34 血濡れの過去 後篇
最初は信じられなかった。
だって、どう考えてもおかしい。辻褄が合わない。
私の世界でこれから起こる出来事が、異世界で既に“あにめ”になっているなんて。
でも“あにめ”を視れば視るほど、物語との符合は無視できなくなっていった。
ミストリア王国、救国の魔女アロニア、レイン王子……そして“らすぼす”となるソニア・カーネリアン。
私の頭が作り出した痛い妄想だと断言できれば良かったのだけど……物語の終盤で薔薇の宝珠という単語が出てきた。
“あにめ”におけるソニアの目的は不老の実現――薔薇の宝珠を作り出すこと。そのために怪事件を起こして材料を集めていたらしい。そして美しいレイン王子と結婚し、ミストリア王国を影から支配してやがて魔女の王国にする。そんな幼稚な野望を胸に悪行三昧をし、最後にはヒロインのエメルダに倒される……。
「最悪!」
最終回を観終わったとき、私と前世女の感想はシンクロした。
前世女は最萌のヴィル・オブシディアが死んだショックで一か月ほど狂っていた。雨の河川敷で“えんばんフリスビー”をしていたくらいよ。イベント抽選券と店舗限定の“どらましーでぃー”のために“まらそん”していたものね。通報されて、両親に泣かれた。
私も自らの醜い所業の数々を目の当たりにし、しばらくは何も手に付かなかった。特に婚礼の儀で怒り狂って王子を呪うところなんて、見苦しいことこの上なかった。
これが未来の私? がっかりだわ。何があったらこんなことになるの?
どうしよう。これが本当に未来で起こってしまったら――。
「だ、大丈夫。こうならないように気をつければいいのよ」
“あにめ”によれば、私が表舞台に登場するまでまだ四年ある。まっとうに生きれば回避できるはず。
そしてどうやらあと二年でお母様が死ぬ。
そのとき初めて気づいた。
私、お母様のことが大嫌い。死ぬと聞いて心の底から喜びを覚えた。やっぱり私は悪い子なのね。母親の死を待ち望むなんて。
うん。絶対に大丈夫よ。私は薔薇の宝珠なんて求めない。お母様の遺志を継ぐなんてあり得ない……。
それでも不安でいっぱいだった私の前に、ある日一人の魔女が現れた。
コーラルだ。薔薇の宝珠を手に入れるべく屋敷に忍び込んできた。
彼女は“あにめ”に登場する悪い魔女の一人だ。彼女が目の前に現れたことで、私は“あにめ”の内容が十分に起こりうる未来であると知った。
正直、コーラルのことは殺すべきかどうか悩んだ。殺してしまえば“あにめ”の流れを一部変えることになる。生かせば“あにめ”通りの流れを辿ることになる。
私は慎重に動くことにした。お母様が死んだ後、里は混乱するでしょう。そのときに戦力となる味方が欲しかった。殺すのは……いつでもできる。
こてんぱんに魔術でやり込めた後、私はコーラルに問いかけた。
「あなたはどうして薔薇の宝珠を求めるの?」
「見れば分かるでしょー? この醜い火傷の痕を消すため。この痕のせいで、あたし、恋人にフラれちゃった……」
抱けない、とはっきり言われたらしい。彼と結婚して子どもを宿すのが夢だった、もう多くは望まない。火傷を綺麗に消し、たった一晩だけでも彼の腕の中で眠りたい。そのまま死んでも構わない。そう言ってコーラルは泣き始めた。
十二歳の子どもになんてこと話すのよ、と呆れつつも、前世の影響で悟っていた私ははっきりと告げた。
「そんなヘタレ男のためにここで命を落とすことないわ。それに……薔薇の宝珠の材料を知っているの?」
人間の体が材料だということを教えると、コーラルは顔をしかめた。特に子どもの目玉は衝撃が大きかったみたい。
「それでもなお薔薇の宝珠を求めるなら、あなたの心は火傷の痕なんかよりよっぽど醜いわ」
私は何を言っているのかしらね。お母様の言いなりになって、研究に荷担しているくせに。
でもその言葉が決め手となって、コーラルは宝珠を諦めた。
別の方法で火傷の痕を消せないか試してみましょう、と私は提案した。誰もがすがりつきたくなる自信に満ちた微笑みで。兄様のカリスマオーラを再現するのは難しかったけど、効果はあったわ。コーラルはすがるように私の手を取った。
それから未来や前世について考えると躁鬱状態……少し精神が不安定になった。私室のベッドに倒れ込み、クッションを抱きしめて過ごすのが日課になっていた。
「グッズはない、“きゃらそん”もない、イベントにも呼ばれない……」
原作ソニアの人気のなさと言ったら、ね。ただでさえ悪役なのに、作中の人気ナンバーワンキャラであるヴィルを殺すのだから当然だけど。
でもひどいわ。“あにめ”ではソニアの生い立ちについては何一つ触れられていなかった。王都襲撃の真実も、お母様とミストリア王との密約も、ククルージュで行われている宝珠の実験も明らかにされない。
悪役のバックボーンなんて知ったことか、と言わんばかりで私は不服だった。ちょっとは同情してくれてもいいじゃない?
