19 楽園の終焉
私はずっと天使と取引する方法を考えていた。
契約の更新をしない以上、三百年前とは勝手が違う。応じてもらえない可能性は十分にあるわ。
三百年前、飢饉に見舞われた祖国を救うため、魔女プラナティは天使ルインアリンに会い、契約の更新を望んだ。しかし地下にいる天使が直接日照りを解消することはできない。だから天使はプラナティに力を貸し与え、雨乞いの魔術を行わせた後に甘き血を捧げさせた。大地の豊穣を約束したゆえに、天使はルジアーロの危機を放っておくことができなかった。それが真実でしょう。
今回は契約終了を望んだ後に取引を持ちかける。天使にとってこの王国の命運がどうでもいいものならば、絶対に取引は成立しない。
でも、賭ける価値はある。
九百年もこの王国の地下で眠っていたのよ。愛着が湧いても不思議はない。
自分が守り、育て、築いてきた楽園。
それを自分の再起とともに終わらせることを選ぶか、それとも。
私はヴィルと目線を合わせ、小さく頷き合った。
二人で話し合って決めたの。
天使と取引ができるのなら、薔薇の宝珠と引き換えに体を治してもらうこと。
いつもの私なら、こんな不確かな賭けはしない。ロゼかルジアーロのどちらかを見捨てて事態の収束を図るでしょう。一つ間違えば私が死ぬだけではなく、ヴィルが生贄にされる可能性だってあるのだから。
……欲望に目が眩んだのかもしれないわ。
過去のしがらみの全てを断ち切って平穏に生きていくためには、薔薇の宝珠を使わずに延命を図るのが一番だもの。兄様やコーラルたちとわだかまりなく接して、こそこそせず胸を張って、ヴィルと一緒にいつまでも楽しく暮らしたい。
もちろんこの国の人たちのことを、見捨てたいと思っているわけではないしね。
特にロゼ。この子には不幸になってほしくない。
だからこそ、と私は生まれて初めて目に見えない存在に祈った。らしくないわね。笑ってしまいそう。
こんな幸運な機会は、きっと二度と訪れない。アンバートにすらできなかったことよ。この取引は、ルジアーロ王国の災厄の予知を回避し、私が普通の人間になる最初で最後のチャンスでしょう。
私たちは息を詰めて天使の返答を待った。
もしも見込みが外れたときは……手荒な真似をさせてもらうしかない。
【その取引、受けよう。禁忌の薔薇を我が翼の糧に】
ルインアリンは私の暗い思惑を読み取ったのか、ほんの少し笑っているように見えた。表情はないけれど、雰囲気で分かる。不思議な感じね。
「本当に?」
【我とて、この国が滅びることは望まぬ。旧き友メルジンのためにも。かの男は言った。『人が人の力のみで国を守るのが一番である』と。あの時代、それは叶わなかった。我がこの薔薇の力ではばたいた後、魔力の大河は時間をかけて細くなり、かつての枯れた姿に戻っていくこともあり得る。しかし今度は、メルジンが望んだ真の楽園を見ることが叶うだろうか】
ロゼもセレスタも自分には答える資格がないと思っているのか、沈黙を貫いたままだった。
正直、この王国が今後どうなるかなんて誰にも分からないわよね。
天使が去れば、楽園ではなくなることは確かでしょう。それこそ緩やかに滅んでいくかもしれない。
後のことまで責任は持てないわ。
私は頼まれた通りロゼを無事に国王陛下の元へ連れ帰る。そして、ルジアーロ王国を襲うはずだった災厄の予知をうやむやにする。
ついでに天使に自分の肉体を正常にしてもらうの。当初の思惑とは違うけれど、それくらいの役得があってもいいでしょう?
