9 ヴィルの忠義と恋、そして苦悩
ヴィル視点です。
子どもの頃、知らない大人に言われた。「よく笑っていられるものだ」と。
あんな生まれ方をしたくせに、魔女殺しの息子のくせに、引き取ってくれた叔母一家に迷惑をかけているくせに、よくも無邪気に笑っていられる……そういう意味だった。
別に俺は楽しくて笑っていたわけじゃない。
近所の猫が擦り寄ってくるのがくすぐったかっただけだ。
自分の立場は十分に分かっていた。
かつてミストリアの王都は魔女に襲撃された。苛烈な魔女狩りに対する報いであり、主導していた当時のミストリア王は魔女に首を切り落とされたという。
俺の父はその国王に絶対の忠誠を近い、実際に魔女狩りを行っていた騎士団の長だった。
魔女の怒りは父にも向けられた。誇りを胸に生きてきたであろう最強の騎士は、身重の妻を人質に取られ、惨めな最期を迎えた。
しかし魔女の襲撃で死んだのは父ばかりではない。無辜の民も大勢犠牲になった。その遺族からすれば俺は非常に疎ましい存在だった。
お前の父が魔女を殺し続けなければこんなことにはならなかった。
お前の父は自分の妻子を見殺しにしてでも、民を守るべく断固魔女と戦うべきだったのではないか。
みんなが言うことは正しいのだろう。
幼い俺は反論の言葉もなく、感情を殺して生きるしかなかった。
幸か不幸か核持ちだったため、叔母は俺を孤児院に入れずに引き取った。生活費の足しになるからだろう。
魔力を売るのは身を切り売りするようなもので、俺は常に空腹に苛まれていた。
満腹感を味わったことなどない。従兄弟たちが大きなハンバーグを食べる隣で、俺は野菜の切れ端を齧る。
叔母は外面は完璧だったが、家の中では自分の息子たちと俺を露骨に差別していた。引き取ってやった恩を忘れるな、と始終口うるさく言われるのだ。
物心ついて現状に疑問を覚えても、仕方ないことだと諦めるしかなかった。忍耐の日々が続く。
俺は次第に両親を恨むようになった。
どうして俺一人、苦しんで生きなければならない。笑うことすら許されないなら生きている意味なんかない。未来には絶望しかなかった。
「きみのお父さんは悪くない。尊い騎士だったと僕は思う」
そんな俺を救ってくれたのは、青い瞳の美しい少年だった。
十歳の冬、寒さをしのぐためにやってきた図書館で出会った。彼は俺の名前を知ると、特別な資格がないと入れない書庫へ連れて行ってくれた。
「ミストリア建国以来、ラリマーデの武闘大会で三年連続優勝を果したのは、きみのお父さんを含めて四人しかいない。騎士団に入ってからも何度も特別勲章を授与されてる。史上最年少で団長に抜擢されるくらい、優秀な騎士だったんだよ」
そんな話、誰も教えてくれなかった。記録に残る父の名前に触れ、俺の中に生まれて初めて誇らしい気持ちが生まれた。
一方で、恐ろしい記録にも触れた。
表の書架には置かれていない、魔女の本性を記した古い書物だ。
子どもを浚い、魔術の実験体にしていた。
美容にいいからと生娘の血で入浴していた。
宴に招待しなかったと理由で領主一家を惨殺した。
大陸中の国々にそのような記録が残っているという。
「きみのお父さんは、僕の祖父の命令で魔女狩りを行ったに過ぎない。祖父は魔女をかなり危険視していたみたいだね。ここにあるのは百年以上前の記録だけど、城の書庫には近年の魔女に関する資料がたくさんあったよ。そして祖父は『魔女を弾圧するに至る決定的なこと』を知ったんだと思う。残念ながら一部の資料は失われていたけれど」
「……え? 祖父? 城?」
「すっかり言いそびれてしまってごめん。実は僕、この国の王子なんだ」
レイン王子は昔から人が悪い。