「ヴィルはいいなぁ。たくさんの人に愛されて……」
最終回、一応エメルダと王子が結ばれてハッピーエンドなのに、ヴィルの死の影響が大きすぎて“ねっと”上はお葬式状態になっていた。前世女はもちろん、たくさんの乙女たちが涙を流し、ソニアに呪詛をかけた模様。
「こちらのヴィルは、今頃王子様の騎士になっている頃?」
ヴィルは十六歳でレイン王子付きの騎士になっているはずだ。
手紙で王子に聞いてみようかしら。ううん、ダメね。怪しすぎる。余計なことをしたらとんでもない方向に運命が転がるかもしれない。
「でも、大人しくしていたら、普通に王子と結婚することになるのかしら。はぁ……」
私はすっかりレイン王子に幻滅していた。だって、婚約者がいる身でありながらエメルダに夢中になって、私を公の場で遠慮なく糾弾する。
同じくエメルダに心を奪われているヴィルの目の前でいちゃいちゃするし、ヴィルが死んだ後エメルダと幸せそうに結婚式を挙げちゃうし。
婚約者への配慮はないの?
親友をもっと大切にして。
現実のレイン王子はまだ無罪だけど、このわだかまりは消えそうにない。
改めて手紙を読み返してみれば、私への興味のなさがありありと伝わってくる。こんなものを今まで楽しみにしていた自分が情けなく思えた。
確かに美形で聡明みたいだけど、正直好みじゃない。
私も、どちらかといえばヴィルの方が好き。
ヴィルには親近感がある。幼い頃からずっと我慢を強いられてきて、何一つ報われないまま死んでしまうところなんて、私とそっくりじゃない?
ううん、でも、“あにめ”のヴィルの最期は安らかなものだった。愛するエメルダを守って死ねたからか、とても優しい笑顔で逝った。
そこが私との決定的な差ね。ヴィルは誰かを愛せる人だから、私とは違う。
「私が死ぬきっかけになるヒト……ある意味運命共同体よね」
もしも“あにめ”と同じ結末を辿るなら、私とヴィルは同じ日、同じ場所で死ぬ。私以外にヴィルを殺せる者はいないでしょう。そしてヴィル以外に私を傷つけられる剣士はいない。ようするに、私たちが敵対しなければいいのよね?
