玉のような水滴が、あごまで流れて、床に砕けて儚く散る。
シュラは、それを目で追って、珍しく、静かに訊いた。先ほどまでの火のような怒りを、心の奥に封じて。
「そうか。それで、なぜ、貴様は泣く?」
ヘルツが、ハッと紫紺の目を見開く。その一瞬だけ、いつものヘルツに戻ったように。
「シュラ、オレは。」
足音が響いた。
「何事ですか、シュラ、ヘルツ!」
☆
飛びこんできたのは、イデアル。その後ろに、ケルンとミステルが続く。
ケルンとミステルは、部屋の惨状と、漆黒の翼を悠然と広げているルシファーに、唖然としている。しかし、イデアルは、いち早くそれ以上の異変に感づいた。アクアマリンの瞳を、ヘルツに据えた。何かを探るように、淡い水色の双眸を細める。
「ヘルツ、君は…。」
ヘルツは、薄く笑う。仮面のような笑みを張り付けたまま、何も答えない。
「イデアル、イリスを頼む。」
シュラが、腕に抱えたままだったイリスを、イデアルに預ける。
「シュラさまっ?」
イリスが、声を上げる。
シュラは、ヘルツに向き合う。手を伸ばせば届く距離から、青い視線をまっすぐにぶつける。
ヘルツは、シュラの視線を避けるように、す、と優雅に膝をついた。完璧な礼儀作法を仕込まれて育った、貴族の子弟のようだった。
「魔王陛下がお呼びです。」
空気が凍りつく。
「な…に…。」
瞠目したまま、ケルンが呟く。
親友の動揺に、何の痛痒も感じていないように、ヘルツは続ける。
「共に参りましょう。シュラハト・グランツ・サフィア王太子殿下。」
シュラの顔に、はっきりとわかる動揺は表れなかった。ごくわずかに眉をひそめ、二度と誰にも呼ばれないはずの名を、さらりと呼んだヘルツを見下ろす。
「断る、と言ったら?」
ヘルツは、立ち上がる。
「ルシファー!」
堕天使を呼ぶ。
シュラが身構え、
「召喚、水の。」
と叫びかけて、息を呑んだ。
雷の閃光が、その光景を白く染めた。吹き飛んだ天井から、まっすぐに落ち、目を焼く雷光。
真っ白な光を受けても、それを吸い込んで変わらず黒い、堕天使の剣。それが据えられていたのは、ヘルツの首だった。
ヘルツが、ふ、と笑う。何もかもを投げ出すような笑み。
「おまえが、オレと来ないなら。」
ルシファーが、剣を引く。
浅く切り裂かれたヘルツの肌に、ツ、と血が滲む。
「オレは死ぬ。」
シュラの思考が凍りついた一瞬の隙を、ヘルツは見逃さなかった。
ヘルツが右手で、シュラの腕をつかむ。シュラが、痛みに思わず顔をしかめたほど、力任せにつかんだ。
ヘルツは、左手を虚空へと伸ばし、叫ぶ。
「開け、禁断の扉!暗く、深く、果てなき闇の深淵へ、道をつなげよ!」
ヘルツの左手の先に、闇が生まれる。
全ての光を拒絶する、底なしの暗黒。
ヘルツは、そこへ飛びこんだ。
シュラを連れて。
★
第四幕 最強の魔法使い
誰かが泣いている、と思った。
子どもの泣き声だ。記憶の壁を爪で引っかかれる。痛みを伴って耳に突き刺さる声。
シュラは、ゆっくりと周囲を見渡した。
夜明け前なのか、黄昏時なのか判然としない。青い闇のヴェールが世界を覆い、風景は曖昧に溶けている。
足元も見えないほどの、真っ暗闇ではないので、シュラは警戒を解かないままに歩き出す。
泣き声のする方へ。
捨て置いても構わないはずだが、シュラは声の主を探した。
そして見つける。
立ったまま、顔を伏せて泣く少年を。溢れる涙を、小さな手で拭いながら、泣き続けている。
薄闇の中で顔を伏せ、しかも髪が頬にかかっているので、顔立ちはわからない。背丈から、イリスと同じくらいの年ごろだろうと見当がつく程度だ。長身のシュラの、脇腹の上。
シュラは、問いかけた。
「何故、泣いている?」
気遣うでもなく、穏やかでもない声。
泣いている子どもにかける声ではないが、少年は、怯えることなく答えた。
「…失ってしまったから。」
まるで、絶望しきっていて、これ以上は、何も感じることができないというかのように。
「…ああ、違うな…違うんだ…。失ったわけじゃない…。」
飽和状態に達した悲しみを抱えて。
「オレには、最初から何もなかった。全てが偽りで、幻だった。それだけのことだった…。」
シュラは、一歩、少年に近づいた。
何故か、無性に腹が立った。
この少年の事情など、何も知らない。自分には想像もつかない不幸が、彼を襲ったのかもしれないとは思う。シュラは、そう考えながらも、言わずにはおれなかった。
「貴様が何を嘆いているか知らんが、今、何もないのだとしても、これから手に入れればいいだけのことだろう。」
それが、シュラの生き方だった。他人に押し付けるべきではないとわかっているが、この少年には、告げなければならないと思った。
少年の肩がびくりと震えた。
「…そうできたら…そうできたら、どんなにいいかな…。」
シュラが手を伸ばす。少年の顔にかかった髪をかき上げた。ハッと目を見開く。
「貴様は。」
そこで、目が覚めた。
☆
見知らぬ天井が、ここが自室、賢者の塔ではないことをシュラに教える。
高い天井だった。豪奢で繊細な細工のシャンデリアが輝いている。かつて、皇子だったシュラは、本物の水晶を使っていることを見抜く。自分が横たわっているベッドも、敷布も掛布も、王侯貴族が用いる、上質の品であることを。
寝つきも寝起きもよいシュラには珍しく、全身に重い倦怠感があって、起きるのが億劫だった。
視線だけを巡らせると、大きな窓が見える。壁の一面が窓になっている。
窓の外に広がるのは、紫の空だった。夜の漆黒でも、黄昏や、暁前の青い薄闇でもない。
夕焼けや朝焼けでもない。太陽は出ていない。
代わりに、
「月が…二つ?」
シュラは、眉をひそめて呟いた。
紫の空に浮かぶのは、鮮血が滴り落ちるような真紅の月。そして、冷たく輝く蒼白い月。
「魔界の月だ。初めて見ただろう?」
シュラは跳ね起きた。ベッドから跳び下り、身構える。
たった今まで、何の気配もなかった。
彼、否、それは、突然現れた。
ベッドに腰掛け、艶然と微笑むのは、絶世の美貌。魅惑よりも恐怖を呼び起こす類の美。
人の姿をしていても、けして人では有り得ない、闇の力の化身。ただそこに在るだけで、異質さをひしひしと伝える。
その存在は、究極にして絶対。
司るのは、虚無と絶望。
今のシュラよりもわずかに上の、十七、八ほどに見える。六年前、初めて会った時と何一つ変わらない。 少年から青年へ変わる時を、永遠に留めて。世界の創世から現在に至るまで、その姿で生きてきた、神の一柱。
「魔王…。」
シュラは、低く唸った。
魔王は、真紅の目をす、と細めた。魔界の片方の月と同じく、不吉に赤い。
「そう警戒するな、サフィアの皇子。」
魔王は、愉快そうに笑い、立ち上がる。
膝裏までの長い、艶やかな漆黒の髪が、さらりと揺れ、光沢を放つ。
向き合うと、シュラの方がわずかに背が高かった。
「おまえに危害を加える気は無い。策を練って、手間をかけて、やっとここに招いたのだからな。」
「オレにはある。」
シュラが叫ぶ。
「召喚、水の。」
「無駄だ。」
聖獣を呼び出そうとしたシュラの四肢に、どす黒い霧が絡みつく。
(魔力が、抑えられた⁉)
シュラが青い目を見開く。聖獣の召喚に必要な魔力の放出を、抑制されている。
「まだ、瘴気を含んだ魔界の空気に、体が慣れていないだろう。」
(それが、あの倦怠感の理由か。)
「そんな状態で聖獣など召喚すれば、おまえの身に負担がかかる。」
いともたやすくシュラの動きを封じた魔王は、
「しばし、休むといい。」
あっさりと背を向ける。
「待て。」
シュラは、叩き付けるように言う。圧倒的な力の差を見せつけられても、シュラの態度は変わらない。
魔王が振り向く。肩から、漆黒の髪が一筋流れ落ちる。
シュラは、魔王の目をまっすぐに見据えた。
「ヘルツはどこにいる。」
「これは、面白いことを訊く。」
魔王は、紅でも刷いているかのように赤い唇を、三日月の形に歪めた。
「聡いおまえのことだ。気づいているだろう、あれが、俺の手駒だと。知った上で、あれの居場所を訊くのか?」
「答えろ。」
シュラは、再度、問う。低く抑えたその声音に、魔王の笑みが消えた。
「この城のどこかにはいるだろう。あれは、俺が作った人間。他に、行くあても居場所もありはしないのだから。」
シュラの青い眼が、かすかに見開かれる。
「貴様が、作った、だと?」
「何を驚く。」
魔王は、いともあっさり言う。
「人という種を生み出したのは、我ら六柱の神。その神の一柱である俺が、人間の一人くらい、創りだせぬはずがあるまい。」
☆
「シュラさまは…シュラさまはどこに消えたんですかっ!」
イリスの悲痛な叫びが、こだまする。<ヴァールハイト>の最奥にして中枢、総帥の執務室に。
「イデアル総帥、あなたにはわかっているんでしょうっ!教えてくださいっ!」
シュラとヘルツが消えてから、既に一昼夜が経過している。
「イリスの言う通りだぜ、総帥!あいつらは、一体どこに行っちまったんだ!それに、ヘルツは…あいつは、何であんなことを…。」
ケルンも叫ぶ。状況が状況なだけに、敬語が飛んでしまっているが、イデアルは諌めはしない。
「魔界だよ。」
答えたのは、なぜか、ミステルだった。
ヘルツがシュラを、何処かへ連れ去った時に、その場にいた人間が、執務室にそろっていた。
「「魔界っ⁉」
イリスとケルンが同時に声を上げる。
イデアルは、ミステルに視線を据えた。静かだが深く、心の奥底を見透かす眼差しだった。
「ミステル。君は、何を知っているのです?」
言外に問うている。
君は、何者ですか、と。
ミステルは、イデアルに琥珀色の視線を合わせる。
「ボクは、六年前に滅びたサフィア王国の者です。そして、もう気づいていると思いますが…。」
ミステルは、一度目を閉じた。脳裏によぎるのは、至高の青。
「ここで、シュラ・エーアガイツと名乗っていたあの方は、サフィアの第一王位継承者だった方です。」
ミステルは、思う。
彼は、とても遠い存在だったと。遥かに高い天のように。
「ボクは、貴族の子弟として、宮廷に上がっていました。貴族と言っても末席でしたから、あの方は…シュラハト殿下は、ボクのことなど知りません。あの方は、当時から天才、神童と呼ばれた皇子でした。」
