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最強の魔法使い(後編)  作者: 火威
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最強の魔法使い(後編)第三幕、第四幕、終幕

「最強の魔法使い(前篇)」の続きです。そちらを読まないとわけがわからないと思いますので、そちらからお読みください。この後編で完結しています。

「最強の魔法使い」(前篇)第二幕からの続き


第三幕 雷鳴の決別


「…ようやくだ。」

 低く、ささやかれた声音は、ぞくりと肌が粟立つような、凄みと艶を帯びていた。

「ようやく、貴様と決着がつけられる。」

狂気が混じるほどの歓喜に、青い瞳が危険な輝きを放っている。

「この時を待ちわびたぞ、ヘルツ。」

 ヘルツは、魅入られたようにシュラの瞳から、視線が逸らせない。

 空気が、薄い。呼吸が、うまくできない。

 一瞬でも気を抜けば、この青い視線に、絡め取られてしまう。

 自分の奥底から、共鳴するように湧き上がる感情がある。

 自分が自分でなくなりそうなほどに、昂ぶっている。

 ヘルツは、に、と唇の両端を引き上げて、笑う。

「…ああ。オレも、待っていた。ずっと。おまえと、全力で闘える日を。」

 風が吹く。

 曇天に似合いの、湿り気を含んだ、重い風。

 シュラのまとう青藍のマントを、亜麻色の髪を揺らして、吹き過ぎる。

 シュラの耳にかかる髪が吹き上げられ、両の耳朶を飾る青い宝玉が光るのが、ごく短い間だけ見える。

龍王(ドラゴン・ロード)の泪石…。)

 神である龍王を召喚できた魔法使いなど、人類の長い歴史を紐解いても、片手で数えるほどしかいない。謂わば、シュラは、生きた伝説だ。

 龍王は、自らを召喚した魔法使いに、泪を結晶させた守護の石を贈る。伝承によれば、龍王の右目の泪は、勇気を、そして、左目の泪は、希望をもたらすのだという。もっとも、シュラは、わざわざ古文書を調べ上げて教えたヘルツに対し、「どっちが右で左か、区別なんぞつかんわ。」と、一蹴したが。

 それでも、神に贈られた守護石なので、一応身に着けている。真の(ミスリル)で五芒星をかたどったピアスを作らせ、星の中央に、泪石を入れた。

 シュラの瞳が、澄み切った青空の色彩なので、「同じ色の石は、とてもよくお似合いです。」と、イリスが絶賛していた。もっとも、シュラに傾倒しきっているイリスは、シュラの一挙手一投足の全てを褒めるのだが。

 だが、この件に関しては、ヘルツも異論はない。

 生憎の曇り空で、鮮やかな蒼穹が見えなくても、シュラの瞳と、龍王の泪石は、青空を切り取ったように眩い。

シュラとヘルツは、同時に叫んだ。

魔法戦闘(バトル)!」

 時間は、一月ほど遡る。

魔術結社<ヴァールハイト>の最奥、総帥の執務室。部屋の主たるイデアルに、シュラは向き合っていた。

「何の用だ。」

 シュラは、目の前に座る相手を見下ろし、居丈高に問う。相手が誰であっても、この尊大な態度は揺らがない。

 イデアルは、もはや咎めても無駄なので、やれやれと苦笑するに留める。シュラの傲慢さは、実力に見合うものなので、目をつぶらざるをえないところもあるのだ。

 イデアルは、シュラ相手に小細工をする気はないので、本題をずばりと告げた。

「シュラ・エーアガイツ。君に、総帥の位を譲りたい。近いうちに…少なくても、半年以内には。」

 多少のことでは動じないシュラだが、わずかに息を呑み、イデアルを見返した。

「ああ。うれしいな。君を驚かせることなんて、滅多にできないからねえ。」

 くすくすと、子どものように、イデアルは笑う。落ち着いた美丈夫のくせに、時々子どもっぽい言動をし、それが妙に似合う。

「…理由は?」

 シュラが問う。多方面に攻撃的に見えるが、シュラはけっして短絡的ではない。むしろ、思慮深く聡明で、明晰だ。

 イデアルの力が、いささかも衰えていないことも、自分の年齢は、総帥どころか、賢者としても若すぎることを理解している。

 イデアルは、アイス・ブルーの目を細める。シュラは、魔法の腕が優れているだけではない。総帥の座を任せても、問題はない。

「シュラ。私はね…ずいぶん、長く生きたよ。」

 魔法使いは、召喚する精霊の加護を受けることで、肉体の老化がゆるやかになる。力の強い魔法使いほど、高位の精霊を召喚するので、その傾向が顕著である。<ヴァールハイト>総帥にイデアルは、本当に長い間、二十代後半の姿を保っている。

「長く生きた魔法使いはね、勘が鋭くなるんだ。それは、魔法とは別の領域でね。予感がするんだよ。」

 イデアルは、静かな、その本来の年齢に見合った深い眼差しで、シュラを見た。

「大いなる危機が訪れようとしている。<ヴァールハイト>どころか、グラナト王国全土…否、この世界そのものを呑みこみ、揺るがすような危機が。それに対処できるのは、私ではない。」

 シュラは、ふとまばたきをした。ふいに、イデアルの印象が変わった気がした。影が差した、というのか。外見は何一つ変わらぬままに、気配だけが老いたような。

「必要なのは、若い力だ。その時に、君こそが、<ヴァールハイト>の頂点に立っているべきだと、私は思う。」

 シュラは、ニッと笑った。

「ハハハハハハハハハッ!」

 執務室に、傲慢な高笑いが響き渡る。

 イデアルは、度肝を抜かれて、シュラを眺めた。

「いいだろう。」

 シュラは、閃光のように、鮮やかな笑みを閃かせる。

「<ヴァールハイト>総帥の座は、最強の証。いつか貴様から奪い取ってやるつもりだった。だが。」

 シュラは、笑みを消し、青い目に危険な輝きを宿す。

 紅い炎よりも熱い、青き炎か。天を裂き、地を貫く、蒼い雷光か。

「最強を名乗るために、オレには、まだ倒さねばならない相手がいる。」

 シュラが、脳裏に誰を思い浮かべて闘志を燃やしているのか、イデアルにはわかる。

 誇り高い、孤高の天才が、唯一、自分に並び立つと認めたライバル。

「大規模な魔術戦闘(バトル)の大会を開いてもらおうやつを、そこで完膚なきまでに叩き潰してこそ、オレは最強を名乗れる。」

「その話なら知ってますって。五年前の、若獅子たちの闘いって、もはや伝説ですから。シュラさまとヘルツさんの一騎打ち。結局、決着つかなかったんでしょう。」

「…伝説…?」

「はい。オレたち、よく論争になりますよ。あれは、ウィル・オ・ザ・ウィスプの炎に突っ込んだシュラさまの勇気を讃えて、シュラさまの勝ちだ、とか。」

「…どっちかって言うと、無謀じゃないか?」

「そんなことありませんっ!シュラさまを侮辱したら、ヘルツさんでも許しませんよっ!」

「いや、オレは当事者としての感想を。」

「当事者だって関係ありませんっ!」

「…それにしても、イリスはなんであの魔術戦闘の流れを知っているんだ?五年前じゃ、入学してもいないだろう。」

「若獅子たちの闘いの公式記録は、許可をとれば閲覧できます。オレは一字一句、暗証できますよっ!ていうか、シュラさまの魔術戦闘の公式記録なら、全部おぼえてますけどねっ!」

「…オレ、ちょっとおまえが怖くなったぜ…。」

 総帥の執務室から出て、廊下を少し歩いたところで、シュラは足を止めた。

(珍しい組み合わせだな。)

 と思う。

 総帥の執務室は、<ヴァールハイト>の最奥なので、入れる人間は限られている。よって、しんと静まり返っているのが常だ。こんな風に、賑やかな会話が交わされていることなど滅多にない。

 そもそも、成績優秀な特待生とはいえ、<アカデミア>の一生徒のイリスは、こんなところまで入れないはずなのだが。

 と、考えていると、気配を察したのか、イリスが振り向いた。

「シュラさまっ!」

 パッと顔を輝かせ、走って来て、青藍のマントにまとわりつく。

 主人のもとにまっしぐらに走って行く、かわいらしい愛玩犬のようだなと、ヘルツは思う。

「何か用か?」

 イリスに尋ねるシュラの声や表情は、他の人間に向けるそれらよりも、心なしか険が少ないように、ヘルツには見える。

(まあ、こいつは、自分じゃ気づいていないんだろうがな。)

 小さくくすりと笑い、ヘルツは、つきりと胸を刺した痛みに目を見張る。

(何だ…今のは…。)

 それは、たとえるなら、不吉な予感。避けられない運命の片鱗のような…。

 ヘルツを置き去りに、シュラとイリスの会話は進む。

「オレ、どうしても、すぐにシュラさまに聞いていただきたいことがあって!そうしたら、ヘルツさんが、ちょうど、総帥のところに、任務完了の報告をしに行くところだったから、つれて来てくれたんです!」

 賢者のヘルツの同行者としてなら、執務室のエリアにも入れる。

「オレに聞かせたいこと?」

「はいっ!オレ、一か月後の若獅子たちの闘いに出られるんですよっ!」

 シュラは、けげんな顔になる。イリスが、目を輝かせ、白い頬を紅潮させて報告することにも思えなかった。

「若獅子たちの闘いなら、入学して一年の生徒なら全員出られ…。」

「それはシュラさまたちの代までです。今は、魔術理論、精霊知識、召喚実践、魔術戦闘の全ての分野で優秀な成績を収めていないと、出場資格が与えられないんです。それから、トーナメント方式になって、優勝者も決めるんですよ。」

 若獅子たちの闘いに出られるというだけで、大変な名誉だが、優勝できれば、将来は賢者の位も確実なのだと、イリスは、はしゃいで告げる。

「そうか。選抜方式になったのか。」

 頷くシュラを見て、イリスは、

「変わった原因、オレは間違いなくシュラさまにあると思うんですが…ケルンって人に、バトルを申し込まれて、身の程知らずがって怒ったシュラさまが、半殺しにしかけたって…ねえ、そうですよね、ヘルツさん。」

 突然ふられ、ヘルツは、はっと我に返る。

「…ああ。オレも、おまえが原因だと思うぞ。」

「フン。」

 シュラは、全く悪びれず、鼻先でせせら笑った。ヘルツを見下ろし、居丈高に言う。

「そんなくだらん話をしていないで、貴様はさっさと執務室に行け。」

「わかってるさ。」

 ヘルツは、肩をすくめ、シュラたちから離れて歩き出す。

 その背中に。

「イデアルから、おもしろい話があるはずだ。」

 ひどく思わせぶりな、シュラの台詞が投げられた。

 思わずヘルツが振り返ると、シュラは、笑みを含んだ青い瞳を向けてくる。策を巡らしている、不穏で剣呑な眼差し。そんな表情でも、見惚れるほど綺麗なのは、単に顔立ちが整っているだけではないのだろう。

 無条件で人の視線を釘付けにする、抗いがたい魅惑の力。ヘルツが、声を低くした。

「…シュラ。何を企んでいるんだ?」

「さてな。」

 ここで答える気は無いらしい。問い詰めてもどうせ無駄なので、ヘルツは諦めて歩き出す。

「イリス。優勝できたら、褒美をやるぞ。」

「本当ですかっ!オレ、がんばりますねっ!」

 イリスの明るい声が響くのを、背中で聞きながら、ヘルツは、胸を押えた。

 焦燥が、ある。

 いつもは気にならない執務室の廊下の薄暗さが、今日はやけに気に障った。

 そして、時間は進む。シュラとヘルツの魔法戦闘の舞台へと。

 魔術結社、<ヴァールハイト>最大規模の円形闘技場、エアスト・コロシアム。収容人数は、千を超えるが、席は、ほぼ満席になっている。

 ヘルツは、ふと思い出す。

(若獅子たちの闘いをやった、ツヴァイト・コロシアムの比じゃないな。)

 あの頃は、ツヴァイト・コロシアムの威容にさえ圧倒された。萎縮はせず、逆に高揚したが。

 あそこで、初めて、シュラと闘った。五年たった今も、心に鮮明に焼付いたままの記憶。

 五年前までの記憶が無い自分にとって、振り返ることのできる過去があることが、どれほどの喜びか、シュラにはわからないだろう。

 この記憶をくれたシュラに対する思いも。

(オレも、ずっと、思っていたんだ。決着をつけたいと、な。)

 餓えるように、焦がれるように。取り繕えない、むき出しの欲望が、胸の奥でずっと燻っていた…。

<ヴァールハイト>中の魔法使いが固唾を呑んで見守る中、稀代の天才たちの闘いの幕が、切って落とされた。

 ヘルツは、シュラをまっすぐに見据える。

 シュラの白皙に肌が、沸き立つ感情に、紅潮している。

 空気を震撼させるオーラを感じる。肌がぴりぴりと痛む。そのうちに、ぱっくりと割れて血が噴き出しても不思議には思わない。

 全開のシュラの闘気。

 対峙するだけで、魂が焼かれる。

 狂気に変わる寸前にまで高まった高揚。

 ゾクゾクする。

 気を抜けば殺される気さえするのに、酔ったように心地よい。

 極上の美酒だ。もしかしたら、麻薬か。

 シュラがこんな目を向ける相手は、自分だけだと知っているから。これから始まる闘いが、至上の喜びになる。自分も、シュラも。

 ヘルツは、大きく息を吸い込んだ。空気を叩き斬るように叫ぶ。

「召喚、火の序列二位、オルタナティブ・フェニックス!」

 炎の翼が羽ばたいた。

 観衆がどよめく。

「最初から、第二位かよっ…。」

 叫んだのは、ケルンか。

 ゴウッと、炎が生んだ熱風にあぶられ、シュラの亜麻色の髪がなびく。耳朶にかかる髪がふわりと上がり、ピアスの石が青く冷たく光る。

 シュラが、フッと薄紅の唇に笑みを飾る。

 最上級の聖獣か、と青い目が煌めいた。

 ヘルツは、同じ笑みで応えた。

 オルタナティブ・フェニックスは、ヘルツが召喚可能な、最強の聖獣。この上には、神しかいない。

(最初から、全開。)

 でなければ、面白くない。

 シュラの白い手が翻る。

「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」

 その手に現れたのは、シュラの身長ほどもある長剣。柄の意匠の蛇の目が、凍てつく青さを放つ。

 シュラは、そのままオルタナティブ・フェニックスに向かって突っ込む。

 火の亜不死鳥が羽ばたく。出現した炎の壁を、シュラが剣で薙ぎ払う。

 サーペント・ソードには「永続」がかかっている上に、オルタナティブ・フェニックス本体に触れたわけではないので、この程度で剣は折れはしない。

 肺まで焼く、灼熱の空気の中を、全く怯む気配もなく駆け抜ける。

 しかし、それくらいは、ヘルツも読んでいる。シュラの闘争本能と、蛮勇と紙一枚の好戦さも。

「召喚、火の序列二位、エクスカリバー!」

 ヘルツの手に出現したのは、黄金の剣。神の金属、オリハルコンが、目を射る輝きを放つ。柄の細工は、フェニックスを模した火の鳥。目に埋め込まれたのはルビー。

 ギインッ!