友達になってしまってからそんなことを言う。いや、身なりや言動から貴人だと気づかなかった俺も間抜けだが、まさか一国の王子が護衛も付けずに都をうろついてるなんて思わないだろう。
しばらくして俺の暮らしぶりを知った王子は、騎士の養成学校への推薦状を持ってきた。
「ヴィル、騎士を目指さないか? きみのお父さんは祖父にとって最高の剣だった。僕も欲しい。絶対の信頼を置ける騎士が。あと、城でも親友と気兼ねなく喋りたいしね」
それは棘の道に思えた。
次期国王、それもいずれ正室に魔女を迎えるレイン王子の側仕えの騎士になる。ただでさえ血反吐を吐くような努力が必要だろうに、さらに出生のことが周囲に軋轢を生むのは目に見えていた。
だけど俺は王子の力になりたかった。守りたかった。
俺に生きる力をくれた恩を返したかったんだ。
何より知りたいと思った。
魔女に隠された秘密を。
魔女が悪だという証拠を。
そうして俺は騎士を志し、六年間本当に血反吐を吐いて研鑽を積み、十六で王子の近衛騎士になった。
王子の口利きがあっての任命だった分、侮られないようさらに精進を重ねた。
瞬く間に月日は流れ、俺が近衛隊の筆頭になる頃、魔術を用いた怪事件の噂が城に届いた。
魔女の仕業だ。
そう直感した王子と俺は城を出て、犯人を追うことにした。
「ヴィル、これを。今のきみなら使いこなせるだろう」
旅立つ日、王子は俺に一振りの剣を手渡した。
父クロス・オブシディアの形見の魔女殺しだった。ものがものだけに今までミストリア王家が保管していたらしい。
「いいのか? 国王陛下の許しは……」
「直接許しを得たわけじゃないけど、黙認はされている。僕にこれを渡してきたのは、セドニールだ」
セドニールは長年国王の側近を務めている方で、王子の出奔癖に悩まされつつも、いつも本気で身を案じている人の好い男だ。「国を騒がす悪しき魔女の足跡を追うのなら必要だろう」と魔女殺しを俺に持たすことを許したらしい。
「ただ、『くれぐれも派手なことはしないように』とのことだ。僕の一番の騎士が魔女殺しを帯剣してるなんて、婚約者殿が知ったら良い顔はしないだろうからね。僕の安全と行動の制限をこの剣にさせようというわけだ」
王子は自嘲気味に言った。
生まれる前から決められた婚約者に対し、王子は良い感情を持っていないようだった。そつのない、味のない、隙のない、感情のない、つまらない手紙を送ってくるという。例えばお互いに「お会いできる日が楽しみです」としたためても、決して「早く会いたい」とは書かない。全く熱のないやり取りに辟易としているらしい。
救国の魔女アロニアの娘……。
レイン王子に仕えていれば、いずれ顔を合わせることになる。王妃として公務を行うのなら護衛や補佐をすることもあるだろう。
いつか魔女に頭を垂れる日が来るかと思うと、王子同様、俺まで憂鬱になった。
怪事件を追ううちに、俺は嫌というほど魔女の醜悪さを思い知った。
美女の顔を切り裂き、子どもの目玉をえぐり、魔獣に爆薬を埋め込んで生物兵器を作る……。
およそ人間の所業とは思えないような狂った事件の数々。
やはり魔女は悪だ。
捕えた魔女のほとんどは意味の分からない言葉を吐き散らして自害するか、警備が少し目を離した隙に殺されてしまう。おそらく他の魔女に口封じをされているのだろう。
暴れて手を付けられなくなった魔女は、俺が斬り殺した。魔女殺しに魔力を吸い取られ、激しい飢えを味わうと、連鎖的に子どもの頃に受けた苦痛を思い出す。
日に日に俺の心はささくれ立っていった。
「わたしね、ヴィルくんにも笑ってほしいな! 笑えば幸せになれるよ!」
旅の途中、一人の少女に出会った。
ふわりとした淡い緑の髪に、きらきら光るウグイス色の瞳。まだ幼さの残る可愛らしい顔立ちだが、時折はっとするほど大人びた表情をする。