彼が王位に就けば、魔道王国サフィアは、どれほどの繁栄がもたらされるだろうかと、十にもならない年から期待されていた。
「サフィア王国の始祖、初代国王の再来と謳われていました。」
「サフィアの初代国王って…魔王と戦ったっていう…。」
イリスが呟く。歴史として学んだ事実でしかない、あまりに遠い、おとぎ話。
サフィアの祖王は、現代とは別の体系の、古代魔法を駆使し、魔王とも対等に渡り合ったと伝えられる。
聖獣が生み出される前の時代に存在した古代魔法は、当然、現代の魔法とは、仕組みから異なる。強大な力を操る魔法だったらしいが、現代では完全に廃れ、どんな仕組みだったかも、よくわかっていない。
現代に受け継がれなかった理由は諸説ある。現代の魔法より難易度が高かったためとも、強大すぎる力が禁忌とみなされるようになったためとも言われる。
使い手であったサフィアの初代国王が、魔王と対等に戦ったというなら、禁忌とされるには十分だっただろう。
「そう。もはや、伝説の英雄だね。不思議なことに、彼は、死の間際、敵対していたはずの魔王から、魔王召喚の秘術を授けられている。その秘術は、直系の王族にのみ伝えられているということだったけど、サフィアの千年の歴史の中で、魔王の召喚なんて、誰も行っていない。」
ミステルがイリスに頷き、続けた。
「けれど、もし、六年前、シュラハト殿下が、魔王を召喚したなら、ベルンシュタイン帝国の皇帝が、突然死んだことにも説明がつく。」
イデアルが、淡いアイス・ブルーの瞳をすがめた。
「魔王は、その代償にシュラを連れ去った。ヘルツを使って。そういうことですか。」
「ちょっと待てよ!」
ケルンが、イデアルに詰め寄る。
「シュラのことは分かったよ!じゃあ、ヘルツは…ヘルツは一体何なんだ!」
「ヘルツ・ヘクサグラム。」
イデアルが、ヘルツのフルネームを言う。あえて、感情を含めない、乾いた声音で。事実のみを。
「ヘクサグラム…六芒星…。」
ケルンが、呆然と呟く。
答えは、最初から示されていた。気づかなかっただけで。
魔術のシンボルは、五芒星。五つの角は、火、水、風、地、光の五つのエレメント、即ち、その源たる五柱の神を示す。
それに、もう一つのエレメント、闇を加えれば、六芒星になる。それゆえに、六芒星は、魔王の象徴とされることがある。
「じゃあ、ヘルツは最初から…。」
ケルンの中で、ヘルツの面影が粉々に砕け散る。
友情に厚く、どんな窮地でも諦めを知らず、まっすぐに駆けていく。黄金の髪をなびかせて。小柄な体のどこに、そんなパワーがあるのか不思議だった。活気と生気にあふれた、あの紫の瞳。
その全てが。
「全部、嘘だった…。」
「ボクは、そうは思いません。」
間髪入れぬ、即答。
イリスが、確信に満ちた口調で宣言した。
「イリス…?」
「ボクを救ってくださったのは、シュラさまとヘルツさんですから。」
助けられたのは、命だけではないと、イリスは知っている。
「だけど…だけど、それも全部、仕組まれていたことかもしれねえじぇねえかっ!」
激した声だった。
ふだんのケルンなら、年下の少年を威圧するようなことはしない。
動揺するのは、裏切られた絶望が深いからだ。こんな形で、信頼を踏みにじられるなんて、夢にも思っていなかった…。
生じた亀裂を、縫い合わせるように。穏やかな声が紡がれた。
「全てが偽りなら、シュラハト殿下が、ヘルツくんを、ライバルだなんて認めないよ。」
ミステルが、静かに微笑んでいた。いつもと同じ、おっとりとした笑顔に見える。けれど、生まれ育った国を奪われて生きてきた過去を知った今、ミステルの笑顔に、深い意味が透ける。
「サフィアの皇子だったシュラハト殿下は、誰にも心を許していなかった。遠くで見ていただけのボクにも、それがわかるくらいに。」
誰一人、自分と対等と認めてはいなかった、孤高の皇子。
大切な者も、失いたくない者も持たぬ、冷酷で非情な。
「ヘルツくんが、手加減なしの本気でぶつかったから、シュラハト殿下は、シュラ・エーアガイツになったんだよ。」
ミステルも見ていた。<若獅子たちの戦い>を。シュラとヘルツの出逢いを。全ての始まりを。
「欺かれて騙されて、利用されるようなシュラくんじゃない。ヘルツくんに嘘があったなら、シュラくんは。」
雷光に照らし出された光景。
ヘルツの首筋に突きつけられた剣。
そして、シュラは。
「ヘルツくんが、「オレは死ぬ。」って言ったって、動揺なんかしなかったよ。」
「…ミステル。」
ケルンが、呟く。
「ハハッ。」
何かを吐き出すように、ケルンは笑って。
「あー、なっさけねー…。」
ぐしゃりと、金褐色の前髪に指を突っ込み。
「オレが、信じなくて、誰が信じるつーんだよな…。」
顔を上げる。
深緑の瞳に、力が甦った。
「方針が決まったところで、具体的な方法を話しましょう。」
イデアルが告げる。
「魔界へ行く方法を。」
☆
カツン…、カツン…と、ゆっくりと進む足音が響く。
体が重い。瘴気に順応してはいないとわかっている。不用意に動き回るべきではないことも。
それでも、シュラは歩き続ける。
いつものシュラなら、非合理的な行動はとらない。
(馬鹿げている。)
自嘲しつつも、シュラは、歩みを止めない。
魔王の城は、広大だった。果てが見えない。本当に無限だったとしても、驚くには値しない。ここは魔界なのだから。
眩暈を感じて、シュラは壁に背をつく。
吐き気がする。景色がぐるぐると回っている。唇をかみしめた。
膝をつきそうになるのを、気力だけでもたせて。肩で大きく息をする。
無理やり一歩踏み出した時、視界が白く染まった。
貧血を起こしているのだと、ぼんやりとした意識の隅で理解したが、どうしようもない。
崩れ落ちるシュラの耳に、声が届いた。
「シュラさまっ!」
抱き留める形で肩に手を回し、小さな体全体で、シュラを支えようとする。しかし、体格差はどうしようもなく、結局一緒に膝をついた。
それでも、ずるずると座り込んだので、勢いよく床に叩き付けられることはなかった。
「シュラさまっ!大丈夫ですかっ?」
高く澄んだ声でそう叫んだのはー。
「イリス…おまえ、どうやってここに来た?」
イリスに抱えられた、というよりは抱きつかれた格好のまま、シュラが目を見開く。
ここは、魔界だ。
ヘルツは、魔界の扉を、あっさり開いた。ヘルツは、魔王に、その力なり方法なりを授けられていたから、可能だったのだろう。
しかし、次元の異なる世界に、しかも、魔王の領域に、そうやすやすと入り込めるわけがない。
イリスが、シュラから小さな体を離し、自分の左耳に触れた。そこには、海の底のように、静謐な青い輝きが宿っている。
シュラの左耳を飾るのと同じ、真の銀の五芒星の中央で煌めく、龍王の泪石だ。
「シュラさまからいただいた、この宝玉と同じ波動を放つ座標を、イデアル総帥が探し当てました。」
龍王の泪石が、界を隔てても探れるほどの波動を放っているからこそ、可能だった。イデアルが、いかに魔術結社<ヴァールハイト>の総帥と言えど、神から託された宝玉がなければ、場所の特定は不可能だった。
「イデアル総帥が、魔界への扉を開き、ケルンさんとミステルさんが、それを維持しています。」
ケルンもミステルも、弱冠十六歳で魔導士の位に就いた、優秀な魔法使いだ。シュラやヘルツが、尋常ならざる天才なので目立たないが、彼らの能力は十分高い。
だが、疑問は残る。シュラはそれを指摘した。
「だが、何故、おまえが。」
既に魔道士として職務に就いているケルンやミステルと、<アカデミア>の学生であるイリスでは、全く立場が異なる。イリスは、ここに来ることを、一番許されない身のはずだった。少なくても、<ヴァールハイト>を統べるイデアルの判断とは思えない。
「オレが志願しました。」
イリスが、幼さの残る顔に、きっぱりとした決意を浮かべ、答える。
「オレに罪を償う機会と、ご恩に報いる機会を与えてくださいと。」
イリスは、けっして忘れてはいない。目を背けてもいない。自分の過ちから。
「そして、もう一つ。オレは、魔界の瘴気に耐性があります。」
以前、濃い瘴気を浴び、魔王に乗っ取られたことまであるイリスは、魔界でも自由に動き回れる。
「だからと言って、おまえが危険に身を晒す必要は無い!」
シュラが、声を荒げた。膝をついているせいで、いつもより近い場所から、射抜くように鋭い視線が突き刺さってくる。
イリスがかすかに息を呑む。恐怖ではない。シュラの気持ちを正しく受け取り、笑みを返した。
「いいえ、シュラさま。オレにしかできないことがあります。」
「イリス…?」
あどけない、丸く大きな紫の瞳が、急に大人びたようで、シュラは戸惑う。
イリスは、静かに微笑んでいる。シュラが、目を見張る。イリスの微笑みには、覚悟を決めた者の凄みがあった。
「失礼します、シュラさま。」
イリスが、立ち上がる。シュラが膝をついた状態だと、イリスの手は、背伸びをしなくても、シュラの肩に届く。
イリスは、イリスの肩に腕を回して、抱きしめた。
子ども特有の、高い体温。間近で、とくんとくんと、心臓の鼓動。
「イリス?」
珍しく、シュラがストレートに狼狽えた。
「おまえ、何を。」
声が、途中で止まった。
体が、急に軽くなった。
重く四肢にまとわりついていた、瘴気が。
どこかに吸い込まれるように、消える。
吐き気も眩暈も、爽やかな一陣の風に吹き払われたように、霧散する。
体のどこも辛くないというのが、これほど楽なものだったのかと、驚く。
シュラが、ハッとして叫んだ。
「イリス、おまえっ!」
イリスは、ゆっくりとシュラから体を離して、座り込むところだった。
イリスの体を、漆黒の靄が取り巻いている。
暗く淀んだ、狂気を誘う闇の凝り。
シュラの体を蝕んでいた、瘴気。
イリスは、それを、吸い取って自分の身に移した。
「大丈夫…です。オレの体は、瘴気に耐性が…あります…。」
「戻せ!」
シュラが叫んだ。
イリスの顔が、血の気を失っている。
いくら耐性があるといっても、人の身に受け入れらえる瘴気には限度がある。
イリスが首を振る。
「行ってください、シュラさま。きっと、シュラさまを待っていますから。」
誰が、とはイリスは言わなかった。けれど、シュラは、立ち上がる。
