番外編 旅の終わりに
本編50話のその後、ヴィル視点です。
雨音が聞こえる。
心地よい倦怠感が全身に満ちていて、未だに夢心地だった。
俺は薄闇の中で目を開けた。
明朝ククルージュに向けて出発する予定だが、天気によっては留まった方が良いだろう。一日くらいなら帰るのが遅れても構わない。この旅が終わるのは名残惜しい。
思えば、私的な旅行は初めてだった。騎士養成学校時代は演習で各地に派遣され、王子の近衛騎士をしていたときは魔女を追って国中を歩き回ったが、どれも目的あっての旅だ。休養と観光目当ての気楽な旅など、しようとも思わなかった。
……いいものだな。陳腐な表現だが、この旅は一生の宝物になるだろう。
名産品を食べ歩いたり、絶景を眺めたり、お土産を探して歩いたり。
二十歳そこそこの青年として、恋人と仲睦まじく同じ時を過ごす。生まれて初めて普通の人間になれた気がした。
宿のランクを上げるために行く先々で盗賊やら魔獣やらを狩る主従のどこが普通なのか、議論の余地がありそうだが、まぁ、成り行きだ。仕方がない。
久しぶりに魔女殺しを抜いて思ったが、以前と少し感じが変わった。使用した際に魔力を吸い取られはするのだが、飢餓感がだいぶ薄らいでいる気がするのだ。
変化の原因は……アンバートを斬ったことだろうか。
魔人の血を吸ったせいなのか、アンバートが何か術を施したのか。
ソニアにも見てもらったが、よく分からないらしい。
『なんにせよ、お父様はヴィルのことをとても大切に思っていたみたいだから、悪いことは起こらないはずよ』
そう言って優美に微笑んだソニアを、俺は直視できなかった。
アンバートが俺に好意的だったのは父クロスの面影を重ねたからに過ぎない。彼の一番大切な相手はきっとソニアだ。俺はそう思う。
……そう思うからこそ、一時は罪悪感と後悔で押し潰されそうだった。
俺は、ソニアの肉親を斬ってしまった。母親とは違い、アンバートは娘の幸せを願う父親だった。何より仮の姿とはいえ、俺はともに旅をした仲間を手にかけたのだ。
『いいえ、ヴィル。自分を責めないで。お父様は、他の誰でもないあなたに死のきっかけを与えてほしかったのよ。最大級の望みを叶えてあげたのだから、気に病む必要なんてないわ』
ソニアのこの言葉を聞いて、俺はうじうじ後悔するのはやめた。言葉を素直に受け入れたからではない。一番辛いのはソニアだ。俺が落ち込めば、彼女は何でもないように笑い、励まそうとするだろう。
そんなこと、させられない。
俺は傍らのぬくもりを手繰り寄せ、指通りの良い髪を撫でた。果実の甘い匂いがする。同じ石鹸を使っても自分からはこんなに匂いはしない。美容液だろうか。好きな匂いだな。
「ヴィル、眠れないの?」
「! あ、ああ、悪い。起こしてしまって……」
「私も起きていたわ。雨音、気になるわね」
ソニアは俺の腕にぴたりと抱きついた。布団の中でこれだけ密着するとさすがに熱いのだが、柔肌の滑らかさのせいで離れがたい。
「あっという間だったわ。明日で帰るなんて嘘みたい。ちょっと寂しいわね」
どうやらソニアも同じことを思っていてくれたらしい。そんな些細なことでも俺は嬉しくなる。
「……朝起きて天気が悪かったら、もう一泊しないか?」
「ふふ、いいわよ。多分通り雨で、もうすぐ上がると思うけど」
ソニアの天気予測はよく当たる。曰く、日中に風や湿度、ユニカや鳥などの様子を見て判断しているらしい。
そうか。やはり明日には発つのか。俺は心底残念に思った。
「そんなに分かりやすく拗ねるなんて、ヴィルったら……出発は遅くしても大丈夫よ。だから、雨が止むまで何かお話しましょう」
「話? どんな?」
「何でもいいわ。たまにはヴィルが話して」
困った。女を喜ばせるような話題や話術はもちろん、彼女を驚かせるような豆知識も持ち合わせていない。
俺が唸ると、ソニアは苦笑した。
「本当に何でもいいのよ。そうね……ヴィルの楽しかったときや嬉しかったときの話を聞きたい。今じゃなくてもいいわ。ずっと昔のことでも」
何を話そう。王子やエメルダたちとの旅の出来事は話しづらい。子どもの頃、楽しかったことや嬉しかったことはあっただろうか。しばし記憶を掘り起こして、とある影が脳裏をよぎった。
「子どもの頃、仲の良い猫がいたんだ」
「猫?」
俺は頷き、ぽつりぽつりと思い出しながら語った。
伯母の家はとにかく居心地が悪く、俺はほとんど家にいなかった。裏路地をうろつき、一人で石蹴りをして遊び、飢えがひどいときは目立たない場所でふて寝をする。……今思うと、まるで浮浪者のような生活だな。
そんなある日、一匹の白い子猫に出会った。
毛はぼさぼさで泥だらけ、痩せた野良だった。だけど妙に人懐っこく甘えてきたから、俺は嬉しくなって毎日その猫を探して歩くようになった。
ゴミ捨て場からまだ食べられそうなものを拾って与えたり、伯母の家からこっそり持ち出した食べ物を分けたり、体を洗って毛並みをふわふわにしてやった。そうして寄り添うように猫と過ごした。
猫と遊んでいるとき、非難の目を向けられることもあった。よく笑っていられるものだと後ろ指を指されたこともある。
だけど、俺にとっては生まれて初めての友達だったから、隠れて一緒に過ごしていた。そうして子猫から成猫になるくらい時が流れた。
「それで? その猫とはずっと一緒だったの?」
やや身を乗り出してソニアが続きを促してきた。つまらない話だろうに、なぜだ。猫が好きなのか?
