8 二人の違い
森の館でロゼたちと暮らし始めて十日が過ぎたある日、ついに王城へ足を踏み入れる機会がやってきた。
夜になって臣下の大半が帰宅して物寂しくなった城の一室、そこで密かに行われたのは――。
「ど、どうでしょうか? わたくしには少し派手ではないですか……?」
「そんなことはありません。とてもよくお似合いですわ。まるで花の妖精のようですよ」
私が全力で肯定してみせると、ロゼは急いで顔を両手で覆った。照れているみたい。
皆の手前敬語で話しているから嘘っぽく聞こえるかもしれないけれど、本当に素敵だと思うわ。
空を思わせる淡い青の生地は光の当たり方で色合いを変え、波打つ裾に刺繍された金銀の花々は立体的に浮かび上がっているように見える。
子どもらしい可愛いシルエットでありながら、大人びた素材と高級な意匠を凝らした世界に一着しかない特別製。
思わずため息が漏れるほど、上品かつ煌びやかな印象のドレスね。このドレスを着るに足る品格を持つ女性はそうはいないでしょう。まさにプリンセスのための衣装だわ。
「なんだか落ち着きません……」
そわそわと全身で鏡を見て、ロゼは困り眉を作った。表舞台に立ったことのない彼女は、正式なドレスを身に纏うのも今回が初めてなのですって。
ロゼの戸惑う姿も可愛らしいけれど、もう少し堂々としていてほしい。
……うん。このドレスを発注した人はよく考えているわね。
本人の性格が控えめな分、衣装で強く主張すべきだもの。数週間後に控えた誕生日パーティーの主役が誰なのかを。
「ああ、王女様。あまり動かないで下さいませっ」
今夜は誕生パーティーで着るドレスの最終調整の日。王室ご用達の仕立屋があらゆる角度からドレスを確認し、裾の長さを合わせている。
ちなみにヴィルやティガ、コハクは館でお留守番よ。ロゼが恥ずかしがったから。
代わりにエクリーフ様が手配した女騎士さんたちが護衛してくれている。この部屋に来る道中も人目につかないよう、細心の注意を払ってきたわ。
注意されて固まったロゼを見かねて、私はアスピネル家で習ったことを伝授した。というか、ロゼも知っているだろう基本的なことを改めて指摘する。
「背筋を伸ばして、おへその下に少し力を入れて。肩はやや開くイメージで……顔は目の下に逆三角形を意識して、口角をほんの少し持ち上げる。あと、顎を少し引いてください」
「は、はい……」
ぎこちないながらも、ロゼは言われたとおりに姿勢を正してふわりと微笑んだ。一瞬で室内に春が訪れた気がして、私は息を飲む。
周囲からも「まぁ!」と感嘆の声が漏れた。
「…………」
ヴィルはともかく、ティガは来なくて正解だったかも。分かってはいたけれど、ロゼが本物のお姫様だということを再確認したわ。
王族のドレスを纏ったロゼは、神々しく、純真すぎて儚く、畏れ多くて触れられない。
前世女なら「尊み!」と叫んで感涙しているかも。
「ロゼリント。とても素敵ですよ」
入室してきた人物に、仕立屋や女騎士たちが恭しく頭を垂れた。私もすぐに誰かを察し、周囲に倣う。
「お母様!」
ロゼの声がいつになく弾んだ。
想像よりもずっとロゼに似ているけれど、娘よりも完成された美を誇っている。さりげない仕草の一つ一つで周囲が華やぐような、明るい印象の女性だった。どの瞬間、どの角度から見ても絶対的に美しい。国王陛下の寵愛を受けているのも頷けるわ。
ルジアーロの第三王妃はロゼのドレス姿を一通り誉めると、私に視線を向けた。
「初めまして。ソニア・カーネリアンさん。この度のあなたの力添えに、ルジアーロの王妃の一人として、また、ロゼリントの母として深くお礼を申し上げます」
「勿体ないお言葉です。ユレーア様」
ユレーア様はすぐに挨拶に行けなかったことを詫び、生活に不便がないか、ロゼが迷惑をかけていないかを尋ねてきた。
私とユレーア様がにこやかに会話する様子に、周囲の空気が緩む。ロゼも母親の登場ですっかり緊張が解れたようね。
「ヘイルミーネからの招待を断ったそうですが……正直に申し上げて安心しました。あなたがロゼリントのそばに居て下さって、本当に良かった」
私は心の中で苦笑を漏らす。
ああ、彼女は本物の母親ね。娘のことを本当に愛し、心配し、心の底からその幸福を祈っている。
羨ましいというよりも、寂しい気持ちになった。
馬鹿ね。ロゼのこと、どこか自分と似ているような気がしていたんだわ。
魔女であり、一国の姫という特殊な立場、好き勝手に生きられない運命。信頼できる人はほんの一握りしかいなくて、あとは全員が敵。その上、不吉な予知に翻弄され、逆境の中で生きていくしかない未来が待っている。