 耳をつんざく金属音が響き渡った。

 二振りの名剣がぶつかり合って、火花が散る。

 シュラのサーペント・ソードと、ヘルツのエクスカリバー。

 水と炎の二位、どちらも、武器型の聖獣の、最高位。

 シュラとヘルツは、刃ごしに視線をぶつけ合った。

 息がかかるほど間近から、紺碧の双眸に見下ろされ、ヘルツは、歯を喰いしばってにらみ返す。シュラは、身長差を利用して、上から体重をかけてくる。

「剣で受けたのは失敗だな。」

 冷たくせせら笑うシュラ。

 ヘルツの腕が震える。だが、ニヤリと不敵に笑った。

「そうかな?」

 挑発的な笑みに、シュラは目をすがめる。ヘルツが叫んだ。

「オルタナティブ・フェニックス!」

 亜不死鳥が、突っ込んでくる。

 シュラに向かって。

 シュラは、背中に、炎獄が迫るのを感じながら、振り向かない。

「召喚、水の序列二位、アジ・ダハーカ!」

 シュラの背に、三つ首の竜が出現する。

 それぞれの首の口からは、猛毒と電撃と、全てを凍てつかせる氷の息吹を放つ。

 炎の鳥と、三つ首の竜が激突した。

 炎と猛毒と電撃と吹雪。

 全てがぶつかり合い、爆発する。

 爆風と閃光。

 至近距離でまともに喰らい、シュラもヘルツも、闘技場の石の床に叩き付けられる。

 百戦錬磨の二人だが、衝撃が凄まじすぎて、流石に受け身がとれなかった。それでも、シュラは、体が上げる悲鳴など無視して、立ち上がる。ヘルツも、歯を喰いしばって、膝に力を入れた時。

 ポツッ。

 鉛色の曇天から、限界だというように、滴が落ちる。

 パラパラッという軽い音は、すぐにザーッと一気に降り注ぎ、視界を白く染める。

 シュラは、亜麻色の髪から、滴を落としながら、微動だにしない。

 ヘルツは、額にかかる濡れた前髪をかき上げた。

 二人とも、雨ごときに、影響は受けない。

 しかし。

 閃光が、灰色の雲を切り裂いた。

 数秒遅れ、獣のうなり声にも似た、低い音。

 イデアルが、すっと立ち上がった。銀の髪をサラリと背に流して。

「召喚、光の序列二位、ユニコーン。」

 淡い紫の光に包まれた、一角獣が出現する。優美にたてがみをなびかせた馬の背に乗り、イデアルは、闘技場に舞い降りる。

 シュラとヘルツの、対峙する中央へ。

 雨の中でさえも、その気迫と闘気が肌を焦がす、戦場にも似た緊迫感の張り詰めた中へ、気負いなく。

 その姿は、確かに、世界有数の魔術結社、<ヴァールハイト>の現総帥にふさわしかった。

 イデアルが、両手を広げる。左右の掌を、それぞれ、二人の賢者にさらして。

「そこまで。」

 静かだが、雨音の中でも、不思議とよく通る声。

「この魔法戦闘(バトル)、一時中断とする。」

 雨はやまない。世界を水の幕で覆うように降り続ける。そして、時折、雨も曇天も貫いて、閃光が走った。

「やまないな、雨。」

 ヘルツが、雨に打たれ続ける舞台を眺めながら呟いた。

 コロシアムは、舞台は空の下だが、選手控室や観客席には屋根がある造りだ。シュラとヘルツは、控室に移動していた。

 イデアルからは、

「雨くらいなら構わないが、落雷の危険が去るまでは、魔法闘技(バトル)を再開するわけにはいかない。」

と言い渡されている。

「なあ、シュラ、魔法戦闘(バトル)の再開は、いつ頃になると思う?」

「長くても数時間待つだけだ。」

 答えるシュラの声は、素っ気ない。そして、冷ややかな視線を向けてくる。

「で、貴様は何故、オレの控室にいる。」

「いいだろ、べつに。お互い、一人でいても退屈なだけだ。」

 ヘルツは軽い口調で言うが、シュラは一蹴した。

「ふざけるな。」

 闘う相手と慣れあう気は無い、と言わんばかりの、氷の声音。

 ヘルツは、肩をすくめた。

「つれないな、相変わらず。」

 まあ、友好的なおまえなんて、想像できないけどな、と笑い、シュラに、射殺しそうな目で睨まれた。

「シュラさまっ!」

 バタン、と控室の扉が勢いよく開いた。

 黒髪をなびかせて飛び込んできたのは、紫水晶の瞳の美少年。

「イリス。」

 シュラが、かすかに青い目を見開いて、少年の名を呼ぶ。

「おまえ、どうやって、ここへ。」

「シュラさまっ!見てくださいっ!オレ、約束通り、<若獅子たちの闘い>、優勝しましたよっ!」

 誇らしげに掲げて見せるのは、燦然と輝く金のトロフィーだ。

「ほお。」

 と、シュラは、かすかに笑う。

 ヘルツとイリスの二人が息を詰めた。見惚れるほどに綺麗な笑み。

 頬を赤く染めたイリスが、トロフィーを、テーブルに置き、早口に言いながら、シュラに近づく。

「まったく、困っちゃいます。なにも、シュラさまたちの闘いと、<若獅子たちの闘い>を、同じ日にしなくてもいいと思いません?こっちは、雨が降る前に決勝戦まで終わったから、飛んで来たんです。」

「そうか。」

 シュラは頷き、白く長い指を、自らの右の耳朶に置いた。器用に優雅に動く指先で、ピアスを外し、イリスに向かって、無造作に投げる。

 五芒星がきらりと、銀の軌跡を描く。

「っ!シュラさまっ?」

 シュラのコントロールとイリスの反射神経の両方がよかったのだろう。シュラの突然の行動だったが、イリスは、龍王(ドラゴン・ロード)の泪石をー値などつけられない、至高の宝玉を何とか落とさず受け止めた。

 シュラは、溜めもなく、あっさり言い放つ。

「褒美だ。くれてやる。」

「!」

 イリスは、大きな暗紫の瞳を丸くした。すぐには声も出ない。何度か、ぱくぱくと口を開け閉めして、ようやく細い声を絞り出した。

「そんな、いただけません。こんな…こんな、大事なもの…。」

 シュラの左の耳朶と、イリスの手の中で眩く透明に煌めく、澄み切った青い石。これは、この世にたった二つしかないもの。世界を創造した神の一柱、龍の泪が結晶した、神の力を宿す石。

 金銭的価値以上に、これは、シュラの魔法使いとしての力を示すもの。シュラの矜持の象徴だ。

 ピアスを握るイリスの両手が震えた。震えが止まらないままの手を、シュラに向けて差し出す。

 だが。

「いらんなら捨てろ。」

 シュラの声は、いっそ冷たいほどに迷いがなかった。イリスに、ひた、と青い視線を据える。龍王(ドラゴン・ロード)の泪石と同じ色の、それよりも強く輝く、生きた宝玉の双眸。

 イリスは、呼吸さえ忘れて、シュラを見返す。魅入られた、では生温い。呪縛されたかのように。

「重いなら、強くなれ。それにふさわしいと胸を張れるまで。」

 その声も、瞳も、けして甘くも優しくもない。けれど、イリスは、一生忘れないと思った。生涯、自分を支えてくれると思った。このシュラの言葉が。この先、何があっても、揺らがず立てると。

「はいっ…はい、シュラさま。一生、大切にします。いつか…シュラさまにいただいたこの石に、ふさわしい魔法使いになります。絶対っ!」

 ぎゅっと、ピアスを握りしめ、イリスが深く、頷いた。瞳から零れ落ちそうになる涙を、必死に瞬いてこらえる。

 潤んだ瞳は、朝露に濡れた葡萄のようだと、シュラは思った。その瞳が、喜びに輝くと、胸があたたかくなる。その感情の名を、まだシュラは知らない。

 ヘルツは、目の前の光景に、凍りついていた。

 指一本どころか、瞬きすらできなかった。

 シュラがイリスに向ける眼差しが、ヘルツに、戦慄に近いほどの恐怖をもたらす。

(雨が、うるさい。)

 降り続ける雨の音が、やけに癇に障る。

 声が、響く。


 時は、満ちた。


 聞きたくない、とヘルツは思う。それなのに、耳を塞げない。

 わかっている。本当はわかっている。

 この声は、自分の内側から響く声。

 だから、拒絶することなどできない。


 さあ、今こそ、おまえの使命を果たせ。


 嫌だ、と思う。悲鳴のように。けれど、喉が干上がって、声も出ない。


 おまえは、そのためにだけ在る存在。


 ぷつりと、音をたてて。

 ヘルツの中で、全ての糸が断ち切られた。

 ヘルツが叫んだ。

「召喚、闇の序列二位、堕天使ルシファー。」

 漆黒の翼が、バサリと音をたてる。広がった翼は、部屋の端から端まで届くほど大きい。一気に部屋の明度が下がる。

邪悪で残忍な笑みを浮かべているのに、その天使は美しい。背筋が凍りつく美貌。その白い手には、刀身も柄も漆黒の剣。禍々しい輝きを放つ。

「やれ、ルシファー。」

 感情の無いヘルツの声に命じられ、ルシファーが、漆黒の剣を一閃する。

「イリス!」

「え?」

 眼前に迫った漆黒の閃光に。

 よけるどころか、一切の反応ができなかったイリスの体を、シュラが抱えて跳ぶ。

 さすがに、着地の姿勢は崩れた。床に転がったシュラが、イリスを腕に抱えたまま身を起こす。漆黒の光がかすったマントは、ばっさりと縦に断ち切られ、深い切れ込みが入った。

 部屋の壁が、天井ごと吹き飛んでいた。

 ザアッと、音をたて、雨が降りこむ。

 吹きつけた雨を、まともに浴び、全身から水を滴らせているヘルツに、シュラが叫んだ。

「ヘルツ、貴様、どういうつもりだ!」

 シュラの声には、本気の怒りがー殺気に近い憤怒がある。短気に見られるシュラだが、怜悧な彼が、思考が飛ぶほどの怒りにかられることは滅多にない。

 シュラの胸にしがみついたイリスは、震えることもできず、完全に凍りついていた。

 部屋の一角が瓦礫と化しているのは、遊びでもふざけていたわけでもなく、本気で殺そうとしていたという証拠。

 テーブルも椅子も粉々に砕け散り、イリスのトロフィーも、無惨にひしゃげて潰れていた。

 シュラに怒鳴りつけられたヘルツは、ゆっくりと唇の両端をつり上げた。

 シュラが息を呑んだ。

 ヘルツの笑った顔が…まるで別人のようだったから。

 こんなに虚ろな、空っぽな笑いを浮かべるような少年ではなかった。シュラの知るヘルツは。

 どんな絶望的な状況だろうと、最後まで屈することなく顔を上げる。

『おまえなら、神を呼べる。おまえなら、イリスを救える。』

 あの声を、シュラは覚えている。今でも、はっきりと。

 シュラは、青い目をすがめた。見えない何かを…ヘルツの紫の瞳の奥にあるものを、探ろうと。

「貴様…一体、誰だ。」

 雨に濡れ、顔に水滴を落とす金髪を片手でかき上げて、

「何を言うかと思えば…。」

ヘルツは、くすりと笑みを深くする。

「オレは、オレだ。ヘルツ・ヘクサグラムだ。ただ。」

 頬に、滴が伝う。

「遊びは終わったんだ、シュラ。」

 透明な、水晶の玉のような水滴が、あごまで流れて、床に砕けて儚く散る。

 シュラは、それを目で追って、珍しく、静かに訊いた。先ほどまでの火のような怒りを、心の奥に封じて。

「そうか。それで、なぜ、貴様は泣く?」

 ヘルツが、ハッと紫紺の目を見開く。その一瞬だけ、いつものヘルツに戻ったように。

「シュラ、オレは。」

 足音が響いた。

「何事ですか、シュラ、ヘルツ!」

 飛びこんできたのは、イデアル。その後ろに、ケルンとミステルが続く。

 ケルンとミステルは、部屋の惨状と、漆黒の翼を悠然と広げているルシファーに、唖然としている。しかし、イデアルは、いち早くそれ以上の異変に感づいた。アクアマリンの瞳を、ヘルツに据えた。何かを探るように、淡い水色の双眸を細める。