その少女――エメルダは魔女の厭い子だった。
厭い子は魔女のできそこない。しかも予知能力があるという。嘘くさかった。
出会ってしばらく、俺は彼女に冷たく当たった。だけど彼女は一切めげず、空気も読まず、俺を笑わせようと必死になった。
先に根負けしたのは俺だった。いつしかエメルダに心を許し、無意識に笑ってしまうこともあった。
彼女には予知能力以上に不思議な力がある。彼女の笑顔は人を和ませ、温かな気持ちにする。心を満たしてくれる。
俺はいつの間にかエメルダを目で追うようになっていた。
彼女は日に日に美しく、眩しくなっていく。
何故だろうと考えて、ふと気づいた。
彼女が美しいのは恋をしているからだ。レイン王子を見つめる瞳が日ごと熱っぽくなっていく。
そしてたまらなく眩しく感じるのは、俺が彼女に恋をしてしまったからだろう。
気づかなければよかった。
俺は早々に恋心を封印することに決めた。
王子に敵うはずない。それに、俺のようなつまらない男ではエメルダを幸せにできない。
魔女の血に濡れた手では触れることさえ躊躇われた。
聡明で美しい王子と、感情豊かで可憐な少女。
二人はお似合いだと思う。幸せになるだろう。
……俺も、幸せだ。大切な二人が笑っていてくれるならそれでいい。
エメルダの人となりを知れば知るほど、彼女の受けた天啓が現実味を帯びてくる。
【紅き魔女の娘がミストリアに滅びの災いをもたらすだろう】
一連の事件が繋がっていると考えた王子は、エメルダの予知を最大限に活かし、やっとの思いで複数の魔女から黒幕の名を吐かせた。
ソニア・カーネリアン。
王子の婚約者の魔女だった。
災いをもたらす娘はこの女で間違いない。
芋づる式に二十年前の襲撃の真実も明らかになった。アロニアは救世主などではない。欲に溺れて師を殺し、地位と名誉をむしり取った悪女。その過程で俺の両親や罪のない民が犠牲になったのだ。
このままでは悪女の娘がさらなる悪行を重ねながら、素知らぬ顔で王子の妻になる。
……ああ、俺は魔女が憎い。良き魔女なんて一人もいないじゃないか。
奴らは俺の大切なものをいつも奪っていく。
今思えば短絡的だが、ソニア・カーネリアンを倒せば全てが終わると確信していた。それくらい綺麗に状況が整っていたからだ。
俺たちはミストリアの運命を変えるべく婚礼の儀に臨み、そして、思いもよらない結末を迎えた。
ソニアはあっさりと王子との婚約を破棄し、代わりに俺を従者に望んだのだ。
背筋が凍るほど美しい女だった。
毛先まで艶やかな長い赤髪、冴え冴えと知的な光を宿す赤銅色の瞳。妖艶で退廃的な雰囲気を纏い、見る者に畏怖の念を抱かせる。初めて魔女殺しを鞘から抜いたときと同じような気持ちになった。
エメルダとは何から何まで正反対だ。
ソニアの表情は人を嘲る笑みばかりで、何を考えているのかさっぱり分からない。公の場で糾弾されても怒りや悲しみが全く見えない様に、薄気味悪ささえ覚えた。
性格は、思った以上に悪い。
俺の前で猫を被る気はないらしい。俺も、魔女を憎んでいることを告げた。下手な真似をすればすぐに殺すという脅しだったのに、ソニアは飄々と受け流していた。むかつく。
……だが、俺や魔女殺しをそばに置き、何かの企みに利用しようというのなら好都合だ。絶対に思惑通りに動いてはやらない。ソニアの目的を阻んでやる。そして悪の魔女だと証明し、窮地に陥っている王子とエメルダを救ってみせる。
「悪いことは言わない。ソニア嬢はヴィルが敵う相手じゃない。しばらくは大人しく彼女に従ったほうがいい」
無事に婚約破棄の儀式が終わった後、レイン王子が疲労を滲ませて言った。こんな弱気な姿は初めて見る。