シュラをそうさせるだけの力が、今のイリスにはあった。
「召喚、水の序列二位、アジ・ダハーカ!」
雷鳴とともに。
三つ首の竜が出現する。
それぞれの口から、猛毒と電撃と吹雪を放つ、恐ろしく攻撃的な聖獣だが、シュラの前に、頭を垂れる姿は、主への忠実さが透ける。
シュラが、厳しく一言命じた。
「アジ・ダハーカ、イリスを守れ。」
「御意。」
三つ首の竜も、一言で答える。
「…イリス。」
シュラが、ほんのわずかに逡巡してから、イリスを呼んだ。
「礼を言う。」
「シュラさまっ…。」
イリスは、胸がいっぱいになる。泣きそうになった。
イリスの答えを待たず、シュラは走り去る。
その背中に、イリスは、心の中だけで告げた。
(ご無事で、シュラさま。)
後は、祈ることしかできない。だから、ありったけの思いを込めて。
(必ず、帰ってきてください。)
☆
あてもなく走り回っているわけではなかった。
直感なのか本能なのか知らないが、確信があった。
この先に、シュラの求める相手がいると。
シュラは、足を止めた。
風になびく金髪は、魔界の月光を浴びて、見慣れた色彩とは違って見えた。
バルコニ―に立ち、ぼんやりと下界を見下ろしている。定まらない視点。毅然と顔を上げる、いつもの姿ではない。
「ヘルツ。」
ヘルツは、ハッと顔を上げた。
バルコニーに足を踏み入れたシュラを見て、表情を凍らせる。
蒼白の頬。震える唇。
シュラの感情が、荒立った。
「貴様らしくない顔をするな。」
ぴしゃりと、平手を叩き付ける勢いで、そう告げる。
ヘルツの、色が褪せた唇に、ひどく虚ろな笑みが刻まれた。
「オレらしいって、何なんだ…?」
力のない声だった。
シュラの目が、険しさを増す。
「貴様…。」
「だって、オレには何もなかったんだ。」
迷子の幼子のように。泣き出す寸前の。
「オレに無かったのは、記憶じゃなかった。過去が無かったんだ。オレは、魔王が、おまえを手に入れるために作った、魔王の手駒でしかないんだ。」
視線で切りつける激しさで、まっすぐに見据えてくる、青い瞳。それから逃げるように、紫の双眸を伏せて。
「嘘なんだよ。全部。」
ヘルツの声は、空虚な静けさを保ったまま、何かを、粉々に打ち砕く。
「おまえが知ってるオレなんて、幻だ。」
ぐいっと、シュラの両手が、ヘルツの胸倉をつかんだ。力任せに強引に、引き寄せる。
「ふざけるな。」
「っ。」
視界いっぱいに、青い瞳が広がっている。
長身のシュラに、無理やり掴みあげられたら、小柄なヘルツは抵抗できない。シュラは、手加減なしに力を加えているから、首を絞めに近い。苦しいはすなのに。
ヘルツは、ただ、魅入られたように、サファイアの双眸を見返していた。
触れるほど間近に、至高の青がある。
いつもは、もっと遠い。
シュラが、ここまでの接近をヘルツに許すことは、滅多にない。
吐息のかかるゼロ距離。
「シュラ…。」
ヘルツが、喘ぐようにその名を呼ぶ。
艶やかに鮮やかに、眩いほどの存在感を放つ。
焦がれた相手だ。
隣に立っていたかった。
そうできると思っていた。
「駄目だったんだよ…。」
ヘルツが、感情の失せた声で言う。
「オレは、おまえを、魔界に引き止めておかなきゃならない。それが、魔王の望みだから。」
シュラが、ぎりっと奥歯を噛みしめた。噛み砕く勢いで。
ドンッと、シュラがヘルツを突き飛ばす。
無慈悲なまでに容赦なく。嵐のような。
ヘルツは、バルコニーの石畳に打ちつけられ、かすかに呻く。
「っ痛…。」
「貴様が、誰かの思い通りに動くようなやつだったとはな。」
シュラの両目に、青い炎が燃える。ふだんから冷たい印象の美貌が、激怒したせいで、凄絶に冴えわたる。
ヘルツが戦慄した。
冷たい汗が、背中を伝う。本気で怒らせたのがわかった。
同時に、真っ黒な絶望が、胸の内に広がる。一筋の光もない。漆黒の闇。奈落の底。
(もう、もどれない。)
(ああ、違う。)
(選択肢なんか、オレには、無かった。最初から。)
シュラが、右手を掲げた。
(許さん。)
(オレが、唯一ライバルと認めた貴様が、これ以上、無様な姿を晒すなら。)
「オレが、引導を渡してやる。」
シュラが吠える。空気を震撼させて。
「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」
凍てつく青さで輝く長剣が、掲げたシュラの手に出現した。
☆
体が重い。
イリスは、ぐったりと座り込んでいた。壁にもたれていても、ずるずると崩れ落ちそうな疲労感がある。横になりたいが、敵地のど真ん中とも言える魔界で、そこまで無防備にはなれない。
イリスの体が瘴気に耐性があるのは事実で、魔界に来ただけで、動けなくなるようなことはなかった。しかし、耐性の上限を超えた穢れを取り込んでしまったので、高熱が出た時のように、体が重い。眩暈と吐き気で、意識が朦朧とする。
それでも、傍らのアジ・ダハーカに向かって、イリスは微笑んで見せた。
「大丈夫…ちょっとずつだけど…浄化できているから…。」
魔法使いは、人の身に自然に備わる自然治癒力が高い。神の次元に存在する聖獣の波動を常に浴びているせいだ。
アジ・ダハーカは、一対の目を、見守るようにイリスに向け、残りの二対の目で油断なく周囲を見回している。
主であるシュラの命に従って、イリスを守っている。三つ首の恐ろしい外見で、攻撃力が高い分、凶暴な聖獣だが、見慣れたシュラの聖獣が傍にいてくれることが、心強い。
イリスが微笑んだ。
「ありがとう、アジ・ダハーカ。」
アジ・ダハーカは無言だが、眼差しの鋭さが、わずかに和らいだようだった。
突然、アジ・ダハーカが牙を剥いた。
「アジ・ダハーカ⁉」
三つ首の竜が、それぞれの口から雷と吹雪と毒を吐き出すのと。
イリスに向かって、漆黒の炎が襲い掛かるのが、同時。
雷と吹雪と猛毒、黒き爆炎の全てがぶつかり合う。衝撃から生まれた爆風からイリスを守るように、アジ・ダハーカが自分の身を盾にする。
イリスは、腕を上げて目を庇う。肩を過ぎる黒髪が、激しくなびいた。
「いい聖獣だ。流石は、サフィアの皇子の僕。」
蠱惑的な声だった。
頭の芯がくらりと揺れる。
「あ…。」
イリスの背に、冷たい汗が伝う。
知っている。
闇そのものと対峙しているかのような、押し潰されそうな存在感を。
かたかたと震える体を、必死で押さえつける。
(呑まれては駄目だ。)
魔王は、血を吸ったように赤い唇だけで笑う。水の上をすべるように近づかれる。ざっと肌が粟立った。
魔王が膝をつく。す、と腕を伸ばされる。一つ一つの所作が、芝居のような優雅さに彩られている。魅惑的で官能的で…麻薬のような美。
魔王の指先が、イリスの左の耳朶に伸びる。
龍王の泪石へ。
イリスがハッとする。
(シュラさま!)
「そんなに怯えるな。一度は、俺にその身を許してくれたではないか。」
「人聞きの悪い言い方はやめてください。」
パシンと。
イリスは、魔王の手を振り払っていた。
不思議と、恐怖が吹き飛んだ。
のしかかる疲労感を、気力だけで、無理やり払いのける。
(シュラさま。)
強くなれと言われた。それにふさわしいと胸を張れるまで。
(きっと、今、シュラさまは、ヘルツさんと闘っている。)
ライバルを、取り戻すために。
(だったら、オレは、ここに魔王を引き止めておかなくちゃいけない。)
「魔王ヘイカ。」
イリスは、跳ねるように立つ。愛らしい顔に、不敵で生意気で挑戦的な笑みを浮かべ。
「いささかお手向いいたします。」
魔王は、薄く笑った。
とるに足らない幼子の我儘でも目にしたかのような。冷笑よりは慈悲に近い微笑み。
長衣を揺らして、立ち上がる。
「…せめて形が残るといいな。」
愉しげに。
「そなたの骸を見た時、サフィアの皇子がどんな顔をするか、楽しみだ。」
☆
シュラが、空間さえも切り裂く斬撃を放つ。サーペント・ソードの青い刀身が、ヘルツに迫る。
「召喚、闇の序列二位、タナトス・サイス!」
ヘルツの手中に出現したのは、漆黒の大鎌。
刃が優美な曲線を描くが、人の首など骨ごと刈り取る威力を持つ。
ヘルツは、シュラの刃を、大鎌で受ける。
「!」
シュラが、かすかに瞠目する。押し返せない。体格差と腕力を考えれば、シュラがヘルツに押し負けるはずがない。
ヘルツが、口元だけでうっすらと笑う。
「死神の大鎌だ。言っておくが、魔界では、闇の属性が、圧倒的に有利だぞ。」
ヘルツは、シュラの剣を、難なく押し返した。そのまま、大鎌を振るう。ヒュンッと、刃がシュラに迫る。
その白い首筋に届く寸前。
シュラが、身を沈めた。亜麻色の髪が、数本断ち切られて宙を舞う。
大鎌が空を切り、ヘルツはわずかに態勢を崩す。取り落した大鎌が、床に落ちて甲高い金属音を鳴らす。 その隙を、シュラは見逃さない。
「召喚、水の序列二位、ラドン・アロー!」
百の矢が降り注いだ。
「!」
ヘルツが叫ぶ。
「召喚、闇の序列二位、堕天使ルシファー!」
漆黒の翼が広がる。
瞬時に出現したルシファーが、両手を広げ、ヘルツの盾となる。
ルシファーの全身が、漆黒の光を放つ。
闇に吸いこまれるように、ラドン・アローが消えていく。
「無駄だ、シュラ。」
ヘルツが、唇をつり上げる。無理やり浮かべたような嘲笑に対して。
「そうか?」
シュラの笑みは、鮮やかに閃く。
ラドン・アローは尽きない。
豪雨のように、滝のように、ルシファーを襲い続ける。
シュラの青い瞳が、不敵に光る。
「ラドンは、無限に再生し続ける。敵を仕留めるまで。」
ヘルツは、ハッとルシファーを凝視した。
万を超える矢を受け続けた、最強の堕天使の姿が、揺らぐ。薄らぐ。蜃気楼のごとく。
(消える!)
ラドン・アローが、ルシファーを突き抜けた。
ヘルツが、後ろへ跳びのいた。両腕を交差させて、身を庇う。
矢の一本が、ヘルツの腕をかすめた。
「つっ…。」
全ての矢に、竜が絡みついた意匠が施されている。実用ではなく、装飾用と言われても納得できるほどの、凝った細工。
透き通るように輝く、宝玉のような矢じり。
ヘルツの左腕をかすめて、壁に突き刺さる。
「っ!」
ピキッ!
何かが砕けるような、鋭く空気を軋ませる音がした。
否、それは砕けるのではなく…分厚い氷が張っていく音。
ヘルツの腕が、壁が。
ピキピキピキピキッ!
