44 ヴィルの変化
ヴィル視点です。
改めて思い知った。俺はとんでもない女に惚れてしまった。
ソニア・カーネリアン。十六歳とは思えない妖艶な美を持つ魔女。
性格は控えめに言っても邪悪。自己中心的で、高慢で、賢しくて卑怯だ。
俺はすっかり手玉に取られ、良い様に弄ばれている。年上としてはかなり悔しい。
だがソニアは決して悪女ではない。
不思議と気品があって、よくよく思い返せば言動の一つ一つに優しさが溢れている。俺よりずっと大人で、物分かりがいい。人としての器がでかいのだろう。大抵のことは笑って許してくれるし、そもそも怒った顔を見たことがない。俺が少しでも役に立てば礼を言うし、傷ついたと知れば謝罪を口にする。いつも肝心なところでは間違わず、筋を通してくれる。
俺の扱いに関しても天才的だ。誰よりも理解してくれるし、甘やかしてくれるし、愛されていると強く実感させてくれる。
そういう人だからそばにいるのは心地よい。主としても恋人としても最上の女性だ。
ああ、困った。心の中ならいくらでも惚気ていられる。いざ本人を目の前にすると何も言えないのだが。
……本当に俺が相手で良かったのだろうか。
俺とソニアでは釣り合っていないのではないか。
どうにか自分に自信を持ちたい。
ソニアは俺を癒しだと言う。その感覚は我事ながら全く理解できないものの、せっかくの美点なので磨きたいところだ。ソニアに愛される度、何も返せず申し訳ない気持ちになるのは嫌だからな。
漠然とだが、俺は目標を決めてみた。
まずはソニアが安心して感情を曝け出せる唯一の相手になる。
ソニアの母アロニアはヒステリックで見苦しい女だったらしい。それを反面教師にしているせいか、ソニアは感情を露わにすることを嫌っているようだった。
今回の会談で改めて思い知った。普通ならエメルダに対してもっと憤るだろう。
いや、ソニアが本気で怒ったら応接間ごと吹き飛んでいた可能性があるので、理性的な行動を取ってくれたのはありがたい。だがあれだけ罵詈雑言を並べられながら、冷笑で流すのはどうなんだ。その上、二人きりになったときソニアに愚痴らせるのではなく、なんやかんやで俺がカウンセリングをしてもらう始末。
……すまないソニア。猛省する。余計なストレスをため込んでいないか?
もちろんソニアに心を乱してほしいわけではない。常に冷静で感情を表に出さないことが悪いとは全く思わない。ただ、悲しい時には泣いて腹が立ったときには怒ってもいいんだと知ってほしい。感情のままに生きられなかった彼女に、人並みの安息を感じてほしい。
そして、誰も知らないソニアの一面を俺だけに見せてほしい。恋人になったのにさらに特別な存在になろうとする。俺も強欲になったものだ。
俺がソニアの信頼を勝ち取れば、きっといつか……。
とにかく頑張ろう、と心新たに誓いつつ、俺とソニアは一旦ククルージュに戻った。王都に向かう準備と報告のためだ。
「ファントム、コーラル、ばば様。里のことをよろしくね。見習いたちにユニカのお世話を頼んでくれる?」
ソニアの言葉に女性二人は頷いたが、ファントムは食い下がった。
「ソニア様っ! 戦いに行くならオレも連れて行って下さいぃ……!」
「ダメよ。ククルージュのこと任せられる人は少ないの。ファントムが残ってくれないと、安心できない」
「でもぉ……」
ソニアはファントムの肩を叩いた。
「すぐに帰ってくるわ。みんなのこと守ってね」
「そうよー。ファントムちゃんが行っちゃうと、フレーナちゃんも寂しがるわよー?」
愛娘の名前を出され、ファントムは渋々引き下がった。代わりに狂気を孕んだ瞳を俺に向ける。
「ヴィルぅ……ソニア様を絶対に守るんだぞぉ……! もしも何かあったら……何かあったら……」
「分かった、分かったから、鎖を手に近づいてくるな」
地獄の底に引きずり込まれそうな迫力に、俺は何度も頷いた。
王城は今、大変な状態になっているらしい。
呪いのことを知らぬ末端の者は締め出され、術士と医者と官僚の一部が奮闘している。外部に王家の醜聞を漏らさぬよう必死に情報規制をしているようだが、国王が倒れてからもう一か月近い。必要な決裁が下りず、自国の領主や隣国とのやり取りが滞り、綻びが生じる時期だ。
サニーグ殿の密偵はその綻びから上手く情報を仕入れ、連絡してきた。