「ヘルツ、君は…。」

 ヘルツは、薄く笑う。仮面のような笑みを張り付けたまま、何も答えない。

「イデアル、イリスを頼む。」

 シュラが、腕に抱えたままだったイリスを、イデアルに預ける。

「シュラさまっ?」

 イリスが、声を上げる。

 シュラは、ヘルツに向き合う。手を伸ばせば届く距離から、青い視線をまっすぐにぶつける。

 ヘルツは、シュラの視線を避けるように、す、と優雅に膝をついた。完璧な礼儀作法を仕込まれて育った、貴族の子弟のようだった。

「魔王陛下がお呼びです。」

 空気が凍りつく。

「な…に…。」

 瞠目したまま、ケルンが呟く。

 親友の動揺に、何の痛痒も感じていないように、ヘルツは続ける。

「共に参りましょう。シュラハト・グランツ・サフィア王太子殿下。」

 シュラの顔に、はっきりとわかる動揺は表れなかった。ごくわずかに眉をひそめ、二度と誰にも呼ばれないはずの名を、さらりと呼んだヘルツを見下ろす。

「断る、と言ったら?」

 ヘルツは、立ち上がる。

「ルシファー!」

 堕天使を呼ぶ。

 シュラが身構え、

「召喚、水の。」

 と叫びかけて、息を呑んだ。

 雷の閃光が、その光景を白く染めた。吹き飛んだ天井から、まっすぐに落ち、目を焼く雷光。

 真っ白な光を受けても、それを吸い込んで変わらず黒い、堕天使の剣。それが据えられていたのは、ヘルツの首だった。

 ヘルツが、ふ、と笑う。何もかもを投げ出すような笑み。

「おまえが、オレと来ないなら。」

 ルシファーが、剣を引く。

 浅く切り裂かれたヘルツの肌に、ツ、と血が滲む。

「オレは死ぬ。」

 シュラの思考が凍りついた一瞬の隙を、ヘルツは見逃さなかった。

 ヘルツが右手で、シュラの腕をつかむ。シュラが、痛みに思わず顔をしかめたほど、力任せにつかんだ。

 ヘルツは、左手を虚空へと伸ばし、叫ぶ。

「開け、禁断の扉!暗く、深く、果てなき闇の深淵へ、道をつなげよ!」

 ヘルツの左手の先に、闇が生まれる。

 全ての光を拒絶する、底なしの暗黒。

 ヘルツは、そこへ飛びこんだ。

 シュラを連れて。



第四幕 最強の魔法使い


 誰かが泣いている、と思った。

 子どもの泣き声だ。記憶の壁を爪で引っかかれる。痛みを伴って耳に突き刺さる声。

 シュラは、ゆっくりと周囲を見渡した。

 夜明け前なのか、黄昏時なのか判然としない。青い闇のヴェールが世界を覆い、風景は曖昧に溶けている。

 足元も見えないほどの、真っ暗闇ではないので、シュラは警戒を解かないままに歩き出す。

 泣き声のする方へ。

 捨て置いても構わないはずだが、シュラは声の主を探した。

 そして見つける。

 立ったまま、顔を伏せて泣く少年を。溢れる涙を、小さな手で拭いながら、泣き続けている。

 薄闇の中で顔を伏せ、しかも髪が頬にかかっているので、顔立ちはわからない。背丈から、イリスと同じくらいの年ごろだろうと見当がつく程度だ。長身のシュラの、脇腹の上。

 シュラは、問いかけた。

「何故、泣いている?」

 気遣うでもなく、穏やかでもない声。

 泣いている子どもにかける声ではないが、少年は、怯えることなく答えた。

「…失ってしまったから。」

 まるで、絶望しきっていて、これ以上は、何も感じることができないというかのように。

「…ああ、違うな…違うんだ…。失ったわけじゃない…。」

飽和状態に達した悲しみを抱えて。

「オレには、最初から何もなかった。全てが偽りで、幻だった。それだけのことだった…。」

 シュラは、一歩、少年に近づいた。

 何故か、無性に腹が立った。

 この少年の事情など、何も知らない。自分には想像もつかない不幸が、彼を襲ったのかもしれないとは思う。シュラは、そう考えながらも、言わずにはおれなかった。

「貴様が何を嘆いているか知らんが、今、何もないのだとしても、これから手に入れればいいだけのことだろう。」

 それが、シュラの生き方だった。他人に押し付けるべきではないとわかっているが、この少年には、告げなければならないと思った。

 少年の肩がびくりと震えた。

「…そうできたら…そうできたら、どんなにいいかな…。」

 シュラが手を伸ばす。少年の顔にかかった髪をかき上げた。ハッと目を見開く。

「貴様は。」

 そこで、目が覚めた。

 見知らぬ天井が、ここが自室、賢者の塔ではないことをシュラに教える。

高い天井だった。豪奢で繊細な細工のシャンデリアが輝いている。かつて、皇子だったシュラは、本物の水晶を使っていることを見抜く。自分が横たわっているベッドも、敷布も掛布も、王侯貴族が用いる、上質の品であることを。

 寝つきも寝起きもよいシュラには珍しく、全身に重い倦怠感があって、起きるのが億劫だった。

視線だけを巡らせると、大きな窓が見える。壁の一面が窓になっている。

 窓の外に広がるのは、紫の空だった。夜の漆黒でも、黄昏や、暁前の青い薄闇でもない。

夕焼けや朝焼けでもない。太陽は出ていない。

 代わりに、

「月が…二つ?」

 シュラは、眉をひそめて呟いた。

 紫の空に浮かぶのは、鮮血が滴り落ちるような真紅の月。そして、冷たく輝く蒼白い月。

「魔界の月だ。初めて見ただろう?」

 シュラは跳ね起きた。ベッドから跳び下り、身構える。

 たった今まで、何の気配もなかった。

 彼、否、それは、突然現れた。

 ベッドに腰掛け、艶然と微笑むのは、絶世の美貌。魅惑よりも恐怖を呼び起こす類の美。

 人の姿をしていても、けして人では有り得ない、闇の力の化身。ただそこに在るだけで、異質さをひしひしと伝える。

 その存在は、究極にして絶対。

 司るのは、虚無と絶望。

 今のシュラよりもわずかに上の、十七、八ほどに見える。六年前、初めて会った時と何一つ変わらない。 少年から青年へ変わる時を、永遠に留めて。世界の創世から現在に至るまで、その姿で生きてきた、神の一柱。

「魔王…。」

 シュラは、低く唸った。

 魔王は、真紅の目をす、と細めた。魔界の片方の月と同じく、不吉に赤い。

「そう警戒するな、サフィアの皇子。」

 魔王は、愉快そうに笑い、立ち上がる。

 膝裏までの長い、艶やかな漆黒の髪が、さらりと揺れ、光沢を放つ。

 向き合うと、シュラの方がわずかに背が高かった。

「おまえに危害を加える気は無い。策を練って、手間をかけて、やっとここに招いたのだからな。」

「オレにはある。」

 シュラが叫ぶ。

「召喚、水の。」

「無駄だ。」

 聖獣を呼び出そうとしたシュラの四肢に、どす黒い霧が絡みつく。

(魔力が、抑えられた⁉)

 シュラが青い目を見開く。聖獣の召喚に必要な魔力の放出を、抑制されている。

「まだ、瘴気を含んだ魔界の空気に、体が慣れていないだろう。」

(それが、あの倦怠感の理由か。)

「そんな状態で聖獣など召喚すれば、おまえの身に負担がかかる。」

 いともたやすくシュラの動きを封じた魔王は、

「しばし、休むといい。」

 あっさりと背を向ける。

「待て。」

 シュラは、叩き付けるように言う。圧倒的な力の差を見せつけられても、シュラの態度は変わらない。

 魔王が振り向く。肩から、漆黒の髪が一筋流れ落ちる。

 シュラは、魔王の目をまっすぐに見据えた。

「ヘルツはどこにいる。」

「これは、面白いことを訊く。」

 魔王は、紅でも刷いているかのように赤い唇を、三日月の形に歪めた。

「聡いおまえのことだ。気づいているだろう、あれが、俺の手駒だと。知った上で、あれの居場所を訊くのか?」

「答えろ。」

 シュラは、再度、問う。低く抑えたその声音に、魔王の笑みが消えた。

「この城のどこかにはいるだろう。あれは、俺が作った人間。他に、行くあても居場所もありはしないのだから。」

 シュラの青い眼が、かすかに見開かれる。

「貴様が、作った、だと?」

「何を驚く。」

 魔王は、いともあっさり言う。

「人という種を生み出したのは、我ら六柱の神。その神の一柱である俺が、人間の一人くらい、創りだせぬはずがあるまい。」

「シュラさまは…シュラさまはどこに消えたんですかっ!」

 イリスの悲痛な叫びが、こだまする。<ヴァールハイト>の最奥にして中枢、総帥の執務室に。

「イデアル総帥、あなたにはわかっているんでしょうっ!教えてくださいっ!」

 シュラとヘルツが消えてから、既に一昼夜が経過している。

「イリスの言う通りだぜ、総帥!あいつらは、一体どこに行っちまったんだ!それに、ヘルツは…あいつは、何であんなことを…。」

 ケルンも叫ぶ。状況が状況なだけに、敬語が飛んでしまっているが、イデアルは諌めはしない。

「魔界だよ。」

 答えたのは、なぜか、ミステルだった。

 ヘルツがシュラを、何処かへ連れ去った時に、その場にいた人間が、執務室にそろっていた。

「「魔界っ⁉」

 イリスとケルンが同時に声を上げる。

 イデアルは、ミステルに視線を据えた。静かだが深く、心の奥底を見透かす眼差しだった。

「ミステル。君は、何を知っているのです?」

 言外に問うている。

 君は、何者ですか、と。

 ミステルは、イデアルに琥珀色の視線を合わせる。

「ボクは、六年前に滅びたサフィア王国の者です。そして、もう気づいていると思いますが…。」

 ミステルは、一度目を閉じた。脳裏によぎるのは、至高の青。

「ここで、シュラ・エーアガイツと名乗っていたあの方は、サフィアの第一王位継承者だった方です。」

 ミステルは、思う。

 彼は、とても遠い存在だったと。遥かに高い天のように。

「ボクは、貴族の子弟として、宮廷に上がっていました。貴族と言っても末席でしたから、あの方は…シュラハト殿下は、ボクのことなど知りません。あの方は、当時から天才、神童と呼ばれた皇子でした。」

 彼が王位に就けば、魔道王国サフィアは、どれほどの繁栄がもたらされるだろうかと、十にもならない年から期待されていた。

「サフィア王国の始祖、初代国王の再来と謳われていました。」

「サフィアの初代国王って…魔王と戦ったっていう…。」

 イリスが呟く。歴史として学んだ事実でしかない、あまりに遠い、おとぎ話。

 サフィアの祖王は、現代とは別の体系の、古代魔法を駆使し、魔王とも対等に渡り合ったと伝えられる。

聖獣が生み出される前の時代に存在した古代魔法は、当然、現代の魔法とは、仕組みから異なる。強大な力を操る魔法だったらしいが、現代では完全に廃れ、どんな仕組みだったかも、よくわかっていない。

 現代に受け継がれなかった理由は諸説ある。現代の魔法より難易度が高かったためとも、強大すぎる力が禁忌とみなされるようになったためとも言われる。

 使い手であったサフィアの初代国王が、魔王と対等に戦ったというなら、禁忌とされるには十分だっただろう。

「そう。もはや、伝説の英雄だね。不思議なことに、彼は、死の間際、敵対していたはずの魔王から、魔王召喚の秘術を授けられている。その秘術は、直系の王族にのみ伝えられているということだったけど、サフィアの千年の歴史の中で、魔王の召喚なんて、誰も行っていない。」

 ミステルがイリスに頷き、続けた。

「けれど、もし、六年前、シュラハト殿下が、魔王を召喚したなら、ベルンシュタイン帝国の皇帝が、突然死んだことにも説明がつく。」

 イデアルが、淡いアイス・ブルーの瞳をすがめた。

「魔王は、その代償にシュラを連れ去った。ヘルツを使って。そういうことですか。」

「ちょっと待てよ!」

 ケルンが、イデアルに詰め寄る。

「シュラのことは分かったよ!じゃあ、ヘルツは…ヘルツは一体何なんだ!」

「ヘルツ・ヘクサグラム。」

 イデアルが、ヘルツのフルネームを言う。あえて、感情を含めない、乾いた声音で。事実のみを。

「ヘクサグラム…六芒星…。」

 ケルンが、呆然と呟く。

 答えは、最初から示されていた。気づかなかっただけで。

 魔術のシンボルは、五芒星。五つの角は、火、水、風、地、光の五つのエレメント、即ち、その源たる五柱の神を示す。

 それに、もう一つのエレメント、闇を加えれば、六芒星になる。それゆえに、六芒星は、魔王の象徴とされることがある。

「じゃあ、ヘルツは最初から…。」

 ケルンの中で、ヘルツの面影が粉々に砕け散る。

 友情に厚く、どんな窮地でも諦めを知らず、まっすぐに駆けていく。黄金の髪をなびかせて。小柄な体のどこに、そんなパワーがあるのか不思議だった。活気と生気にあふれた、あの紫の瞳。

 その全てが。

「全部、嘘だった…。」

「ボクは、そうは思いません。」

 間髪入れぬ、即答。

 イリスが、確信に満ちた口調で宣言した。

「イリス…?」

「ボクを救ってくださったのは、シュラさまとヘルツさんですから。」

 助けられたのは、命だけではないと、イリスは知っている。

「だけど…だけど、それも全部、仕組まれていたことかもしれねえじぇねえかっ!」

 激した声だった。

 ふだんのケルンなら、年下の少年を威圧するようなことはしない。

 動揺するのは、裏切られた絶望が深いからだ。こんな形で、信頼を踏みにじられるなんて、夢にも思っていなかった…。

 生じた亀裂を、縫い合わせるように。穏やかな声が紡がれた。

「全てが偽りなら、シュラハト殿下が、ヘルツくんを、ライバルだなんて認めないよ。」

 ミステルが、静かに微笑んでいた。いつもと同じ、おっとりとした笑顔に見える。けれど、生まれ育った国を奪われて生きてきた過去を知った今、ミステルの笑顔に、深い意味が透ける。

「サフィアの皇子だったシュラハト殿下は、誰にも心を許していなかった。遠くで見ていただけのボクにも、それがわかるくらいに。」

 誰一人、自分と対等と認めてはいなかった、孤高の皇子。

 大切な者も、失いたくない者も持たぬ、冷酷で非情な。

「ヘルツくんが、手加減なしの本気でぶつかったから、シュラハト殿下は、シュラ・エーアガイツになったんだよ。」

 ミステルも見ていた。<若獅子たちの戦い>を。シュラとヘルツの出逢いを。全ての始まりを。

「欺かれて騙されて、利用されるようなシュラくんじゃない。ヘルツくんに嘘があったなら、シュラくんは。」

 雷光に照らし出された光景。

 ヘルツの首筋に突きつけられた剣。

 そして、シュラは。

「ヘルツくんが、「オレは死ぬ。」って言ったって、動揺なんかしなかったよ。」

「…ミステル。」

 ケルンが、呟く。

「ハハッ。」

 何かを吐き出すように、ケルンは笑って。

「あー、なっさけねー…。」

 ぐしゃりと、金褐色の前髪に指を突っ込み。

「オレが、信じなくて、誰が信じるつーんだよな…。」

 顔を上げる。

 深緑の瞳に、力が甦った。

「方針が決まったところで、具体的な方法を話しましょう。」

 イデアルが告げる。

「魔界へ行く方法を。」

 ☆

 カツン…、カツン…と、ゆっくりと進む足音が響く。

 体が重い。瘴気に順応してはいないとわかっている。不用意に動き回るべきではないことも。

 それでも、シュラは歩き続ける。

 いつものシュラなら、非合理的な行動はとらない。

(馬鹿げている。)

 自嘲しつつも、シュラは、歩みを止めない。

 魔王の城は、広大だった。果てが見えない。本当に無限だったとしても、驚くには値しない。ここは魔界なのだから。

 眩暈を感じて、シュラは壁に背をつく。

 吐き気がする。景色がぐるぐると回っている。唇をかみしめた。

 膝をつきそうになるのを、気力だけでもたせて。肩で大きく息をする。

 無理やり一歩踏み出した時、視界が白く染まった。

 貧血を起こしているのだと、ぼんやりとした意識の隅で理解したが、どうしようもない。

 崩れ落ちるシュラの耳に、声が届いた。

「シュラさまっ!」

 抱き留める形で肩に手を回し、小さな体全体で、シュラを支えようとする。しかし、体格差はどうしようもなく、結局一緒に膝をついた。

 それでも、ずるずると座り込んだので、勢いよく床に叩き付けられることはなかった。

「シュラさまっ!大丈夫ですかっ?」

 高く澄んだ声でそう叫んだのはー。

「イリス…おまえ、どうやってここに来た?」

 イリスに抱えられた、というよりは抱きつかれた格好のまま、シュラが目を見開く。

 ここは、魔界だ。

 ヘルツは、魔界の扉を、あっさり開いた。ヘルツは、魔王に、その力なり方法なりを授けられていたから、可能だったのだろう。

 しかし、次元の異なる世界に、しかも、魔王の領域に、そうやすやすと入り込めるわけがない。

 イリスが、シュラから小さな体を離し、自分の左耳に触れた。そこには、海の底のように、静謐な青い輝きが宿っている。

 シュラの左耳を飾るのと同じ、真の(ミスリル)の五芒星の中央で煌めく、龍王の泪石だ。

「シュラさまからいただいた、この宝玉と同じ波動を放つ座標を、イデアル総帥が探し当てました。」

 龍王の泪石が、界を隔てても探れるほどの波動を放っているからこそ、可能だった。イデアルが、いかに魔術結社<ヴァールハイト>の総帥と言えど、神から託された宝玉がなければ、場所の特定は不可能だった。