きらきらと光り輝きながら、凍てついていく。左腕から肩へ、這い上がるように。
「くっ…。」
苦悶の呻き声をかみ殺し、ヘルツは叫ぶ。
「来い!タナトス・サイス!」
大鎌の形の聖獣が、主の命に従い、飛ぶ。そのまま、抉るように、氷を削ぎ落す。
血飛沫が飛んだ。
「ヘルツ、貴様…。」
シュラは、わずかに眉をひそめてヘルツを眺めた。
半身を、鮮血で真紅に染め、荒い息をつくヘルツを。
ヘルツは、肩で息をしながら、壁に背を預けている。だが。
その紫の双眸は、光を失ってはいない。以前の彼とは違う、昏い光だが。
ヘルツは、血が流れ続ける左腕を、右手で押えている。真っ赤に染まった右手を握りしめ、ヘルツは、低く唱えた。
「召喚、闇の序列外、ヘルシャー・ヴァンパイア」
漆黒の影が落ちた。
ヘルツの流した血が、ふわりと浮き上がる。
集まる。
いくつもの真紅の玉。浮遊しながら、ヘルツを取り囲む。
それらが、すうっと、影に吸い込まれて、消える。
そして。
今度は、影がヘルツに吸い込まれていく。
シュラが身構える。
「特殊条件召喚…!」
召喚に特別な条件が必要な聖獣。その条件次第で、序列二位をも上回る力を発揮する。
ヘルシャー・ヴァンパイアは、魔族だが、その点については、聖獣と同じ。
ヘルシャー・ヴァンパイアの召喚条件は、召喚者自身の捧げる血。その量次第で、力は変化する。
そして、特殊条件召喚する聖獣や魔族に共通するアビリティは。
「貴様、正気か?ヘルシャー・ヴァンパイアを憑依させるなど!」
ヘルツは、薄く笑う。細めた目の色が、深紅に変わっていた。毒々しいまでに鮮やかな、滴り落ちる血の雫。
ヘルツが腰を低くした。その次の瞬間には、シュラに跳びかかっている。
「!」
速すぎて、反応できない。ヘルツ自身の身体能力では有り得ない。
体当たりされて、シュラは床に叩き付けられた。反射的に受け身をとれたのは、実戦経験の豊富さと、優れた身体能力のなせる技。
シュラが半身を起こしたのは、体当たりを喰らってからほんの数秒にも満たない時間だったが。
その時には、ヘルツの指が、シュラの肩をきつくつかんでいた。
唇からのぞく犬歯が、ありえないほど長く鋭い。
本来自分のものではない牙を、ヘルツはシュラの白い首筋に突き立てた。
激痛が走った。
同時に、生命そのものを吸い取られるような、おぞましい感覚が襲う。
「っ…。」
全身の力が抜けた。
崩れ落ちそうになるのを、意志だけで支え、シュラが、ぎりっと奥歯をかみしめた。
ここで倒れるわけにはいかないという、その思いだけで。
ヘルツが、シュラから離れた。
牙を抜かれた瞬間、血飛沫が飛んで、ヘルツの顔にかかる。
ヘルツは、シュラの血で濡れた唇を、舌先で舐めとった。
「ほら、もう、オレは化け物だ。」
くすくすと、声をたててヘルツが笑う。前髪をかき上げて、額をシュラに晒した。
そこに刻まれているのは、真横に走る刀傷のはずだった。五年前、シュラがつけたもの。
<若獅子たちの闘い>の傷跡が、ヘルツに残ったことくらい、シュラは知っている。
「見ろよ、シュラ。」
だが、ヘルツの額にあったのは、傷だけではなかった。六芒星の痣が、くっきりと浮かんでいる。しかし、本当に痣なのか。あまりに鮮やかすぎる、妖しい紅の星。
「ヘルツ、貴様…。」
シュラの脳裏に、生まれ育った城での、最後の日の光景が甦る。
シュラにとって、六芒星は、魔王召喚の魔法陣。
ヘルツの額に、今まで、こんなものは無かった。
「浮かんで来たんだよ、魔界に来たら。オレが、魔王のものだっていう証が。」
額に、呪いのように浮き出た深紅の六芒星。
頬をゆっくりと流れ落ちていくのは、飛び散ったシュラの、真紅の血。
ヘルツが、距離を詰めた。
「あきらめろよ。」
ヘルツが、優しげとさえ言えるほど、甘くささやく。
「魔王はおまえを気に入っている。魔界から出られないかもしれないが、ひどい扱いを受けることはない。それどころか、望みは全て叶う。おまえは、強い敵と闘いたいんだろう。魔王なら、いくらでも相手をしてくれる。」
悪魔の誘惑のように。麻薬を注ぎ込むように、ヘルツが、シュラの耳元でささやいた。
「だから、堕ちてしまえ、シュラ。」
「断る!」
即答だった。
嵐のような激しさで。
シュラが叫ぶ。
「召喚、水の序列六位、ジャック・フロスト!」
現れたのは、十前後に見える少年の姿の、吹雪の聖獣。肩に届かない程度の柔らかそうな髪も、大きく愛らしく、けれど冷たい光を宿す瞳も、凍りついた白銀。
ヘルツは、のけ反るように、座ったまま身を引く。
ジャック・フロストは、主を守るように、ヘルツに立ちはだかる。温度の一切無い眼差しでねめつける。
シュラは、膝に力を入れて、立ち上がる。正直、それだけの動きで、全身がきしむ。
ヘルシャー・ヴァンパイアを憑依させたヘルツに吸い取られたのは、生命力そのものだ。
視界が点滅する。喉元まで、吐き気がせり上がってくる。シュラは、遠のきかける意識を、必死でたぐり寄せた。
「そんな体で闘うつもりか?」
ヘルツが、薄く笑う。
「序列六位しか出せない状態で?いや…本当なら、今は、指一本動かすのだって辛いはずなんだがな。流石、というべき。」
ヘルツは最後まで言えなかった。
白い吹雪が視界を染める。
部屋の一角が暴風雪で凍りついていく。
しかし、絶対零度の嵐が荒れ狂ったのは、ごく短い間だった。それが示すのは、シュラの消耗の激しさ。
ヘルツは、氷の彫像と化した、ヘルシャー・ヴァンパイアの影から歩み出る。とっさに憑依を解き、そのまま盾にしたのだ。
ヘルツが、新たなる魔族を呼ぶ。
「闇の序列三位、アスタロト・チャクラム!」
白銀の氷壁を、黄金の輪が打ち砕いた。
ガンガンガンガンッ!
円環の形の刃が、分厚い氷壁に次々と穴を空け、勢いを殺さず、シュラに向かう。
ジャック・フロストが、再び、吹雪を放つ。
だが。
吹雪を貫き、黄金の円環は、シュラを切り裂いた。
よける力など、無かった。
飛び散る血飛沫。
鮮血に身を染めて、崩れ落ちる長身。
主の魔力が尽きたジャック・フロストは、音もなく消える。
その全てを、ヘルツは、ただ眺めた。
青藍のマントも、<ヴァールハイト>の制服も、無惨に切り裂かれ、床に倒れ伏したシュラを。
透き通るような白皙の肌を、自らの鮮血で真紅に染め。
それでも、シュラは。
「なんで…なんでおまえは、まだ、そんな目でオレを見る!」
ヘルツが絶叫した。
シュラの双眸。
どんな宝玉も適わない。耳朶を飾る、龍王の泪石でさえも凌ぐ、鮮烈な輝きが、ヘルツを射抜く。
ここは、魔界。魔王の領土。
その手駒であるヘルツは、魔族を自在に操れる。そして、ここでは、魔族の力は、同じ序列の、他の聖獣よりも強い。初めから、対等な勝負ではない。
生命力を奪われ、全身に傷を負わされ、万に一つの勝ち目もない状況で。
シュラは、身を起こす。
激痛に歯を喰いしばり、床に両手をついて、体を支え。肩で、荒い息を繰り返し。
立ち上がる。
ピチャン、と。
血だまりを踏んで、ヘルツに近づく。
(こんなシュラは知らない!)
ヘルツの心が悲鳴を上げる。
いつだって、憎らしいほど、圧倒的に強かった。
狩りをする獣の獰猛さで闘うくせに、洗練された優雅さを失わない。
そんな嫌味なやつだった。いつも。
「シュラ…。」
足を引きずるようにして。
一歩一歩、シュラは、ヘルツに近づく。
足跡がそのまま、流血で彩られていく。
むせかえるような、血のにおいの中で。
シュラがヘルツに手を伸ばす。
ほんのわずかに身を引けばいいだけだった。あるいは、振り払えばよかった。大した力はいらなかった。
けれど、ヘルツは微動だにできなかった。
「召喚、水の序列四位、ジェド・マロース!」
足首までの銀髪をなびかせた、美青年が出現する。あらゆる者に、等しく死を与える、真冬の寒波の化身。冷酷で無慈悲な、銀の瞳で睥睨するだけで、場の空気が一気に下がる。
「やめろシュラ!もう、おまえに聖獣を呼ぶ魔力なんて!」
ヘルツが叫ぶ、その息が白く染まる。
ジェド・マロースの、しなやかな繊手が翻る。
大規模な吹雪が荒れ狂うことはなかった。
シュラの手だけが、絶対零度の凍気をまとう。
シュラが、ヘルツの腕をつかむ。
(!)
