30 ヴィルの願い
ヴィル視点です。
村人たちを呪いから救うにはラズを殺すしかない。
時間も他の方法もない。一人でも多く助けるためには仕方のない犠牲だ。
ソニアの判断は正しい。どこも間違っていない。
相変わらず彼女の有能さには舌を巻く。わずか一日で新種の魔障病を呪いだと見破り、冷静にすべきことを判断しつつ、患者の世話や医者たちのフォローをしていた。
素直に尊敬するし、敵わないと思う。
それなのに俺はどうしてこうもわだかまりを抱えているのだろう。
『大丈夫。私が全て解決してあげるわ』
俺はソニアに自信満々にそう言ってほしかったのだ。
どこまで愚かなのだろう。十六歳の少女に無茶な期待をして、思い通りに行かないと落ち込む……最低だ。
かつて、エメルダや王子とともに旅をしていた頃、俺はどちらかといえば制止役だった。エメルダが提案する無謀な試みに反対し、シビアな意見を述べていたものだ。
それが今ではこの体たらく。情けない。
だが、この状況はあんまりだと思うのだ。
ラズは何も悪くない。好き勝手に生きてラズを捨てた母親、親の罪を子になすりつけて虐げてきた村人たち、人の心を利用して災厄をもたらす魔女。
誰も彼も惨すぎる。
八歳のラズの命で事を収束させるのは、やはり納得いかない。
頭では分かっていても心が拒絶反応を示す。
昔の自分とラズを重ねてしまったのがいけないんだろうな。放っておけない。
俺は深夜に宿屋を抜け出し、ラズの寝泊まりしている小屋に向かった。
村にある唯一の酒場は営業していた。こんなときだからこそ飲みたくなるのだろう。俺は誰にも見られないように隠密で動く。
ラズの小屋からは明かりが漏れていた。俺が夕方に届けたランプだろう。今頃チルルと一緒に毛布にくるまり、安息を得られているだろうか。
小屋から離れた林に身を隠し、息を殺して朝を待った。
ラズに会いに来たのではない。ただ見張りに来た。
もしかしたら悪しき魔女がラズの様子を見に来るかもしれない。そんな僅かな可能性に賭けたのだ。どうせ宿屋にいても眠れないからな。
ソニアやサニーグ殿の判断に異を唱えるつもりはない。そんな資格はない。
俺は主の命令に背かない範囲でできることするだけだ。
このまま何事もなく朝が来たら、ラズにとっては最期の一日になる。
ソニアが許可をくれたら、一日ラズを構い倒そうと思う。
具合が良さそうならパンケーキでも作ってやろうかな。クリームとフルーツをふんだんに使った豪華なやつだ。きっと食べたことないだろう。
遊び回る体力はないだろうから、いろいろと話をしよう。八歳の男の子が喜びそうな話というと、冒険譚か。人に語って聞かせるのは得意ではないが、ネタならたくさんある。つい数か月前まで各地を転々としていたからな。
……正直、子どもは苦手だ。
ククルージュの見習い魔女なんかは全く遠慮をしないから、俺はいつもひどい目に遭う。逃げ回るのに必死だ。
だけど今日だけは、ラズにだけは、精一杯優しくしよう。幸せを感じてもらえるように尽くそう。
俺程度が一日何をしたところで、ラズの憎しみの心が消え去ることはないだろう。
でも俺にできることはそれくらいだ。
誰もラズのために何かをしてやれないのなら、せめて俺が最期を看取り、その死を悼もう。
俺は騎士だった。戦場で重傷を負った仲間を安らかに眠らせる方法を知っている。痛みも恐怖もないように命を詰むことができる。
ソニアにはこれ以上辛い役目を負わせられないからな。
彼女が冷酷な判断を下し、俺が手を汚す。それがいいと思う。
所詮は子ども一人救えない男の自己満足だ。
無力感に酔っているようで、胸が気持ち悪い。
ああ、ダメだ。何を考えても今は気持ちが下を向く。
そうして数時間過ぎた頃、動きがあった。三つの人影がラズの小屋に向かっていた。おぼつかない足取りから見て酔っ払いだろう。
悪い予感がして俺はすぐに林から飛び出した。
しかし、あと一歩遅かった。
