番外編 猫の名前
本編番外編「旅の終わりに」の直後、久しぶりのソニア視点です。
旅の帰り道、木の洞から金色の子猫が転がり出てきた。ふわふわの毛に木の葉や泥がついていて随分薄汚れているけれど、きょとんと首を傾げた顔は品があって可愛らしいわ。
ちょうど昨夜猫を飼ってみないかと話していただけに、運命的なものを感じるわね。
「どうする? ヴィル」
「どうするって……本気で飼うのか?」
ヴィルは戸惑いがちに周囲を見渡した。そうね、親猫さんが迎えに来るかもしれない。そんな都合よくはいかないわよね……と思っていたのだけど、子猫はふらふらと数歩進んで、ばたりと倒れてしまった。目を回している。
「こいつ、ガリガリだ……」
ヴィルがおろおろと私に助けを求める。長い毛で体型が分からなかったけど、触ってみるとほとんど肉がついていなかった。あまり餌にありつけていないみたい。牛の魔獣に追い回されて体力が尽きてしまったのかしら。
このまま放っておくのはあまりにも薄情よね。親猫さんには悪いけれど、一時的に保護させてもらいましょう。
そうして私とヴィルは一匹の子猫をククルージュへ連れ帰った。
屋敷に戻って調べてみたら、子猫には核と創脳があった。ばば様にも見てもらったけれど、ククルージュの西にある高山に住む山猫の魔獣みたい。本来なら子どものうちは険しい岩場に隠されて育てられるはずなのだけど、この子はどうして低地の森にいたのかしら。はぐれたのか捨てられたのか、どちらにしても家族の元に戻すのは一筋縄ではいかないでしょう。
籠にクッションと毛布を敷き詰めてベッドを作り、子猫を寝かせている。時折毛並を撫でながら健やかな寝顔を眺めていると、背中に視線を感じた。
「ヴィル……お肉の解体は終わったの?」
「あ、ああ。コーラルたちが熟成させてくれるらしい」
「そう。焼肉大会ができるわね」
いつもならご機嫌になるはずの言葉に、浮かない顔をするヴィル。ちらりちらりと子猫に視線を向けている。いろいろな感情が透けて見えるわ。相変わらず分かりやすい。
「この子に触りたいの? それとも……まさかと思うけれど嫉妬しているのかしら?」
「う、いや、そんなわけ……」
ヴィルは気まずそうに顔を逸らしてしまった。
子猫を愛でたい気持ちはもちろんあるのでしょう。飼いたい気持ちもある。痩せ細った姿が可哀想で仕方がない。
でも、子猫を飼い始めたらあまりの可愛さに私が夢中になって、自分が構ってもらえなくなるのでは、と不安に思っているらしい。
どうしてヴィルは新入りに怯える先住ペットみたいになっているのかしら。不安に想うことなんてないのに。まぁ、最近ユニカと仲が良いみたいだし、同情してしまったのかもしれないわね。
「ふふ、大丈夫よ。ヴィルは私にとって最高の従者で最愛の恋人で……特別よ。変な心配しないで、素直に可愛がってあげて」
不安を解くように微笑むと、ヴィルが手で顔を覆った。いつまで経っても新鮮な反応を返してくれるから飽きそうにないわ。
「わ、分かってる」
深呼吸して立て直した後、ヴィルが子猫を覗き込んでそっと指で頭を撫でた。
「もしこの子が目覚めて嫌がられなかったら、飼ってみるのもいいと思うのだけど、どう?」
「ああ。だが、ユニカを蔑ろにするようなことは――」
「するわけないでしょう? ユニカはユニカでたくさん可愛がるわよ」
しばし二人で眺めていると、ふにゃと声を漏らして子猫が瞳を開けた。月のように神秘的な金色の瞳が私たちを映す。
びくっと震えてから毛布に潜りこむ子猫。うにゃーうにゃーと唸り声が聞こえてくる。なんだか頭を抱えて悩んでいるように見えるのだけど、気のせいかしら?