「いいわ。私がヴィルを助けてあげる」
私、前世女に少しだけ嫉妬していたの。
だって毎日楽しそうだったから。
趣味に寛大な両親がいて、同じ萌えを分かち合える友達がいて、グッズを買い漁るためにお仕事を頑張って、別ジャンルの“おたく”男と結婚して可愛い子どもを産んで……。
真似したいとは思わないけど、羨ましかった。ズルいとすら思ったわ。
前世女は言っていた。「あー、誰でもいいからヴィルを幸せにしてくれー」って。
私なら、少なくとも原作“あにめ”よりずっとマシな結末に変えることはできるはず。
「私の幸せが最優先だけど、二番目くらいにヴィルの幸せを考えてあげてもいいわ」
前世女にできないことができる。良い気分だわ。
ヴィルのことだけじゃない。お母様が死んだ後、うまく立ち回れば私は幸せになれる。“らすぼす”になれるくらいの力があるんだもの。その力を人の迷惑にならないように、自分のために使えれば無敵だ。
起こりうる未来を知り、目標を得たことで私は変わった。万能感に支配されたと言ってもいい。生まれて初めて自分に自信を持てた。何もかもうまくいくような気がしたわ。
「最近明るくなったな、ソニア。何かいいことがあったのかい?」
「ええ、兄様。最近楽しい夢を見るの」
「そうか。ますます美しくなって、王太子殿下に嫁に出すのが惜しいくらいだよ」
いつか兄様とも、全てを曝け出して語り合える日が来るかしら。その日が待ち遠しいわ。
全てはお母様が死んでからが勝負よ。
まずは里を掌握する。薔薇の宝珠を望む者は徹底的に排除しなきゃ。それから婚礼までの間は大人しく過ごしましょう。レイン王子と本当に結婚するかどうかは分からないけれど、いずれ国王と交渉をする機会が必ず来る。そのときまでに強さに磨きをかけ、あらゆるパターンを想定して備えておきましょう。
お母様から解放されたら、私は生まれ変わるの。
十三歳のとき、王国から実験体としてファントムが送られてきた。
すぐに“中ぼす”さんだって分かったわ。檻の中で虐待される少年を励まし、狂わないように気を配った。彼の戦力は殺すには惜しかった。
その頃から私にはある懸念があった。
お母様の死因は何?
“あにめ”では病死となっているけど、もしかしたら、私が殺すのかしら?
今の私なら決して不可能ではない。魔術の腕に関しては五分か、まだ少し分が悪いくらいだけど、お母様の前では未だに従順な人形のふりをしている。隙を突けば殺せるかもしれない。
……でも、腐っていても実の母親だ。この手で殺したくない。
薔薇の宝珠さえなければ、普通の母子でいられたかもしれないもの。私を操るための優しさだとしても、可愛がってくれた記憶が殺意を封じ込めている。
甘いと思うけれど、やっぱり母親の存在は大きい。
助けようとは全然思わないけどね?
できれば、そう、お母様には薔薇の宝珠の失敗作で死んでほしい。
それが私を含め、今まで苦しめてきた者たちへの報いだと思う。
十四歳になりしばらく経った。最近お母様の様子がおかしい。
毒の抗体はだいぶ仕上がってきて、この前私の体から最新のものを提供した。宝珠の完成が近いのかもしれない。近頃は実験体への虐待も減り、研究室に閉じこもり気味になっていった。追い込みをかけているみたい。
気になるのは、書庫から異国の魔術書が消えていたり、弟子の魔女の人数が減っていることね。
嫌な予感がする。
ある日、私は地下にある研究室に呼び出され、ビーカーを差し出された。中には赤い液体が並々と注がれている。
「ソニア。私の可愛い娘。少し遅くなったけど、十四歳の誕生日プレゼントよ。この『薔薇の霊水』を飲めば、永遠の美と若さを約束されるわ。素晴らしいでしょう?」
それは、薔薇の宝珠のなれの果て。お母様が作り出した不老のレシピの完成形。
そう……つまり、私で最終確認をするというわけね。
「弟子では試したのですか?」
「大丈夫よ。あなたなら耐えられるはず」
その言葉は不安を煽った。弟子の魔女たちにも試させたけれど、失敗したらしい。でも惜しいところまではいったから大丈夫ってこと?