国王や重臣を呪ったレイン王子を王妃様が庇い続け、状況は悪化の一途を辿っているらしい。しかしまだ死者は出ていない。急いで涙銀雫を届ければ、最悪の事態を避けられる可能性がある。
霊山攻略チームが帰還した日のうちに、俺たちはアズライト領を出発した。
ユニカだと五日の道のりだが、飛竜だと大体三日ほどで到着する。休憩時間も必要最低限にするため、かなりの強行軍になりそうだ。
飛竜に乗るのは久しぶりだ。空に吸い込まれそうなこの感覚は城で王子の近衛騎士をしていた頃以来だ。
空気が肌を切り裂くような速度で飛ぶので、ゴーグルなどで顔をガードしなければならない。
俺が手綱を握り、ソニアを後ろに乗せる。後ろの方が呼吸がしやすく、体への負担が少ないからな。
サニーグ殿は自分の護衛の飛竜に乗ったし、チャロットはエアーム商会の竜を一人で操っている。そしてエメルダは薬で眠った状態のまま、大きな竜に乗せられて術士たちに運ばれている。
彼女をアズローに置いていくことはできなかった。目を離した隙に何が起こるのか分からないからだ。
「…………」
エメルダは予知能力に加え、全知の力を持つ厭い子。しかも人工的に作られた人間で、彼女の脳はテロ組織のボスに掌握されているという。
ソニアの語った推論は到底信じられないものだった。
というか、ソニアから聞いたエメルダの能力について、俺はいまいち理解できていない。そもそも予知と全知は何が違うのか。
出発前に聞いた追加説明を思い出す。
「まず、普通の予知能力者について説明するわね。この世のすべての物質には大なり小なり魔力が宿っていて、魔力の川で繋がっている。予知能力者は川の流れを辿り、一つの物事について膨大な情報を収集し、何通りもの予測をする。そして最も可能性の高い答えを導き出すの。自動的にね」
例えば、予知能力者が明日のファントムファミリーの夕食のメニューついて知ろうとする。
すると創脳が魔力の川を辿って、該当者の好み、最近の献立、氷室の中身、気温、体調、精神状態などの情報を集め、複雑な演算を行ってもっとも実現しそうな未来を見つけ出す。
しかし能力者自身は情報収集の過程や計算式について意識できない。出てきた答えのみが頭に降ってくる感じらしい。ファントムファミリーの明日の献立を予測できても、昨日の食卓を知ることはできない。
「予知に利用しているのに、収集した情報の内容を認知することができないなんておかしな話だな」
「脳の防衛本能かしらね。情報を全て刻んでいたら、とても容量が足りないわ。答え以外は消去しないと」
分かるような、分からないような。
そもそもソニアにも予知の詳しい原理は説明できないらしい。ただ実際に予知能力者がいて、こういう原理で行っているのではないかという説を教えてくれただけだ。
「一般的な予知能力者はともかく、エメルダ嬢の場合は予知能力を使いこなせていなかったから、知りたい物事に対する答えが降ってくるとは限らなかった。だからレイン王子は苦労していたでしょう?」
確かに。怪事件を追う旅の中、エメルダの予知には何度も助けられたが、もう少し詳細な情報がほしいと思うことも多々あった。誰が被害に遭うのか、ではなく、誰が犯人なのかを予知できれば事件の解決は早かっただろうに。
「でも実は全て黒幕さんに操られていたとしたら、求める答えなんて出てくるはずもないわよね」
旅の間のエメルダの様子を思い出す。今思えば、いつも抜群のタイミングで降ってくる予知により、窮地を脱していた気がする。あれは全て敵の思惑通りのシナリオだったとは信じたくないが……ソニアの推論が現実味を帯びてくる。
「……それで、全知というのは?」
「魔力の川を通じて、全ての情報を把握する能力。予知と同じく脳死のリスクが非常に高くて、実現すれば世に混乱をもたらすから七大禁考になったの。過去の情報ほど辿るのが難しいと言われているわ。基本的に最近起こった出来事を知る能力だと思って」
距離を隔てていても関係ないが、時間の経過は影響するらしい。誰だって過去に遡るほど記憶を掘り起こすのは大変だから、その点は分からなくはない。