「イデアル総帥が、魔界への扉を開き、ケルンさんとミステルさんが、それを維持しています。」

 ケルンもミステルも、弱冠十六歳で魔導士の位に就いた、優秀な魔法使いだ。シュラやヘルツが、尋常ならざる天才なので目立たないが、彼らの能力は十分高い。

 だが、疑問は残る。シュラはそれを指摘した。

「だが、何故、おまえが。」

 既に魔道士として職務に就いているケルンやミステルと、<アカデミア>の学生であるイリスでは、全く立場が異なる。イリスは、ここに来ることを、一番許されない身のはずだった。少なくても、<ヴァールハイト>を統べるイデアルの判断とは思えない。

「オレが志願しました。」

イリスが、幼さの残る顔に、きっぱりとした決意を浮かべ、答える。

「オレに罪を償う機会と、ご恩に報いる機会を与えてくださいと。」

 イリスは、けっして忘れてはいない。目を背けてもいない。自分の過ちから。

「そして、もう一つ。オレは、魔界の瘴気に耐性があります。」

 以前、濃い瘴気を浴び、魔王に乗っ取られたことまであるイリスは、魔界でも自由に動き回れる。

「だからと言って、おまえが危険に身を晒す必要は無い!」

 シュラが、声を荒げた。膝をついているせいで、いつもより近い場所から、射抜くように鋭い視線が突き刺さってくる。

 イリスがかすかに息を呑む。恐怖ではない。シュラの気持ちを正しく受け取り、笑みを返した。

「いいえ、シュラさま。オレにしかできないことがあります。」

「イリス…?」

 あどけない、丸く大きな紫の瞳が、急に大人びたようで、シュラは戸惑う。

 イリスは、静かに微笑んでいる。シュラが、目を見張る。イリスの微笑みには、覚悟を決めた者の凄みがあった。

「失礼します、シュラさま。」

 イリスが、立ち上がる。シュラが膝をついた状態だと、イリスの手は、背伸びをしなくても、シュラの肩に届く。

 イリスは、イリスの肩に腕を回して、抱きしめた。

 子ども特有の、高い体温。間近で、とくんとくんと、心臓の鼓動。

「イリス?」

 珍しく、シュラがストレートに狼狽えた。

「おまえ、何を。」

 声が、途中で止まった。

 体が、急に軽くなった。

 重く四肢にまとわりついていた、瘴気が。

 どこかに吸い込まれるように、消える。

 吐き気も眩暈も、爽やかな一陣の風に吹き払われたように、霧散する。

 体のどこも辛くないというのが、これほど楽なものだったのかと、驚く。

 シュラが、ハッとして叫んだ。

「イリス、おまえっ!」

 イリスは、ゆっくりとシュラから体を離して、座り込むところだった。

 イリスの体を、漆黒の靄が取り巻いている。

 暗く淀んだ、狂気を誘う闇の凝り。

 シュラの体を蝕んでいた、瘴気。

 イリスは、それを、吸い取って自分の身に移した。

「大丈夫…です。オレの体は、瘴気に耐性が…あります…。」

「戻せ!」

 シュラが叫んだ。

 イリスの顔が、血の気を失っている。

 いくら耐性があるといっても、人の身に受け入れらえる瘴気には限度がある。

 イリスが首を振る。

「行ってください、シュラさま。きっと、シュラさまを待っていますから。」

 誰が、とはイリスは言わなかった。けれど、シュラは、立ち上がる。

 シュラをそうさせるだけの力が、今のイリスにはあった。

「召喚、水の序列二位、アジ・ダハーカ!」

 雷鳴とともに。

 三つ首の竜が出現する。

 それぞれの口から、猛毒と電撃と吹雪を放つ、恐ろしく攻撃的な聖獣だが、シュラの前に、頭を垂れる姿は、主への忠実さが透ける。

 シュラが、厳しく一言命じた。

「アジ・ダハーカ、イリスを守れ。」

「御意。」

 三つ首の竜も、一言で答える。

「…イリス。」

 シュラが、ほんのわずかに逡巡してから、イリスを呼んだ。

「礼を言う。」

「シュラさまっ…。」

 イリスは、胸がいっぱいになる。泣きそうになった。

 イリスの答えを待たず、シュラは走り去る。

 その背中に、イリスは、心の中だけで告げた。

(ご無事で、シュラさま。)

 後は、祈ることしかできない。だから、ありったけの思いを込めて。

(必ず、帰ってきてください。)

 あてもなく走り回っているわけではなかった。

 直感なのか本能なのか知らないが、確信があった。

 この先に、シュラの求める相手がいると。

 シュラは、足を止めた。

 風になびく金髪は、魔界の月光を浴びて、見慣れた色彩とは違って見えた。

 バルコニ―に立ち、ぼんやりと下界を見下ろしている。定まらない視点。毅然と顔を上げる、いつもの姿ではない。

「ヘルツ。」

 ヘルツは、ハッと顔を上げた。

 バルコニーに足を踏み入れたシュラを見て、表情を凍らせる。

 蒼白の頬。震える唇。

 シュラの感情が、荒立った。

「貴様らしくない顔をするな。」

 ぴしゃりと、平手を叩き付ける勢いで、そう告げる。

 ヘルツの、色が褪せた唇に、ひどく虚ろな笑みが刻まれた。

「オレらしいって、何なんだ…?」

 力のない声だった。

 シュラの目が、険しさを増す。

「貴様…。」

「だって、オレには何もなかったんだ。」

 迷子の幼子のように。泣き出す寸前の。

「オレに無かったのは、記憶じゃなかった。過去が無かったんだ。オレは、魔王が、おまえを手に入れるために作った、魔王の手駒でしかないんだ。」

 視線で切りつける激しさで、まっすぐに見据えてくる、青い瞳。それから逃げるように、紫の双眸を伏せて。

「嘘なんだよ。全部。」

 ヘルツの声は、空虚な静けさを保ったまま、何かを、粉々に打ち砕く。

「おまえが知ってるオレなんて、幻だ。」

 ぐいっと、シュラの両手が、ヘルツの胸倉をつかんだ。力任せに強引に、引き寄せる。

「ふざけるな。」

「っ。」

 視界いっぱいに、青い瞳が広がっている。

 長身のシュラに、無理やり掴みあげられたら、小柄なヘルツは抵抗できない。シュラは、手加減なしに力を加えているから、首を絞めに近い。苦しいはすなのに。

 ヘルツは、ただ、魅入られたように、サファイアの双眸を見返していた。

 触れるほど間近に、至高の青がある。

 いつもは、もっと遠い。

 シュラが、ここまでの接近をヘルツに許すことは、滅多にない。

 吐息のかかるゼロ距離。

「シュラ…。」

 ヘルツが、喘ぐようにその名を呼ぶ。

 艶やかに鮮やかに、眩いほどの存在感を放つ。

 焦がれた相手だ。

 隣に立っていたかった。

 そうできると思っていた。

「駄目だったんだよ…。」  

 ヘルツが、感情の失せた声で言う。

「オレは、おまえを、魔界(ここ)に引き止めておかなきゃならない。それが、魔王の望みだから。」

 シュラが、ぎりっと奥歯を噛みしめた。噛み砕く勢いで。

 ドンッと、シュラがヘルツを突き飛ばす。

 無慈悲なまでに容赦なく。嵐のような。

 ヘルツは、バルコニーの石畳に打ちつけられ、かすかに呻く。

「っ痛…。」

「貴様が、誰かの思い通りに動くようなやつだったとはな。」

 シュラの両目に、青い炎が燃える。ふだんから冷たい印象の美貌が、激怒したせいで、凄絶に冴えわたる。

 ヘルツが戦慄した。

 冷たい汗が、背中を伝う。本気で怒らせたのがわかった。

 同時に、真っ黒な絶望が、胸の内に広がる。一筋の光もない。漆黒の闇。奈落の底。

(もう、もどれない。)

(ああ、違う。)

(選択肢なんか、オレには、無かった。最初から。)

 シュラが、右手を掲げた。

(許さん。)

(オレが、唯一ライバルと認めた貴様が、これ以上、無様な姿を晒すなら。)

「オレが、引導を渡してやる。」

 シュラが吠える。空気を震撼させて。

「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」

 凍てつく青さで輝く長剣が、掲げたシュラの手に出現した。

 体が重い。

 イリスは、ぐったりと座り込んでいた。壁にもたれていても、ずるずると崩れ落ちそうな疲労感がある。横になりたいが、敵地のど真ん中とも言える魔界で、そこまで無防備にはなれない。

 イリスの体が瘴気に耐性があるのは事実で、魔界に来ただけで、動けなくなるようなことはなかった。しかし、耐性の上限を超えた穢れを取り込んでしまったので、高熱が出た時のように、体が重い。眩暈と吐き気で、意識が朦朧とする。

 それでも、傍らのアジ・ダハーカに向かって、イリスは微笑んで見せた。

「大丈夫…ちょっとずつだけど…浄化できているから…。」

 魔法使いは、人の身に自然に備わる自然治癒力が高い。神の次元に存在する聖獣の波動を常に浴びているせいだ。

 アジ・ダハーカは、一対の目を、見守るようにイリスに向け、残りの二対の目で油断なく周囲を見回している。

 主であるシュラの命に従って、イリスを守っている。三つ首の恐ろしい外見で、攻撃力が高い分、凶暴な聖獣だが、見慣れたシュラの聖獣が傍にいてくれることが、心強い。

 イリスが微笑んだ。

「ありがとう、アジ・ダハーカ。」

 アジ・ダハーカは無言だが、眼差しの鋭さが、わずかに和らいだようだった。

 突然、アジ・ダハーカが牙を剥いた。

「アジ・ダハーカ⁉」

 三つ首の竜が、それぞれの口から雷と吹雪と毒を吐き出すのと。

 イリスに向かって、漆黒の炎が襲い掛かるのが、同時。

 雷と吹雪と猛毒、黒き爆炎の全てがぶつかり合う。衝撃から生まれた爆風からイリスを守るように、アジ・ダハーカが自分の身を盾にする。

 イリスは、腕を上げて目を庇う。肩を過ぎる黒髪が、激しくなびいた。

「いい聖獣だ。流石は、サフィアの皇子の僕。」

 蠱惑的な声だった。

 頭の芯がくらりと揺れる。

「あ…。」

 イリスの背に、冷たい汗が伝う。

 知っている。

 闇そのものと対峙しているかのような、押し潰されそうな存在感を。

 かたかたと震える体を、必死で押さえつける。

(呑まれては駄目だ。)

 魔王は、血を吸ったように赤い唇だけで笑う。水の上をすべるように近づかれる。ざっと肌が粟立った。

 魔王が膝をつく。す、と腕を伸ばされる。一つ一つの所作が、芝居のような優雅さに彩られている。魅惑的で官能的で…麻薬のような美。

 魔王の指先が、イリスの左の耳朶に伸びる。

 龍王の泪石へ。

 イリスがハッとする。

(シュラさま!)

「そんなに怯えるな。一度は、俺にその身を許してくれたではないか。」

「人聞きの悪い言い方はやめてください。」

 パシンと。

 イリスは、魔王の手を振り払っていた。

 不思議と、恐怖が吹き飛んだ。

 のしかかる疲労感を、気力だけで、無理やり払いのける。

(シュラさま。)

 強くなれと言われた。それにふさわしいと胸を張れるまで。

(きっと、今、シュラさまは、ヘルツさんと闘っている。)

 ライバルを、取り戻すために。

(だったら、オレは、ここに魔王を引き止めておかなくちゃいけない。)

「魔王ヘイカ。」

 イリスは、跳ねるように立つ。愛らしい顔に、不敵で生意気で挑戦的な笑みを浮かべ。

「いささかお手向いいたします。」

 魔王は、薄く笑った。

 とるに足らない幼子の我儘でも目にしたかのような。冷笑よりは慈悲に近い微笑み。

 長衣を揺らして、立ち上がる。

「…せめて形が残るといいな。」

 愉しげに。

「そなたの骸を見た時、サフィアの皇子がどんな顔をするか、楽しみだ。」

 シュラが、空間さえも切り裂く斬撃を放つ。サーペント・ソードの青い刀身が、ヘルツに迫る。

「召喚、闇の序列二位、タナトス・サイス!」

 ヘルツの手中に出現したのは、漆黒の大鎌。

 刃が優美な曲線を描くが、人の首など骨ごと刈り取る威力を持つ。

 ヘルツは、シュラの刃を、大鎌で受ける。

「!」

 シュラが、かすかに瞠目する。押し返せない。体格差と腕力を考えれば、シュラがヘルツに押し負けるはずがない。

 ヘルツが、口元だけでうっすらと笑う。

「死神の大鎌だ。言っておくが、魔界では、闇の属性が、圧倒的に有利だぞ。」

 ヘルツは、シュラの剣を、難なく押し返した。そのまま、大鎌を振るう。ヒュンッと、刃がシュラに迫る。

 その白い首筋に届く寸前。

 シュラが、身を沈めた。亜麻色の髪が、数本断ち切られて宙を舞う。

 大鎌が空を切り、ヘルツはわずかに態勢を崩す。取り落した大鎌が、床に落ちて甲高い金属音を鳴らす。 その隙を、シュラは見逃さない。

「召喚、水の序列二位、ラドン・アロー!」

 百の矢が降り注いだ。

「!」

 ヘルツが叫ぶ。

「召喚、闇の序列二位、堕天使ルシファー!」

 漆黒の翼が広がる。

 瞬時に出現したルシファーが、両手を広げ、ヘルツの盾となる。

 ルシファーの全身が、漆黒の光を放つ。

 闇に吸いこまれるように、ラドン・アローが消えていく。

「無駄だ、シュラ。」

 ヘルツが、唇をつり上げる。無理やり浮かべたような嘲笑に対して。

「そうか?」

 シュラの笑みは、鮮やかに閃く。

 ラドン・アローは尽きない。

 豪雨のように、滝のように、ルシファーを襲い続ける。

 シュラの青い瞳が、不敵に光る。

「ラドンは、無限に再生し続ける。敵を仕留めるまで。」

 ヘルツは、ハッとルシファーを凝視した。

 万を超える矢を受け続けた、最強の堕天使の姿が、揺らぐ。薄らぐ。蜃気楼のごとく。

(消える!)