「いや、ある日を境に、猫はいつもの路地から姿を消した」
事故に遭ったのか、病気で動けないのか。それとも他の猫に縄張り争いで負けて追い出されてしまったのか。
もう二度と会えないかもしれない。
俺は泣きそうになって――実際は泣きながらだったがソニアには言いたくない――必死に猫の姿を探した。名前を決めておけばよかった。どう呼びかければいいのか分からず、やみくもに都を練り歩いた。
何日経っても見つからなかった。俺はたった一匹の友達を失くしてしまったのだ。
「ご、ごめんなさい。辛いことを思い出させて。これは、さすがに……」
珍しくソニアが居たたまれないように俯いた。何でそうなる。同情してほしいわけではないのだ。
「二つ季節が巡った頃、ちゃんと再会できたぞ。猫はとある家族の飼い猫になっていたんだ。当時の俺よりも小さな子どもと庭で遊んでいるのを見かけた。子どもと猫を見て両親も微笑ましげにしていて……ものすごく幸せそうな光景だった」
そのときの感情が蘇ってきて、俺は頬を緩めた。ソニアは首を傾げている。
「すごく嬉しかったんだ。本当に。死んでいなくて良かった。幸せそうで良かった」
たとえ俺のことを忘れてしまっても、生きていてくれるならいい。幸せならいい。
これが俺の子ども時代で一番嬉しかった出来事だ。
そう話を終わらせると、ソニアは非常に複雑そうな顔をした。
「ヴィル……猫を飼ってみる?」
「は? どうしてそうなる。やっぱり猫が好きなのか?」
「え? 猫は好きよ。でもそれ以上に……いえ、猫を飼ったら楽しそうだと思って」
俺は猫のいる生活を想像してみた。
ご飯にまっしぐらな姿、猫じゃらしに夢中になる姿、仰向けでお腹を晒してすやすや眠る姿、そんな猫の可愛らしい姿が日常の風景の一部になる。癒される。最高だ。きっと楽しいだろう。だが――。
「やめておいた方が良いんじゃないか? ユニカが拗ねる」
「そうかしら? ユニカなら分かってくれるわ」
「いや、ただでさえ最近あいつが俺を見る目がヤバい。ずっと見張られている気がするんだ」
考えすぎよ、とソニアは笑ったが、笑い事ではない。
ユニカは大好きなご主人様を俺に奪われた気になったのだろう。王都のごたごたでしばらく離れていた反動もあるかもしれない。この旅ではなるべくソニアとユニカが触れ合えるように配慮したつもりだ。
俺にも気持ちは分かる。新入りに主の寵愛を奪われるのは辛い。だからやっぱり猫はダメだ。可愛さでは俺もユニカも敵わない。
「今はいい。もう少し落ち着いて……縁があったら飼おう」
「そう? 分かったわ。じゃあ将来の楽しみにとっておきましょう」
「ああ」
「……いつの間にか、雨止んじゃったわね。残念」
ソニアは深く息を吐いて、体の力を抜いた。しばらくすると健やかな寝息が聞こえてきた。
俺も目を閉じる。
将来、という言葉が頭の中で巡っていた。
ずっと一緒にいる約束をした。数か月後に起こるという事件を解決できたら、きっとソニアは薔薇の宝珠を使ってくれるだろう。俺とアンバートの想いに応えてくれるはずだ。
アンバートに対し、ソニアは複雑な思いを抱いているようだ。だが、悪くは思っていないはず。いつか樹海の奥の秘密の場所に、アンバートのお墓を作ると言っていたからな。
復讐のために非道をし尽くした男だが、彼は俺の父の無念を晴らし、ソニアのために宝珠を遺してくれた。
彼の存在を胸に刻み、彼の死を悼みたい。そのための場所を作るのなら、俺も賛成だ。
墓の後は自分たちの新しい家を建てる予定だ。
ソニアだけに金を出させはしない。俺も騎士時代の給金を注ぎ込む。
旅の移動中、間取りについて話し合うのが楽しかった。台所は広くしたい、とか、壁紙を明るい色にしたい、とか。