手首が砕けるかと思った。
どこに残っていた力なのか。
渾身の力で、シュラは、ヘルツの腕を握りしめる。
「や…めろ…やめろ、シュラ。やめてくれ…。」
ヘルツが首を振る。
かすれた声で、懇願する。
「離してくれ。頼むから。オレは、もう…。」
おまえの隣には立てない、と。
そう続けるつもりだったヘルツは。
「断る。」
傲然と。
満身創痍のこの状態で、常と変らぬ不遜な物言いで言い放ったシュラに、絶句した。
「貴様は、オレのライバルだ。だから、永遠に、オレと闘い続けろ。」
「っ…。」
つかまれたままの手首が熱い。
ピキピキと音をたて、凍りついているのに、何故か、伝わるのは熱だ。
手首から、腕へ。腕からさらに体の中心へと、氷が這い登る。痛みをはらむ、灼熱とともに。
シュラの意志が、流れこんでくる。
貴様と、本当の闘いをしたいのだと。
対峙したときの、心が躍る高揚を思い出せと。
「オレだってっ…オレだって、おまえと一緒にいたい!」
ヘルツが絶叫した。
視界が歪む。
喉の奥が熱い。
涙があふれた。
頬を流れ、あごを伝って、滴が落ちる。
シュラの作った血溜まりに、弾けた。
シュラが、笑う。
ドキリとするほど魅惑的な。心をわしづかみにされた。
「ならば、戻って来い。」
「でも、相手は、魔王だ。神なんだぞ。適うはずが。」
「オレと貴様が組んだら、最強なんだろう。」
「!」
どうして、と思う。
強く印象に残るような状況で、交わした会話ではない。
あんな、たった一瞬の、戯言のような自分の言葉を、なぜ覚えているのかと。
気が付いたら。
ヘルツは、頷いていた。
敵わない、と心底思った。認めるのは、本当は癪だ。でも、しかたない。ここまでの本気を叩きつけられたら。
「わかったよ…おまえの勝ちだ…。」
シュラの笑みが深くなる。
そのまま、スッとまぶたが下りた。
急に、ヘルツの手首にかかる負荷が消える。
パキン、と儚い音をたてて、氷が砕け落ちる。光を零しながら。
がくん、と、シュラの体が落下する。
「シュラ!」
ヘルツは、あわててシュラを抱きとめる。
だが、小柄なヘルツに、長身のシュラは支えきれない。
一緒に膝を着く。
「シュラ…。」
気を失った、というより、その表情は眠っているようだった。満足そうな笑みを、薄紅の唇に飾って。
意識のないシュラを見るのは、何度目だろう。ヘルツは、シュラのまつ毛が長いことを思い出す。ふだん、言動が攻撃的すぎて気つかないが、本当は繊細な美貌の持ち主だ。
前に寝顔を見た時は、整いすぎて人形のようだと思ったが、今は、いつもより少し幼く見えるなと思う。
ヘルツは、ぎゅっと、シュラの肩を抱きしめる。
亜麻色の髪にそっと触れる。
そんなことをしたのは初めてだった。
意識があったなら、シュラはけして許してくれないだろう。
腕に抱えたシュラの肩は、予想していたよりも細い。飴色の光沢を放つ髪は、さらりと、ヘルツの指先からすり抜ける。
ヘルツは、そのまま目を閉じる。
とくん、とくんと。
自分のものではない、鼓動が伝わる。
(生きている。)
その事実に、胸の奥が熱くなる。
ヘルツが、目を開けた。
「召喚、火の序列五位、ガンダルヴァ。」
ヘルツは、聖獣を呼ぶ。現れたのは、半人半鳥の姿の聖獣。みずみずしい果実に似た芳香を放っている。
ヘルツが、ガンダルヴァを見つめる。
火の聖獣は、シュラの近づき、その翼でシュラに触れる。
ガンダルヴァの体から立ち上る香りが強くなり、シュラを包む。
シュラの傷の全てが消える。
蒼白だった頬にも赤みが差す。
シュラの肌が放つ熱。
ヘルツが、安堵の息をもらし、聖獣に微笑みかけた。
「ありがとう。」
ガンダルヴァが、笑みを返したように、ヘルツには思えた。その瞳は鳥のもので、唇ではなく、嘴がついているのに。
半人半鳥の姿の聖獣が消え、魔王の城の一角に、静寂が下りた。
☆
静まり返った空間。
孤立無援の状況で、イリスは魔王と対峙していた。
シュラの残してくれたアジ・ダハーカは消えてしまった。シュラの命じた通り、イリスを守って。
死んだわけではなく、魔界で存在を維持できなくなって、神界に戻っただけだが…支えを失った心が、悲鳴を上げそうになる。
イリスは、逃げ出したい気持ちを必死で押さえつける。
イリスの葛藤の全てを読み取ったかのように、魔王が紅唇の端をつり上げた。
ただそれだけで。
イリスの背後で、天井が爆発した。
「っ⁉」
イリスは、爆風で吹っ飛ばされ、床に叩き付けられる。
衝撃がそのまま激痛になったが、イリスは、キッと顔を上げた。跳ねるように、素早く起き上がり、叫ぶ。
「召喚、風の序列五位、エアリアル!」
空中に出現したのは、金髪に翠の瞳の美少年。背中に、白く輝く翼を広げ、舞い降りる。
イリスの背へと。
イリスに触れたとたん、エアリアルの姿は消える。純白の翼だけを残して。
イリスの背に、翼が生える。白鳥のような、天馬のような、美しく、力強い翼。エアリアルは、見た目こそ愛らしいが、突風にも暴風にもなり得る、強い聖獣だ。
イリスは、高く舞い上がる。
魔王は、イリスを見上げ、軽く肩をすくめ…そのまま、ふわりと浮き上がる。漆黒の髪をさらりと流し。
まばたき一つの間に、魔王の美貌が、イリスの眼前に迫る。
「エアリアル!」
イリスが叫ぶ。
加速した。
(捕まったら、終わりだ…。)
それがわかっているから、イリスは、全力で空を翔る。
逃げることしかできないのは、百も承知だ。
イリスは、魔王が開けた天井の穴から、外へ飛び出す。
風圧で、黒髪が激しくたなびく。白い羽が数枚、付け根から離れて落ちる。
魔界の空は、紫。そこに浮かぶ、真紅と蒼白の月光を浴び、純白の翼が、それぞれの色に染まる。
「捕えたぞ。」
「!」
魔王の動きは、イリスには全く見えなかった。
気が付いたら、すぐ後ろから、魔王の声が響いた。
両肩に、ごく軽く、魔王の両手が乗せられる。
イリスは、全身が凍りついた。
魔王に触れられただけで。
本能が告げる。
ここで、全てが終わりだと。
歯の根が合わない。
カタカタと、小刻みに全身が震えて、止まらない。
耳朶に、魔王の息がかかる。
毒々しいほど、甘い吐息で、魔王がささやく。
冷たい指を、イリスの肩から、耳朶に移し。
つっと、滑らせた。
「龍王の泪石。サフィアのラスト・プリンスの信頼の証か。」
くっくっく、と、喉を鳴らして魔王が笑う。
「これを寄越せば、見逃してやるが?」
イリスが、嵐のように振り向いた。
体中に、電撃が走った。
「ふざけるな!」
考えるより先に吠えていた。
恐怖を凌駕する感情のままに。
愚かな選択だ。殺されれば、どのみち、龍王の泪石は奪われる。
それでも。
イリスは、魔王を睨みつける。それだけしかできない。
けれど、目は伏せないと決める。最後まで。
魔王は、変わらぬ微笑みのまま、さらりと告げる。
「では、死ね。」
爆音が轟いた。
☆
あたたかいなと思った。
知らないぬくもり。なのに、何故か、懐かしい気がする。ずっとそばにあったもののような。
身を刻まれた激痛も、四肢にのしかかる負荷も、いつの間にか消えていた。
このまま、ずっと眠っていたいと思う。
けれど。
シュラは、安らぎを振り払って、目を開けた。
「シュラ、気がついたか!」
視界いっぱいに広がったヘルツの笑顔に、シュラは、目を瞬く。
こんなに手放しの笑みを浮かべるやつだったか、と思った。相手を煙に巻くような、思わせぶりで意味深な言動が多いやつだと思っていた。気障で気取った笑みを浮かべて、挑発的に仕掛けてくるのがヘルツだと思っていた。
仰向きに横たわるシュラを、上からのぞきこむ形で、ヘルツは矢継ぎ早に尋ねてくる。
「まだどこか痛むか?気分は?眩暈や吐き気は?」
「問題無い。」
シュラが身を起こして答えると、
「そうか。」
と、心底安心したようにヘルツが笑った。よかった、と呟くヘルツの目の端に、光る雫。
「ヘルツ。」
シュラが言いかけた時。
轟音とともに、城全体が揺れた。
シュラが立ち上がる。切り刻まれた青藍のマントを翻して駆け出す。
ヘルツが慌てて後を追う。
「シュラ、今のは。」
「イリスのいる方向だ…!」
全速力で駆けながら、シュラは答える。感情を必死で押さえつけた声で。
☆
部屋の天井が吹き飛んでいた。
その真上。
真紅と蒼白の月光を吸い込んで、どちらにも染まらぬ、漆黒の髪をなびかせ、魔王が悠然と宙に佇む。
黒に染めた長い爪を備えた白い手が、漆黒の稲妻をまとっている。
バリバリッと、凄まじい音と、目を焼く光をまき散らし、イリスへと向かう。
しかし、その雷は、イリスに届いてはいなかった。
イリスの前に、壁がある。
淡い青い光を放つ、硝子のような透き通った壁。
否。硝子ではなく、金剛石の強度で、魔王の雷を防いでいる。
この魔界にあって、その瘴気すら浄化していく、清浄な輝き。流れる水の冷たさ。
その光の源は、イリスの左耳。
銀の五芒星の中心に煌めく、サファイアよりも青い、至高の宝玉。
「龍王の泪石…。」
ヘルツが呟いた。
イリスが下を見た。
「シュラさま!ヘルツさん!」
イリスの顔が、パアッと輝いた。
エアリアルの純白の翼をはためかせ、舞い降りる。天使のように。
慌てすぎたのか、翼が消え、空中でバランスを崩す。落下に近い形になったのを、シュラが腕を伸ばして受け止めた。
(!)
シュラが、かすかに目を見開く。
(こんなに軽いのか。)
シュラの腕にすっぽり収まる、小さな体で、魔王に対峙したのかと。
「す、すみません、シュラさま!」
イリスが、丸い頬を赤く染める。シュラの腕の中で、体をひねり、ヘルツを見た。
「よかった。ヘルツさん、ちゃんともどって来てくれたんですね。」
「イリス…。」
ヘルツが呟いた。
愛らしいイリスの面差しに、一瞬だけ、大人びた優しさがよぎったような気がして。けれど、確かめる間もなく、消えてしまった。
シュラが、イリスを下ろす。
同時に、龍王の泪石の放つ青い光が消え失せた。
シュラが問う。
「龍王の加護か。」
「はい。でも、一度きりです。」
もう駄目だと思った時。
イリスは声を聞いた。
それは、初めて聞くはずの声だった。それなのに、なぜか、懐かしかった。
彼は…彼らは、全ての命を創りだした存在。生まれてくる前の、原初の記憶に刻まれている声なのだ。
『魔王に向かって、よく吠えた。』
穏やかで低く、深い声音。慈悲と慈愛に満ちている。
『その勇気を評して、一度だけ加護を与えよう。』
青い光の奔流が、イリスの視界を埋め尽くした。染め上げた。
一面の青。深い水底の、静謐なる清浄の場。
体を蝕む瘴気も、一瞬で浄化された。あらゆる不浄を、無情なまでに根こそぎ清める力だった。
『我が認めし、シュラ・エーアガイツの弟分よ。』
その言葉が、どんなに誇らしかったことか。
「くっくっく。」
全てを、瞬時に奈落に突き落とすように。魔王が嗤った。
「まったく…愉しませてくれる。サフィアの皇子本人ならともかく、そんな童を加護するとは。」
龍王も甘くなったものよ、と。真紅の双眸を細める。機嫌よく笑っているように見えるのが、かえって不気味だった。
底が知れない。
「まあ、構わぬ。所詮、座興。」
羽毛のように軽い口調。
「俺は、おまえさえ手に入れば良い。」
ひた、とシュラに紅い視線を据えて、妖しく、艶やかに瞳を光らせた。
白い手を。世界の創世から現在に至るまで、数知れぬ人の血で濡れ、それでも尚、白いままの美しい手を、シュラに向けて差し出す。
「オレとともに、魔界に在れ。」
まっすぐに。
「サフィアのラスト・プリンス。」
「断る。」
一言で、シュラが斬って捨てる。
激してはいない。むしろ、シュラの声は、ひどく静かだった。
ふだん怒鳴ることの方が多いのに、意外なほどに、あっさりと放たれた拒絶。その分、一切の迷いが無い。
だが、魔王は、一瞬たりとも揺らがなかった。むしろ、遊戯の最中のように笑む。
「そう。それでいい。」
全ては、掌の上だと。書いた脚本を外れてはいないのだと。
「おまえが、たやすく堕ちるなら、最初から要らぬ。」
魔王は、そこで初めてヘルツを、真紅の瞳にとらえた。
「さあ、我が駒よ、おまえの出番だ。」
シュラが、青い視線をヘルツに向ける。
ヘルツは、シュラに無言で頷き、魔王へ向き直る。
「残念だが。」
にやりと。不敵に笑う。いつもの、シュラのよく知るヘルツの顔で。
「反抗期だ。アンタがオレの生みの親でも、素直に従う気はないな。」
魔王は、相変わらず動じない。
「サフィアの皇子の信頼を勝ち得て、我が呪縛に打ち勝ったつもりか?だが。」
一気に。闇の濃度が増す。のしかかるように、重く。
シュラが、眉をひそめた。
イリスが、ごくりとつばを飲み込む。ほとんど無意識に、シュラの青藍のマントの端を握る。
移動した姿は見えなかった。
気が付いた時には、魔王はヘルツの眼前にいた。
「その信頼、自分だけのものに、したくないか?」
「え。」
ヘルツは、虚を突かれた。
魔王に視線を合わせてしまう。
「ヘルツ!」
シュラが叫んだが、届かない。
魔王の真紅の瞳が輝いた。
全てを貫く、光の刃。
ヘルツの瞳から、意志が抜け落ちた。
魔王が、紅い唇の端で笑う。白い手を、ヘルツのあごにかけて、持ち上げる。
ヘルツの前髪が流れた。
ヘルツの額の赤い六芒星が、鮮やかさを増す。
魔王が、屈んで、ヘルツに顔を寄せる。漆黒の髪が、滝のように流れ落ちる。
「妬ましいのだろう?」
甘い毒を、注ぎ込むように。
「ちが…ちがう…オレは…。」
弱々しく、ヘルツは首を振ろうとする。だが、魔王の指に絡め取られ、動けない。
「自分を縛る必要はない。」
魔王が、子守唄のように、ささやく。
「あれさえ、消えれば、サフィアの皇子が信じるのは、おまえだけだ…。」
その歌が、眠らせるのは。
「さあ、解放するがいい。」
ヘルツの理性。
「おまえの心の闇を。」
遠くで、誰かが叫んだ気がした。
☆
思考に、靄がかかっている。
全てが遠くなる。
誰かがささやいている。
「憎め。」
と。
一瞬でも気を抜くと、その声に、意識を乗っ取られそうになる。
シュラが、イリスに龍王の泪石を差し出した時の光景が、ヘルツの脳裏に浮かんだ。
同時に、鋭い痛みが胸を刺す。
それは、確かに魔王の言う通りの感情。
(違う。オレは、こいつを、憎んでなんかいない!)