ロゼの不自由さや不安に共感できた。
でも、違った。
彼女には、産まれたときからずっと間違いなく自分の味方でいてくれる存在がいるのね。でなければ、こんなに純粋で素直な子に育つはずないわ。
「どうか、どうか、ロゼリントとこの国をお救い下さい」
退室する際、ユレーア様は私の両手を握りしめ、周囲の者に聞こえないように耳元で囁いた。一国の王妃としてはあってはならないような、縋るような声音だった。
「……ええ、そのために力を尽くしますわ」
ユレーア様は安堵したのか、泣き出しそうな表情を一瞬見せ、しかしすぐに悠然とした微笑みを浮かべた。ロゼが不安にならないように、最後まで心配りを忘れない。
「素敵なお母様ね」
森の館への帰りの道、竜車の中で私がそう言うと、ロゼは自分が誉められたように喜んだ。とても優しい自慢のお母様なんですって。
「たまにしか会えないのが寂しくて、本当はもっといっぱい一緒にいたいのだけど……あ、ごめんなさい! わたくし、無神経だったわ」
「? どうしたの?」
ロゼが気まずそうに目を伏せる。
「あ、あの、ソニアさんのお母様は、もう……」
「ああ……気にしないで。お母様が亡くなってからもう三年近く経っているわ。心の整理はついている」
それでも申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にするロゼに、私の方が申し訳なくなった。
ちくりと胸が痛むのは、母をこの手で殺したことを隠している罪悪感と、ロゼとの違いを思い知らされたからかしら?
この子と違って私は血を浴びて生きてきた。心だって純粋無垢には程遠い。
本当に、どうして少しでも「似ている」なんて思ってしまったのよ。やるせない気分になってしまうわ。
森の館に帰りつくと、ヴィルとティガが外で待っていた。ティガは渋々と言った様子だけれど、思わぬ出迎えにロゼは急いで竜車から降りた。私も後に続く。
「……どうした? 何かあったか?」
ヴィルが私の顔を一目見た途端、慌てて距離を詰めてきた。
「え、何が?」
「気のせいか? いや、そんなはずは……出かける前より元気がないだろう?」
心臓が跳ねた。
ダメね。ヴィルに指摘されるほど感情が顔に出ているなんて。予想外の出来事の連続で、自分が思った以上に心も体も頭も疲れているみたい。
私は誰にも惑わされない。どんなときでも余裕の笑みを浮かべて、取り乱さずに強がってみせるわ。でなければ、自分も自分の大切なモノも守れない。
ちらりと視線を向けると、ロゼが心配そうにこちらの様子を窺っていた。私は夜の森の空気を胸いっぱいに吸い込み、精神を立て直した。
からりと微笑み、湿っぽい感情を投げ捨てる。
「少し緊張しただけよ。他国のお城なんて初めてだし、王妃様ともお話ししたから。この館に着いたらすっかり肩から力が抜けたわ。実家のような安心感ってやつかも」
「何を言っているんだ、お前は……」
ヴィルは呆れたように息を吐いた。ロゼは胸を撫で下ろし、ティガは鼻で笑っている。
どうやら誤魔化せたわね。まだこの館で暮らしていかなきゃいけないんだもの。変な空気は持ち込みたくない。
「あ、そうだ。中でエクリーフ様が待ってる。なんか、急ぎの用事らしいぜ」
「え? お兄様が? な、何かしら」
「真っ先にそれを言ってほしかったわ。どれくらいお待たせしているの?」
ティガとロゼに続き、屋敷に入ろうとした私の腕をヴィルが引いた。そして、二人に気づかれない声で耳元で囁く。
「今はそういうことにしておいてやる。だが、あとでちゃんと話してくれ。全部」
少し悲しそうに笑うヴィルに、また心臓が跳ねた。
今度は驚きだけではなく、甘い痛みを伴っていた。
……いつの間にこんなに見透かされるようになったのかしら。侮れない。
でも、嫌な気はしないわ。それどころか、先ほどまで感じていた寂しい気持ちをもう思い出せなくなっていた。
「ふふ、女の愚痴に付き合うと長くなるわよ?」
「む……望むところだ」
すっかりご機嫌になった私は、久しぶりに前世女の気持ちにシンクロした。今すぐ「私のヴィルがかっこよすぎる件」というタイトルで“ぶろぐ”を書いて拡散したい気分だわ。書かないけど。
その夜、ヴィルの存在に心の底から感謝した。
苦しげな表情で待っていたエクリーフ様から、第一王妃主催のお茶会の招待状を渡されたとき、頭を抱えずにいられたのは直前のやり取りのおかげだもの。
この国で一番高い地位にいる女性からのお誘い……今度こそ断れないわね。