39 幸福の日々、予期せぬ来襲
人肌の温かさを知ってしまったら、もう一人で眠ることはできなかった。
片時も離れたくない。朝が来ても起き上がりたくない。こうして人間は強欲になり堕落していくのね。
まぁ、眠たいのは単純に睡眠が足りないからでしょうけど。今日もお昼寝が必要かしら。
ヴィルはどれだけ疲れていても決まった時間に目が覚める体質みたい。私が甘えれば一緒に二度寝してくれるけど、大抵はベッドを抜け出して早朝の鍛錬に行く。朝食の準備や里の当番もしてもらわないといけないから文句はないわ。
「ソニア、何が食べたい?」
「今日はスクランブルエッグがいいわ。プラチナバジルの粉を振ってね」
「分かった。俺もそうする」
頃合いを見計らって、香りの良い紅茶を淹れて起こしに来てくれる。最近は従者としての仕事もそつなくこなすようになったわね。紅茶の味も申し分ない。
最初は私の部屋に入るのに躊躇していたくせに、今は当たり前のように出入りしている。何だか変な感じ。
紅茶を味わってから、ゆっくり身だしなみを整え、ダイニングへ向かう。リクエスト通りの朝食が並んでいる。ヴィルは腹ペコのはずだけど手を付けずに待っていた。
「美味しいわ」
目が合うとヴィルが照れて先に目を逸らす。
そのままほとんど会話もなく食事が進む。沈黙は苦痛じゃない。和やかに時間が流れていて、たまにまだ夢の中にいるのではないかと思うほどだった。
一日の内、午前はヴィルが忙しい。洗濯や掃除なんかを一手に任せているからね。私はその間、気ままに過ごしている。新薬や術式を考えてみたり、見習いたちに魔術を教えたり、コーラルの家に遊びに行ったり、ユニカと散歩に出かけたり、お昼寝してみたり。
午後はヴィルと一緒に過ごす。午前中に従者として頑張ってもらった分、午後は目いっぱい恋人を労うことにしている。
今日は近場の沢に釣りに出かけた。結果は芳しくなかったけど、釣り糸を垂らして魚に文句を言うだけで楽しかったわ。多分今は何をしても面白いんでしょう。恋人にはそういう時期があるらしいから。
「はぁ……幸せすぎて怖いんだが」
「奇遇ね。私も同じこと考えていたわ」
自分の人生に安息の日々が訪れるとは思わなかった、今の幸せが身の丈に合っていないような気がする、とヴィルは不安げにため息を吐いた。
「気持ちは分かるけど、楽しまなきゃ損よ。いつ厄介ごとに巻き込まれるか分からないんだから。ミストリアはこれからどうなるのかしらね」
悪しき魔女のテロ組織は、ミストリア王国を乗っ取り、魔女の王国を造ろうとしているらしい。私はしばらく静観することにした。犯罪者に手を貸すつもりはないけれど、頼まれてもいないのにミストリア王家を助けようとも思わない。
自分とヴィル、里のみんな、あと兄様やユーディア、ラズとチルルを含むアスピネル家の人々が無事ならいいの。アズライト領に危機が迫ったときに対処できるよう、準備だけは怠らないけれど。
「ネフラからの返事、まだ届かないのか?」
「王都までは距離があるからすぐには無理でしょうね。大体、情報を流してくれるか分からないし」
論文を絶賛しておいたから、のぼせあがって口を滑らせてほしいものね。思惑抜きで素晴らしい出来だったけど。
不意にヴィルが呟いた。
「……もしも悪しき魔女に国王が殺されれば、ソニアは自由になれるだろうか」
いつになく過激な発想で驚いた。ヴィルは以前、国を混乱させないために復讐を諦めたと言っていたのに。
でもまぁ、前と今では状況が違うわよね。テロが頻発すればどうしたって国は乱れる。どうせ乱れるのなら国王が排除された方が都合が良いのは確かね。
私はミストリア王とアズライト領を出ないことを約束している。国王が存命の内はクーデターの真実を知る者として見張られることになるでしょう。魔女狩りが行われないだけマシだけど、窮屈ではある。
「レイン王子には悪いが、王と魔女組織が共倒れになってくれたら一番いい」
「そう上手くはいかないでしょ。でもそうね……国王が死んで契約がなくなれば、心おきなく旅行できる。私、海に行ってみたいわ」
国王が崩御したら旅行どころではなさそうだけど、想像するだけならいいわよね。
アズライトには海がないから少し興味がある。前世女の海水浴の記憶はあるけれど、所詮“非りあじゅう”。ろくな思い出がない。
ヴィルは海辺の町に行ったことがあるらしく、ここぞとばかりに話してくれた。海の幸が美味しかったこと、潮風が傷口にしみたこと、海に沈む夕陽がとても美しかったこと。
「世界がオレンジ色に染まって燃えているみたいだった。今度は……ソニアと一緒に見たい」
前は旅の仲間と見たのでしょうけど、触れないでおきましょう。もう関係のないことだもの。
「ヴィルが連れて行ってくれるのを楽しみにしているわ」
その日までに日焼け対策を考えておかなくちゃ。
手を繋いで家に戻る途中、ばったりファントムファミリーに出会った。コーラルはからかうように「あらあらー」と笑ったが、ファントムは絶句して固まった。
そう言えばこういう関係になったこと、まだ話してなかったわ。今にもヴィルに殴りかかりそうなファントムに向かって、私は明朗に告げた。
「ファントム、私は今とても幸せよ。もう心配してくれなくていい。ヴィルがずっとそばにいてくれるから」
「……っ! ソニア様!」
耐えられなくなったのか、ファントムは背を向けて駆けだしていった。目の端に涙が浮かんでいたのは気のせいかしら?
