49 悪の真実
隣で息を飲む音が聞こえた。ヴィルが少しだけ不安そうにしている。
もう、まだ自信がないの?
私は一部の揺らぎもなく、歌うように答えた。
「最初は見た目や雰囲気を気に入ったから。それと、何も知らず王家に仕える姿を哀れに思ったから。あまりにも危うくて放っておけなかった」
昔のヴィルは大切な人のために平気で身を投げ出すような人だった。例え“あにめ”のシナリオを回避できたとしても、王子とエメルダ嬢がそばにいる限り、命の危険はなくならない。
私なら、ヴィルに守られなくてもいい。むしろ守ってあげられる。そうして優越感に浸っていたことは否定しない。
でも少しずつ私に心を開いてくれるヴィルに対して、ただただ愛しいと思うことが増えていった。
「今は、ヴィルを幸せにするのが楽しいの。私も幸せな気分になれる。ずっと一緒にいたいと思うわ。……ヴィルは私の最高の従者で、最愛のヒトよ」
隣から今度は、すん、と鼻をすする音が聞こえた。ヴィルが頬を赤くして、そっと目頭を押さえている。……これくらいの言葉ならいつも言っているのに、場の雰囲気で昂ぶったのかしら。
「俺にとってもソニアは、最高の主で、最愛の女性だ……」
「ふふ、ありがとう」
ますます顔を赤くするヴィル。
しかし一瞬緩んだ謁見の間に、甲高い音が響いた。アンバートが王冠を床に捨て、ゆらりと立ち上がった。
「そう……」
感情の読み取れない瞳。でも、決して相思相愛の私たちを祝福する雰囲気はない。
「ヴィル、良いことを教えてあげる。魔女は賢しく残忍な生き物だ。自分の身が一番可愛くて、欲望のためならあらゆる者を不幸に陥れて笑う。ヒトの気持ちを逆手にとって、気まぐれで翻弄する悪女だよ。ソニアだって本質は同じだ。このままじゃヴィルは弄ばれて、飼い殺されてしまう。その愛は自らの首を絞める。それで本当に幸せになれると思う?」
ヴィルはアンバートを睨みつけるだけだった。代わりに私が口を開く。
「魔女に対する偏見はいただけないわね。それに、お父様に私の愛し方を咎める資格はないわ。ゼオリの呪術でヴィルは死にかけたのよ。自分の組織が殺しかけた人間を心配するなんて、おかしな話ね」
「あれはゼオリの暴走だ。アズライト領には手を出すなと言ってあったのに……自己弁護をするわけじゃないけれど、怪事件を装った素材集めも、呪殺テロも、僕が命じたわけじゃない。宝珠を造る材料を教えたり、国を混乱させる方法を相談したら、魔女たちが勝手に計画して動き出したんだ」
アンバートに惚れ抜いた魔女たちは、愛されたくて彼の望みを先読みし、我先にと行動した。全ては魔女たちの独断で、真の悪は魔女とでもいうつもり?
「……あなたなら、魔女たちの次の行動くらい予測できるでしょう。むしろ凶行に走るように扇動したのは明らかだわ。怪事件でも、呪殺テロでも、罪のない民が大勢犠牲になっている。欲深い魔女はもちろん、お父様も大罪人だわ」
「そんなことは分かっているよ。裁きたければ裁けばいい。この世界の住人のことなんてどうでもいい。でも、ヴィルの不幸を願ったことは一度もない。ソニア、きみは彼を不幸にする」
その瞬間、アンバートの纏う魔力が膨れ上がった。
【奈落の底に生まれ落ちた雫よ、黒き絶叫とともに、光を討て――テネブ・キュリテ】
彼の手の平からいくつかの黒い靄が飛び出し、曲線を描いて空間を走る。早い。それに軌道が不規則で読み切れない。
咄嗟にヴィルが前に出て、跳んでくる黒い靄を魔女殺しで掻き消す。動きはヴィルの方が早いみたい。でも、靄は上からも後ろからも飛んでくる。対処しきれないと判断したヴィルは、私を抱えて跳んだ。
瞬間、私たちがいた場所に黒い靄が直撃し、厚手の絨毯からどす黒い煙が上がった。熱の塊、あるいは強い酸のようね。なんにせよ、触れればただでは済まない。絨毯には穴が開き、下の大理石が変色している。