アンバートが、お父様が命懸けで託してくれたものを一つ失うのだから。
……少しだけ罪悪感はあるわ。でも、そんなに恨まれないと思うのよね。むしろ喜んでくれるのではないかと思ってしまうの。なぜかしら。
「にゃーん」
コハクが私の足に擦り寄ってきた。
緊張感がなくなっちゃうわね。でも、可愛いから許す。
【では、取引を】
最後の最後に騙されはしないかと警戒したのだけど、ヴィルがそっと私の手を取ってくれた。
「大丈夫だ。何があっても、俺がずっとそばにいる」
そっと囁いてくれた言葉に微笑み、私は深呼吸をして、薔薇の宝珠を天使に差し出すように掲げた。同時に私とヴィル、そしてロゼの体が淡く光る。
手の平から宝珠の感覚が消えると光も収まり、自分の体が自分のものではないかのように変化したのが分かった。
「ヴィル、ロゼ、体は平気?」
「ああ。特に変わりはない」
「わ、わたくしも」
私は二人とは違って、ちょっと怠い感じがするわね。薔薇の霊水の力が消え失せ、普通の人間と同じ肉体になったということかしら。
あまり実感が湧かないわ。長く悩んできた自分の体の問題が、あっさりと解決してしまって拍子抜けしたのかも。
一方、天使はと言えば、光る深紅の翼を手に入れていた。ちょっと毒々しい外見になってしまったわね。見方を変えれば、神々しいとも言えるかしら。
【これは、人の手に余るだろう。数多の血と悲鳴、欲望と愛憎を孕んだ禍々しきもの。その罪と業は我が背に負おう。地に堕ちた我には似合いの翼である】
初めは感情の欠片もなかった天使の声が、どんどん人間味を帯びているような気がする。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど……。
「ありがとうございます」
私はそっと淑女の礼を返した。ヴィルもロゼも、ティガとセレスタすらも天使に対して敬意を示す。
【感謝は不要。これは対等で平等な取引である】
天使は翼を広げ、感慨深げに天を仰いだ。
【さて、これでこの地に思い残すこともない。メルジンの血族よ、ルジアーロの民よ、悲しき定めから解放されし異形の者よ、願わくば健やかに生きよ。我は薔薇の翼とともにはばたこう。後の処理は頼む】
天使の言葉で、足元で脈打つ線が視認できるようになった。これが魔力の大河なのでしょうね。
「ヴィル」
「ああ、分かっている」
ヴィルが魔女殺しを構える。
「っ!」
紅い一閃が天使とこの地の結びつきを絶った。
その瞬間、光が爆発的に広がる。あまりの眩しさに思わず目をつぶってしまう。
さらば、と天使の不思議な声が頭の中に響いた。
目を開けたときには天使の姿はどこにもなかった。箱庭の天井は何ともなってないし、透過したのか転移したのでしょう。
「終わったのね」
「ああ」
ヴィルが珍しく、とても嬉しそうに微笑んでいた。こんな無邪気な表情は初めて見るかも。……抱きつきたい。
思い返せばこの一か月、ほんの少ししかイチャイチャしてない。さすがに思う存分甘えたり甘やかしたいと思ってしまうわ。
でも、残念なことに理性が勝った。
二人きりではないし、地上に戻るまでがお仕事だもの。さっとヴィルから顔を背け、代わりに未だに目をしょぼしょぼさせているコハクを拾い上げ、ぎゅっと抱きしめた。
横目でヴィルががっかりしているのは見えてしまったけれど、気づかなかったことにしましょう。ごめんね。
「……これで、良かったのでしょうか」
ロゼが座り込んだまま、放心している。
張りつめていたものが切れてしまったのか、すっかり顔から表情が抜け落ちているわ。
「いいんじゃねぇの。最後、よく分かんなかったけど、天使も満足してたみてぇだし、丸く収まったじゃねぇか。戻ろうぜ、地上に」
「戻って、どうするの。わたくしは、もう……」
王女じゃない。なんの価値もない。