「だが、あの者がいるから、サフィアの皇子は、魔界には…おまえの傍には留まらぬ。」
ズキリと胸が痛む。
どこかで否定する声がある。
シュラが魔界に留まらないのは、それだけが理由じゃない、と。
だが、理性から生まれる声を、感情が打ち消す。
「欲しいものを手に入れるがいい。邪魔なものを消して。」
あの、誰よりも気高い、稀有な青き宝玉のために。
「つっ…。」
ヘルツが、片手で額を押えた。
焼けるように熱い。
紅く輝く不吉の星が。
ヘルツが、その場に膝をつく。
歯を喰いしばる。脂汗が、こめかみを伝う。
火傷に似た激痛に、吐き気がする。
「ヘルツ!」
シュラが、凛と叫んだ。
濁りを押し流す清流のように。
ヘルツが、ハッと顔を上げる。
片膝をついたシュラが、すぐそばにいた。
「っ…。」
視線が合った瞬間、痛みが増す。
六芒星の輝きも。
額を押えるヘルツの指の間から、毒々しいほど紅い光が漏れ出す。
「シュラ、オレはっ…もうっ…。」
「諦めるな!」
鞭打つように叱咤する。
(考えろ。)
シュラは、焦りを押し殺し、思考を巡らす。
(この紅い六芒星が、魔王の所有印であり、ヘルツを操るというなら…。)
シュラは、ヘルツの額を凝視する。
指の間からのぞくのは。
紅い六芒星。
それを真っ二つに割く、一筋の古い傷跡。
シュラ自身がつけたもの。
シュラが、かすかに目を見開く。閃いたことがある。
(これに賭ける。)
「召喚、水の序列四位、水天使ガブリエル。」
場の空気が清められた。
水気を含んだ一陣の風とともに、天使が出現する。
純白の翼。銀髪に、アイス・ブルーの瞳。顔立ちは、ヘルツの呼び出す、炎天使ミカエルにうり二つ。
シュラが、ヘルツに向かって手を伸ばす。ガブリエルが、主の手に、自らの手を重ねる。
自分の額を押えるヘルツの手に、シュラが手を添えた。
古い傷跡が、水色に輝く。柔らかな、淡く優しい春の空の色に。
真紅の六芒星を、切り裂くように。
「!」
痛みと熱が和らいだ。
まさに魔法のように、すうっと、苦痛が遠のいて。淡雪が解けるように。
不吉の星が消え失せた。
シュラが、小さく安堵の息を吐く。ガブリエルを見上げ、頷く。ふわりと微笑み、役目を果たした天使が消える。
ヘルツの額には、傷跡だけが残る。もう光は帯びていない、ただの古い刀傷。
シュラが、ヘルツの額から手を引き、立ち上がる。
ヘルツが、座り込んだまま、シュラの背を見上げた。
「…シュラ。」
言い淀む。言葉を探す。
「オレは…。」
「醜い感情など、誰にでもある。」
視線を合わせず、前を見て。
「魔王は、それを増幅させて操る。そんな手口は、わかりきったことだ。」
魔王にとって、人は玩具。苦しめて弄ぶために在る。
青い視線の先に、艶然と微笑む魔王がいる。
いつの間にか、魔王は、離れた場所に佇んでいた。
シュラが、厳しく命じる。
「立て。」
手を差し伸べることはしない。
(わかってる。)
ヘルツは、ぐっと膝に力を入れる。
(シュラは、オレが、自分で立ち上がるって、信じているから。オレを、自分のライバルだと、認めているから。)
ヘルツは、シュラの隣に立つ。
「ヘルツさん、大丈夫ですか?」
近づいて来たイリスに、微笑みかける。
「ああ、もう大丈夫。」
イリスの耳朶に光る石を見ても、もう動揺はしない。
顔を上げて、ヘルツは魔王を見据えた。
「本当に、次々と、予想を覆してくれるものだ…。」
魔王は、観劇でも楽しんでいるかのような、軽やかな口調で言う。
「まあ、良い。概ね、計画通りだ。」
「計画?」
シュラが、眉をひそめる。
「そう。俺は、おまえに、弱点を与えたかった。六年前、おまえは、親兄弟でさえ、平気で見捨てた。冷酷にして残忍な皇子。あの時のおまえを、俺は意のままにできなかった。」
にい、と朱唇がつり上がる。
「だが、今のおまえは、どうかな?」
真紅の瞳が、触れたら凍りつきそうな冷たさで、シュラを流し見る。
「その二人を殺すと言ったら、おまえは、俺に従うだろう?」
「しつこい!」
シュラが吐き捨てた。
「貴様の思惑など、この手で叩き潰す!」
柳眉を逆立てて、吠える。
「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」
シュラの手中に、青く輝く長剣が出現する。
魔王が、す、と白い手を掲げた。漆黒の闇が、濃い霧のようにシュラに向かうのを。
「召喚、火の序列二位、オルタナティブ・フェニックス!」
ヘルツが召喚した、炎の鳥が、その身を盾にして庇う。
漆黒の霧は、火の鳥のまとう炎と相殺して消える。
視線も合わせない連携。
シュラは、そのまま魔王に突っ込んで、長剣を横に薙ぐ。
風圧で、城の壁に亀裂が入る。
しかし、魔王は、既にその場にはいない。
シュラの背後に、くるりと回り込む。白い手が、シュラの首筋に迫る。
バリバリと音をたてた、漆黒の雷をまとって。
イリスが叫ぶ。
「召喚、風の序列五位、シルフ・シールド!」
シュラの前に、竜巻が出現する。
暴風の盾は、魔王の手が触れただけで消し飛んだが、シュラが跳び下がるには十分だった。
だが。
「甘い。」
ふ、と魔王が笑む。
魔王が片手を天に掲げる。
漆黒の雷が、四方八方に放たれる。
「「「うあああああああっ!」」」
三人の悲鳴が重なる。
同時に倒れ伏した。
聖獣を召喚する間など、全くなかった。
三人とも、とっさに直撃はさけた。
だが、かすっただけで、立っていられないほどの衝撃に襲われた。全身に、猛毒を注ぎ込まれたようだった。
全く力が入らない。
「くっ…。」
シュラが、がくがくと、痙攣する両腕で上半身を支え、起き上がる。立ち上がれないまま、それでも魔王を睨み据える。
「シュラ。」
「シュラさま。」
ヘルツとイリスは、まだ、指一本動かせない。
魔王が、小首をかしげた。さら、と漆黒の長い髪が揺れる。
「おまえの大事な二人は、動けぬようだぞ。」
ゆっくりと、目を細めていく。肉食獣が、追い詰めた獲物をいたぶるように。
「どうする?」
シュラが、座り込んだまま、叫ぶ。
「召喚、水の序列二位、トライデント!」
吹き飛んだ天井の真上。魔界の空に閃光が駆ける。
空を裂き、轟音とともに、雷が落ちる。
雷は瞬時にその姿を変える。
床に突き刺さった、三つ又の矛へと。
「ヘルツ、イリス、息を止めろ!」
理由まで言う時間はなかった、それでも、シュラの声は、無条件に人を従わせる。
三つ又の矛から、大量の水が噴き出した。
突然、海が、それも、荒れ狂う嵐の海が出現したようだった。
激流の大波が、シュラ、ヘルツ、イリスを一瞬で押し流した。
☆
洪水が、三人の少年を押し流し、連れ去った。
大理石の床は、豪雨が起こした濁流の跡のように、水によって抉り取られている。
潮の香りが、かすかに漂っている。
魔王は、膝をつく。割れた床に溜まった水に、手を伸ばす。
「聖性がある。俺の電撃を浄化したな。」
魔王は、ゆっくりと立ち上がり、濡れた指先で唇に触れる。
それだけの動きに、匂い立つほどの色香がある。
「サフィアのプリンス。おまえは、いつ、諦める?」
魔王は考える。かの皇子は、どこまで足掻くのだろうと。
絶望に染まったことのない、あの青い瞳は、いつ。
「俺は、千年待った。」
魔王のつぶやきを聞く者は、今、この場にはいない。その年月に疑問を差し挟む者も。
「ずっと考えていた。俺には、時間だけはあったから。おまえの弱点になり得るものが何なのか。」
獲物は、仕掛けた罠にかかった。
魔王は歩き出す。水の跡をたどって、すべるように。
☆
壁の一面が崩れ落ちていた。
中庭に面した部屋だった。庭に出るための扉もあったのだが、周辺の壁ごと破られて、瓦礫の山と化している。
「…これは面白い。」
魔王は、眼前に広がる光景に、目を細めた。
中庭に、風が吹き荒れている。
というより、中庭が、台風の目になったようだった。周囲を、風が駆け廻っている。
風の結界に、すっぽりと覆われている。風の勢いは、大気の暴走さながらの激しさで、風の壁の外側や向こう側を視認することができない。
しかも、この風は。
カーテンが開くように。風の結界がほんの一部、隙間を空けた。
「浄化の風だ。」
中庭の中心に、凛と立ち、シュラが告げた。
濡れた亜麻色の髪から雫が落ちる。
「この風の内側は、貴様のフィールドでは無い。」
魔界では、魔王が圧倒的に有利。だから、聖なる風の結界で、地の利を奪った。
シュラは読んでいる。魔王が、自ら結界に入ることを。魔王の思考を。
「…確かに。ここだけは、魔界では無くなった。」
魔王の目が輝く。気に入りの玩具に、気づかなかった遊び方を見つけた子どものように。
「おもしろい。実におもしろいぞ、サフィアのプリンス。おまえは、本当に賢い。よく、こんなことを思いつく。追い詰められた、余裕のない状況で。」
褒めているのか皮肉なのか。両方か。
魔王は、結界の隙間から、内に入る。背後で、結界が閉じられる。
「ところで、あの二人はどこに?」
シュラは、薄く笑った。不敵な笑みだった。
「さてな。」
猛禽を思わせる鋭利な眼差しで、魔王を見据える。
魔王は、ハッと身構えた。
本能が告げた。
空気が変わったと。
温度、濃度、質感、匂い。
それらが、一瞬で急激に変化した。
絶対の聖性を帯びた。
もともと風の結界の内側は、魔界の瘴気を吹き払い、清涼さを保っていた。
だが、今は。
神界に限りなく近い、冷徹なまでの清冽さがある。
ただそこに立つだけの、シュラから。
清浄すぎて痛みを覚えるほどの冷気が放たれ、空気の温度を下げていく。
肌が、髪が、ひんやりと冷えていく。
時は満ちた。
シュラの美貌が、凄絶に冴えわたる。
魔王の視線が、吸い寄せられる。
聖なる結界は、魔王から地の利を奪うだけのものではない。
「降臨、水の序列一位、龍王!」
空間が、青一色に染まった・
神が御降る。
光を放つ鱗。一枚一枚が、青い宝玉のよう。
優美に広がる翼。
深い叡智と慈悲に満ちた、深海の瞳。
「憑依。」
シュラの一声で、神の姿が消える。
シュラの中に、降りる。
シュラの全身が、青い光を放つ。
亜麻色の髪が、青く染まった。
シュラの双眸が、鮮烈に煌めいた。
「これで、貴様と対等だ!」
シュラの手に、長剣が出現する。同時に、魔王に駆ける。
(速い!)