ものすごく迷ったわ。
過去視で未来を知る、という経験をしていなければ私は母に従って素直に飲むでしょう。
そして未来を知っているからこそ、私はビーカーを手に取った。
「ああ、ソニア、私の可愛い娘……とっても良い子ね」
「はい、お母様」
私はここでは死なない。
だから大丈夫。
私は私の特異性を知っていた。
幼い頃からあらゆる毒を飲んできたわ。実験体や弟子たちで試して調整した、弱い毒だったのは確かだけど、それでもずっと体に異変はない。ある者は目が見えなくなったり、左半身が麻痺したり、頭がおかしくなってしまったけど、私にはどの兆候も全くなかった。
思えば風邪を引いたこともないし、ファントムに盛られた強力な毒にだって耐えられた。
どうも生まれつき特殊な体質みたい。魔力量も魔術の才能も凄まじいし、もしかしてこれは“らすぼす”補正かしら。
お母様がそのことに気づいているのかどうかは分からない。
気づいていないのなら、これがお母様の死に繋がるのでしょう。
それにね、“あにめ”のソニアは超回復能力を持っていた。傷を負ってもすぐに回復してしまうの。それでも薔薇の宝珠のを作り出そうとしていたのだから、その力は宝珠由来ではないのでしょう。
きっと今、この薔薇の霊水を飲むことで手に入る力だ。
「……っ」
霊水を一息に煽ると、全身が熱くなった。
血を吐き、その場に倒れ、苦悶と戦った。全身の細胞が生まれ変わり、燃えているようだった。
一晩経ち、目を覚ました私をお母様は優しい笑顔で迎えた。
試しにナイフで肌を傷つけてみた。赤い血が零れたものの、すぐに白い炎が上がり、肌が再生して傷が塞がった。もともと瑞々しい肌だったけれど、さらに張りと艶が出た気がする。
「素晴らしいわ! 私って天才!」
お母様は歓喜して、その日のうちに『薔薇の霊薬』を口にした。
王都襲撃から数えて十八年目の悲願。
我慢できなかったのでしょうね。研究に没頭している間に、お母様は若さも美しさも失っていた。それを取り戻し、これから何十年も青春を謳歌する。その野望に目が眩んでいた。
馬鹿なお母様……もう少し慎重に私の体を調べるべきだったわね。
お母様が若い姿でいられたのは一日だけ。
弟子たちは不老のレシピの完成を知り、浮足立ったわ。口々に「美しい」「素晴らしい」とはやし立てられ、お母様も最初はご機嫌だった。鏡を見るのに夢中になっていた。
でも私が「おめでとうございます」と祝福を送ると、お母様から笑顔が消えた。
その日の夜、お母様は毒に倒れた。
体は醜く変形し、髪の毛は半分近く抜け、何を口にしても吐き出してしまう。
哀れな姿だった。
この姿を誰にも見られたくないと、私に屋敷から弟子たちを追い出すように命じた。
私は献身的に看護したわ。
弱っていく母親を一番近くで眺めた。
良心の呵責と暗い悦びが心の中でひしめき合っていた。
せめて最期までお母様にとって良い娘でいてあげる。私は何も悪くないのだと思い知らせたかったのかもしれない。
そうして一週間が過ぎた頃、お母様が再び私を地下の研究室に呼び出した。
私は直感していた。
今日、お母様は死ぬ。
最期に私に何を告げるつもりかしら?