アンバートは本当に結晶なしで魔術を使えるのね。それにこの魔力。私やお母様に勝るとも劣らないし、完全に操っている。ゼオリが心酔するのも頷けるわ。これが魔人……正直恐ろしい。
ヴィルは私を片手で抱えながら、魔女殺しを振るって靄を消していく。軌道を読んでいるわけではなく、当たる直前に反射的に斬りつけているだけみたい。つまり無意識の行動。アンバートが緩急やフェイントを織り交ぜてきたら、いずれ当たってしまう。
とはいえ、狙われているのは私だけだった。
ネフラに耳打ちされたことは本当みたいね。
『ヴィル・オブシディアに危害を加えないことをお約束いたします』
その時点でアンバートの目的が何となく読めた。
私は迷っていた。彼の願いを叶えるか否か。でも、アンバートは私に選択権を与えないつもりみたい。
【天空に舞い上がりし粒子よ、白き喝采ともに、闇を癒せ――ルーメニ・エール】
私の詠唱により、周囲に光の幕が張られ、黒い靄は膜に触れて霧散した。相反する属性の魔術で相殺したの。
攻撃が一旦止む。アンバートは無言で私たちを見下ろしている。
「……ありがとう、ヴィル。離れていて。巻き込んでしまうから」
「何をするつもりだ」
「お父様と戦うだけよ。捕まえられればいいけれど、もしも無理なら殺すわ。それがお父様の望みかもしれない」
私はヴィルから体を離し、アンバートを睨み返した。
アンバートの復讐は国王を呪い殺したことで終わったのでしょう。世界中の全ての魔女を殺し尽くすつもりなら、まだ配下の魔女を始末しない。中庭の凄惨な光景をみて、アンバートが全てを終わらせるつもりなのだと感じた。
「勘違いしないでほしいな。ソニアに殺されるつもりはないよ」
「あら、じゃあヴィルに裁きを与えてほしいの? ああ、もしかして自害する前に私を処分したいのかしら。魔女と魔人の子を殺して、スレイツィアの遺産を排除する。私を始末すれば、薔薇の宝珠のレシピも一緒に葬り去ることができるもの」
アンバートは薄く笑った。彼の目的はヴィルへの贖罪、私の排除、そして自らの死。
私を殺せばヴィルが逆上してアンバートを討つでしょう。全ての目的は達成される。
「ふざけるなよ。それのどこに俺の幸せがあるんだ。ソニアを失ったら、俺は――」
「安心して。記憶を消せば解決だ。死ぬ直前にヴィルの記憶をソニアにもエメルダにも出会う前の状態に戻してあげる。全知の力を使えば、記憶を操る魔術の開発も容易かったよ。エメルダでよく実験していたから失敗はない」
「なっ!?」
「僕を殺す利点はもう一つあるよ。レイン王子の憎しみを糧にミストリア王たちに呪術をかけたのは僕だ。まだ呪われて苦しんでいる者もいるし、王子もかなり衰弱している。早く僕を殺して呪いを解かないと、犠牲者はどんどん増えていくよ」
お父様、とんでもないことを次々と口にするわね。
ヴィルが目を見開き、そして首を横に振った。怒っているみたい。
「ソニア、俺も戦うからな。あいつの思い通りにはさせない」
「ヴィル……」
例えずっと一緒に旅をしてきたシトリンでも、父クロスのために復讐を成し遂げた者であっても、容赦しないと覚悟を決めたみたい。ヴィルが魔女殺しを構え直すと、アンバートが目を細めた。
「いいよ。二人で一緒においで。それくらいハンデがないと、僕には勝てない」
アンバートは私を殺すまではヴィルに殺される気はないらしい。当然私は殺されてあげるつもりはない。本気で戦うことになる。
再び周囲に黒い靄が浮かび、私たちに向かって飛んでくる。光属性の幕を張り直し、攻撃を受ける。
今のところ力は互角。闇と光が相殺し合い、耐えられていた。
ただ、攻めに転じる余裕がなくて防戦一方になっている。
「ソニア、頼む。俺に戦わせてくれ」
「でも私はヴィルを――」
「俺の危機の時には守ってくれるんだろう? なら、お前の危機には俺が戦う。お前に二度も親殺しをさせたくないんだ」
金色の瞳に決意の光が宿っている。
「信じて、命じてくれ」
抗えない力を感じ、私は頷いた。
