5 魔女の厭い子
翌朝、私は何事もなかったかのようにヴィルに微笑みかけた。
「おはよう、ヴィル。ダメじゃない。もう少し早く来て、給仕を手伝わなきゃ」
部屋に届けてもらった朝食を食べ終わり、今は食後のお茶を楽しんでいるところ。もう屋敷の侍女には下がってもらっている。
ヴィルはむっとしていたけど、胸に手を当てぺこりと謝罪の礼をした。昨日怒鳴ってしまったことを反省したのかしらね。
ヴィルは私が『悪の魔女』だという証拠を掴むために従者になった。すぐクビになってしまったら意味がない。少しは従順にならないと情報を引き出せないと気づいた模様。というか、もう少し打ち解けないと私は隙を見せないわよ?
今日は騎士の制服ではなく、シンプルなシャツとジャケットだ。燕尾服ほどかしこまってはいないものの、実に従者らしい装い。顔とスタイルが良いから何を着ても似合うわ。護身用にしては大きな剣が悪目立ちしているけどね。
「今日は昼に契約解除の儀式をしたら、すぐにククルージュに向けて発つからそのつもりでいてね」
「すぐに?」
「そうよ。悪いけれど、荷物の準備やお別れの挨拶がしたかったら午前中に済ませてきてね」
ククルージュまで普通に行ったら五日はかかる。いろいろと気を配ることもあるし、早く出発して帰るに越したことはない。ヴィルにもいろいろ支度があるでしょうけど、待ってあげられないわ。
「俺は、この剣さえあればいい。家財は全て処分するように頼んであるし、挨拶はもう済ませた」
「そうなの? まぁ服や日用品はあっちで買ったほうがいいわね。一緒にお買いものしましょ。楽しみ」
げんなりしつつも、拒絶はしないヴィル。代わりに腰の剣に触れた。
「一つ聞きたい……魔女殺しを取り上げないのか?」
魔女殺し。
それは大量の魔女の血を用いて打ち鍛えられた呪いの武器。
莫大な魔力消費と引き換えに、魔術を無効化できる。しかも魔女が魔女殺しで斬られると、傷から血煙が上がる。使い方次第では隠れた魔女を見つけることもできるのだ。
ヴィルが持っているのは父の形見で、魔女狩り時代に作製されたものの一つ。たくさんの同胞を葬ってきたもので、魔女にとっては忌まわしい武器だ。
それを私がちっとも取り上げないことが、ヴィルは腑に落ちないようだ。
「ええ。これから私と一緒に過ごすのに、普通の剣では不安でしょう? それに確か魔獣にも効果があるはず。帰郷までの道中、心強いわ」
「……これを奪うために俺を従者にしたのではないのか?」
「いいえ。あなたが私の好みだから従者にしたの。顔も声も性格も、レイン王子よりずっと素敵よ。私はそう思う」
思いもよらない解答だったのか、ヴィルは息を飲んだ。
「もちろん、王子たちへの嫌がらせも兼ねているわ。失って思い知るといい。ヴィルがどれだけ価値のある騎士だったか」
実際、原作“あにめ”ではヴィルの活躍で窮地を乗り切る場面がたくさんあった。これからの展開は分からないけれど、ヴィルがいなくなったら、王子もエメルダ嬢もあっさり死んでしまうかもね。
ヴィルは戸惑っていた。「どうして俺の評価がこんなに高いんだろう」「もしかしたら俺を引き離した隙に王子を襲撃するつもりでは」「いや、からかって俺の反応を楽しんでいるだけか」「なんて嫌な奴……これだから魔女は嫌いだ」……そんな考えが透けて見える。
私は小さく息を吐いた。もう少し表情を隠したほうが良いわよ、ヴィル。
「魔女殺しはあなたが持っていて構わない。ううん、むしろ持っていてほしい。私からの信頼の証だと思って。……ただし」
私は立ち上がりヴィルに近づくと、彼の黒髪を縛っている紐を摘まんで奪った。さらりと肩に髪が落ちる。
「な、何をする」
「これは取り上げます。あなたにこの色は似合わないわ」
このミントグリーンの髪紐は、エメルダ嬢からもらったものでしょう?