謝られたらどうしよう。私はそんなものを望んではいない。
車いすに深く腰かけ、お母様は長い息を吐いた。
「私、決めたわ。今日でアロニア・カーネリアンをやめることを」
「え……?」
お母様は私に清々しい笑顔を向けた。
「ソニア、私の可愛い娘。あなたは世界で一番親孝行な娘だもの。お母様の為なら何だってしてくれるわよね?」
意味が分からなかった。私の顔は真っ青だったと思う。
この期に及んでまだ、目の前の女は生きることを諦めていない。
「悔しいけれど、アンバートの血を引くだけあって、あなたの容姿の方が美麗で妖艶なのよ。それに気づいてしまったから、もう自分の体に未練はないわ」
「な、何を言っているのですか?」
「若く美しく、身のうちに『薔薇の霊水』を宿した体。魔術の才能も私に劣らない。おまけに奇跡のように美しいと噂の王子の婚約者で、未来のミストリア王妃。完璧ね」
お母様は言う。
昔は権力にも地位にも興味はなかった。しかしククルージュで絶対的支配者となり、弟子や実験体に暴虐を働くうち、目覚めてしまったのだと。
もっと多くの人間を支配したい。虐げたい。
ミストリアの王妃になって美しい男を侍らせ、贅の限りを尽くしたい。
お母様は皺だらけの唇を歪め、猫なで声を出した。
「ねぇ、ソニア、あなたの体を頂戴?」
全身に悪寒が走った。
「実はここ数年、もしもの時のために少しずつ用意していたの。魔女の〈七大禁考〉の一つ。魂に関する魔術――憑依転生の術」
気づけば、床に見たことのない魔術円が描かれていた。
「とても難しい魔術だけど、宝珠を作り出すよりは楽よ。私、薬を開発するよりも術を紡ぐ方が得意だしね。転生先の肉体の主が従順なら、成功率は格段に上がるみたいなの。血の繋がりのある親子ならなおのこと魂が定着しやすいわ」
私は愕然とお母様の言葉を聞いていた。
「あなたは私のために生まれてきたの。今日この日のために生きてきたの。だからその身を差し出すのは当たり前のこと。安心して、私はあなたのことを忘れない。ソニア・カーネリアンの名前を大陸中に轟かせてあげる。美しい魔女王として、ね」
「…………」
「どうせこのまま生きていても仕方がないでしょう? あなたは私なしでは何もできない愚図だもの。みんなのお人形さんでしかない。どんなに頑張っても幸せなんて掴めないわ。でも私ならみんなを幸せにできる。あなたの体も可愛がってあげる。王子と結婚して、魔女の地位を向上させて、ミストリアを大陸一の国にしてみせる。地獄のような楽園を築くわ。ふふ、楽しみ」
お母様の歪な腕が私に向かって伸びてきた。
「ソニア、私の可愛い娘。お母様の言うこと、聞いてくれるわよね?」
反射的に「はい、お母様」と呟きかけ、私は首を横に振った。
「ソニア?」
私の反応が想定したものと違ったことで、お母様が眉間に皺を寄せた。一方私は我慢できず、お腹を抱えて笑い出した。
「あはは……っ! おかしいと思った! そう、そういうことだったのね!」
やっと分かった。
過去視を覚えて“あにめ”を視聴して、ずっともやもやしていた謎が解けた瞬間だった。
「あのソニアはお母様だったのね!? みっともなくて、無様で、あんな小娘に負けるのも全部――!」
「は? ……何を言っているの?」
エメルダの予知は正しかったわね。確かにこの女がレイン王子と結婚して王妃となれば、ミストリアは滅びの道を辿る。
私はお母様から距離を取り、魔術の構成を始めた。
今までどうして我慢していたのかしら。最初からこうすればよかったのよ。
何を期待していたの?
奪い取るだけ奪い取って、お母様は何も返してくれない。
私の想いは何一つ報われない。
「私はあんなに間抜けじゃない。永遠の美なんて求めない。魔女の国なんて要らない。王子の愛だって望まないし、ヴィルを殺したりしないわ!」
そのときになって、ようやくお母様は焦り始めた。
きっと私が素直に従うと思っていたのでしょう。そうね。ずっとお母様の前では良い子でいたもの。
本当に馬鹿ね。毒薔薇で身を滅ぼし、娘に裏切られて死ぬ。ほとんど自滅よ?
「お前……母親を殺すのか!?」
「娘の人生を奪おうとする母親なんて、知らない」
私、本当の母親がどういうものか知っているわ。
前世女の母親はすごく優しかったのよ。
娘が落ち込んでいる時は好物を作ってくれた。風邪を引いたら仕事を休んで看病してくれた。受験のときは夜遅くまでそわそわしていたし、就職祝いにへそくりを切り崩して時計をプレゼントしてくれたし、結婚式の前日はアルバムをめくって涙ぐんでいた。
それと比べて、あなたは何?