「確かにあの女の言うとおり、盟約が果たされることはなくなった。ミストリアが滅びることはないかもしれない。だが、あの女は絶対に何かを隠しているぞ。……ただの勘でしかないが、あれは人を殺している。そういう空気を纏っている」
不本意ながら魔女を手にかけた俺には分かる。
「きみの勘は当てになると思っている。でも証拠はない」
「それを俺が探す。あの女が俺を利用するつもりなら、チャンスは必ず来る。任せてくれ。きっと俺が王子とエメルダを助ける」
王子は力なく笑った。
「僕らの心配をしてくれるのは嬉しいけど、今は自分の心配をした方がいいよ、ヴィル。もしかしたら、彼女は本当にきみを気に入ってそばに置こうとしているだけかもしれない」
「……はぁ?」
レイン王子曰く、先ほど神殿の小部屋で俺のことを話したとき、わずかにソニアの目が冷たくなったらしい。
「僕の勘に過ぎないが、ソニア嬢はきみに執着しているんだと思う。理由は分からないけど。……大丈夫かい? 最悪の場合、体の関係を求められるかもしれないよ」
趣味の悪い冗談はよせ、と言ったが、王子の目は真剣だった。
「まさか……あり得ないだろう」
「どうしてヴィルはそんなに自己評価が低いんだ」
やれやれとため息を吐き、王子は言った。
「ヴィル……本当に無理はするな。僕らを助けようなんて考えなくていい。ただ、ソニア嬢に籠絡されることだけはあってはならない。それだけ気をつけてくれ」
エメルダを悲しませないで欲しい。
王子の言葉に俺は返事ができなかった。
大丈夫だ、俺。
王子は魔女との舌戦に疲れておかしくなっているだけ。
道中、馬上で胸を押しつけられたり、肉で餌付けされそうになったり、病気の子どもにかこつけて同室にされたが、全部気のせいだ。
ソニアが俺を求めてくるなんてあり得ない。おかしなことにはならない。
だから大丈夫……大丈夫……。
「時間がかかっちゃったわ。ごめんなさい」
部屋の隅で頭を抱えていると、濡れた赤髪が視界の端で揺れた。
黒いネグリジェ姿のソニアが現れ、俺の胃はぎゅっと縮んだ。
ソニアが黒を纏うと傷一つない白い肌が映え、スタイルの良さが浮き彫りになる。露出はそこまで多くないのにこの色気はなんだ。鼻を掠めた果実の甘い香りに思わず喉が鳴った。
本当にエメルダと同じ十六歳か?
どれだけ大切に育てられれば、このように圧倒的な美を体現できるのだろう。
俺は逃げるように風呂場へ向かった。冷水を頭から被って奥歯を噛みしめる。
大丈夫。俺は両親と王子、そしてエメルダに恥じるような行為はしない。
魔女は憎むべき存在。
どんな姿をしていても惑わされてはならない。
精神統一して部屋に戻ると、ソニアはすでに布団の中で丸くなっていた。明かりが消え、花の香りが部屋中に広がっている。どうやら香を焚いたらしい。
「おやすみ、ヴィル」
睡眠不足は美容の敵、と呟いてソニアは目を閉じた。
思い切り肩すかしを食らいつつ、心の底から安堵した。向こうにもその気はないらしい。
部屋の角に座り込み、毛布に包まる。
考えてみれば、同じ部屋に魔女がいるのに眠れるはずがない。やはり酒場に行けば良かった。神経がすり減るだけだ。
ふと魔が差した。
今なら簡単にソニアの首を取れる。これからしばらくともに過ごさなくてはならない。考えるだけで気が滅入る。悪の証拠などあとで探せばいい。いっそ今ここで……。
無意識に魔女殺しに手が伸びていた。
「ヴィル、そういうことはククルージュに帰ってからにしなさい。この宿には今、病気の子がいるんだから」
眠そうな声に、冷や汗が背中を伝った。
何もかも見通されている。
なんて恐ろしい女だろう。一瞬たりとも気が抜けない。
ククルージュに向かう道中、まだまだ憂鬱は続きそうだ。