7 躊躇いの代償
僕が最悪な現実に打ちのめされている間に、ソニアをトップに据えた魔女組織は暴走を始めた。
ミストリアにさらなる混乱を与えるためと言い、民を村単位で攫っている。民は宝珠の材料、あるいは毒見役として次々と命を落としていく。
王国側は魔女にことごとく煙に巻かれていた。各領地では神出鬼没の魔女に対応できず、かといって王国騎士団の派遣も間に合わない。ファントムのように肉体改造を施され、奴隷にされる民が応戦してきて手を出しづらいというのもある。状況は日に日に悪化していった。
特にククルージュを中心としたアズライト領の惨状は凄まじい。法の秩序は失われ、暴力と荒廃に支配され、悲鳴と哄笑に満ちている。
二年前に領主のサニーグ・アスピネルが病死し、急激に衰退していたせいもあって、アズライトはあっという間に魔女の手に落ちてしまった。その領主の死もどうやらソニアが仕組んだことらしい。
打ち捨てられた死体の山に、さすがに僕も黙っていられなくなった。やりすぎだ。
しかし魔女の暴走は止められなかった。僕の正体を知る幹部達ですら命令を聞かなくなり、いつの間にかソニアの言いなりになっていた。
僕が粛清を試みようとすれば、ゼオリやセレスタが問う。「何故?」と。
そうだ、表向き僕は魔女たちに甘い顔をしてきた。ミストリアを滅ぼし、不老の宝珠を得て、魔女の王国を造って暮らす。そんな甘言で従わせてきた。あるいは魔人の特異性に惹かれ、命令を聞いてきた魔女もいるだろう。
魔女たちにとって、ソニアの行いは僕の望みに反しないもの。ソニアの暴虐を止めようとする僕は行動を疑われ、真の目的があったのではと勘繰られるようになった。
仕舞いには「邪魔をするのなら、あなたの正体をソニア様にお告げしても?」と脅される始末。そしてその脅しは笑えるくらい効果的だった。
こんなはずではなかった。あれほど僕に心酔してきた魔女が、どうしてこうも容易く離れていく?
ソニアにそれほどのカリスマ性があるのか?
手の平を返され、裏切られたような気分になった。魔女を見下し、裏切っていたのは僕の方なのに。
このままではスレイツィアの望み通りになってしまう。貴き血統の魔女による世界征服が果たされてしまったら、僕は一体なんのために……。
レイン王子を救うため、僕たちはカテドラル霊山にやってきた。呪いの解除アイテム涙銀雫を入手するためだ。
エメルダ、ヴィル、モカは非常に士気が高い。どんな魔獣や罠が立ちはだかっても、王子のために絶対に頂上に辿り着いて見せる、とやる気を見せた。
一歩引いた立場にいるチャロットが全体のペースを調整して、僕は方角や魔獣の気配を探知しつつ、ヴィルの隣を歩いた。
僕はシトリンとして王子側に残り、ミストリアと魔女の戦いに加わることにした。まだ終わっていない。大丈夫。魔女組織のコントロールは失ったけれど、当初の目的は果たされている。このまま二つの勢力が力を削り合ってくれればいい。
王国側がいささか劣勢だ。王子が呪われたことで、魔女の力を恐れる者が増えているのだ。王子が生き残れば多少は盛り返すだろう。
山の中腹辺りに差し掛かると、霧が立ち込めてきた。
聞いていた通りだった。霊山には不思議な魔力の結界があって、登山者を選別する。強い意志を持って真に信頼する仲間とともに歩まなければ、試練を乗り越えることはできない。
僕は高をくくっていた。魔力が高ければどうとでもなるだろうと。
『私の性格は親譲りよ。私のせいじゃないわ』
「なっ」
『あははっ! 私がこうなったのは、全部全部お前のせいだ!』
高慢な声が聞こえてきて、僕は咄嗟に耳を塞いで蹲った。気づけば、隣を歩いていたヴィルの姿はなく、風景が灰色に染まって歪んでいた。
声は頭の中に直接響いてくる。
『寂しい』
『どうしてお母様は私を愛してくれないの?』
『もう痛いのも苦しいのも嫌』
『こんな人殺しの魔女、王子様に愛されるはずがない』
『もしもお父様が生きていたら、私のことを愛してくれた? 助けてくれた?』
あのソニアからは想像できない、消え入りそうな声だった。
『私は誰からも愛されない。生きている価値がない。もう、いいの。終わらせて』
悲痛な声に胸を衝かれ、いつの間にか瞳から涙がこぼれていた。
これは、ソニアの声? それとも僕の脳がねつ造した幻聴?