 ラドン・アローが、ルシファーを突き抜けた。

 ヘルツが、後ろへ跳びのいた。両腕を交差させて、身を庇う。

 矢の一本が、ヘルツの腕をかすめた。

「つっ…。」

 全ての矢に、竜が絡みついた意匠が施されている。実用ではなく、装飾用と言われても納得できるほどの、凝った細工。

 透き通るように輝く、宝玉のような矢じり。

 ヘルツの左腕をかすめて、壁に突き刺さる。

「っ!」

 ピキッ!

 何かが砕けるような、鋭く空気を軋ませる音がした。

 否、それは砕けるのではなく…分厚い氷が張っていく音。

 ヘルツの腕が、壁が。

 ピキピキピキピキッ!

 きらきらと光り輝きながら、凍てついていく。左腕から肩へ、這い上がるように。

「くっ…。」

 苦悶の呻き声をかみ殺し、ヘルツは叫ぶ。

「来い!タナトス・サイス!」

 大鎌の形の聖獣が、主の命に従い、飛ぶ。そのまま、抉るように、氷を削ぎ落す。

 血飛沫が飛んだ。

「ヘルツ、貴様…。」

 シュラは、わずかに眉をひそめてヘルツを眺めた。

 半身を、鮮血で真紅に染め、荒い息をつくヘルツを。

 ヘルツは、肩で息をしながら、壁に背を預けている。だが。

 その紫の双眸は、光を失ってはいない。以前の彼とは違う、昏い光だが。

 ヘルツは、血が流れ続ける左腕を、右手で押えている。真っ赤に染まった右手を握りしめ、ヘルツは、低く唱えた。

「召喚、闇の序列外、ヘルシャー・ヴァンパイア」

 漆黒の影が落ちた。

 ヘルツの流した血が、ふわりと浮き上がる。

 集まる。

 いくつもの真紅の玉。浮遊しながら、ヘルツを取り囲む。

 それらが、すうっと、影に吸い込まれて、消える。

 そして。

 今度は、影がヘルツに吸い込まれていく。

 シュラが身構える。

「特殊条件召喚…!」

 召喚に特別な条件が必要な聖獣。その条件次第で、序列二位をも上回る力を発揮する。

 ヘルシャー・ヴァンパイアは、魔族だが、その点については、聖獣と同じ。

 ヘルシャー・ヴァンパイアの召喚条件は、召喚者自身の捧げる血。その量次第で、力は変化する。

 そして、特殊条件召喚する聖獣や魔族に共通するアビリティは。

「貴様、正気か?ヘルシャー・ヴァンパイアを憑依させるなど!」

 ヘルツは、薄く笑う。細めた目の色が、深紅に変わっていた。毒々しいまでに鮮やかな、滴り落ちる血の雫。

 ヘルツが腰を低くした。その次の瞬間には、シュラに跳びかかっている。

「!」

 速すぎて、反応できない。ヘルツ自身の身体能力では有り得ない。

 体当たりされて、シュラは床に叩き付けられた。反射的に受け身をとれたのは、実戦経験の豊富さと、優れた身体能力のなせる技。

 シュラが半身を起こしたのは、体当たりを喰らってからほんの数秒にも満たない時間だったが。

 その時には、ヘルツの指が、シュラの肩をきつくつかんでいた。

 唇からのぞく犬歯が、ありえないほど長く鋭い。

 本来自分のものではない牙を、ヘルツはシュラの白い首筋に突き立てた。

 激痛が走った。

 同時に、生命そのものを吸い取られるような、おぞましい感覚が襲う。

「っ…。」

 全身の力が抜けた。

 崩れ落ちそうになるのを、意志だけで支え、シュラが、ぎりっと奥歯をかみしめた。

 ここで倒れるわけにはいかないという、その思いだけで。

 ヘルツが、シュラから離れた。

 牙を抜かれた瞬間、血飛沫が飛んで、ヘルツの顔にかかる。

 ヘルツは、シュラの血で濡れた唇を、舌先で舐めとった。

「ほら、もう、オレは化け物だ。」

 くすくすと、声をたててヘルツが笑う。前髪をかき上げて、額をシュラに晒した。

 そこに刻まれているのは、真横に走る刀傷のはずだった。五年前、シュラがつけたもの。

<若獅子たちの闘い>の傷跡が、ヘルツに残ったことくらい、シュラは知っている。

「見ろよ、シュラ。」

 だが、ヘルツの額にあったのは、傷だけではなかった。六芒星の痣が、くっきりと浮かんでいる。しかし、本当に痣なのか。あまりに鮮やかすぎる、妖しい紅の星。

「ヘルツ、貴様…。」

 シュラの脳裏に、生まれ育った城での、最後の日の光景が甦る。

 シュラにとって、六芒星は、魔王召喚の魔法陣。

 ヘルツの額に、今まで、こんなものは無かった。

「浮かんで来たんだよ、魔界(ここ)に来たら。オレが、魔王のものだっていう証が。」

 額に、呪いのように浮き出た深紅の六芒星。

 頬をゆっくりと流れ落ちていくのは、飛び散ったシュラの、真紅の血。

 ヘルツが、距離を詰めた。

「あきらめろよ。」

 ヘルツが、優しげとさえ言えるほど、甘くささやく。

「魔王はおまえを気に入っている。魔界から出られないかもしれないが、ひどい扱いを受けることはない。それどころか、望みは全て叶う。おまえは、強い敵と闘いたいんだろう。魔王なら、いくらでも相手をしてくれる。」

 悪魔の誘惑のように。麻薬を注ぎ込むように、ヘルツが、シュラの耳元でささやいた。

「だから、堕ちてしまえ、シュラ。」

「断る!」

 即答だった。

 嵐のような激しさで。

 シュラが叫ぶ。

「召喚、水の序列六位、ジャック・フロスト!」

 現れたのは、十前後に見える少年の姿の、吹雪の聖獣。肩に届かない程度の柔らかそうな髪も、大きく愛らしく、けれど冷たい光を宿す瞳も、凍りついた白銀。

 ヘルツは、のけ反るように、座ったまま身を引く。

 ジャック・フロストは、主を守るように、ヘルツに立ちはだかる。温度の一切無い眼差しでねめつける。

 シュラは、膝に力を入れて、立ち上がる。正直、それだけの動きで、全身がきしむ。

 ヘルシャー・ヴァンパイアを憑依させたヘルツに吸い取られたのは、生命力そのものだ。

 視界が点滅する。喉元まで、吐き気がせり上がってくる。シュラは、遠のきかける意識を、必死でたぐり寄せた。

「そんな体で闘うつもりか?」

 ヘルツが、薄く笑う。

「序列六位しか出せない状態で?いや…本当なら、今は、指一本動かすのだって辛いはずなんだがな。流石、というべき。」

 ヘルツは最後まで言えなかった。

 白い吹雪が視界を染める。

 部屋の一角が暴風雪で凍りついていく。

 しかし、絶対零度の嵐が荒れ狂ったのは、ごく短い間だった。それが示すのは、シュラの消耗の激しさ。

 ヘルツは、氷の彫像と化した、ヘルシャー・ヴァンパイアの影から歩み出る。とっさに憑依を解き、そのまま盾にしたのだ。

 ヘルツが、新たなる魔族を呼ぶ。

「闇の序列三位、アスタロト・チャクラム!」

 白銀の氷壁を、黄金の輪が打ち砕いた。

 ガンガンガンガンッ!

 円環の形の刃が、分厚い氷壁に次々と穴を空け、勢いを殺さず、シュラに向かう。

 ジャック・フロストが、再び、吹雪を放つ。

 だが。

 吹雪を貫き、黄金の円環は、シュラを切り裂いた。

 よける力など、無かった。

 飛び散る血飛沫。

 鮮血に身を染めて、崩れ落ちる長身。

 主の魔力が尽きたジャック・フロストは、音もなく消える。

 その全てを、ヘルツは、ただ眺めた。

 青藍のマントも、<ヴァールハイト>の制服も、無惨に切り裂かれ、床に倒れ伏したシュラを。

 透き通るような白皙の肌を、自らの鮮血で真紅に染め。

 それでも、シュラは。

「なんで…なんでおまえは、まだ、そんな目でオレを見る!」

 ヘルツが絶叫した。

 シュラの双眸。

 どんな宝玉も適わない。耳朶を飾る、龍王の泪石でさえも凌ぐ、鮮烈な輝きが、ヘルツを射抜く。

 ここは、魔界。魔王の領土。

 その手駒であるヘルツは、魔族を自在に操れる。そして、ここでは、魔族の力は、同じ序列の、他の聖獣よりも強い。初めから、対等な勝負ではない。

 生命力を奪われ、全身に傷を負わされ、万に一つの勝ち目もない状況で。

 シュラは、身を起こす。

 激痛に歯を喰いしばり、床に両手をついて、体を支え。肩で、荒い息を繰り返し。

 立ち上がる。

 ピチャン、と。

 血だまりを踏んで、ヘルツに近づく。

(こんなシュラは知らない!)

 ヘルツの心が悲鳴を上げる。

 いつだって、憎らしいほど、圧倒的に強かった。

 狩りをする獣の獰猛さで闘うくせに、洗練された優雅さを失わない。

 そんな嫌味なやつだった。いつも。

「シュラ…。」

 足を引きずるようにして。

 一歩一歩、シュラは、ヘルツに近づく。

 足跡がそのまま、流血で彩られていく。

 むせかえるような、血のにおいの中で。

 シュラがヘルツに手を伸ばす。

 ほんのわずかに身を引けばいいだけだった。あるいは、振り払えばよかった。大した力はいらなかった。

 けれど、ヘルツは微動だにできなかった。

「召喚、水の序列四位、ジェド・マロース!」

 足首までの銀髪をなびかせた、美青年が出現する。あらゆる者に、等しく死を与える、真冬の寒波の化身。冷酷で無慈悲な、銀の瞳で睥睨するだけで、場の空気が一気に下がる。

「やめろシュラ!もう、おまえに聖獣を呼ぶ魔力なんて!」

 ヘルツが叫ぶ、その息が白く染まる。

 ジェド・マロースの、しなやかな繊手が翻る。

 大規模な吹雪が荒れ狂うことはなかった。

 シュラの手だけが、絶対零度の凍気をまとう。

 シュラが、ヘルツの腕をつかむ。

(!)

 手首が砕けるかと思った。

 どこに残っていた力なのか。

 渾身の力で、シュラは、ヘルツの腕を握りしめる。

「や…めろ…やめろ、シュラ。やめてくれ…。」

 ヘルツが首を振る。

 かすれた声で、懇願する。

「離してくれ。頼むから。オレは、もう…。」

 おまえの隣には立てない、と。

 そう続けるつもりだったヘルツは。

「断る。」

 傲然と。

 満身創痍のこの状態で、常と変らぬ不遜な物言いで言い放ったシュラに、絶句した。

「貴様は、オレのライバルだ。だから、永遠に、オレと闘い続けろ。」

「っ…。」

 つかまれたままの手首が熱い。

 ピキピキと音をたて、凍りついているのに、何故か、伝わるのは熱だ。

 手首から、腕へ。腕からさらに体の中心へと、氷が這い登る。痛みをはらむ、灼熱とともに。

 シュラの意志が、流れこんでくる。

 貴様と、本当の闘いをしたいのだと。

 対峙したときの、心が躍る高揚を思い出せと。

「オレだってっ…オレだって、おまえと一緒にいたい!」

 ヘルツが絶叫した。

 視界が歪む。

 喉の奥が熱い。

 涙があふれた。

 頬を流れ、あごを伝って、滴が落ちる。

 シュラの作った血溜まりに、弾けた。

 シュラが、笑う。

 ドキリとするほど魅惑的な。心をわしづかみにされた。

「ならば、戻って来い。」

「でも、相手は、魔王だ。神なんだぞ。適うはずが。」

「オレと貴様が組んだら、最強なんだろう。」

「!」

 どうして、と思う。

 強く印象に残るような状況で、交わした会話ではない。

 あんな、たった一瞬の、戯言のような自分の言葉を、なぜ覚えているのかと。

 気が付いたら。

 ヘルツは、頷いていた。

 敵わない、と心底思った。認めるのは、本当は癪だ。でも、しかたない。ここまでの本気を叩きつけられたら。

「わかったよ…おまえの勝ちだ…。」

 シュラの笑みが深くなる。

 そのまま、スッとまぶたが下りた。

 急に、ヘルツの手首にかかる負荷が消える。

 パキン、と儚い音をたてて、氷が砕け落ちる。光を零しながら。

 がくん、と、シュラの体が落下する。

「シュラ!」

 ヘルツは、あわててシュラを抱きとめる。

 だが、小柄なヘルツに、長身のシュラは支えきれない。

 一緒に膝を着く。

「シュラ…。」

 気を失った、というより、その表情は眠っているようだった。満足そうな笑みを、薄紅の唇に飾って。

 意識のないシュラを見るのは、何度目だろう。ヘルツは、シュラのまつ毛が長いことを思い出す。ふだん、言動が攻撃的すぎて気つかないが、本当は繊細な美貌の持ち主だ。

 前に寝顔を見た時は、整いすぎて人形のようだと思ったが、今は、いつもより少し幼く見えるなと思う。

 ヘルツは、ぎゅっと、シュラの肩を抱きしめる。

 亜麻色の髪にそっと触れる。

 そんなことをしたのは初めてだった。

 意識があったなら、シュラはけして許してくれないだろう。

 腕に抱えたシュラの肩は、予想していたよりも細い。飴色の光沢を放つ髪は、さらりと、ヘルツの指先からすり抜ける。

 ヘルツは、そのまま目を閉じる。

 とくん、とくんと。

 自分のものではない、鼓動が伝わる。

(生きている。)

 その事実に、胸の奥が熱くなる。

 ヘルツが、目を開けた。

「召喚、火の序列五位、ガンダルヴァ。」

 ヘルツは、聖獣を呼ぶ。現れたのは、半人半鳥の姿の聖獣。みずみずしい果実に似た芳香を放っている。

 ヘルツが、ガンダルヴァを見つめる。

 火の聖獣は、シュラの近づき、その翼でシュラに触れる。

 ガンダルヴァの体から立ち上る香りが強くなり、シュラを包む。

 シュラの傷の全てが消える。

 蒼白だった頬にも赤みが差す。

 シュラの肌が放つ熱。

 ヘルツが、安堵の息をもらし、聖獣に微笑みかけた。

「ありがとう。」

 ガンダルヴァが、笑みを返したように、ヘルツには思えた。その瞳は鳥のもので、唇ではなく、嘴がついているのに。

 半人半鳥の姿の聖獣が消え、魔王の城の一角に、静寂が下りた。

 静まり返った空間。

 孤立無援の状況で、イリスは魔王と対峙していた。

 シュラの残してくれたアジ・ダハーカは消えてしまった。シュラの命じた通り、イリスを守って。

 死んだわけではなく、魔界で存在を維持できなくなって、神界に戻っただけだが…支えを失った心が、悲鳴を上げそうになる。

 イリスは、逃げ出したい気持ちを必死で押さえつける。

 イリスの葛藤の全てを読み取ったかのように、魔王が紅唇の端をつり上げた。

 ただそれだけで。

 イリスの背後で、天井が爆発した。

「っ⁉」

 イリスは、爆風で吹っ飛ばされ、床に叩き付けられる。

 衝撃がそのまま激痛になったが、イリスは、キッと顔を上げた。跳ねるように、素早く起き上がり、叫ぶ。

「召喚、風の序列五位、エアリアル!」

 空中に出現したのは、金髪に翠の瞳の美少年。背中に、白く輝く翼を広げ、舞い降りる。

 イリスの背へと。

 イリスに触れたとたん、エアリアルの姿は消える。純白の翼だけを残して。

 イリスの背に、翼が生える。白鳥のような、天馬のような、美しく、力強い翼。エアリアルは、見た目こそ愛らしいが、突風にも暴風にもなり得る、強い聖獣だ。

 イリスは、高く舞い上がる。

 魔王は、イリスを見上げ、軽く肩をすくめ…そのまま、ふわりと浮き上がる。漆黒の髪をさらりと流し。

 まばたき一つの間に、魔王の美貌が、イリスの眼前に迫る。

「エアリアル!」

 イリスが叫ぶ。

 加速した。

(捕まったら、終わりだ…。)