ガラスの割れる音が小屋の中から響き、チルルの甲高い鳴き声がする。
「うるせぇ犬! 蹴り殺すぞ!」
「償いが足りないんじゃないか。もっと頭下げろよ!」
「お前が女だったらもっと楽しめたものを。母親はすげー淫乱だったからな」
俺の目に飛び込んできたのは、血まみれの頭を抱えて震えるラズ、小屋に散らばった酒瓶の破片、干し草に埋もれるチルル、そして下卑た笑いを浮かべる村人たち。
「何をしている!」
俺の登場にぎょっとしつつも、赤ら顔の男達は逃げ腰にはならなかった。
「よそ者が村のことに口出すな。こいつは何をされても文句言えねぇ立場なんだよ。村の辛気臭い空気を吹き飛ばす儀式だよ、儀式」
真ん中の男の言葉に左右の二人が笑いながら同意する。ろれつが回っていない、ひどい言い分だった。
相手にしていられない。俺はラズの怪我を確かめるために小屋に足を踏み入れようとした。しかし……。
ラズが顔を上げ、村人を睨み付けた。顔に巻かれた包帯に血が染み、恐ろしい様になっていた。
憎しみが瞳の中で爛々と踊っている。
「ぐぁぁああ!」
突如酔っ払いの一人が泡を吹いた。一瞬の出来事だった。そのまま小屋の壁に激突するように倒れる。
一瞬で理解した。呪いが発動したのだと。
男の見開かれた目が痙攣し、じきに動かなくなった。
「ひぃっ!」
「どうした!?」
後の二人が慌てる中、ラズの視線が動くのが分かった。
俺は咄嗟に動いていた。
「やめろ、ラズ!」
俺が間に入ったことでラズは動揺した。まだ完全に我を忘れたわけではないのなら止められる。
「落ち着け。頭の傷、手当てしてやる。何も心配いらない。だから――」
俺がゆっくり手を伸ばすと、ラズは泣き出しそうに顔を歪め、近づいてくる手を払った。そして体当たりをして逃げ出そうとする。
ダメだ。ここで逃がしたら、大変なことになる。
俺は反射的にラズを引きとめていた。その拍子に、包帯に引っかかってほどけてしまった。
「なっ!?」
ラズの肌という肌には黒い痣が浮かんでいた。
殴られた痕か、もしくは呪いの後遺症か。
おびただしい数の黒い痣は例えようもないほど不気味で、ラズが隠したがるのも無理もない代物だった。
それを俺が暴いてしまった。
ああ、しくじった。
ラズと目が合ったとき、俺の体をどす黒いものが駆け巡った。一瞬で体の自由が利かなくなる。
腰を抜かした村人二人の間をすり抜け、ラズが走り去る。
遠ざかる背が霞んでいき、やがて意識ごと真っ白に染まった。
高熱で頭が溶けてしまいそうだ。息をするたびに喉が焼ける。汗と涙が混ざり合って零れていき、心も体もぐちゃぐちゃだ。
こんなひどい体調不良はあの時以来だ。
幼い頃、一度だけ王都で魔障病が流行したことがある。
風邪や他の病気にはかからなかったのに、そのときばかりは俺も倒れてしまった。
確か七つの時だ。
両親のいない俺は、叔母一家に引き取れられていた。核持ちの俺の魔力目当てだ。扱いは従兄達と露骨に差別され、時にはいない者のように扱われ、食事は生ごみ一歩手前のようなものばかりだった。
しかし魔障病で倒れたときだけは、まともな食事を与えられた。俺に死なれたら収入が減って困るからだろう。叔母が物置のような俺の部屋に様子を見に来て、時折汗を拭いてくれさえした。
ああ、こんなことならずっと病気でいたい。治らなくていい。そう思ったことをよく覚えている。
でもすぐに思い知らされた。
「母さん、辛いよぅ」
「気持ち悪い……寒い」
隣の部屋から聞こえる従兄達のぐずる声。
「はいはい。大丈夫よ。薬を飲めばすぐ治るわ。具合が良くなったら、みんなで博物館よ。行きたがっていたでしょう?」
叔母の優しさに溢れた声。
そんな甘やかすような言葉、俺には欠片も与えてくれないのに。
羨ましさと寂しさで胸が潰れてしまいそうだった。
魔障病の高価な薬、俺にはくれなかった。俺の魔力を売って買ったものだろうに。核持ちの俺の方がずっと症状がひどいのに。
みんなで博物館?