人の身に出せる速度ではなかった。
魔王がかわす。
だが、かわしきれない。黒髪が数本、断ち切られて舞う。
シュラは、返す刀で、さらに一閃する。
ガキッ!
と、甲高く空気を裂く、金属音。
いつの間にか、魔王の手にも、一振りの剣。
柄も刀身も、漆黒。鍔に輝く宝石だけが、血のように赤い。
魔王が、シュラの剣を受け止めた、刹那。
魔王の背後に、極寒の烈風が吹き荒れた。
魔王が、上体をひねり、腕を伸ばす。
魔王の手から、漆黒の霧が吹きだし、吹雪を呑みこむ。
「アジ・ダハーカ!」
シュラが命じる。
魔王の背後に出現していた、三つ首の竜が吠える。猛毒と電撃を、魔王に向けて放つ。
魔王の手が翻る。
バリバリバリッ!
闇色の電撃が、アジ・ダハーカに絡みつく。
アジ・ダハーカの消滅。
同時に、シュラが、魔王に突っ込む。
二振りの剣が、交錯する。
火花を散らす。
紅い花弁が散ったようだった。
鮮血が舞う。
剣は、全く同時に、地に落ちた。
シュラは、頬を切り裂かれていた。血の珠が、ぽたぽたと落ちる。
魔王が胸を押えていた。
浅く切られただけだが、魔王には衝撃だった。眉を吊り上げる。
「召喚呪なしで、呼んでいる…?」
「神を降ろしたオレは、聖獣を自在に呼べる!」
シュラが、高らかに叫ぶ。青い双眸が、爛々と輝く。野を駆ける獣の獰猛さ。
ざっと。
風も無いのに、青く染まったシュラの髪がなびいた。
その声に呼応して。
ラドン・アローが、魔王に降り注ぐ。
魔王が、両腕を掲げた。
漆黒の炎が荒れ狂った。
矢が、次々と燃え尽きる。
魔王が、炎ごしに嗤う。
「百の矢も、すぐに尽きるな。」
「そうか?」
シュラが笑みを返す。
ドスッ!
炎の壁を貫いて。
紺碧の矢が、魔王の胸に突き刺さる。
「っ?」
魔王の真紅の瞳が、驚愕に見開かれた。
「な…に…。」
唇から、一筋、鮮血が伝う。
ピキイイイイッ!
矢が刺さった場所が、凍りつく。
次第に広がっていく。
「龍王を宿したオレが呼んだ聖獣は、本来の序列を超える!」
シュラが告げる。
「ふっ…。」
魔王が、笑った。
ひどく晴れやかな、無邪気にさえ見える笑み。
「あははははははっ!面白い!面白いぞ、サフィアのプリンス!まさか、ここまでとは思わなかった!」
魔王が、矢を引き抜き、投げ捨てる。
ザクッと、地に突き刺さる。
魔王のオーラが、大きく弾ける。
漆黒の炎と化す。
魔王は、炎を自らの胸に置く。氷が一瞬で水から水蒸気になった。
シュラが、手を掲げた。
龍王の力が、氷の壁を生む。
全てを無慈悲に阻む、永久氷壁のはずが。
魔王の炎の中に、崩れ落ちる。
「チッ!」
シュラが舌打ちをする。
再び、手を掲げる。
氷の槍が、魔王へと向かう。
魔王が炎を放つ。
激突する。
神の力で作られた、炎と氷。
相反する神の力がぶつかり合い、凄まじい爆発が起こる。
魔王の漆黒の長い髪が、シュラの青く変わった髪が、激しくたなびいた。
シュラは、氷の槍を打ち続ける。
魔王は、炎を放ち続ける。
轟音。
閃光。
互いに、一歩も引かない。
両者の力は、全くの互角。
髪一筋でも気を抜けば、喰われる。
シュラは、両足に力を込める。
青い瞳が、狂おしく輝く。
「くたばれ、魔王!」
「威勢がいいな、サフィアのプリンス!」
魔王が、炎ごしに声を叩きつける。
「確かに、今、オレとおまえは対等だ。だが。」
魔王が、にいい、と唇を歪ませる。
シュラが、唇をかみしめた。
つ、と一筋、鮮血が伝う。
「龍王を降ろし続けて、いつまでもつかな?」
☆
風の結界の外側。
魔王を招き入れるために開けた入口とは逆の。魔王からは見えなかった位置で。
イリスの艶やかな黒髪が、風になびいている。
胸の前で、両手の指を組み、頭をたれて、目を閉じ。
イリスは静かに祈っている。
風の結界を維持するために。
吹き荒れる、聖なる風は、内と外とを断絶する。結界の内にいる、シュラの姿は見えない。中で、何が行われているかも。
シュラは、イリスに、「できるだけ長く、結界を維持しろ。」と告げた。
だから、イリスは、風を呼び続ける。
こめかみから、汗が伝うのを、ぬぐいもせずに。珊瑚色の唇を、一文字に、きゅっと引き結んで。
ヘルツは、唇をかみしめて、イリスの横顔を見る。
「貴様には、別の役がある。」
と、シュラはヘルツに告げた。
「オレが、龍王を降ろしても、魔王とは互角だ。それだけでは勝てん。」
シュラは、はっきり言った。
シュラは、プライドが高くて負けず嫌いで意地っ張りだが、敵の力を見誤ることはない。追い詰められた状況でも、冷静に最善の策を巡らせる聡明さで、ヘルツに命じた。
ヘルツからすれば、とんでもない無茶ぶりだった。
できるはずがないだろうと言いかけるのを、青い瞳の一睨みだけで制して、シュラは風の結界の中に消えた。魔王と戦うために。
叱咤も激励も無かった。シュラはただ、ヘルツに、魔王に勝つための唯一の手段を示し、貴様がやれと、ぽんと投げて寄越した。それだけ。
どうしたらいいのか分からない。
(オレにはできない。シュラ。魔王に作られたオレには、絶対に無理だ…。)
こうしている間にも、イリスの魔力は尽きていくだろう。結界の中のシュラは、どうなっているのかすらわからない。
焦りに、かみしめた唇に、血がにじむ。
「ヘルツさんなら、できますよ。」
ふいにかけられた声に、ハッと目を見開く。
イリスが、まっすぐに、ヘルツを見ていた。
朝露に濡れた葡萄のような、深い紫の双眸。
「だから、シュラさまが、やれっておっしゃったんです。」
ためらいの無い口調。イリスは信じている。シュラの全てを。
「ちょっと、…ちがうな、すごく、悔しいですけどっ。」
愛らしい顔立ちに、キッと険を走らせて。
許しがたいことであるかのように、ふっくらとした唇をとがらせて。
「シュラさまは、誰よりも、ヘルツさんを信じています。」
ヘルツは、ガツンと頭を殴られた気がした。
イリスのボーイソプラノと、シュラの低く艶めいた声は、全く似ていないのに。イリスの声に重なって、シュラの声が、聞こえた。
『貴様がオレのライバルなら、やってみせろ。』
(シュラ。)
すとんと、覚悟が決まった。
(おまえが、オレを信じてくれるなら、オレは、何だってできる!)
ヘルツは、肺の中が空になるまで息を吐いて、吸った。
赤紫の目を閉じる。
真摯に祈る。
自分が、魔王に作られた人間だと知ってから、もうけして届かないのだと諦めた存在へと。
(振り向かせてやるさ。だから…だから、待っていろ、シュラ。)
心を研ぎ澄ます。
深層へと。
呼吸が深くなる。
もう、迷わない。
☆
「龍王を降ろし続けて、いつまでもつかな?」
魔王が、からかうようにシュラに言う。
シュラは、親指の腹で、鮮血をピッと無造作に払った。魔王の目に、ひどく不遜に映る仕草だった。追い詰められた状況で、なぜ、と魔王が目をすがめる。
神を降臨させるのには、膨大な魔力が必要だ。しかも、シュラは、呼んだ神を、自らに憑依させ続けている。だからこそ、魔王と互角に渡り合っていられるのだが、費やされる魔力は、生命力まで削っているだろう。
(長くもつはずがない。)
しかし、そんなことは、シュラも百も承知のはず。ならば、なせ、シュラは平然と、否、悠然と、龍王の力を行使し続けていられるのか。
青く染まった髪が、はげしくたなびく。切り裂かれた青藍のマントが、嵐のただ中にいるように揺れている。
魔王に向かって放たれる、氷の槍。
それを呑みこみ続ける、漆黒の炎の壁。
相反する神の力の激突。
空気を振動させ、魔界全土を揺るがすようだった。
その中で、爛々と輝く、シュラの青い双眸は揺らがない。ぴたりと魔王に据えられたまま。
(何かを、信じている?)