 それがわかっているから、イリスは、全力で空を翔る。

 逃げることしかできないのは、百も承知だ。

 イリスは、魔王が開けた天井の穴から、外へ飛び出す。

 風圧で、黒髪が激しくたなびく。白い羽が数枚、付け根から離れて落ちる。

 魔界の空は、紫。そこに浮かぶ、真紅と蒼白の月光を浴び、純白の翼が、それぞれの色に染まる。

「捕えたぞ。」

「!」

 魔王の動きは、イリスには全く見えなかった。

 気が付いたら、すぐ後ろから、魔王の声が響いた。

 両肩に、ごく軽く、魔王の両手が乗せられる。

 イリスは、全身が凍りついた。

 魔王に触れられただけで。

 本能が告げる。

 ここで、全てが終わりだと。

 歯の根が合わない。

 カタカタと、小刻みに全身が震えて、止まらない。

 耳朶に、魔王の息がかかる。

 毒々しいほど、甘い吐息で、魔王がささやく。

 冷たい指を、イリスの肩から、耳朶に移し。

 つっと、滑らせた。

「龍王の泪石。サフィアのラスト・プリンスの信頼の証か。」

 くっくっく、と、喉を鳴らして魔王が笑う。

「これを寄越せば、見逃してやるが?」

 イリスが、嵐のように振り向いた。

 体中に、電撃が走った。

「ふざけるな!」

 考えるより先に吠えていた。

 恐怖を凌駕する感情のままに。

 愚かな選択だ。殺されれば、どのみち、龍王の泪石は奪われる。

 それでも。

 イリスは、魔王を睨みつける。それだけしかできない。

 けれど、目は伏せないと決める。最後まで。

 魔王は、変わらぬ微笑みのまま、さらりと告げる。

「では、死ね。」

 爆音が轟いた。

 あたたかいなと思った。

 知らないぬくもり。なのに、何故か、懐かしい気がする。ずっとそばにあったもののような。

 身を刻まれた激痛も、四肢にのしかかる負荷も、いつの間にか消えていた。

 このまま、ずっと眠っていたいと思う。

 けれど。

 シュラは、安らぎを振り払って、目を開けた。

「シュラ、気がついたか!」

 視界いっぱいに広がったヘルツの笑顔に、シュラは、目を瞬く。

 こんなに手放しの笑みを浮かべるやつだったか、と思った。相手を煙に巻くような、思わせぶりで意味深な言動が多いやつだと思っていた。気障で気取った笑みを浮かべて、挑発的に仕掛けてくるのがヘルツだと思っていた。

 仰向きに横たわるシュラを、上からのぞきこむ形で、ヘルツは矢継ぎ早に尋ねてくる。

「まだどこか痛むか?気分は?眩暈や吐き気は?」

「問題無い。」

 シュラが身を起こして答えると、

「そうか。」

と、心底安心したようにヘルツが笑った。よかった、と呟くヘルツの目の端に、光る雫。

「ヘルツ。」

 シュラが言いかけた時。

 轟音とともに、城全体が揺れた。

 シュラが立ち上がる。切り刻まれた青藍のマントを翻して駆け出す。

 ヘルツが慌てて後を追う。

「シュラ、今のは。」

「イリスのいる方向だ…!」

 全速力で駆けながら、シュラは答える。感情を必死で押さえつけた声で。

 部屋の天井が吹き飛んでいた。

 その真上。

 真紅と蒼白の月光を吸い込んで、どちらにも染まらぬ、漆黒の髪をなびかせ、魔王が悠然と宙に佇む。

 黒に染めた長い爪を備えた白い手が、漆黒の稲妻をまとっている。

 バリバリッと、凄まじい音と、目を焼く光をまき散らし、イリスへと向かう。

 しかし、その雷は、イリスに届いてはいなかった。

 イリスの前に、壁がある。

 淡い青い光を放つ、硝子のような透き通った壁。

 否。硝子ではなく、金剛石の強度で、魔王の雷を防いでいる。

 この魔界にあって、その瘴気すら浄化していく、清浄な輝き。流れる水の冷たさ。

 その光の源は、イリスの左耳。

 銀の五芒星の中心に煌めく、サファイアよりも青い、至高の宝玉。

「龍王の泪石…。」

 ヘルツが呟いた。

 イリスが下を見た。

「シュラさま!ヘルツさん!」

 イリスの顔が、パアッと輝いた。

 エアリアルの純白の翼をはためかせ、舞い降りる。天使のように。

 慌てすぎたのか、翼が消え、空中でバランスを崩す。落下に近い形になったのを、シュラが腕を伸ばして受け止めた。

(!)

 シュラが、かすかに目を見開く。

(こんなに軽いのか。)

 シュラの腕にすっぽり収まる、小さな体で、魔王に対峙したのかと。

「す、すみません、シュラさま!」

 イリスが、丸い頬を赤く染める。シュラの腕の中で、体をひねり、ヘルツを見た。

「よかった。ヘルツさん、ちゃんともどって来てくれたんですね。」

「イリス…。」

 ヘルツが呟いた。

 愛らしいイリスの面差しに、一瞬だけ、大人びた優しさがよぎったような気がして。けれど、確かめる間もなく、消えてしまった。

 シュラが、イリスを下ろす。

 同時に、龍王の泪石の放つ青い光が消え失せた。

 シュラが問う。

龍王(ドラゴン・ロード)の加護か。」

「はい。でも、一度きりです。」

 もう駄目だと思った時。

 イリスは声を聞いた。

 それは、初めて聞くはずの声だった。それなのに、なぜか、懐かしかった。

 彼は…彼らは、全ての命を創りだした存在。生まれてくる前の、原初の記憶に刻まれている声なのだ。

『魔王に向かって、よく吠えた。』

 穏やかで低く、深い声音。慈悲と慈愛に満ちている。

『その勇気を評して、一度だけ加護を与えよう。』

 青い光の奔流が、イリスの視界を埋め尽くした。染め上げた。

 一面の青。深い水底の、静謐なる清浄の場。

 体を蝕む瘴気も、一瞬で浄化された。あらゆる不浄を、無情なまでに根こそぎ清める力だった。

『我が認めし、シュラ・エーアガイツの弟分よ。』

 その言葉が、どんなに誇らしかったことか。

「くっくっく。」

 全てを、瞬時に奈落に突き落とすように。魔王が嗤った。

「まったく…愉しませてくれる。サフィアの皇子本人ならともかく、そんな童を加護するとは。」

 龍王も甘くなったものよ、と。真紅の双眸を細める。機嫌よく笑っているように見えるのが、かえって不気味だった。

 底が知れない。

「まあ、構わぬ。所詮、座興。」

 羽毛のように軽い口調。

「俺は、おまえさえ手に入れば良い。」

 ひた、とシュラに紅い視線を据えて、妖しく、艶やかに瞳を光らせた。

 白い手を。世界の創世から現在に至るまで、数知れぬ人の血で濡れ、それでも尚、白いままの美しい手を、シュラに向けて差し出す。

「オレとともに、魔界(ここ)に在れ。」

 まっすぐに。

「サフィアのラスト・プリンス。」

「断る。」

 一言で、シュラが斬って捨てる。

 激してはいない。むしろ、シュラの声は、ひどく静かだった。

 ふだん怒鳴ることの方が多いのに、意外なほどに、あっさりと放たれた拒絶。その分、一切の迷いが無い。

 だが、魔王は、一瞬たりとも揺らがなかった。むしろ、遊戯の最中のように笑む。

「そう。それでいい。」

 全ては、掌の上だと。書いた脚本を外れてはいないのだと。

「おまえが、たやすく堕ちるなら、最初から要らぬ。」

 魔王は、そこで初めてヘルツを、真紅の瞳にとらえた。

「さあ、我が駒よ、おまえの出番だ。」

 シュラが、青い視線をヘルツに向ける。

 ヘルツは、シュラに無言で頷き、魔王へ向き直る。

「残念だが。」

 にやりと。不敵に笑う。いつもの、シュラのよく知るヘルツの顔で。

「反抗期だ。アンタがオレの生みの親でも、素直に従う気はないな。」

 魔王は、相変わらず動じない。

「サフィアの皇子の信頼を勝ち得て、我が呪縛に打ち勝ったつもりか?だが。」

 一気に。闇の濃度が増す。のしかかるように、重く。

 シュラが、眉をひそめた。

 イリスが、ごくりとつばを飲み込む。ほとんど無意識に、シュラの青藍のマントの端を握る。

 移動した姿は見えなかった。

 気が付いた時には、魔王はヘルツの眼前にいた。


「その信頼、自分だけのものに、したくないか?」


「え。」

 ヘルツは、虚を突かれた。

 魔王に視線を合わせてしまう。

「ヘルツ!」

 シュラが叫んだが、届かない。

 魔王の真紅の瞳が輝いた。

 全てを貫く、光の刃。

 ヘルツの瞳から、意志が抜け落ちた。

 魔王が、紅い唇の端で笑う。白い手を、ヘルツのあごにかけて、持ち上げる。

 ヘルツの前髪が流れた。

 ヘルツの額の赤い六芒星が、鮮やかさを増す。

 魔王が、屈んで、ヘルツに顔を寄せる。漆黒の髪が、滝のように流れ落ちる。

「妬ましいのだろう?」

 甘い毒を、注ぎ込むように。

「ちが…ちがう…オレは…。」

 弱々しく、ヘルツは首を振ろうとする。だが、魔王の指に絡め取られ、動けない。

「自分を縛る必要はない。」

 魔王が、子守唄のように、ささやく。

「あれさえ、消えれば、サフィアの皇子が信じるのは、おまえだけだ…。」

 その歌が、眠らせるのは。

「さあ、解放するがいい。」

 ヘルツの理性。

「おまえの心の闇を。」

 遠くで、誰かが叫んだ気がした。

 思考に、靄がかかっている。

 全てが遠くなる。

 誰かがささやいている。

 「憎め。」

と。

 一瞬でも気を抜くと、その声に、意識を乗っ取られそうになる。

 シュラが、イリスに龍王の泪石を差し出した時の光景が、ヘルツの脳裏に浮かんだ。

 同時に、鋭い痛みが胸を刺す。

 それは、確かに魔王の言う通りの感情。

(違う。オレは、こいつを、憎んでなんかいない!)

「だが、あの者がいるから、サフィアの皇子は、魔界(ここ)には…おまえの傍には留まらぬ。」

 ズキリと胸が痛む。

 どこかで否定する声がある。

 シュラが魔界に留まらないのは、それだけが理由じゃない、と。

 だが、理性から生まれる声を、感情が打ち消す。

「欲しいものを手に入れるがいい。邪魔なものを消して。」

 あの、誰よりも気高い、稀有な青き宝玉のために。

「つっ…。」

 ヘルツが、片手で額を押えた。

 焼けるように熱い。

 紅く輝く不吉の星が。

 ヘルツが、その場に膝をつく。

 歯を喰いしばる。脂汗が、こめかみを伝う。

 火傷に似た激痛に、吐き気がする。

「ヘルツ!」

 シュラが、凛と叫んだ。

 濁りを押し流す清流のように。

 ヘルツが、ハッと顔を上げる。

 片膝をついたシュラが、すぐそばにいた。

「っ…。」

 視線が合った瞬間、痛みが増す。

 六芒星の輝きも。

 額を押えるヘルツの指の間から、毒々しいほど紅い光が漏れ出す。

「シュラ、オレはっ…もうっ…。」

「諦めるな!」

 鞭打つように叱咤する。

(考えろ。)

 シュラは、焦りを押し殺し、思考を巡らす。

(この紅い六芒星が、魔王の所有印であり、ヘルツを操るというなら…。)

 シュラは、ヘルツの額を凝視する。

 指の間からのぞくのは。

 紅い六芒星。

 それを真っ二つに割く、一筋の古い傷跡。

 シュラ自身がつけたもの。

 シュラが、かすかに目を見開く。閃いたことがある。

(これに賭ける。)

「召喚、水の序列四位、水天使ガブリエル。」

 場の空気が清められた。

 水気を含んだ一陣の風とともに、天使が出現する。

 純白の翼。銀髪に、アイス・ブルーの瞳。顔立ちは、ヘルツの呼び出す、炎天使ミカエルにうり二つ。

 シュラが、ヘルツに向かって手を伸ばす。ガブリエルが、主の手に、自らの手を重ねる。

 自分の額を押えるヘルツの手に、シュラが手を添えた。

 古い傷跡が、水色に輝く。柔らかな、淡く優しい春の空の色に。

 真紅の六芒星を、切り裂くように。

「!」

 痛みと熱が和らいだ。

 まさに魔法のように、すうっと、苦痛が遠のいて。淡雪が解けるように。

 不吉の星が消え失せた。

 シュラが、小さく安堵の息を吐く。ガブリエルを見上げ、頷く。ふわりと微笑み、役目を果たした天使が消える。

 ヘルツの額には、傷跡だけが残る。もう光は帯びていない、ただの古い刀傷。

 シュラが、ヘルツの額から手を引き、立ち上がる。

 ヘルツが、座り込んだまま、シュラの背を見上げた。

「…シュラ。」

 言い淀む。言葉を探す。

「オレは…。」

「醜い感情など、誰にでもある。」

 視線を合わせず、前を見て。

「魔王は、それを増幅させて操る。そんな手口は、わかりきったことだ。」

 魔王にとって、人は玩具。苦しめて弄ぶために在る。

 青い視線の先に、艶然と微笑む魔王がいる。

 いつの間にか、魔王は、離れた場所に佇んでいた。

 シュラが、厳しく命じる。

「立て。」

 手を差し伸べることはしない。

(わかってる。)

 ヘルツは、ぐっと膝に力を入れる。

(シュラは、オレが、自分で立ち上がるって、信じているから。オレを、自分のライバルだと、認めているから。)