大丈夫。アンバートはヴィルの命を奪ったりしない。ヴィルの記憶を奪うのも、私を殺し、自分が致命傷を負ってから。
だけど、何かしら。ほんの少しだけ嫌な予感がする。罠にかけられているような不安が肌に纏わり付いてくる。
私は念のため、ヴィルの周りにもう一重光の魔術を施す。ヴィルは強く床を蹴り、玉座に向かって突撃していった。
その動きを待っていたのか、アンバートから寒気がするほど膨大な魔力が放たれた。
【終焉を紡ぐ糸よ、影を縫い、深淵の幕を降ろせ――アルシオン・ファンタズマ】
先ほどの靄とは比べ物にならない大きさの黒い塊が謁見の間を塗り潰さんばかりに広がる。今度は熱や酸ではないみたい。影が触れると柱の一つが砕けた。影を実体化した物理攻撃のようね。超高等魔術だわ。捕まると厄介。
しかしヴィルは少しも怯まずに広がる影を切り裂いて進んだ。
「へぇ、田舎暮らしで腕を鈍らせているかと思ったのに」
「舐めるな!」
ヴィルは日々の鍛練を怠ったりしない。それどころかファントムやコーラルと模擬戦をして腕を磨いていたもの。
私もそう。ゼオリと戦ったとき、正直焦ったわ。相手は呪術の反動で片腕を患っていたのに、それでも十分に強かった。ゼオリが全快の状態なら魔術勝負で負けていた可能性がある。
一か八かの勝負なんて割に合わないし、柄じゃないの。
必勝。そのために私は魔術の研究と研鑽をした。
【祝勝を告げる鐘よ、幾重にも集まり、創世の音を奏でよ――グランド・アンジュ】
ヴィルが稼いでくれた時間で極限まで魔力を練り、光属性の魔術を紡いだ。アンバートの生み出した影を悉くチリにしていく。ヴィルの進む先をこじ開ける。
「もらった!」
ヴィルが大きく一歩踏み込み、アンバートの肩口から斜めに剣を振り下ろした。鮮血が飛び散る。
見た目が十二歳の少年を切りつける光景はあまり目に優しくないわね。
アンバートはよろけたけれど、にやりと笑った。
「ヴィル! まだよ!」
アンバートの体から白い炎が上がり、みるみるうちに傷が塞がっていく。回復が早すぎる。さすが薔薇の宝珠の完成品といったところかしら。眩しさに一瞬目がくらむ。近くにいたヴィルも思わず硬直した。
その一瞬を逃さず、再び出現した影の一部がヴィルの体に巻きつき、魔女殺しを振えないように拘束する。そして、残りの影全てが私に覆いかぶさってきた。まるで黒い波のよう。押し潰すつもりね。
咄嗟に光属性の魔術を展開して難を逃れたけれど、追撃が止まない。術式の構築が間に合わず、このままではジリ貧だわ。アンバートに傷を負わせる威力の魔術を紡ぐ時間はない。
「ソニア!」
私は選択を強いられた。今できるのは簡単な光の魔術を放つことだけ。自分の身を守るか、ヴィルの拘束を解くか。
頭の中では前者を選択したつもりだった。
だって、アンバートは私を殺すつもりなのよ。でもヴィルを傷つけるつもりはない。自分の身を守ることを最優先にしなければ、あっという間にバッドエンドだわ。
しかし私は一呼吸で魔術を紡ぎ、ヴィルを拘束していた影を消した。
無意識の判断だった。まぁ、自分の身を守ったところで反撃のチャンスもなく、やがて力尽きていたかもしれない。ならヴィルを自由にしてアンバートを攻撃してもらった方がワンチャンスあるかしら。
「ヴィル! お父様を!」
黒い影が大波となって私に覆いかぶさってくる。
一撃くらいなら、薔薇の霊水の力で耐えられる……と思う。
一か八かは嫌い。痛いのだって本当はイヤ。後でヴィルに怒られるのも面倒だわ。
でも、まぁ、仕方がないわよね。体が勝手に動いていたんだもの。
「…………え?」
咄嗟に頭を腕で庇っていた私は、いつまで経っても衝撃が襲ってこないことに気づき、慎重に周囲を見渡した。
黒い波は私を覆い尽くすことなく消えていて、玉座の台座でヴィルがアンバートの心臓を貫いていた。魔女殺しが魔人の血を帯びて、歓喜したかのように強烈な赤い光を放っている。
ヴィルの攻撃の方が早かった?