どうせ俺は置いて行かれる。病気が治っても良いことなんて何もない。
ずるい。悔しい。ひどい。
俺だって甘えたい。甘やかされたい。
もちろん叔母ではない。
会ったこともない、顔も知らないヒト。でも確かに俺にもいたはずなんだ。一度でいいから呼んでみたかった。
「っ母さん……」
嗚咽のような自分の声で目が覚めた。
ものすごく嫌な思い出を夢に見た。最悪の気分だ。
「ヴィル、目が覚めた? 大丈夫よ」
滲んだ視界に鮮やかな赤が差し込んだ。
女神のように美しい人が俺の手を包み込むように握り、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
いや、女神ではなくソニアだった。
……今の寝言を聞かれただろうか。恥ずかしすぎる。
もしも体が満足に動くのなら俺は叫び出し、窓を突き破って部屋から脱出していただろう。
からかう素振りもなく、ソニアは俺の顔や首筋をタオルで拭った。献身的なその姿に俺は改めて見惚れた。
ありがとう、と口を動かしたが、声が出なかった。喉が嗄れている。だがどうにか伝わったらしくソニアがくすりと笑った。
頭がぼうっとして働かないが、宿屋の一室にいることは分かった。部屋にはソニア以外いない。
だんだんと思い出してきた。俺はラズの呪いを受けて倒れた。あれからどれくらい時間が経ったのだろう。外は明るくなっている。
「ごめんなさい。十分に予想できることだったのに、事が起こるまで考えにいたらなかったわ。これは私の不手際よ」
なんでソニアが謝るんだ。全て俺の力不足だ。
あの場にいたのに何もできなかった。
「兄様には報せを出した。医者や術士には事情を話してラズを探してもらっている。ああ、チルルは無事よ」
村人たちの容態は、と物言いたげな視線にソニアが答える。
「小屋にいた一人は亡くなったけど、他の村人はまだ無事よ。容態も悪化してない。これはヴィルのおかげね。ラズはヴィルを呪ってしまって動揺しているのでしょう」
ラズの心に迷いが生じたことで呪いの効果が揺らいだらしい。でもまだ予断を許さない状況だろう。ソニアはここにいて良いのだろうか。もしかしたら俺は死が近いのかもしれない。
「ヴィル……薬は飲める?」
体を支えてもらい、起き上がる。だが手が震えて受け取れない。見かねたソニアが薬を水に溶かし、スプーンでかき混ぜた。
「はい」
差し出されたスプーンに俺はたっぷり悩んだが、これ以上彼女の手を煩わせられない。控えめに口を開くと押し込まれた。
甘い。蜂蜜のようなどろりとしたものが口に広がる。
二口、三口と飲み下していくと少しずつ喉が楽になった。
「……すまない」
「本当、手のかかる従者ね。もう少し眠りなさい」
再び横になるが、目をつむる気になれない。次に目を覚ましたとき、どうなったのか聞くのが怖い。というか俺は目覚められるだろうか。
真実に打ちのめされ、死んでしまいたいと思ったこともあったが、今は違う。未練がある。俺はソニアに恩を返したい。
「大丈夫よ。夜になるまでそばにいるから」
ソニアがまた手を握ってくれた。温かくて安心する。
この子はいつも俺の求めるものをくれる。その度に心が柔らかくなっていく。
すっかり甘え、甘やかされている。
俺はソニアが好きだな。
素直にそう思えた。
母親と重ねているとかそういう感情ではない。一人の人間として心を寄せている。
「何も心配しないで。私があなたを守るから」
俺にそんなことを言ってくれる人は世界できっとソニアだけだ。
目が覚めたら降参しよう。
一生そばにいて心の限り尽くすと誓う。どこにも行ったりしない。
俺の意識は微睡みに飲まれた。