ロゼの小さな声に、苛立ったようにティガが彼女の手を掴んだ。
「だが、オレの主であることには変わりねぇ。俺がお前の剣にも盾にもなってやる。だからもっと気楽に、好きなように生きればいいんだよ!」
まぁ、言うじゃない。
私たち大人組は示し合わせたように気配を消した。二人きりにさせてあげたいところだけど、あいにく身を隠す場所がないわ。
「ううん、ティガ……わたくしは、ティガをもう危険な目には……」
「なら、お前が強くなれ。それまでは、オレが助けてやるよ。仕方ねぇからな。オレもお前がいる場所以外に、帰る場所なんてないんだ」
ティガに強引に手を引かれ、ロゼは震えながら立ち上がる。そして、嗚咽を上げながら頷いた。
おっかなびっくりといった様子でティガがロゼの肩を抱き、あやしている。
何かしら。この胸の奥がきゅうっと締め付けられて、こそばゆくなる感じ……。前世女が悶絶して喜びそうなシチュエーションなのは確かだけど。
「み、見てんじゃねぇよ!」
ティガに威嚇されても、どうしようもなかった。こちらだって反応に困っているの。
……なんて、生温かい空気を味わっていられたのは束の間のこと。
「っ!」
頭上から岩の塊が落ちてきた。
それを皮切りに箱庭全体が揺れ、壁と天井が軋み出す。
もしかして、天使の消失で魔力のバランスが急激に崩れて、地盤に影響が出てしまったのかしら。
地下の危険性を考えていなかったわけじゃないけれど、私としたことが油断していたわ。
「な……ここは危ない。早く地上へ戻るぞ!」
ヴィルの声を先頭に、私たちは箱庭の出入り口に向かって走り出した。
でも、一歩遅かった。
出入り口全体が歪み、潰れてしまった。この様子では通路はもう通れないでしょう。
「天使ルインアリン、最後の最後まで責任を持ってほしい。……殺せば良かった」
セレスタが頭上を睨みつける。気持ちは分かる。何が健やかに生きろよ。生き埋めになったら笑えないのだけど。
砂やら石やら岩やらが雨のように箱庭に降り注ぎ始めた。
この空間、そう長くは持たないわね。
他人の心配をしている場合ではないけれど、地上のお城は大丈夫かしら。本当に全員避難してくれていると信じるしかないわ。
「ソニア、どうする? 魔術でなんとかできるか?」
ヴィルが私を土砂から守るように外套を頭の上で広げてくれた。なんとか平静を保っているけれど、声に焦りが滲んでいる。
「私たちはだいぶ地下深いところにいるわ。地属性の魔術で掘り進むのは難しいわね。セレスタはどう?」
「無理。結界で岩の直撃は防げるけど、地上に戻る魔術は思いつかない。ジリ貧」
即答だった。さっぱりしていて清々しいわ。そうこう言っている間に、セレスタが結界魔術で岩の直撃を防いでくれた。
絶体絶命の状態に、ティガに背負われていたロゼがまた涙を流す。
「ごめんなさい……ソニアさん。わ、わたくしのせいでこんなことに巻き込んで……」
「うじうじすんな! 泣いたってどうしようもねぇだろ!」
ティガに怒鳴られて委縮したロゼを見て、私は決意した。
この手は使いたくなかった。でも、このままここにいても、魔力切れで岩に押し潰される圧死か、酸素がなくなっての窒息死。
せっかく念願の普通の体を手に入れたというのに、直後にこんな間抜けな死に方は許せないわ。元“らすぼす”としての、よく分からない矜持があるの。
「ロゼに手伝ってほしいことがあるのだけど、協力をお願いしていい?」
「え?」
私は深呼吸して思い出す。
ネフラとお父様が考えた空間魔術の術式を。
「私が今から瞬間転移の魔術を構築するわ。ロゼは自分の魔力を均して私に渡してくれるかしら?」
空間を司る魔術。失敗すれば体が捻じ切れたり、空間そのものが爆発して時空の藻屑になってしまう。リスクは高い。けれど、実はさっきネフラから最新の研究結果を教えてもらったの。まだ人間そのものの転移実験はしていないけれど、理論上は可能という段階まで進んでいた。