一週間が経ち、子猫はだいぶ回復したわ。足取りもしっかりしてきたし、栄養剤を入れた牛乳粥をぺろりと平らげられるようになった。お風呂に入れてもらった金の毛並は輝き、さらにふわふわになった。
猫を飼うのは初めてだから分からないけれど、少し変わった子だと思うわ。
小さな段差につまずいて転がったり、お皿を前足で持とうとしてひっくり返したり、かなり鈍くさ――いえ、お茶目だわ。待てやお座りを難なく覚える賢さはあるし、嫌がると思ったお風呂には自分から飛び込んでまったりしていたし、手はあまりかからない。
そろそろ家の外に出して他の人間に会わせてもいい頃合いね。見習い魔女たちに「早く猫ちゃんに会いたい」と顔を合わせる度におねだりされる。くちゃくちゃにされないといいけれど。
「おいで」
ヴィルが抱っこして耳の後ろを掻くと、子猫はごろごろと喉を鳴らして頬ずりする。随分懐いているみたいね。
ヴィルも初日の憂いが嘘のように目一杯子猫を可愛がっている。
「いいかげん名前を決めないとな。候補はあるか?」
「……ヴィルが決めた方がいいんじゃないかしら?」
私は一人と一匹から離れたソファに座り、クッションを抱きしめる。心なしかそっけない声が出てしまったけれど、仕方がないわ。面白くないんだもの。
「ソニア……もしかして嫉妬しているのか? 心配しなくても俺は――」
「違うわ。単純に、その子がヴィルのこと大好きみたいだから、ヴィルに決めてもらった方が嬉しいと思うのよ」
子猫は、私には懐かなかった。私が撫でようとしたり抱っこしようとすると、するりと逃げてヴィルの後ろに隠れるの。そのくせたまに私のことを陰からじっと見て、瞳をうるうるさせている。警戒しているみたい。
何がいけないのかしら。美容液の匂いも改善したし、威圧するようなこともしていないのに。魔力量が多すぎて怖いのだとしたら、もうどうしようもないわ。ユニカやククルージュで飼われている他の魔獣には懐かれていただけに、子猫の怯えたような態度に思いのほか傷ついてしまった。
嫉妬しているわけではないけれど、ヴィルと子猫がじゃれ合っているのを見ると疎外感を覚えるの。
……威嚇されたり引っかかれたりしないだけマシかしらね。でも、見習い魔女たちに普通に懐いたらトドメになりそう。
ヴィルはしばし項垂れた後、子猫を見た。子猫は子猫で困ったように小さくなっている。
「きっとソニアが……その、か、可愛いすぎるから……照れているんじゃないか? そういうお年頃なんだと思うぞ。オスだしな」
「…………」
「ソニア、頼む。何か言ってくれ」
照れて可愛すぎるヴィルを堪能したことで少しだけ気分が上向いた。
そうよね。元は野生の山猫なんだもの。簡単に懐く方がおかしい。ヴィルに特別懐いているだけだと思いましょう。
いいわ。ヴィルだって最初はツンツンしていて、手懐けるのに苦労したもの。それを思えば怯えられるくらいなんてことないわ。あらゆる手を尽くしてデレさせてあげる。手始めにマタタビの栽培を始めることを決意する。
私は立ち上がってヴィルの腕の中にいる子猫を覗き込む。ぴくぴくひげを動かしながら、身を固くしている。
「この子の名前、ヴィルは何か考えているの?」
「いや、俺はそういうセンスに自信がないし、ソニアに決めてほしい」
この家の主人はソニアなんだから、と当然のようにヴィルは命名権を放棄した。私は子猫としばしみつめ合う。
金色の毛並と瞳。きらきらしていて、目を離したら光の中に溶けてしまいそうだわ。無垢で幼い顔立なのに、たまに全てを悟っているかのような遠い目をすることもある。本当に不思議な猫ね。
「――コハク」
私が直感的に呟くと、子猫は耳をぴんと立てた。琥珀を前世の日本風に発音した名前。こちらの世界では意味をなさない言葉になる。どうしてこの名前が口から出てきたのか、自分でもよく分からない。
ヴィルは何度か呟いて、目を細めた。
「珍しい響きだが、良い名前だと思う。コハク、良かったな」
私が何気ない風を装って首元を撫でると、子猫はぎゅっと体を強張らせながらも大人しく撫でられた。滑らかな肌触りに自然と頬が綻ぶ。
「ふふ、コハクちゃん。よろしくね」
コハクはまるで返事をするように短く鳴いた。
良いお年を!