原作で見た。とある怪事件を解決した際、救った子どもがお礼にとたくさんの髪紐をエメルダにプレゼントした。「ヴィルくんも使う?」と彼女が言い、ヴィルはこの色を選び取った。
エメルダは何気なくあげたものなのに、ヴィルはずっと大切に身に着けていて、“しちょうしゃ”を散々悶えさせたアイテムだ。
奪われた髪紐をヴィルの目が追いかける。実に切なげな顔をしてくれるわね。
「代わりに新しいものをプレゼントするわ。魔術はかかってないから安心して。信じられないなら後で鑑定に出してくれて構わないから。……ねぇ、屈みなさい、ヴィル」
私が差し出した深紅の髪紐を見て、ヴィルは小さく呻いた。だけど強く抵抗はせず、大人しく髪を結ばせた。魔女殺しの帯剣を許してもらったのに、これを拒絶はできないわよね。
「ふふ、よく似合っているわ。鏡見る?」
「いい。分かった。これからはこれを使う。……だから、その髪紐を返してくれ。人にもらったものなんだ」
「嫌よ。魔女殺しさえあればいいんでしょう? こんなみすぼらしいもの目障りだわ。――【イグニザード】」
「なっ」
私の詠唱により、髪紐は燃え上がった。すぐに灰になって床に落ち、火気は消える。
ヴィルは肩を落とし、目をつぶって震えていた。
激昂するかと思ったけど、何とかこらえている。というか、私への憎しみよりも悲しみの方が大きいみたい。
ちょっと可哀想だけど、首輪は取り替えておかないとね。
それに、いいかげん吹っ切ったほうが良い。
原作でも現実でも、彼女はあなたのものにはならない。私がいる限り、絶対にね。
昼過ぎ、婚約解消の儀式のため、神殿を訪れた。
国の術士たちが魔術円を囲み、せっせと供物を並べている。珍しい魔獣の牙や鱗など恐ろしく高価な物ばかり。この手の魔術は膨大な魔力を必要とするから仕方がない。
「総額で一千万ウェンカくらい? 国庫は大丈夫かしら」
これは国民のひんしゅくを買うわね。結婚のご祝儀ならまだしも、婚約破棄の手続きに汗水垂らして納めた税金が使われる。暴動が起きてもおかしくない。
ヴィルは虚ろな声で答えた。
「今回の供物のほとんどがレイン王子の私財、もしくは親しくしている商会で負担していると聞いた……」
「え、そうなの? それは良い心がけね。安心したわ」
当然と言えば当然か。レイン王子としてはこれ以上周りの不興を買いたくないでしょうし、国としても私財を没収することで今後の王子の動きを制限できるし。
何にせよ、核なしの人間は大変ね。普通の魔女が三人いれば足りる量の魔力を、わざわざ買わなければならないなんて。
だけど術式自体は文句の付けどころのない完成度だわ。その辺の魔女では組めない高度なものだ。
まぁ、魔女は自分の興味のない分野には手を出さないから仕方がない。人同士を結ぶ契約魔術なんてその最たるものかもしれない。
そんなことを考えながら儀式の場が整うのを待っていると、宰相が近づいてきた。
「宰相様、昨日は素敵なお屋敷にお招きいただき、ありがとうございました。おかげで快適に過ごせました」
「そう言っていただけて何よりです。ソニア様……先ほどレイン殿下もこちらに到着されました。それで、その……昨日のことを謝罪したいとのことなのですが」
「え?」
よく見れば宰相は額に汗をかいていた。
「も、もちろん今更やり直そうとなどという申し出ではございません。ただ貴方にひどい言葉を浴びせたことを謝りたいと、それだけなのです。断っていただいても構いません。本来なら今日殿下と顔を合わせるのも苦痛でしょう。ですがその……」
国を預かる宰相としては、王子の謝罪を受け取ってほしい、と。
うーん、どうしようかしら。
ただの謝罪だけで終わらない気がする。たった一日で私の無罪を信じるはずもない。王子は私と言葉を交わすことで、真実を見極めようとしているのでしょう。
厄介だわ。でも、私も聞きたいことがある。
「分かりました。お会いいたします」
「本当ですか!」
「はい。ただし、私とレイン様、そして我が従者ヴィルの三人だけで」
宰相とヴィル、二人とも目を見開いた。
「あの、それは……」
「お前……何を考えている?」
「十六年もの間、形だけとはいえ婚約関係にあった方ですもの。最後に堅苦しくない場で話したいと思ったのです。でも二人きりでは心配でしょう? だからヴィル、あなたがついてきて」
神殿の個室で、すでにレイン王子は待っていた。
神々しいほどに美しいのは変わらないけれど、憔悴の色は隠せていない。たった一日で随分痩せたような気がする。
「ありがとう、ソニア嬢。きみの寛大な対応にまず感謝を」
でも残念。彼の青い瞳を見る限り、まだ心が折れていないみたい。
戦う気満々って感じ?