なんにせよ、僕は激しい後悔と罪悪感で呼吸すらままならなくなった。
『ああ、こんなことになるのなら、生まれて来なければ良かった。何一つ良いことなんてなかった。私の人生は、お母様に――』
「――――!」
僕は喉が焼けそうなほど絶叫した。もう聞いてはいられない。
「シトリン! しっかりしろ!」
頬に激しい痛みが走り、顔を上げる。クロスに似たヴィルの顔を見て、僕は情けなく泣きついた。
涙も震えも止まらなかった。
僕はなんてことをしてしまったのだろう。
魔女を滅ぼし尽くすと誓いながら、心の隅にいつももやもやが居座っていた。
僕にソニアを殺せるのか?
不幸になることが分かっていて、アロニアとの間に作った子ども。無垢な赤ん坊だった彼女の姿が脳裏に蘇り、いつも胸が苦しくなった。
成長して、ソニアは苛烈な悪女になり、周囲に災厄をばら撒いている。だけど、それは彼女のせいじゃない。
アロニアが、僕が、ちゃんと育てなかったからだ。両親ともに自分勝手な理由で娘を利用しようとして、愛情を注がなかった。その結果、ソニアを苦しめ、歪めてしまった。
笑ってしまうよね。僕は結局、娘に対して冷酷にはなれないんだ。
いざ目の前に立ったら、情が沸いて生かしてしまうだろう。僕は自分に甘いから簡単に例外を作る。きっと決意を覆す。流される。
当然だよ。誰だって身内を庇う。そうだ、ソニアは身内なんだ。
血の繋がった娘ならば、どこかで分かり合えるんじゃないかと思っていた。もしかしたら許し合えるんじゃなかって、そんな未来を夢見ていた。
なんて都合の良い醜悪な思考。
何もしなかったくせに、何もしてあげられなかったくせに、ソニアに何かを望むなんて間違っている。
……もう遅い。何もかも手遅れだ。
ソニアを止めなくちゃいけない。もう殺して排除するしかないんだ。
だけど僕は、どうしても彼女の前に立つ勇気がなかった。
何とか涙銀雫を入手し、王子を救うことはできた。エメルダの予知に織り交ぜて、ソニアの目的が薔薇の宝珠を造ることだと明かす。王国側は奮起し、これ以上魔女による被害を出すまいと、大規模な討伐隊を編成した。
僕らはそのまま単独で動くよう、王に命じられた。
王国の兵が魔女の拠点を順次潰していくが、先行してソニアの居場所を探り、炙り出す者が必要だった。王子とエメルダはソニアの憎しみを買っており、囮役には最適だったのだ。ミストリア王らしいやり方だ。僕としても、たくさんの兵に囲まれていたらエメルダを操作しにくいからいいけれど。
情報収集中、ファントムという青年が度々僕らの邪魔をしにきた。
ソニアに絶対の忠誠を誓い、崇拝している哀れな青年。会う度に凶悪な改造を施されており、僕たちに脅威をもたらした。
でもどこか動きがぎこちなく、いつも決着がつく前に逃げ出していった。
「本当は、分かってるんだよね? ソニア・カーネリアンが悪い魔女だって。あなたはきっと優しい人だもん! ねぇ、一緒に彼女を止めようよ!」
エメルダの健気な呼び掛けにファントムは応えかけたものの、次の瞬間に自爆した。きっとファントムが裏切らないよう、契約魔術をしていたのだろう。
後味の悪い事件はさらに続いた。
チャロットが王子や王国側の動きを敵に流していたのだ。妹の治療薬と引き換えに、僕らを裏切った。
元は僕がエメルダから引き出した情報だけど、幹部にはチャロットの弱みを共有していた。それを利用されたのだ。
「この裏切り者!」
結局モカとチャロットが決闘して、二人とも戦線を離脱してしまった。
僕の復讐にほとんど関係なかった若者を巻き込み、深く傷つけてしまった。旅の間、モカお嬢さんもチャロットも僕に優しくしてくれたのに。
一番の裏切り者は僕だよ。モカお嬢さん、チャロットを責めないでやって。
そう言えたらどんなに良かっただろう。
復讐のためなら誰が傷つこうがどうでもいいと、投げやりになれたらどんなに気が楽だっただろう。