魔王が、まばたきをした。
(何かを、待っている。)
確信とともに。
シュラの髪の一房、その毛先が、ほんの一瞬、亜麻色に戻った。シュラは、視界に入ったわけではないのに、眉をひそめた。
明滅するように、毛先だけが亜麻色と青に変わり続ける。
魔王は、唇を歪めた。
「何を企んでいるかは知らぬが、限界のようだな。サフィアのプリンス。」
シュラの生み出す氷の槍の本数と、勢いが減じた。
シュラは、感情を消した表情で、魔王を見て、言った。
「いいことを教えてやろう。」
厳しい眼差しだった。
冷たくはない。傲慢でもない。真実を正しく告げる時の、残酷なまでに一切の私情を排した声に、魔王は、どきりと息を詰めた。
苦し紛れの時間稼ぎでも、はったりでも無いことが、なぜか、わかった。
「オレは、カルト・ヘルツィヒ・サフィアではない。」
魔王の時が止まった。
雷に撃たれたように、棒立ちになる。
シュラが、笑う。
滅多に見せない、年相応の、否、幼く見えるほどの、満開の笑み。大輪の薔薇が咲いたような鮮やかさ。
「遅い!」
「悪い!」
風の結界を破って、ヘルツが突っ込んできた。眩い金髪をなびかせて。
シュラとヘルツの視線が交差する。一瞬より短い刹那。それで十分。
ヘルツが、全身で叫んだ。
「降臨、火の序列一位、永遠不死鳥!」
太陽が降りた。
黄金の炎が、漆黒の炎を焼き尽くす。
魔王の炎を。
焼き清める。
一瞬で駆逐した。
朱金に燃え上がる羽根をはばたかせた、炎の神。
その姿は、華麗にして荘厳。
優艶にして、神聖。
深い慈しみと、同時に、一切の妥協なき苛烈な激情を秘めた、ルビィの双眸が、魔王を、同胞を見据えた。
「終わりだ、魔王!」
シュラが吠えた。
「龍王の名において命じる!聖なる凍気に撃たれて落ちろ!」
龍王を宿したシュラの手から、氷の槍が飛ぶ。
きらきらと輝き、風を切って。
魔王に触れた瞬間、凍気が一気に魔王を包み込み、氷の棺に閉じ込めた。
☆
ヘルツは、座り込んだまま、肩で息をしながら、シュラを見上げていた。
中庭から、そこに面した部屋に戻っている。壁の一面をシュラが壊したので、部屋と言うには抵抗があるが。
シュラは、残った三面のうちの一つの壁に背を預け、腕を組んで立っている。相当消耗しているはずなのに、ものすごいやせ我慢だなと思うと、ヘルツは笑いがこみ上げてくる。
髪の色は、完全に亜麻色に戻っている。
神の気配は、もう無い。
龍王も、永遠不死鳥も。
シュラの足元では、イリスが、小さな体を丸くして眠っている。起きていると、シュラ以外の人間には、結構生意気だが、寝顔は天使のようだ。シュラが、青藍のマントを外してかけてやっている。
限界を超えて魔法を使ってしまったので、生命維持のために、体が睡眠を欲しているのだ。
正直、ヘルツも眠い。
(神を呼ぶなんて無茶を、あっさり命じるなよな…。)
絶対に無理だと思っていたのに。魔王に作られた自分が、神聖なる炎の神を召喚できるはずがないと。
ひどく静かだ。
聞こえるのは、イリスの寝息だけ。
魔王は氷の棺の中で、ぴくりとも動かない。
「ヘルツ。」
シュラがこっちを向いたので、視線が合う。
「動けるか?」
「ああ。」
ヘルツが頷いて、ゆっくりと立ち上がる。何とか、それくらいまで回復していた。それを見抜いて、シュラは声をかけたのだろう。
シュラは膝をついた。イリスを、マントにくるんだまま抱き上げる。
「イデアルが開けた、扉の場所は分かるか?」
どうやってイリスが魔界に来たかは、説明されていた。この瞬間も、イデアルが開いた扉を、ケルンとミステルが維持していることも。
魔界に、ごくわずかだが、清浄な気が流れ込んでいるのがわかる。その源にたどりつけばいいと。
「ああ。」
ヘルツが答えると、シュラが、腕に抱えたイリスを差し出してくる。ヘルツは、思わず受け取ってしまってから、焦る。
「おい、シュラ。」
「イリスを連れて、先にもどれ。」
「シュラ!」
なぜ、と怒鳴りつけたかった。けれど、声が喉の奥で凍りつく。口にしてしまったら、シュラが、もどらないのではないかという、根拠のない恐怖。
ヘルツが、イリスを抱え直す。イリスは、こんこんと眠っている。目を覚ます様子は無い。小さくて軽い体は、あたたかい。そのぬくもりに、勝手に励まされた気になって。
ヘルツは、かすれた声を、しぼり出す。
「もどって…来るな?」
「当然だ。貴様と、真の決着をつける。」
稀有なことに。
シュラが無邪気に笑った。
ヘルツが、ぎょっとする。冷笑や嘲笑しか浮かべないやつだと思っていた。それでなかったら、傲慢な高笑い。
逆に不安になる。
シュラは、幻かと思うほど、あっさりと笑みを消して。
「オレには、サフィアの皇子としての、最後の役目がある。」
初めてだと、ヘルツは思う。シュラの口から、その言葉が出たのは。
シュラが、自分をサフィアの皇子であると、認めたのは。
☆
「さて。」
居丈高に腕を組み、壁にもたれたシュラが、氷の棺を一瞥した。
「そろそろ、動けるだろう。」
氷の棺が、粉々に砕け散った。
凍気が、白く周囲を覆い隠す。
それが張れた時。
魔王が、ゆっくりと進み出た。
「…やれやれ。やってくれたものだ。」
軽く嘆息。
「龍王といい、不死鳥といい、ずいぶん甘くなったものだ。おまえならともかく、俺の手駒の声に応えるとはな。」
「誰に作られ、どこに生まれたかなど、たいした問題では無い。」
シュラが、気負いなくあっさり言う。
「…言うな。」
魔王が苦笑する。で、とシュラを紅い瞳で流し見る。
「おまえは、なぜ、ここにいる?危険だと思わないのか?」
ひやりと。
刃物を首筋に突き立てるような声。
だが、シュラは、冷ややかに切って捨てた。
「氷の棺に魔力を吸われただろう。回復するまでまだ時間がかかるはずだ。」
見破られていた魔王は、黙る。
「それに。」
と、シュラの声音が変わった。優しくはない。憐れみでもない。
まっすぐに、心に切り込む声。
「もう、貴様は、オレに執着していないだろう。」
「…。」
「否。貴様は初めから。」
「そうだ。おまえは、カルトじゃない。」
その名を口にした時だけ、魔王の声が複雑な響きを帯びた。
怒りも悲しみも喜びも、全てを内包した声。呼んだのは、憎むべき敵か。それとも。
魔王は、シュラに顔を寄せた。後ろは壁。シュラは、顔を背けもせず、受けて立つ。詰めた距離から。
「…姿は、そっくりだ。髪も瞳も、同じ色。だが、違う。あいつは、誰も必要としない奴だった。最後まで。」
ゆっくりと、唇にその名を乗せる。毒のように苦いのか、蜜のごとく甘いのか。とても、慎重に。
「カルト・ヘルツィヒ・サフィア。」
一篇の詩を、謳いあげるように。
「サフィア王国の祖。たった一人で国を興した、伝説の魔法使い。魔法使いとしても、王としても、最高で。」
魔王は、顔を伏せた。声と肩が、かすかに震える。
シュラは、ただ、耳朶を滑り落ちる魔王の声を聞く。
魔王が語る、初代国王の血を引く者として。
「人としては最低だった。残忍で冷酷で、一片の慈悲も無く。戦うことだけが、何よりも好きで。」
どうして、記憶は、こんなにも鮮やかなのか。千年も経ったのに。あの青い瞳の、刃のような輝きが、胸に刺さったまま消えない。
「面白いと思った。手に入れたかった。だが、妃も皇子を、人質にとっても、あいつは、眉一つ動かさず、見殺しにした。」
妻や子の命は、彼にとっては軽かった。行動を縛るものには成り得なかった。
「だから…あいつにそっくりなおまえも、きっと同じだ。」
だから魔王は、ヘルツを創りだした。
カルト・ヘルツィヒ・サフィアには、並び立つ者は誰もいなかった。だが、もし、彼の隣に立てる相手がいたならと。
そうして、全てを仕組み。
魔王は、顔を上げた。
正面から、シュラを見る。
「だが、おまえたちも、俺の意のままにはならない。」
千年の孤独。
シュラは、組んでいた腕をほどく。居住まいを正す。
ただそれだけで、シュラのまとう高貴さが、決定的なものになる。洗練された立ち居振る舞いは、彼が、皇子として生まれ育った者なのだと、雄弁に語る。
魔王は、まばたきをした。
シュラは、告げる。
誰かの前に、それがたとえ父王であっても、膝を折るのが大嫌いだった。誰かを敬う気持ちなど、持ったことが無い。
けれど、この言葉だけは、真摯に伝えなければならないと。
「サフィアの第一王位継承者にのみ、伝えられてきた言葉がある。」
この声に、宿るものがあればいい。
「カルト・ヘルツィヒ・サフィアの血を引く最後の皇子として、貴様に、初代国王の言葉を伝える。」
魔王が、一番に望む声で、伝わるといい。
『魔王よ、おまえは、オレの、生涯唯一の友だった。』
魔王の顔から、一切の表情が消える。
全ての音が消えた沈黙。
泣くことも、笑うこともなく。
魔王は、ただ、衝撃に立ち尽くしたまま、微動だにしない。
やがて。
大きく息を吐き出した魔王は、壁に拳を打ちつけた。蜘蛛の巣状に亀裂が走る。
シュラは、踵を返して、歩き出す。
「カルト。」
かすれた声でつむがれた名を、背中に聞く。
別れの言葉は無い。
魔王が感情を向けるべき相手は、自分ではない。
千年受け継がれた言葉で、魔王が救われたわけではないだろう。魔王の望みが叶ったわけではないのだから。
それでも、支えになればいい。
今までも、これからも、神として永遠を生きる魔王の。
シュラは、歩き続ける。
なじみのある波動の方向へ。光射す場所へ。魔界からの出口へ。
彼を、カルト・ヘルツィヒ・サフィアとは違う人間にした者の待つ場所へ。
★
終幕 永遠の好敵手
月が、皓々と輝いて、地上を照らす。魔界とは違う一つの月。柔らかな金色。彼の髪と同じ。
月光を浴びて腕を組み、目を閉じてシュラは待っている。
自分以外、誰もいない、静まりかえった闘技場の中央で。
涼やかな夜風が、青藍のマントと、亜麻色の髪を揺らして吹き過ぎる。髪が乱され、耳朶に光る青い宝玉が、きらりと月光を弾いた。
カツン、と足音。
近づいて来る。聞き慣れた音。
「待たせたな、シュラ。」
シュラは、目を開けて、声の主を見据えた。
濃い紅のマント、月と同じ黄金の髪。生き生きと輝く、アメジストの瞳で、まっすぐにシュラを見る。
「遅いぞ。」
不機嫌そうに言うシュラに、ヘルツが苦笑する。
「おまえなあ…こんな夜中にいきなり呼び出しておいて、それはないだろう。これでも急いで来たんだぜ。」
シュラは、それがどうした、当然だろう、という顔をしている。
ヘルツは、やれやれとため息をつく。
(しょーがない、こいつってこういう性格だ。)
流石は元皇子さま、と考えて、ああ違うなと考え直す。
(皇子だからじゃなくて、シュラだから、こういう性格なんだろうな。)
ヘルツは、浮かんだ笑みを消した。
視線が、強く絡む。
空気が、一瞬で張り詰めた。
温度が下がる。
シュラが、低く抑えた声で告げる。
青い瞳が、爛々と輝いている。
沸き立つ歓喜と興奮に、白い頬を薄紅に染めて。
「ヘルツ、決着をつけるぞ。」
ヘルツは、ごくりとつばを呑んだ。
背筋に、電撃が駆けのぼる。
「…ああ。」
二人の声が重なる。
「「魔法戦闘」」
吹き過ぎる、一陣の風。
「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」
シュラの手に、青銀にく輝く氷の長剣が出現する。
「召喚、火の序列二位、エクスカリバー!」
ヘルツの手に、黄金に輝く炎の剣が出現する。
二人は、全く同時に、相手に向かって突っ込んだ。
ガキイィッ!
火花が散る。
空気がびりびりと震える。
刃ごしにシュラと視線を合わせ、ヘルツは笑う。
(なあ、シュラ。オレたちは、決着なんてつかない。)
きっと、今、シュラも同じことを思っていると、ヘルツはわかる。確信をもって。
(オレたちは。)
(永遠の好敵手。)
終
読んでいいただいた方がもしいらっしゃるなら、とてもうれしいです。ありがとうございます。