その気もないクセに優しい母親のふりをして、私を惑わせないで。
「さようなら、アロニア・カーネリアン。私が、私の人生を生きる。誰にも譲らない」
魔術の詠唱と絶叫が重なった。
無我夢中だった。気づいたときには部屋も私も真っ赤に染まっていた。
無残な亡骸を前に、私は泣いた。涙が溢れて止まらなかった。
後になって戦慄したの。
私は今日死ぬ運命だった。過去視を習得していなかったら、私は反抗の意志を持たず、実の母親に体を乗っ取られ、未来に悪役の汚名を刻むところだった。
私自身の死は誰にも知られることもなく、誰にも悼まれることもなく、存在そのものが消える。
ひどい。ひどすぎる!
「でもこれで……大丈夫、だよね?」
私は私を守りきることができた。
きっと大丈夫。未来は明るい。
でも、一つだけ不安があるの。
間違っていないわよね?
私が生き残ることで、もっと悲惨なことになったりしない?
原作の“あにめ”通りの結末が、この世界にとって一番のエンディングだったら……。
それからの私は必死だった。
予想通り牙を剥いてきた魔女たちを殲滅し、コーラルやファントムとともに里をまとめ、お母様の死の真相と薔薇の宝珠の秘密を守り続けた。
私の身に宿る『薔薇の霊水』のことは誰にも話していない。
不注意で怪我をしてしまっても、意識すれば傷口が再生しないようにすることができた。
美しい肌や髪が霊水のせいだとバレないように、美容には最大限の注意を払うようになった。
二年の研究で、徐々に霊水の効果が弱まっていることも確認できたしね。きっと原作のソニアも、霊水の効果が半永久的ではないことを知り、再び薔薇の宝珠を生み出そうとしたのでしょう。
おそらくそう遠くない未来にこの再生能力はなくなる。それまで秘密を守りきることができれば、私は普通の魔女になれる。薬の効果が切れ、美しさが損なわれても後悔しないよう自分を磨いたの。
怪事件の噂を聞いたときはぞっとした。
破滅の運命から逃げ切ることはできないのかもしれない。お母様が原作ソニアだとしたら、おかしい点がある。まだ何かあるかもしれない。
それでもじっと様子を伺うに留めた。まだ決定的な選択をする時ではない。
レイン王子との婚礼が予定通り行われることになり、そして、“あにめ”通りの展開になったときにはもう笑うしかなかった。
でも諦めはしなかった。
私は、負けるわけにはいかない。負けるはずがない。
お母様が演じたソニア以下の結末を迎えるなんてプライドが許さない。何度も言うけど、私はあんなに間抜けじゃないもの。
私とヴィルが死ぬ結末がベストエンドだなんて認めない。
温かいぬくもりを感じてゆっくりと目を開けた。
頭がぼうっとする。さすがに血を失いすぎたわね。脳がおかしくなって、嫌なことを思い出してしまった。
「ソニアっ」
私の手を握りしめる男がいた。金色の瞳が涙に濡れていてとても綺麗だった。
「良かった……このまま死んでしまうのかと思った……」
ヴィルは私の手を握りしめたまま、空いている方の手で涙を拭っていた。
勿体ない。もっと見ていたかった。
彼が私のために流す涙を。
ああ、なんて愛しい。
私はとても満足していた。
ヴィルが呪いで死ななくて本当に良かった。
変なの。自分が痛い思いをしてボロボロになっても、ヴィルが無事ならそれでいいだなんて。
少しだけ“あにめ”のヴィルの最期の行動が理解できたわ。
誰かを守って自分が傷つくことはとても甘美だ。そしてそれが身勝手な自己満足で、どれだけ愚かなことかも分かった。
ヴィルには同じことをさせない。
私は今まで散々、ヴィルを囲い込んで追い詰めるようなことをしてきたけれど、お母様とは違うわよね?
ヴィルは私のこと、泣くほど大切に想ってくれている。それが間違っているなんて思いたくない。
「ヴィル……あのね――」
「ん? どうした?」
私の言葉を聞き取ろうと、彼が顔を寄せる。
不意打ちは簡単だったわ。……本当は唇にしたかったけど、今日はほっぺにしておいた。涙の味を知りたかったから。しょっぱいのね。
「なっ!? 何を……!」
彼が顔を真っ赤にして狼狽える。
二十歳のくせに初心ね。でもそういうところがたまらなく愛しい。
「ヴィル、大好きよ」