どんどん心が空虚になっていった。
何もかもが裏目に出て、誤算だらけで、積み上げたものが次々崩れていく。
クロスもきっと呆れている。もうやめろって言っているかもしれない。
エメルダの力により、ようやくソニアの潜伏先を突き止めた。
最終決戦が近い。
僕は未だに迷っていた。せめて僕の手でソニアを殺すべきだと思いながら、その瞬間を想像して身震いする。もうどうすればいいのか分からない。
そんなある日、僕の前からネフラが姿を消した。
『ソニア様に会ってきます。大丈夫です。お師匠様は可愛いので、きっと許してもらえますよ』
そんなメモ書きが研究室に隠されていた。
おせっかいな弟子だ。そしてどこまでも愚かだった。そんなところ、師匠に似なくていいのに。
どれだけ待ってもネフラは帰ってこなかった。僕は腹をくくった。
僕とエメルダ、そしてヴィルはソニアが潜む古い塔に向かっていた。一つ向こうの丘では、王子が率いる王国軍と魔女たちが戦っている。
表向きは王子に釣られたことになっているけれど、僕が「薔薇の宝珠のレシピを渡す」と魔女たちをおびき出した。
今、塔の警備は非常に手薄だ。エメルダの力で探ったから間違いない。塔の中に残っているソニアを奇襲すれば、高確率で討ち取ることができるだろう。
「エメルダさん、修行の成果を見せましょうね」
「うん! 絶対絶対、負けないんだから!」
僕はエメルダに修行、もとい、改造を施した。戦場に連れて行ってもらうには相応の強さが求められる。僕とエメルダは修行して、強力な攻撃魔術が使えるようになった、ということで何とか置いていかれずに済んだ。ヴィルを納得させるのは大変だったよ。
エメルダの創脳にはこれでもかというほど対ソニアの魔術を刻みつけた。王国一の魔女殺しの騎士もいる。そして僕ももう魔人ということを隠す気はなく、全力で戦う。負けはしないだろう。
ソニアを殺す。僕の手で殺すんだ。
塔が近づくにつれ、心臓が嫌な音を立て始め、冷や汗が止まらなくなった。こんなときに思い出すのは、たった一度彼女を抱き上げたときのことだ。
可愛い声で笑っていた。真ん丸の赤い瞳が僕を見つめていた。小さな手で僕の服にしがみついていた。
ああ、ソニア……。
「くそ、囲まれた!」
塔の目前で、僕らは魔獣の群れに襲われた。ソニアのペットだろう。大した脅威ではないが、手間取ればソニアに気取られ、奇襲が失敗する。
そのとき、魔が差した。僕は最後の最後で自分の決意まで裏切った。
「ヴィルさん、エメルダさん、ここは僕に任せてください。大丈夫。時間稼ぎくらいできますから」
「だが、シトリン――」
「信じてください。僕だって男です。やるときはやりますよ!」
自己嫌悪で吐きそうだった。
僕はヴィルとエメルダに後を任せ、勇敢ぶったセリフで誤魔化して本当の戦いから背を向けた。ソニアを殺す役をヴィル達に押し付けたのだ。
心の底から安堵したよ。これでソニアの死を目の当たりにせずに済む。この手を娘の血で汚さずに済む。
そしてその代償が、ヴィルの死だった。
「どうして……!?」
嘘だ。こんなはずじゃなかった。
馬鹿か僕は。今まで何を見てきたんだ。ヴィルがエメルダを庇うことくらい、想像できそうなものなのに。
クロスの死が脳裏に蘇る。元々はクロスのための復讐だったのに、いつから僕は間違えた。
僕がソニアから逃げたからだ。もっと早くソニアを殺しておけば、こんなことにはならなかった。ヴィルを失うことだけはあってはならなかったのに。
結局何一つ守れず、何一つ果たせなかった。
頭がおかしくなりそうだった。いや、きっともうおかしくなっていたのだと思う。
僕の周りにはもう誰もいない。
ヴィルも、ネフラも、旅の仲間も、従えてきた魔女もいなくなった。エメルダでさえ、もう僕の元にはいない。
王国側は悪しき魔女の掃討を終え、大々的に平穏を取り戻したことを伝えた。
国中にレイン王子とエメルダの婚姻を祝う声が溢れていた。