「前置きは結構です。儀式まで時間がありませんし、私もお尋ねしたいことがあります。先にレイン様の用件をどうぞ」
部屋の中には簡素な椅子が二脚。
私と王子が向かい合って座り、ヴィルは私の後ろに立った。男同士で目配せするのはやめて。
ヴィルは背後から私の首を狙える位置にいる。髪紐を燃やすタイミングを間違えたかしら。
まぁ、この場で私に手を出せるはずがない。
密室とはいえ扉の外には見張りの兵が立っているし、魔術の気配がある。盗聴されていると思った方がいい。
私も王子もヴィルも下手なことはできない。
「では、改めて。……ソニア・カーネリアン嬢、昨日の暴言暴挙の数々、深くお詫び申し上げる。確固たる証拠もなく、きみと母君の名誉を汚した。言葉でいくら謝っても許されることではない。僕は、今この場できみに殺されても仕方がないと思っているよ。むしろ今生きていることが不思議でならない」
「ご冗談を。そんな物騒なことはいたしません。謝罪の言葉、確かに頂戴いたしました。私としては、賠償として素晴らしい騎士をいただいた時点で禍根はございません。結果的に、真実を伝えるという母の悲願も叶いました。なのでお気になさらず、どうぞ可能ならばあの少女とお幸せに」
「……きみは本当に寛大な女性だ。それに信じられないくらい達観している。年長者としては悔しいが、感服するしかない。きみという人となりを理解していなかったことが、僕の失態の最大の要因だね。事前に一度でも話しておけば、こんなことにはならなかっただろう。見誤ったよ」
「私も、レイン様のことを誤解しておりました。一国の王子というのはあらゆる面で不自由で、さぞ抑圧されてお辛いだろうと思いましたが、あなたはそういったしがらみを跳ね返せる御方なのですね。素晴らしいことですわ」
私と王子はにこやかに話していたけれど、室内の空気は冷え切っていた。
お互い丁寧な言葉の端々に棘があったから。
王子は負け惜しみを、私は嫌味を。
間違っても結婚しなくて良かったわね、私たち。きっと周囲を凍てつかせるような夫婦になっていたわ。その証拠にヴィルが怯えている。
「謝罪が済んだことですし、今度は私のお話を聞いて下さる?」
「ああ、もちろん」
「あのエメルダという少女は何者ですか? どういう経緯でお知り合いに?」
ヴィルに尋ねても教えてくれないのです、と訴えかけると、レイン王子は小さく頷いた。
「今更隠しても仕方がない。聡明なきみのことだから察していると思うが、彼女は『魔女の厭い子』だ」
やはり、というか原作通りで安心したわ。
魔女の厭い子。
それは魔女になる資格を持ちながら、その機会を逃した者のことだ。
まず前提として魔女とは何か。
箒で空を飛んだり、ふりふりの衣装に変身したり、悪魔と密約を交わしたり……なんてことはしない。
他の“あにめ”の魔女には驚かされたわ。どんな短いスカートで走り回っても下着が見えないの。特殊な魔術結界を持っているのかしら?