一応覚えてきたのよね。
もしも天使ルインアリンと敵対したとき、空間魔術で始末する手段も考えていたくらい。安易に七大禁考を使うのはどうかと思ったけど、今はもう手段は選んでいられない。ここから無事に脱出するには、これしかない。
「無茶です……そんな大魔術……」
「大丈夫よ。一応、成功例を知っているわ」
嘘は言っていない。
お父様は空間魔術を使って、時間の塵を異空間に捨てたことがあるらしい。厳密にいえばそれとこれは全く別の魔術でしょうけど、空間魔術を成功させたという記録がいる以上、全く不可能ではない……と私は思うのよね。
怖くないと言えば嘘になる。この場にいる全員の命を預かるのだもの。失敗は許されない。
「わたくし、自信が――」
「難しいことは考えないで。私一人では魔力が足りなくて失敗するかもしれないけれど、ロゼが魔力を渡してくれれば成功率が上がる。それだけのことよ。気負う必要はないわ」
実際、術式の構築だけで私の魔力は尽きるでしょう。圧倒的に魔力が足りない。魔術の発動にはロゼの持つ魔力がどうしても必要だった。セレスタには結界を張っていてもらわないといけないもの。他に頼める相手がいない。
「でも、でも……っ」
なおも躊躇いを見せるロゼに、私は優美に微笑みを返す。ここで苛立ったらダメ。全く、手のかかる弟子だわ。メリサも苦労したでしょうね。
「あなたの修業の日々が無駄ではなかったと、証明できる素敵な機会だわ。ロゼ、何も持っていない自分が嫌なのでしょう? ここで成果を手に入れましょう」
「…………」
私の余裕ある態度に感化されたのか、ロゼの震えが止まった。深呼吸とともに、涙声が返ってくる。
「はい。やってみます……やらせてください!」
ティガの背から降り、私とロゼが向かい合って立つ。お互いの両手を組み合わせると、ロゼの鼓動と息遣い、魔力の流れがはっきりと感じ取れるようになった。
コハクはヴィルに預かってもらい、セレスタとティガにも身を寄せてもらった。五人で密着するものすごくおかしな恰好だわ。でも、仕方ない。転移する範囲はできるだけ狭い方がいいから。
「じゃあ、始めるわよ」
「はい!」
私は全身の魔力をかき集め、術式を編み始めた。私たちが立っている場所以外はもう崩れて、岩に圧し潰されているわ。セレスタが歯を食いしばるようにして、結界を死守していた。
ロゼが恐る恐る私に魔力を流し込む。見習いとは思えないほど、滞りも淀みもない魔力の移動だった。満点だわ。
地上に戻ったら、たくさん褒めてあげないと。私も負けていられない。
【名よ、心身よ、我らを司る全てを抱き、光の粒となって、高き彼方へ移したまえ――】
ネフラの術式を今この状況に当てはめ、やや強引に組み替える。地下から地表へ、王城のある場所を避けた座標を指定しないとね。
【ウラノ・カルペ・ディエム】
魔術は無事に発動し、激しい力の渦が私たちを包み込む。
これは、きつい……。魔力の流れが安定しない。このままではみんながバラバラに吹き飛ばされてしまう。
やっぱり、私とロゼの魔力だけでは足りなかった?
でも、セレスタはもう限界だし、ヴィルは魔力を操れない。
「にゃーん!」
喝を入れるかのように、可愛らしい声が耳元で響いた。コハクの金色の毛並みが輝き、そして気づけば魔力の流れが驚くほど安定していた。
体がふわりと浮遊感に包まれるとともに、視界が真っ黒に染まる。脳が反転するかのような気持ち悪さに、ああ、やっぱり七大禁考に手を出すものではないと私は悟った。
紫色の光が見えた。
夜明け前の澄んだ風が頬を撫でる。
右手に一回り小さな少女の手を握り、左手は男らしい手に包まれていた。首元でふわりとした柔らかい毛の塊が寝息を立てている。
「ふふ……」
温かい感触にほっと息を漏らし、私は意識を手放した。