 ヘルツは、シュラの隣に立つ。

「ヘルツさん、大丈夫ですか?」

 近づいて来たイリスに、微笑みかける。

「ああ、もう大丈夫。」

 イリスの耳朶に光る石を見ても、もう動揺はしない。

 顔を上げて、ヘルツは魔王を見据えた。

「本当に、次々と、予想を覆してくれるものだ…。」

 魔王は、観劇でも楽しんでいるかのような、軽やかな口調で言う。

「まあ、良い。概ね、計画通りだ。」

「計画?」

 シュラが、眉をひそめる。

「そう。俺は、おまえに、弱点を与えたかった。六年前、おまえは、親兄弟でさえ、平気で見捨てた。冷酷にして残忍な皇子。あの時のおまえを、俺は意のままにできなかった。」

 にい、と朱唇がつり上がる。

「だが、今のおまえは、どうかな?」

 真紅の瞳が、触れたら凍りつきそうな冷たさで、シュラを流し見る。

「その二人を殺すと言ったら、おまえは、俺に従うだろう?」

「しつこい!」

 シュラが吐き捨てた。

「貴様の思惑など、この手で叩き潰す!」

 柳眉を逆立てて、吠える。

「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」

 シュラの手中に、青く輝く長剣が出現する。

 魔王が、す、と白い手を掲げた。漆黒の闇が、濃い霧のようにシュラに向かうのを。

「召喚、火の序列二位、オルタナティブ・フェニックス!」

 ヘルツが召喚した、炎の鳥が、その身を盾にして庇う。

 漆黒の霧は、火の鳥のまとう炎と相殺して消える。

 視線も合わせない連携。

 シュラは、そのまま魔王に突っ込んで、長剣を横に薙ぐ。

 風圧で、城の壁に亀裂が入る。

 しかし、魔王は、既にその場にはいない。

 シュラの背後に、くるりと回り込む。白い手が、シュラの首筋に迫る。

 バリバリと音をたてた、漆黒の雷をまとって。

 イリスが叫ぶ。

「召喚、風の序列五位、シルフ・シールド!」

 シュラの前に、竜巻が出現する。

 暴風の盾は、魔王の手が触れただけで消し飛んだが、シュラが跳び下がるには十分だった。

 だが。

「甘い。」

 ふ、と魔王が笑む。

 魔王が片手を天に掲げる。

 漆黒の雷が、四方八方に放たれる。

「「「うあああああああっ!」」」

 三人の悲鳴が重なる。

 同時に倒れ伏した。

 聖獣を召喚する間など、全くなかった。

 三人とも、とっさに直撃はさけた。

 だが、かすっただけで、立っていられないほどの衝撃に襲われた。全身に、猛毒を注ぎ込まれたようだった。

全く力が入らない。

「くっ…。」

 シュラが、がくがくと、痙攣する両腕で上半身を支え、起き上がる。立ち上がれないまま、それでも魔王を睨み据える。

「シュラ。」

「シュラさま。」

 ヘルツとイリスは、まだ、指一本動かせない。

 魔王が、小首をかしげた。さら、と漆黒の長い髪が揺れる。

「おまえの大事な二人は、動けぬようだぞ。」

 ゆっくりと、目を細めていく。肉食獣が、追い詰めた獲物をいたぶるように。

「どうする?」

 シュラが、座り込んだまま、叫ぶ。

「召喚、水の序列二位、トライデント!」

 吹き飛んだ天井の真上。魔界の空に閃光が駆ける。

 空を裂き、轟音とともに、雷が落ちる。

 雷は瞬時にその姿を変える。

 床に突き刺さった、三つ又の矛へと。

「ヘルツ、イリス、息を止めろ!」

 理由まで言う時間はなかった、それでも、シュラの声は、無条件に人を従わせる。

 三つ又の矛から、大量の水が噴き出した。

 突然、海が、それも、荒れ狂う嵐の海が出現したようだった。

 激流の大波が、シュラ、ヘルツ、イリスを一瞬で押し流した。

 洪水が、三人の少年を押し流し、連れ去った。

 大理石の床は、豪雨が起こした濁流の跡のように、水によって抉り取られている。

 潮の香りが、かすかに漂っている。

 魔王は、膝をつく。割れた床に溜まった水に、手を伸ばす。

「聖性がある。俺の電撃を浄化したな。」

 魔王は、ゆっくりと立ち上がり、濡れた指先で唇に触れる。

 それだけの動きに、匂い立つほどの色香がある。

「サフィアのプリンス。おまえは、いつ、諦める?」

 魔王は考える。かの皇子は、どこまで足掻くのだろうと。

 絶望に染まったことのない、あの青い瞳は、いつ。

「俺は、千年待った。」

 魔王のつぶやきを聞く者は、今、この場にはいない。その年月に疑問を差し挟む者も。

「ずっと考えていた。俺には、時間だけはあったから。おまえの弱点になり得るものが何なのか。」

 獲物は、仕掛けた罠にかかった。

 魔王は歩き出す。水の跡をたどって、すべるように。

 壁の一面が崩れ落ちていた。

 中庭に面した部屋だった。庭に出るための扉もあったのだが、周辺の壁ごと破られて、瓦礫の山と化している。

「…これは面白い。」

 魔王は、眼前に広がる光景に、目を細めた。

 中庭に、風が吹き荒れている。

 というより、中庭が、台風の目になったようだった。周囲を、風が駆け廻っている。

 風の結界に、すっぽりと覆われている。風の勢いは、大気の暴走さながらの激しさで、風の壁の外側や向こう側を視認することができない。

 しかも、この風は。

 カーテンが開くように。風の結界がほんの一部、隙間を空けた。

「浄化の風だ。」

 中庭の中心に、凛と立ち、シュラが告げた。

 濡れた亜麻色の髪から雫が落ちる。

「この風の内側は、貴様のフィールドでは無い。」

 魔界では、魔王が圧倒的に有利。だから、聖なる風の結界で、地の利を奪った。

 シュラは読んでいる。魔王が、自ら結界に入ることを。魔王の思考を。

「…確かに。ここだけは、魔界では無くなった。」

 魔王の目が輝く。気に入りの玩具に、気づかなかった遊び方を見つけた子どものように。

「おもしろい。実におもしろいぞ、サフィアのプリンス。おまえは、本当に賢い。よく、こんなことを思いつく。追い詰められた、余裕のない状況で。」

 褒めているのか皮肉なのか。両方か。

 魔王は、結界の隙間から、内に入る。背後で、結界が閉じられる。

「ところで、あの二人はどこに?」

 シュラは、薄く笑った。不敵な笑みだった。

「さてな。」

 猛禽を思わせる鋭利な眼差しで、魔王を見据える。

 魔王は、ハッと身構えた。

 本能が告げた。

 空気が変わったと。

 温度、濃度、質感、匂い。

 それらが、一瞬で急激に変化した。

 絶対の聖性を帯びた。

 もともと風の結界の内側は、魔界の瘴気を吹き払い、清涼さを保っていた。

 だが、今は。

 神界に限りなく近い、冷徹なまでの清冽さがある。

 ただそこに立つだけの、シュラから。

 清浄すぎて痛みを覚えるほどの冷気が放たれ、空気の温度を下げていく。

 肌が、髪が、ひんやりと冷えていく。

 時は満ちた。

 シュラの美貌が、凄絶に冴えわたる。

 魔王の視線が、吸い寄せられる。

 聖なる結界は、魔王から地の利を奪うだけのものではない。


「降臨、水の序列一位、龍王(ドラゴン・ロード)!」


 空間が、青一色に染まった・

 神が()(くだ)る。

 光を放つ鱗。一枚一枚が、青い宝玉のよう。

 優美に広がる翼。

 深い叡智と慈悲に満ちた、深海の瞳。

「憑依。」

 シュラの一声で、神の姿が消える。

 シュラの中に、降りる。

 シュラの全身が、青い光を放つ。

 亜麻色の髪が、青く染まった。

 シュラの双眸が、鮮烈に煌めいた。

「これで、貴様と対等だ!」

 シュラの手に、長剣が出現する。同時に、魔王に駆ける。

(速い!)

 人の身に出せる速度ではなかった。

 魔王がかわす。

 だが、かわしきれない。黒髪が数本、断ち切られて舞う。

 シュラは、返す刀で、さらに一閃する。

 ガキッ!

 と、甲高く空気を裂く、金属音。

 いつの間にか、魔王の手にも、一振りの剣。

 柄も刀身も、漆黒。鍔に輝く宝石だけが、血のように赤い。

 魔王が、シュラの剣を受け止めた、刹那。

 魔王の背後に、極寒の烈風が吹き荒れた。

 魔王が、上体をひねり、腕を伸ばす。

 魔王の手から、漆黒の霧が吹きだし、吹雪を呑みこむ。

「アジ・ダハーカ!」

 シュラが命じる。

 魔王の背後に出現していた、三つ首の竜が吠える。猛毒と電撃を、魔王に向けて放つ。

 魔王の手が翻る。

 バリバリバリッ!

 闇色の電撃が、アジ・ダハーカに絡みつく。

 アジ・ダハーカの消滅。

 同時に、シュラが、魔王に突っ込む。

 二振りの剣が、交錯する。

 火花を散らす。

 紅い花弁が散ったようだった。

 鮮血が舞う。

 剣は、全く同時に、地に落ちた。

 シュラは、頬を切り裂かれていた。血の珠が、ぽたぽたと落ちる。

 魔王が胸を押えていた。

 浅く切られただけだが、魔王には衝撃だった。眉を吊り上げる。

「召喚呪なしで、呼んでいる…?」

「神を降ろしたオレは、聖獣を自在に呼べる!」

 シュラが、高らかに叫ぶ。青い双眸が、爛々と輝く。野を駆ける獣の獰猛さ。

 ざっと。

 風も無いのに、青く染まったシュラの髪がなびいた。

 その声に呼応して。

 ラドン・アローが、魔王に降り注ぐ。

 魔王が、両腕を掲げた。

 漆黒の炎が荒れ狂った。

 矢が、次々と燃え尽きる。

 魔王が、炎ごしに嗤う。

「百の矢も、すぐに尽きるな。」

「そうか?」

 シュラが笑みを返す。

 ドスッ!

 炎の壁を貫いて。

 紺碧の矢が、魔王の胸に突き刺さる。

「っ?」

 魔王の真紅の瞳が、驚愕に見開かれた。

「な…に…。」

 唇から、一筋、鮮血が伝う。

 ピキイイイイッ!

 矢が刺さった場所が、凍りつく。

 次第に広がっていく。

「龍王を宿したオレが呼んだ聖獣は、本来の序列を超える!」

 シュラが告げる。

「ふっ…。」

 魔王が、笑った。

 ひどく晴れやかな、無邪気にさえ見える笑み。

「あははははははっ!面白い!面白いぞ、サフィアのプリンス!まさか、ここまでとは思わなかった!」

 魔王が、矢を引き抜き、投げ捨てる。

 ザクッと、地に突き刺さる。

 魔王のオーラが、大きく弾ける。

 漆黒の炎と化す。

 魔王は、炎を自らの胸に置く。氷が一瞬で水から水蒸気になった。

 シュラが、手を掲げた。

 龍王の力が、氷の壁を生む。

 全てを無慈悲に阻む、永久氷壁のはずが。

 魔王の炎の中に、崩れ落ちる。

「チッ!」

 シュラが舌打ちをする。

 再び、手を掲げる。

 氷の槍が、魔王へと向かう。

 魔王が炎を放つ。

 激突する。

 神の力で作られた、炎と氷。

 相反する神の力がぶつかり合い、凄まじい爆発が起こる。

 魔王の漆黒の長い髪が、シュラの青く変わった髪が、激しくたなびいた。

 シュラは、氷の槍を打ち続ける。

 魔王は、炎を放ち続ける。

 轟音。

 閃光。

 互いに、一歩も引かない。

 両者の力は、全くの互角。

 髪一筋でも気を抜けば、喰われる。

 シュラは、両足に力を込める。

 青い瞳が、狂おしく輝く。

「くたばれ、魔王!」

「威勢がいいな、サフィアのプリンス!」

 魔王が、炎ごしに声を叩きつける。

「確かに、今、オレとおまえは対等だ。だが。」

 魔王が、にいい、と唇を歪ませる。

 シュラが、唇をかみしめた。

 つ、と一筋、鮮血が伝う。

「龍王を降ろし続けて、いつまでもつかな?」

 風の結界の外側。

 魔王を招き入れるために開けた入口とは逆の。魔王からは見えなかった位置で。

 イリスの艶やかな黒髪が、風になびいている。

 胸の前で、両手の指を組み、頭をたれて、目を閉じ。

 イリスは静かに祈っている。

 風の結界を維持するために。

 吹き荒れる、聖なる風は、内と外とを断絶する。結界の内にいる、シュラの姿は見えない。中で、何が行われているかも。

 シュラは、イリスに、「できるだけ長く、結界を維持しろ。」と告げた。

 だから、イリスは、風を呼び続ける。

 こめかみから、汗が伝うのを、ぬぐいもせずに。珊瑚色の唇を、一文字に、きゅっと引き結んで。

 ヘルツは、唇をかみしめて、イリスの横顔を見る。

「貴様には、別の役がある。」

と、シュラはヘルツに告げた。

「オレが、龍王を降ろしても、魔王とは互角だ。それだけでは勝てん。」

 シュラは、はっきり言った。

 シュラは、プライドが高くて負けず嫌いで意地っ張りだが、敵の力を見誤ることはない。追い詰められた状況でも、冷静に最善の策を巡らせる聡明さで、ヘルツに命じた。

 ヘルツからすれば、とんでもない無茶ぶりだった。

 できるはずがないだろうと言いかけるのを、青い瞳の一睨みだけで制して、シュラは風の結界の中に消えた。魔王と戦うために。

 叱咤も激励も無かった。シュラはただ、ヘルツに、魔王に勝つための唯一の手段を示し、貴様がやれと、ぽんと投げて寄越した。それだけ。

 どうしたらいいのか分からない。

(オレにはできない。シュラ。魔王に作られたオレには、絶対に無理だ…。)

 こうしている間にも、イリスの魔力は尽きていくだろう。結界の中のシュラは、どうなっているのかすらわからない。

 焦りに、かみしめた唇に、血がにじむ。

「ヘルツさんなら、できますよ。」

 ふいにかけられた声に、ハッと目を見開く。

 イリスが、まっすぐに、ヘルツを見ていた。

 朝露に濡れた葡萄のような、深い紫の双眸。

「だから、シュラさまが、やれっておっしゃったんです。」

 ためらいの無い口調。イリスは信じている。シュラの全てを。

「ちょっと、…ちがうな、すごく、悔しいですけどっ。」

 愛らしい顔立ちに、キッと険を走らせて。

 許しがたいことであるかのように、ふっくらとした唇をとがらせて。

「シュラさまは、誰よりも、ヘルツさんを信じています。」

 ヘルツは、ガツンと頭を殴られた気がした。

 イリスのボーイソプラノと、シュラの低く艶めいた声は、全く似ていないのに。イリスの声に重なって、シュラの声が、聞こえた。

『貴様がオレのライバルなら、やってみせろ。』

(シュラ。)

 すとんと、覚悟が決まった。

(おまえが、オレを信じてくれるなら、オレは、何だってできる!)