それはさておき、この世界における魔女の定義は「核と創脳――二つの魔術機関を兼ね備え、自在に魔術を行使する女」である。
魔術は魔力と術式によって起こされる奇跡の業のこと。
そのために必要不可欠なのが核と創脳。
まず核。
魔力を生み出す場所。体のどこにあるのかは人によって違う。
この世の生物はみんな魔力を持っているけれど、核持ちの人間は通常の何倍もの魔力を精製することができる。
核を持つ人間は身体能力に優れていて、冒険者や傭兵になる者が多いわね。専用の魔道具で魔力を結晶化して売れば、それなりの生活ができるとも聞く。
次に創脳 。
脳にある裂傷のような部位のこと。魔術の設計図を考えるのになくてはならない場所よ。
創脳を持つ人間は魔道具を発明したり、自然界の魔力の流れを感じたりできる。結晶や供物から魔力を引き出せば魔術を使うこともできるわ。かなり勉強が必要だけどね。
そうして術士になれば一生安泰。国や商会から引く手あまたの人材だもの。「どこの世界でも頭脳労働者は優遇されるのね……けっ」と前世女は悪態をついていたわ。
核のみ、創脳のみ、どちらか片方だけ持って生まれてくる人間は結構いる。
だけど二つとも兼ね備えて生まれる人間は大変希少。しかも女のみしか生まれない。
でも、たとえ核と創脳を持っていたとしても、それだけでは真の魔女とは呼べない。
なぜなら魔術を使いこなすには、幼い頃から徹底的に訓練しないといけないから。
親が魔女なら問題ないけれど、一般人から魔女となりうる娘が生まれた場合、悲惨だ。
魔女を呼び、娘を預けて育ててもらわなければならない。正常に育つためにはどうしても魔女の手助けが必要なのだ。
訓練をせずそのまま大人になれば魔力の制御ができず、身を滅ぼすかもしれない。また、術とも呼べない力で周囲に害をもたらすかもしれない。
六歳までに魔女に弟子入りさせ、真の魔女になるまで親元に戻ってはいけない。
それがこの世界のルールなの。
でも、頭では分かっていても、娘を魔女に渡したくないと考える親はいる。
魔女の中には、引き取る代わりに大金を要求する者もいる。我が同胞ながら卑しい女ね。
他にも「弟子に出した娘が魔女に食べられていた」「危険思想を身に着けて帰ってきて村が滅んだ」なんてオチの古い伝承が各地に残っている。そんな話を童話代わりに聞かされていた親が、魔女を信じられなくなるのも無理はない。
それで、結局魔女に引き取られず、人里で育ってしまったのが魔女の厭い子。
大きくなってから慌てて魔女に弟子入りしようとしてももう遅い。
爆弾が近寄ってくるようなもので、魔女たちにとっては大迷惑。
だから魔女の厭い子と呼ばれる。魔女に限らず、普通の人間にとっても厭うだけの存在だろうけど。
二十年前にお母様が国を救って以降、ミストリアでは魔女の信用が回復し、厭い子の数はずいぶん減った。
核を切除することで、魔女にならなくて済む方法も確立されてきているらしい。
だから今の時代、エメルダ嬢の存在はものすごく珍しい。
「彼女は最近まで、自分が厭い子だということすら知らなかった。予知の力も、育ての親に絶対に口外しないよう厳しくしつけられていたらしい。自分の力を信じないように心がけてきたようだ」
「なるほど。でも本当に珍しいですね。厭い子が予知の力を……」
大抵の厭い子は、自爆するか周囲に迷惑をかけて粛清される。無事に育つことすら難しい。
厭い子の創脳が異常発達して奇跡的に稀有な能力を身に着けた、という話ならまだ信じられる。しかしエメルダ嬢は「生まれつき」予知の力があったと言った。
どんなに優れた魔女でも狙って体得できるものではない。もちろん私も無理。それは才能、あるいは運の問題になってくる。
これが主人公補正ってやつ?
ものすごく腹が立つ。
「でも安心しました。予知の力はもちろん、厭い子の力が不安定なことも周知のはず。私がミストリアに災いをもたらすという予知の信憑性は、ますます低くなりますわね」
しかしレイン王子は頷かなかった。
「その信憑性の有無については、議論の余地があると思うね。僕もヴィルも、最初はエメルダの言葉を信じられなかった。だけど、何度も何度も何度も見たんだ。エメルダの予知が的中するところを。そして彼女が予知を覆す行動を取ることで、悲惨な結末が紙一重で回避されるところも。謝罪の直後に重ねて申し訳ないが、僕はまだ、エメルダを信じている」
「……好きな人を庇いたくなる気持ちは分かりますわ」
「それだけじゃない。決して」
真剣なレイン王子に対し、私は朗らかな笑みを浮かべる。
「僕は一つの疑念を持っている。もしも可能ならば、答えてほしい」
寒々しい室内に王子の緊張した声が響く。
ふふ、私も王子のことを少し侮りすぎたかしら?
「ソニア嬢。もしかしたらきみ、未来を知っているんじゃないか?」