いえ、違う。
「どうして、攻撃を止めた……?」
ヴィルも驚き、呆然としている。
アンバートは白い炎を纏ってはいるものの、さすがに魔女殺しが心臓に刺さった状態では傷を回復できないのか、口から血を零した。その口は笑っている。
「最初から、こうするつもりだったからだよ。でも少し、驚いたな。ソニアが捨て身になるなんて……魔女のくせに他人を優先するなんて」
「……お前は何も知らないんだ。ソニアがどんな子なのか」
剣に貫かれているアンバートよりも、ヴィルの方が苦しげだった。
「ソニアは、ああ見えてとても優しいんだ。俺を助けて、面倒見て、本当の幸せを教えてくれた。たまに全部見透かされていて恐ろしくなるが、一緒にいるととても安心するんだ。自分と自分の大切な者のためにいつだって最善の選択をする。それでたとえ自分が痛い思いをしても笑顔で耐える。俺は、その強さと優しさに応えられる男になりたい」
「優しい? ソニアが……?」
「そうだ。お前の墓参りだってしていた」
アンバートはヴィルの言葉に瞳を揺らしたけれど、すぐに首を横に振った。
「でもダメなんだよ、ヴィル……このままソニアと一緒にいても、幸せにはなれない。二人とも苦しむだけだ」
私は一歩ずつ二人に近づく。心臓がバクバクと壊れてしまいそうな音を立てている。
どうしてここまで私とヴィルを引き裂こうとするのかしら。
二十年前の王都襲撃の因縁を気にしているのかと思ったけれど、私が加害者の娘で、ヴィルが被害者の息子だからというだけではなさそう。
「お父様……エメルダ嬢の力で何か不吉な予知でも視たの? 私はヴィルを殺したりしないわよ」
アンバートも“あにめ”の最終回のことを危惧しているのか、それとも別の未来を視たのか。
かすれた声でアンバートは答えた。
「具体的な映像を視たわけじゃない。でも、ふとしたきっかけがあって、研究したら分かった。……きみの命はそう長く持たない」
私もヴィルも息を飲んだ。アンバートは振り絞るように言葉を紡いだ。
「死の原因は、この世界の異物である魔人の遺伝子を継いだことと、幼少期に服用した毒物による複合的なものだ。脳機能と血液の循環機能に重大な欠陥が生じる。本当なら今頃もう体に弊害が出ているはずだけど、薔薇の霊水の効力が続いているおかげで事なきを得ている。その効力もあと数か月で切れる。しばらくは普通の魔女と同じ体になるだろう。でも僕の研究では三年後の生存率は六割。十年後にいたっては一割だ……」
自分の体に不具合が起こる可能性を考えなかったわけではないけれど、なかなかえぐいわね。薔薇の霊水の副作用ではなく、遺伝的な時限爆弾なら気づきようがない。
せっかく“あにめ”のシナリオを捻じ曲げて生き延びても、あと数年で死んでしまうのね。つまらない人生。
でも仕方がないのかも。降りかかった火の粉とはいえ、これまでたくさん殺してきた。実の母親でさえ手にかけたんだもの。相応の報いかしら。
笑ってしまうわ。予知能力による脳死のリスクでエメルダ嬢を憐れんでいたのに、私の体も大差ない爆弾を抱えていたなんて。
そうね、このままヴィルと一緒にいても、幸せにはなれないかもしれない。もちろんこのまま大人しく死ぬつもりはないもの。体を治そうとしたら研究漬けの日々になる。少なくともヴィルと過ごす時間は減るし、刻一刻と迫る寿命にヴィルまで病んでしまいそう。
そこまで考えてから、私は愕然とした。
アンバートの本当の目的は……。
「ヴィルの体は、大丈夫なの?」
「ああ。年齢とともに徐々に核が機能しなくなり、魔力を失う可能性はあるけれど、命の危険はない」
「そう……」
声が震えた。
同じ人造生命でもアンバートとクロスでは違うのね。ヴィルは生き残ることができる。なら、確定だわ。
「お父様は……最初から薔薇の宝珠を私に譲るつもりだったの?」