誰もかれも、笑顔だった。
ヴィルの死も、モカやチャロットの悲恋も、犠牲になった者たちの痛みも忘れて、みんなが笑っている。
「違う。こんな世界はあってはならない……」
深い悲しみの中で僕は、禁忌に手を出した。
僕の全てを捧げる。心も体も命も魂も存在も、全て無惨に消えて構わない。
「だから、やり直させてくれ!」
僕は命懸けで術を紡ぎ、全魔力を込めて願った。ヴィルとクロスの死を、ソニアと僕の誕生をなかったことにしてほしい、と。
魔女の『七大禁考』の一つ、時間の巻き戻し。
時間を人の手でいじれば世界そのものを壊しかねない。巻き戻せば戻すほど、崩壊した時間の粒子が塵芥となって世界の流れを鈍らせ、停滞させるのだ。魔力の川が淀んでしまえば、この世界は滅ぶだろう。
僕は塵となった時間の粒子を空間魔術で時空の外に捨てた。底に穴の開いた船に乗っているような気分だった。バケツで必死に水を掻き出し、船を目的地まで進める。
一年、二年、五年、十年……。
その辺りから脳がマグマのように溶け、視界は真っ白に染まっていた。やり直したいという一念で、僕は術を行使し続けた。
「まだだっ! もっと、もっと!」
ソニアが生まれる前まで、クロスが死ぬ前まで、時間よ巻戻れ!
『ダメだよ――これ以上の干渉は、時空融合の危険が――……』
どこからともなく途切れ途切れの声が聞こえた。もしかして、神様か何かだろうか。知らない。どうでもいい。もう、どうにでもなってしまえ。
体から感覚が消えても、僕は止まらなかった。
『馬鹿だね。きみにシナリオを変える力はないよ。思い知るといい』
最後にやけにはっきりと声が聞こえ、周囲が弾けた。
僕は清々しい達成感を覚えた。術は成功した。これでやり直せる。
「――っ!」
その瞬間、全てを思い出した。気づけば、僕は大聖堂の回廊に立っていた。隣にはチャロットがいて、眼下では花婿と花嫁の登場を待つ賓客たちの姿があった。
「さぁ、噂の魔女様はどんな顔を晒すかな。王子と結婚できると思ったら、糾弾されて自分の罪を暴かれるなんて、最悪の結婚式だな」
聞き覚えのあるセリフに、全身から血の気が引いた。
なんということだ。僕は、たった今まで時間を巻き戻したことを忘れていた。
「ん、シトリン? だ、大丈夫か……? 顔が真っ青だぜ」
大丈夫じゃないよ。
せっかく、せっかく時間を巻き戻したのに、クロスの死とソニアの誕生を避けることができず、婚礼の日まで同じ歴史を辿ってしまった。
僕の人生、いろいろと悲惨だったけれど、今この瞬間ほど絶望したことはない。
「あれ……?」
待てよ。ところどころ一周目と二周目の今との間で差異が生じている。どこが違うのか探ろうとした途端、激しい頭痛に襲われた。急激な記憶の融和に脳が悲鳴を上げているのだ。
「僕は忌まわしき魔女となど結婚しない。僕が愛するのはエメルダだけだ」
そうこうしている間に、王子とソニアが入場して糾弾が始まっていた。
僕は歯を食いしばった。
もう時間を巻き戻すことはできない。これ以上は本当に世界を崩壊させてしまう。最初で最後のチャンスだ。
ならば、今度こそ間違えない。この世界には、ヴィルもネフラもいる。もう絶対に失いたくない。そのためにはここでソニアを確実に殺さなくちゃ。
ソニアが醜い本性を現したタイミングで、魔術で仕留める。王子を危険から守ったことにすれば問題ない。
僕は勝手に流れる涙を無視して、強引に創脳を動かし、強力な攻撃魔術を紡ぐ準備を始めた。
「答えろ、強欲の魔女め! 何が目的でこの場に現れた!」
レイン王子と同じく、僕も純白のベールに包まれたソニアを睨み付けた。
もう後悔はしたくない。
僕は今ここで、徹底的に運命を変える。
しかし――。
「……私はミストリア王と母アロニアが結んだ盟約の下、嫁入りのためにやってきただけ。レイン様がおっしゃるような犯罪の類には一切関わりございません」
運命は誰も予期せぬ方向に舵を切った。