子ども部屋は今のところ考えなくて良さそうだ、という話もした。
人造生命の親から生まれた俺たちは、普通の人間とは少し体の造りが違うらしい。特にソニアは世界でただ一人の『純血の魔女』であり、いずれ薔薇の宝珠で延命する体だ。その血の業は災厄の種になりかねない。
【紅き魔女の娘がミストリアに滅びの災いをもたらすだろう】
エメルダの予知……正確にはアンバートがねつ造した予知が世代を超えて的中してしまったら困る。
だから、子どもは作らないようにしようと二人で決めた。俺が薬を飲むことで対処している。
ククルージュには身寄りのない魔女見習いもいる。きっとこれからもやってくるだろう。その子たちの親代わりになればいい、と俺は納得している。
だが、ソニアはやはり気にしているのかもしれないな。
もしかしたら猫を飼うように勧めてきたのも、子どもの代わりに育てようという意図があったのだろうか。
……今度もう少し話し合うべきだな。
俺は深呼吸をして、枕に深く沈んだ。
やるべきことを全て終えたら、俺はソニアに結婚を申し込むつもりだ。
そのときのことを思うだけで緊張でどうにかなりそうだ。
断られたらどうしよう。
本当なら一線を越える前にするべきだった。遅すぎると呆れられてしまうだろうか。
そもそも「結婚する必要なんてない」と突っぱねられる可能性もある。
確かに必要ないかもしれない。主従で恋人として同じ家で暮らし、そして一生一緒にいる約束をして、子どもの話までしている。もうすでに事実婚のようなものだ。
結婚を申し込むのは、ソニアとの関係を公的に確固たるものにしたいという俺の自己満足に過ぎない。
もしもソニアに「もう婚礼の衣装を纏うのはこりごりよ」なんて言われたら……。
俺は叫び出したくなる衝動を堪え、気を静めた。
大丈夫だ。ソニアならきっと喜んでくれる。いや、喜ばせられるように俺が努力すればいいんだ。
いろいろと不安は尽きないが、未来のことを考えられるのは幸せなことだな。
俺はソニアのぬくもりに寄り添って、意識を少しずつ手放した。
快晴の空の下、ユニカが進む。
一頭引きの小さな馬車は人が歩くよりは少し速い、という程度の速度だが、ククルージュに確実に近づいていた。
旅の終わりが迫り、俺とソニアは自然と無言になっていた。名残惜しさを感じながら、帰りを待つ人々の顔を思い浮かべる、そんな和やかな時間だった。
ククルージュの手前、最後の林を進んでいる時だった。
牛の魔獣が低い声で騒いでいた。木の洞に威嚇しているようで、随分気が立っている。やがて俺たちに気づき、まっすぐ突進してきた。
「最後の最後まで魔獣退治か」
「いいじゃない。あれ、なかなか珍しい魔獣よ。お肉も美味しいし」
俄然やる気が出た俺はソニアとユニカを庇うように飛び出し、魔女殺しを抜いて切り伏せた。巨体がばたりと倒れ、砂埃が舞った。
「お疲れ様。相変わらずお見事ね」
「……思った以上に大物だ。馬車には全て積みきれない。一回ククルージュに帰ってから、ファントムとテオを連れて戻ってくるべきだよな。だが、その間に他の魔獣に食べられてしまう。ここは二手に分かれるか?」
「せっかくの旅行なんだから、帰るときも一緒にいなきゃ嫌よ。少しだけお肉をいただいて、後は葬送でいいでしょう?」
「う…………肉が勿体ない。それに、土産が増えればみんなも喜ぶんじゃないか?」
ソニアは少し呆れていたが、「じゃあ結界を張ってあげる」と渋々と言った様子で馬車から降りた。
そのとき。
「にゃーん……」
か細い声が小さな木の洞から聞こえてきた。俺とソニアは顔を見合わせる。
「まさか、これは……」
「縁があったのかしら?」
俺は戸惑い、ソニアは笑った。
こうして旅の終わりに家族候補が一匹増えたのだった。