「過去視は自分の記憶を辿るだけだから、まだ負担は少ないの。映像と音声だけだし。でも全知は本当に全部の情報が凝縮されて脳に押し寄せてくる。五感も感情も知識も、何もかも。それを何とかしないと実現は不可能ね。まぁ、全知に関しては歴史上例がないから、本当に机上の空論しか教えてあげられないわ」
とりあえず予知と全知は似て非なるもの、ということだけ理解した。
予知は演算能力、全知は記憶容量が脳に負担をかける。両方の能力を持っているなら、エメルダはとんでもない頭脳の持ち主ということだ。
ただ、エメルダが本当に全知の能力を持っているとしても、予知と同じく自分の意志では使えないだろうとのことだ。使えていたら廃人になっている。
「じゃあ、黒幕が遠隔で使うことは可能か?」
俺の問いにソニアは薄く笑うだけだった。分かるわけないでしょ、と言いたげだ。
もしできるのなら今の俺たちの行動も筒抜けということになり、非常にまずい。しかし分からないことに気を揉んでも仕方がないというのも確かだ。
俺の懸念は別のところにある。
もしも遠隔でエメルダの能力を使えないなら、敵は今まで常にエメルダのすぐ近くにいたということになる。旅の間はまだ隙があった。だが、城で軟禁中のエメルダに接触できる人間は限られる。
誰だろう。
飛竜を操りながらも頭の隅でとめどなく考えてしまい、落ち着かなかった。
王都までの道のりの半ばを過ぎた夜、とある町で宿を取った。さすがに疲労が蓄積しており、夜間の飛行は危険という判断だ。
今回の旅は領主殿にとってお忍び扱い。行く先々で貴族のもてなしを受けている時間はない。安宿で休めるか心配する周囲をよそに、サニーグ殿はけろりとしている。
男は大部屋でまとめて休むことになった。ちなみにソニアは一人部屋で、眠ったままのエメルダは女性術士と同じ部屋らしい。
「あ、あのさ、ヴィルっち……調子はどう?」
サニーグ殿が部下と打ち合わせをしている間、俺が隅のベッドで荷物の確認をしていると、チャロットが小声で話しかけてきた。
出立の準備に忙しく、再会してから喋る機会がなかった。気まずかったというのもある。チャロットはその空気を払拭しようとしているようだ。声に俺を責める強さはない。
「俺は平気だ。その、いろいろと……チャロットにばかり負担をかけてしまったな。すまない」
チャロットが王子やエメルダのために奔走している間、俺はソニアの元で穏やかな生活をしていた。心の葛藤はあったし、何度か死にかけたものの、結果的には恋人と人生最良の時間を過ごしていたのだ。なんだか非常に申し訳ない。
チャロットは俺の隣のベッドに腰掛け、なはは、と笑った。
「いいって。ヴィルっちが謝ることなんてない。オレの方こそいつも頼ってばっかでごめんな。オレも結構強くなったし、霊山くらい余裕だと思ったんだけどさ、全然歯が立たなくてすげー情けなかった。末代まで語り継がれそうなほどダメダメだったな。ヴィルっちに見られなくてマジで良かった!」
空元気だと丸わかりの調子で笑うチャロットは、しばらくして深いため息を吐いた。
「大丈夫。オレは一人じゃなかったから。モカとシトリンと一緒だった」
だからこそ余計に辛かったんじゃないか、と俺は思いつつも口を噤んだ。女子どもが頑張っているからこそ弱音を吐けず使命を投げ出せず、全て自分の責任のように感じているのではないだろうか。
モカとシトリンは霊山攻略中にケガをしたため、アズライト領には同行せずに先に王都に帰ったらしい。そのこともチャロットは気にしていそうだ。
とりあえず動けないほどのケガではないようで俺は胸を撫で下ろした。
「エメルダは、二人のことを何も言っていなかったな」
「仕方ないって。大好きなレイン王子のことしか頭になかったんだろ。あれくらい必死に誰かを愛せるのって、ある意味すげーよ」
重苦しい空気を無視するかのように、チャロットが生温かい視線を向けてきた。
「愛と言えば……びっくりしたぜ。まさかあのヴィルっちが魔女様とデキてるなんて」
「なっ!?」
「いやー、あんな美人にちやほやされちゃ、さすがのヴィルっちも陥落するよな。無理もねぇ。なぁなぁ、どういう経緯で付き合い始めたんだ? ん?」
馴れ馴れしく肩を叩くチャロットに、俺は小さく舌打ちした。
そうだった。こういう奴だった。鬱陶しい。
「……話したくない」
「勿体ぶるなよ。普段はどんな感じ? 幸せいっぱいで四六時中一緒なんだろ? 恋人の前でヴィルっちがどうなんのかすげー興味ある」