「ソニア様を泣かせたらぶっ殺すからなぁ……!」
森の奥から響いてきた声にヴィルはげんなりしていた。
困った子ねー、とコーラルが赤ん坊を抱きながら笑う。
「別に怒ってないのよ-? 絶対にこうなるって分かってたもん。でもファントムちゃん、ヴィルちゃんから何も報告がなくて寂しかったのよ。ヴィルちゃんのこと、親友だと思ってるからー」
ますます困惑するヴィルと生温かい微笑を浮かべる私を見て、コーラルは頷いた。
「フォロー入れておくから大丈夫よー。お二人ともお似合ーい。末永くお幸せにね」
ヴィルは後日ファントムと飲みに行き、和解してきたらしい。妻子持ちになぜ泣くほど妬まれなきゃいけないんだ、と憤慨していたわ。
「そう言えば……サニーグ殿には報告したのか?」
「まだよ。わざわざ手紙に書くのは恥ずかしいから、今度お呼ばれしたときに言おうと思っていたの」
ヴィルは難しい顔をして黙り込んだけど、「言うなら早い方がいい」と面会の申し込みの手紙をしたためた。
「いいの? もしかしたら国王経由でレイン様の耳にも入るかもしれないわよ」
「それならそれで構わない。籠絡されたと誤解されても、ずっと助けを期待されるよりいいだろう。これで後腐れがなくなる」
実際籠絡されているしな、と顔を赤くするヴィル。
……どちらかというと、私の方が想定外に絆されているのだけどね。
普段はそっけなくて奥手なくせに、甘い雰囲気になると途端に優しく情熱的になるんだもの。あんな風に求められたら、大抵の女は参ってしまう。それを誰に教わったわけでもなく、天然でやっているのが恐ろしいわ。
数日後、私とヴィルはアスピネル家に招かれた。兄様が冷笑を浮かべて出迎えてくれた。
「幸か不幸か、ちょうど今さっきお前たちに面会の申し込みがあったところだ」
太陽の化身のような兄様がこんなに冷たい笑みを浮かべるなんて……嫌な予感しかしない。
「エメルダ・ポプラとチャロット・エアームと名乗る男女だ。どうする? 会うならばすぐに場を整えるし、追い返すことも容易いが」
ヴィルは目を見開き、私は兄様と同じ温度の笑みを作った。
どうなっているの?
チャロットはともかく、エメルダ嬢は軟禁されているはずなのに、どうしてアズライトに来ているの?