おそらく薔薇の宝珠の完成品は未だにこの世界にただ一つ、アンバートが持っている。それは私の命を救うたった一つの可能性だ。薔薇の霊水とは違い、半永久的に美しさと若さを保つ不老の宝珠。遺伝的な欠陥も、毒のもたらす障害も取り除くことができる。
アンバートは誰にも邪魔されない場所で、この魔女の宝を確実に私に渡すために、こんな茶番を演じたんだわ。
復讐を終えて自分が死ぬ瞬間に、私とヴィルを立ち会わせるために。
「このままでは、二人とも幸せになれない。片方だけ助かっても、意味がないだろう……?」
アンバートの言葉にヴィルが慌てて魔女殺しを抜こうとする。けれど、アンバートが小さな手の平で刃を握って阻止した。ヴィルの方が力は強いはずなのに、びくともしない。
「お父様、どうして」
「お父様なんて、呼んじゃダメだ。僕は……何も親らしいことはしていない。それどころかほんの少し前まで、本当にきみを利用して殺すつもりだったんだ。そんなの、父親じゃない」
白い炎に包まれながら、アンバートは微笑む。その瞳には涙が浮かんでいる。
「僕にもアロニアにも、似なくて良かった……」
私は言葉を失くした。代わりに心が悲鳴を上げている。
「ヴィル、騙してごめんね。旅をしている間ずっと、クロスと一緒に遊んでいるみたいで懐かしくて、とても楽しかった……たくさん嘘を吐いたけど、これは嘘じゃない……」
「シトリン、お前は――」
「ソニアと、幸せになってね……」
シトリンは目を閉じて、最期の術式を紡いだ。
【尽きた命よ、その身を精錬し、再び天地を巡れ】
それは、葬送の術。死体を自然界の魔力の川に還元する術だ。私やヴィルの手をこれ以上汚させないため、自分で処理するつもり?
そんなの勝手すぎる。
「……待って! お父様! 私はまだ――」
私が思わず手を伸ばすと、淡い光に包まれたアンバートが朦朧とした様子でその手を取った。
「ああ、ソニア……今度は助けられた……本物に、会えた……良かった……」
「え?」
次の瞬間にはもう、視界が真っ白に染め上げられ、掴んだ手の感触が消えた。目の前にいたアンバートはどこにもおらず、血液の一滴も、核すら残っていなかった。
床に紅い宝珠が転がっていた。深紅の薔薇を閉じ込めたような不思議な紋様が浮かんでいる。
私はその場に座り込んで、たくさんの人々の運命を狂わせた宝珠を手に取った。
これを、私に使えって言うの?
「どうして……? 私のことなんて、娘だなんて思っていなかったくせに。いきなりこんなことされても、戸惑うだけよ……」
分かっているわ。ヴィルのためよね。私が死んだら今度こそヴィルは生きていけない。そう信じたから、私を生かすことにしたのよね。
なのに、これではまるで私が父親に愛されていたかのように錯覚してしまう。親の愛情を失ったような気分になる。本当は愛されていたんじゃないかと、答えのない問いかけをしてしまう。
「ソニア……」
ヴィルが膝を折り、私を慰めるように肩を抱いた。
お母様をこの手で殺したときとは何もかもが違う。瞳の奥が熱い。
「馬鹿ね、私も、お父様も……」
いつの間にか、私はヴィルにすがりついて泣いていた。ヴィルは何も言わず私を抱きしめてくれた。多分、ヴィルも泣いている。
ひどいわ。文句を言わせる間も与えてくれないなんて。
せめて最後まで悪役でいてほしかった。父親じゃないと言いながら、父親みたいなことをしないでほしい。こんな風に格好つけて死ぬなんて最悪だわ。
忘れられなくなってしまう。後悔が残ってしまう。
父親を恋しいと思うなんて、もうそんな年齢じゃないのに……。
涙腺が壊れてしまったように、私は涙を流し続けた。
しばらくしてから、玉座に本が置かれていることに気づいた。
シトリンがいつも持ち歩いていたトレードマーク。
そこには世界の秘密が書かれていた。