 ヘルツは、肺の中が空になるまで息を吐いて、吸った。

 赤紫の目を閉じる。

 真摯に祈る。

 自分が、魔王に作られた人間だと知ってから、もうけして届かないのだと諦めた存在へと。

(振り向かせてやるさ。だから…だから、待っていろ、シュラ。)

 心を研ぎ澄ます。

 深層へと。

 呼吸が深くなる。

 もう、迷わない。

「龍王を降ろし続けて、いつまでもつかな?」

 魔王が、からかうようにシュラに言う。

 シュラは、親指の腹で、鮮血をピッと無造作に払った。魔王の目に、ひどく不遜に映る仕草だった。追い詰められた状況で、なぜ、と魔王が目をすがめる。

 神を降臨させるのには、膨大な魔力が必要だ。しかも、シュラは、呼んだ神を、自らに憑依させ続けている。だからこそ、魔王と互角に渡り合っていられるのだが、費やされる魔力は、生命力まで削っているだろう。

(長くもつはずがない。)

 しかし、そんなことは、シュラも百も承知のはず。ならば、なせ、シュラは平然と、否、悠然と、龍王の力を行使し続けていられるのか。

 青く染まった髪が、はげしくたなびく。切り裂かれた青藍のマントが、嵐のただ中にいるように揺れている。

 魔王に向かって放たれる、氷の槍。

 それを呑みこみ続ける、漆黒の炎の壁。

 相反する神の力の激突。

 空気を振動させ、魔界全土を揺るがすようだった。

 その中で、爛々と輝く、シュラの青い双眸は揺らがない。ぴたりと魔王に据えられたまま。

(何かを、信じている?)

 魔王が、まばたきをした。

(何かを、待っている。)

 確信とともに。

 シュラの髪の一房、その毛先が、ほんの一瞬、亜麻色に戻った。シュラは、視界に入ったわけではないのに、眉をひそめた。

 明滅するように、毛先だけが亜麻色と青に変わり続ける。

 魔王は、唇を歪めた。

「何を企んでいるかは知らぬが、限界のようだな。サフィアのプリンス。」

 シュラの生み出す氷の槍の本数と、勢いが減じた。

 シュラは、感情を消した表情で、魔王を見て、言った。

「いいことを教えてやろう。」

 厳しい眼差しだった。

 冷たくはない。傲慢でもない。真実を正しく告げる時の、残酷なまでに一切の私情を排した声に、魔王は、どきりと息を詰めた。

 苦し紛れの時間稼ぎでも、はったりでも無いことが、なぜか、わかった。

「オレは、カルト・ヘルツィヒ・サフィアではない。」

 魔王の時が止まった。

 雷に撃たれたように、棒立ちになる。

 シュラが、笑う。

 滅多に見せない、年相応の、否、幼く見えるほどの、満開の笑み。大輪の薔薇が咲いたような鮮やかさ。

「遅い!」

「悪い!」

 風の結界を破って、ヘルツが突っ込んできた。眩い金髪をなびかせて。

 シュラとヘルツの視線が交差する。一瞬より短い刹那。それで十分。

 ヘルツが、全身で叫んだ。

「降臨、火の序列一位、永遠(エターナル・)不死鳥(フェニックス)!」

 太陽が降りた。

 黄金の炎が、漆黒の炎を焼き尽くす。

 魔王の炎を。

 焼き清める。

 一瞬で駆逐した。

 朱金に燃え上がる羽根をはばたかせた、炎の神。

 その姿は、華麗にして荘厳。

 優艶にして、神聖。

 深い慈しみと、同時に、一切の妥協なき苛烈な激情を秘めた、ルビィの双眸が、魔王を、同胞を見据えた。

「終わりだ、魔王!」

 シュラが吠えた。

(ドラゴン・)(ロード)の名において命じる!聖なる凍気に撃たれて落ちろ!」

 龍王を宿したシュラの手から、氷の槍が飛ぶ。

 きらきらと輝き、風を切って。

 魔王に触れた瞬間、凍気が一気に魔王を包み込み、氷の棺に閉じ込めた。

 ヘルツは、座り込んだまま、肩で息をしながら、シュラを見上げていた。

 中庭から、そこに面した部屋に戻っている。壁の一面をシュラが壊したので、部屋と言うには抵抗があるが。

 シュラは、残った三面のうちの一つの壁に背を預け、腕を組んで立っている。相当消耗しているはずなのに、ものすごいやせ我慢だなと思うと、ヘルツは笑いがこみ上げてくる。

 髪の色は、完全に亜麻色に戻っている。

 神の気配は、もう無い。

 龍王も、永遠不死鳥も。

 シュラの足元では、イリスが、小さな体を丸くして眠っている。起きていると、シュラ以外の人間には、結構生意気だが、寝顔は天使のようだ。シュラが、青藍のマントを外してかけてやっている。

 限界を超えて魔法を使ってしまったので、生命維持のために、体が睡眠を欲しているのだ。

 正直、ヘルツも眠い。

(神を呼ぶなんて無茶を、あっさり命じるなよな…。)

 絶対に無理だと思っていたのに。魔王に作られた自分が、神聖なる炎の神を召喚できるはずがないと。

 ひどく静かだ。

 聞こえるのは、イリスの寝息だけ。

 魔王は氷の棺の中で、ぴくりとも動かない。

「ヘルツ。」

 シュラがこっちを向いたので、視線が合う。

「動けるか?」

「ああ。」

 ヘルツが頷いて、ゆっくりと立ち上がる。何とか、それくらいまで回復していた。それを見抜いて、シュラは声をかけたのだろう。

 シュラは膝をついた。イリスを、マントにくるんだまま抱き上げる。

「イデアルが開けた、扉の場所は分かるか?」

 どうやってイリスが魔界に来たかは、説明されていた。この瞬間も、イデアルが開いた扉を、ケルンとミステルが維持していることも。

 魔界に、ごくわずかだが、清浄な気が流れ込んでいるのがわかる。その源にたどりつけばいいと。

「ああ。」

 ヘルツが答えると、シュラが、腕に抱えたイリスを差し出してくる。ヘルツは、思わず受け取ってしまってから、焦る。

「おい、シュラ。」

「イリスを連れて、先にもどれ。」

「シュラ!」

 なぜ、と怒鳴りつけたかった。けれど、声が喉の奥で凍りつく。口にしてしまったら、シュラが、もどらないのではないかという、根拠のない恐怖。

 ヘルツが、イリスを抱え直す。イリスは、こんこんと眠っている。目を覚ます様子は無い。小さくて軽い体は、あたたかい。そのぬくもりに、勝手に励まされた気になって。

 ヘルツは、かすれた声を、しぼり出す。

「もどって…来るな?」

「当然だ。貴様と、真の決着をつける。」

 稀有なことに。

 シュラが無邪気に笑った。

 ヘルツが、ぎょっとする。冷笑や嘲笑しか浮かべないやつだと思っていた。それでなかったら、傲慢な高笑い。

 逆に不安になる。

 シュラは、幻かと思うほど、あっさりと笑みを消して。

「オレには、サフィアの皇子としての、最後の役目がある。」

 初めてだと、ヘルツは思う。シュラの口から、その言葉が出たのは。

 シュラが、自分をサフィアの皇子であると、認めたのは。

「さて。」

 居丈高に腕を組み、壁にもたれたシュラが、氷の棺を一瞥した。

「そろそろ、動けるだろう。」

 氷の棺が、粉々に砕け散った。

 凍気が、白く周囲を覆い隠す。

 それが張れた時。

 魔王が、ゆっくりと進み出た。

「…やれやれ。やってくれたものだ。」

 軽く嘆息。

「龍王といい、不死鳥といい、ずいぶん甘くなったものだ。おまえならともかく、俺の手駒の声に応えるとはな。」

「誰に作られ、どこに生まれたかなど、たいした問題では無い。」

 シュラが、気負いなくあっさり言う。

「…言うな。」

 魔王が苦笑する。で、とシュラを紅い瞳で流し見る。

「おまえは、なぜ、ここにいる?危険だと思わないのか?」

 ひやりと。

 刃物を首筋に突き立てるような声。

 だが、シュラは、冷ややかに切って捨てた。

「氷の棺に魔力を吸われただろう。回復するまでまだ時間がかかるはずだ。」

 見破られていた魔王は、黙る。

「それに。」

 と、シュラの声音が変わった。優しくはない。憐れみでもない。

 まっすぐに、心に切り込む声。

「もう、貴様は、オレに執着していないだろう。」

「…。」

「否。貴様は初めから。」

「そうだ。おまえは、カルトじゃない。」

 その名を口にした時だけ、魔王の声が複雑な響きを帯びた。

 怒りも悲しみも喜びも、全てを内包した声。呼んだのは、憎むべき敵か。それとも。

 魔王は、シュラに顔を寄せた。後ろは壁。シュラは、顔を背けもせず、受けて立つ。詰めた距離から。

「…姿は、そっくりだ。髪も瞳も、同じ色。だが、違う。あいつは、誰も必要としない奴だった。最後まで。」

 ゆっくりと、唇にその名を乗せる。毒のように苦いのか、蜜のごとく甘いのか。とても、慎重に。

「カルト・ヘルツィヒ・サフィア。」

 一篇の詩を、謳いあげるように。

「サフィア王国の祖。たった一人で国を興した、伝説の魔法使い。魔法使いとしても、王としても、最高で。」

 魔王は、顔を伏せた。声と肩が、かすかに震える。

 シュラは、ただ、耳朶を滑り落ちる魔王の声を聞く。

 魔王が語る、初代国王の血を引く者として。

「人としては最低だった。残忍で冷酷で、一片の慈悲も無く。戦うことだけが、何よりも好きで。」

 どうして、記憶は、こんなにも鮮やかなのか。千年も経ったのに。あの青い瞳の、刃のような輝きが、胸に刺さったまま消えない。

「面白いと思った。手に入れたかった。だが、妃も皇子を、人質にとっても、あいつは、眉一つ動かさず、見殺しにした。」

 妻や子の命は、彼にとっては軽かった。行動を縛るものには成り得なかった。

「だから…あいつにそっくりなおまえも、きっと同じだ。」

 だから魔王は、ヘルツを創りだした。

 カルト・ヘルツィヒ・サフィアには、並び立つ者は誰もいなかった。だが、もし、彼の隣に立てる相手がいたならと。

 そうして、全てを仕組み。

 魔王は、顔を上げた。

 正面から、シュラを見る。

「だが、おまえたちも、俺の意のままにはならない。」

 千年の孤独。

 シュラは、組んでいた腕をほどく。居住まいを正す。

 ただそれだけで、シュラのまとう高貴さが、決定的なものになる。洗練された立ち居振る舞いは、彼が、皇子として生まれ育った者なのだと、雄弁に語る。

 魔王は、まばたきをした。

 シュラは、告げる。

 誰かの前に、それがたとえ父王であっても、膝を折るのが大嫌いだった。誰かを敬う気持ちなど、持ったことが無い。

 けれど、この言葉だけは、真摯に伝えなければならないと。

「サフィアの第一王位継承者にのみ、伝えられてきた言葉がある。」

 この声に、宿るものがあればいい。

「カルト・ヘルツィヒ・サフィアの血を引く最後の皇子として、貴様に、初代国王の言葉を伝える。」

 魔王が、一番に望む声で、伝わるといい。

『魔王よ、おまえは、オレの、生涯唯一の友だった。』

 魔王の顔から、一切の表情が消える。

 全ての音が消えた沈黙。

 泣くことも、笑うこともなく。

 魔王は、ただ、衝撃に立ち尽くしたまま、微動だにしない。

 やがて。

 大きく息を吐き出した魔王は、壁に拳を打ちつけた。蜘蛛の巣状に亀裂が走る。

 シュラは、踵を返して、歩き出す。

「カルト。」

 かすれた声でつむがれた名を、背中に聞く。

 別れの言葉は無い。

 魔王が感情を向けるべき相手は、自分ではない。

 千年受け継がれた言葉で、魔王が救われたわけではないだろう。魔王の望みが叶ったわけではないのだから。

 それでも、支えになればいい。

 今までも、これからも、神として永遠を生きる魔王の。

 シュラは、歩き続ける。

 なじみのある波動の方向へ。光射す場所へ。魔界からの出口へ。

 彼を、カルト・ヘルツィヒ・サフィアとは違う人間にした者の待つ場所へ。



終幕 永遠の好敵手


 月が、皓々と輝いて、地上を照らす。魔界とは違う一つの月。柔らかな金色。彼の髪と同じ。

 月光を浴びて腕を組み、目を閉じてシュラは待っている。

 自分以外、誰もいない、静まりかえった闘技場の中央で。

 涼やかな夜風が、青藍のマントと、亜麻色の髪を揺らして吹き過ぎる。髪が乱され、耳朶に光る青い宝玉が、きらりと月光を弾いた。

 カツン、と足音。

 近づいて来る。聞き慣れた音。

「待たせたな、シュラ。」

 シュラは、目を開けて、声の主を見据えた。

 濃い紅のマント、月と同じ黄金の髪。生き生きと輝く、アメジストの瞳で、まっすぐにシュラを見る。

「遅いぞ。」

 不機嫌そうに言うシュラに、ヘルツが苦笑する。

「おまえなあ…こんな夜中にいきなり呼び出しておいて、それはないだろう。これでも急いで来たんだぜ。」

 シュラは、それがどうした、当然だろう、という顔をしている。

 ヘルツは、やれやれとため息をつく。

(しょーがない、こいつってこういう性格だ。)

 流石は元皇子さま、と考えて、ああ違うなと考え直す。

(皇子だからじゃなくて、シュラだから、こういう性格なんだろうな。)

 ヘルツは、浮かんだ笑みを消した。

 視線が、強く絡む。

 空気が、一瞬で張り詰めた。

 温度が下がる。

 シュラが、低く抑えた声で告げる。

 青い瞳が、爛々と輝いている。

 沸き立つ歓喜と興奮に、白い頬を薄紅に染めて。

「ヘルツ、決着をつけるぞ。」

 ヘルツは、ごくりとつばを呑んだ。

 背筋に、電撃が駆けのぼる。

「…ああ。」

 二人の声が重なる。

「「魔法戦闘(バトル)」」

 吹き過ぎる、一陣の風。

「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」

 シュラの手に、青銀にく輝く氷の長剣が出現する。

「召喚、火の序列二位、エクスカリバー!」

 ヘルツの手に、黄金に輝く炎の剣が出現する。

 二人は、全く同時に、相手に向かって突っ込んだ。

 ガキイィッ!

 火花が散る。

 空気がびりびりと震える。

 刃ごしにシュラと視線を合わせ、ヘルツは笑う。

(なあ、シュラ。オレたちは、決着なんてつかない。)

 きっと、今、シュラも同じことを思っていると、ヘルツはわかる。確信をもって。


(オレたちは。)

(永遠の好敵手。)


               終




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