あの婚礼の日から三か月と少し。
王都では予想よりもずっと厄介なことが起こっているみたい。
「用件は何?」
「直接話すの一点張りで答えんらしい。突然やってきて、王太子の名前を出して強引に取り次ぎを求めてきた。私は兵団の視察を急遽切り上げて戻ってきたところだ。迷惑にもほどがある、とユーディアが怒っているので屋敷には入れず、近くの宿屋に待機させている」
ただの田舎娘が領主に対して何かを命じるなんて、あってはならないことね。あの娘なら悪意なくやりかねない。
私はさりげなく周囲を見渡してから、兄様にだけ聞こえる小声で囁く。
「この事態、陛下から真意を伺っていないのですか?」
「聞いていないから戸惑っている。この一か月、王城からの連絡が激減している。何か重大事を隠されている気配があるな。密偵に探らせているところだ」
兄様も現状を把握できていないのね。
本当なら、ヴィルは旅の仲間との接触を禁止されている。でも向こうから会いに来た場合の対処は決めていない。後で国王側から責められはしないでしょう。兄様が許可を出しているしね。
仕方ない。面倒だけど避けて通れないわ。
「お会いいたしましょう。ヴィルもいいわね?」
「あ、ああ……」
ヴィルは心なしか青ざめている。いきなりのことに思考が追いついてなさそう。可哀想に。
でも私は闘志が湧いてきたわ。今更再会してももう遅い。何をしに来たのか知らないけど、用件次第ではヴィルと絶縁させる。
応接間に移動し、奥のソファーに私と兄様、ユーディアが腰かける。王子側の人間との密談は国王の疑念を煽るので、どうしても見張り役は必要だった。領主に取り次ぎを頼んだ以上、向こうも了承済みでしょう。
ヴィルには従者らしく私の後ろに立ってもらった。覚悟が決まってきたのか、私を見つめて「大丈夫だ」と頷いて見せた。絶対に揺らがないという宣誓を受けた気分になり、自然と頬が緩んだ。
使用人が客人を案内してきた。扉が開け放たれた瞬間、ミントグリーンの髪がふわりと揺れる。
「ヴィルくん!」
私どころか兄様とユーディアを無視して、エメルダ嬢は目を輝かせてヴィルに駆け寄った。
「久しぶり! 良かった……元気そうで。すっごくすっごく会いたかったよ!」
「エメルダ……落ち着け」
ヴィルは手をかざしてエメルダ嬢を止めた。抱きついてきそうな勢いだったわね。
兄様は失笑し、ユーディアは眉間にしわを寄せた。私はと言えば、拳を握りしめないように、魔力を暴走させないように、殺気を漏らさないように必死にこらえ、涼しげな表情を保っていたわ。少し前なら難なく我慢できた怒りでも、今は難しいみたい。
視界にチャロットが入ってきた。大商会の跡取りというだけあって、エメルダ嬢の言動のまずさは痛いくらい分かっているみたい。顔面が蒼白になっている。
でも、十分に予想できたことでしょう?
ちゃんと事前に教育しておいて。
私の心の中で無能の烙印を押されたチャロットは、我に返ってエメルダを扉の前まで連れ戻した。
「エメルダ、領主様の前で失礼すぎるから……っ。まずちゃんと挨拶してこの場を設けてくれたお礼をしないとダメだって!」
「そ、そっか。ごめんなさい……久しぶりにヴィルくんに会えたのが嬉しくて、周りが見えなくなっちゃった……」
二人の焦った小声は筒抜けだった。瞳を潤ませるエメルダ嬢はパッと見は可愛いわ。男の庇護欲を見事にくすぐっている。
レースの白いワンピースはエメルダ嬢の柔らかい雰囲気によく合っていた。既製品ではなさそう。王子が仕立ててあげたのかしら。
チャロットが見本を見せるかのように片膝を付き、最大級の謝罪と礼を示しながら挨拶をした。エメルダは裾を汚さないように注意しつつ、たどたどしくそれを真似る。
兄様は非礼を許し、二人に対面のソファーへの着席を勧めた。基本的に寛大だし、平民とも気さくに交友する方だから、見逃してあげられるのでしょう。
一方ユーディアはこの時点でエメルダ嬢のことを見限ったと思う。今後何を頼まれてもお断り、と冷ややかな瞳に書いてある。
私も気持ちは同じだ。顔はにこやかなままだけど、心はだいぶ荒んでいる。同じ空間にいるだけで苦痛。
でも今は二人の話を聞いて情報を得るべき。不愉快な想いをするだけなんて大損だもの。
使用人たちの手によって紅茶とお菓子が並べられた後、改めて自己紹介をした。そして兄様がチャロットに視線を向ける。そうね。少しでも話が通じそうな方に聞かないとね。
「それで……王都からわざわざソニアとヴィルくんを訪ねてきた理由は何かな?」
チャロットが口を開く前に、エメルダ嬢が立ち上がった。
「ヴィルくんにレイン様を助けてほしいんです! お願い! 私たちと一緒にカテドラル霊山に登って!」
エメルダ嬢はまたも兄様を通り越してヴィルに視線を移し、涙声で懇願した。さすがの兄様も処置なしといったように肩をすくめている。
「…………」
決めた。
今この場でエメルダ嬢を社会的に殺す。ヴィルの初恋の思い出とともに、徹底的に。
私は獲物を見据え、笑みを深めた。