「それは私もぜひ聞きたいところだ」
ぬ、とサニーグ殿が目の前に立ち塞がった。いつから話を聞いていたんだろう、この人は。
予期せぬ大物の登場に俺は面食らい、チャロットは一応悪ノリを詫びる顔をした。
「結局慌ただしくて、交際の報告を受けていないのだが?」
「それは、その……状況が状況だから仕方ないのでは」
「それもそうだ。だが、こういう非常時だからこそ確認しておきたいこともある。ヴィルくん、ソニアのことは本気か?」
太陽を思わせるオレンジ色の瞳から冷気を感じた。つまらない回答をしたら即座に「不要物」と識別されそうだ。
「……本気です。俺は何があっても絶対にソニアの味方としてそばに居続けます」
目を逸らさず、まっすぐ答える。例えあなたがソニアを見捨てるような状況になっても、俺だけは変わらず彼女とともにある。だから安心してほしい。そんな意思を込めて。
しばらくの間、サニーグ殿は俺を値踏みするように見下ろした。
「……よろしい。ソニアに連れられ初めて我が屋敷にやってきた時とは見違えるようだ」
どうにか及第点をもらえたらしい。肩から力が抜けた。
サニーグ殿は理解を示すように頷いた。
「婚前のあれこれについても見逃してやろう。ソニアは貴族の令嬢ではないし、双方同意の上ならば固いことは言わん。あの子と二人きりで暮していれば仕方がない。むしろよく今まで耐えていたものだ」
「ぐ……」
その辺りのことはできればそっとしておいてほしい。
俺だってもっと大切にするつもりだった。忍耐力に定評のある俺、どこに行った。いや、それだけソニアが魅力的だったということだが。
恥ずかしすぎて、顔が燃えそうなほど熱くなる。視界の端でチャロットがにやにやしているのがむかつく。
「これからもソニアには振り回されるだろうが、どうかよろしく頼む。付き合えるのはヴィルくんくらいだろう。泣かされるなよ」
サニーグ殿は言いたいことを言ってすっきりしたらしく、颯爽と部下の元に戻っていった。なんだか釈然としない気分だ。
片想いでも両想いでも苦労するんだなぁ、とチャロットが他人事のように笑った。こいつも俺がエメルダに想いを寄せていたことに感づいていたらしい。もう忘れてくれ。
「でもヴィルっちとソニアちゃんはお似合いだと思うぜ」
「……世辞ならいい」
「マジだって。だって久しぶりに会ったけど、前よりずっと顔色いいし、表情も柔らかい気がする。切羽詰まった鋭い感じがなくなって、なんか余裕みたいなモノを感じる」
自分では変化はよく分からない。食生活が豊かなので肌艶は良くなった気がするが。
「多分ソニアちゃんと相性良いんじゃね?」
相性……それは気にしたことがなかった。
確かに、この世には俺よりずっとレベルの高い男がいるが、ソニアにとって最も相性の良い男は俺かもしれない。いろんな秘密を共有しているし、戦力的には足手まといにならないはずだし、味付けの好みは似ている。
そう考えるとぱぁっと目の前が明るくなった。
「いやー、ヴィルっちは純粋だなー。相性って夜のこと言ったつもりなんだけど」
「……………………は!?」
チャロットは「それでこそヴィルっちだぜ」と笑いを堪えながら頷いた。顔の熱がぶり返してきた。
「……お前こそどうなんだ。モカのこと。進展したのか」
仕返しとばかりに低い声で問う。俺だって何も知らないわけではない。
長年モカはレイン王子に淡い恋をしていたが、エメルダが現れたことで旅の間に想いを断ち切った。彼女が思いのほか落ちこまずに済んだのは、チャロットが慰めていたからだ。モカに気があるに違いない。
「うわ、痛いところ突くなぁ……」
どうやら何かあったな。チャロットは苦笑いして、ごめんごめんと話題を強引に打ち切った。思いのほか痛烈な一撃になってしまったらしい。すまない。
オレは、モカにはふさわしくない。
そんなか細い声が聞こえた気がした。
思わずチャロットが心配になったが、かける言葉はなかった。
俺はソニアに厳命されている。
決してチャロットを信用するな、確実に何かを隠している、と。
その言葉は的中した。
王都まであと数刻というタイミングで、チャロットは姿を消した。煙幕や薬を使って見張りを惑わし、眠ったままのエメルダを攫って。