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25 ヴィルの迷い


 ヴィル視点です。

 

 谷を魔術で渡ると聞き、嫌な予感はしていた。

 ソニアは風属性の詠唱をして、谷に橋を架けた。下から吹き上がる風の橋、ようするに目に見えない空気の道を今から歩くのだ。

 恐る恐るソニアと手を繋ぐ。普段ならどぎまぎするような出来事にも、心を割く余裕がない。


「ふふ、怖いの?」


「絶対に手を離すなよ!」


「それはフリ?」


 俺はソニアに手を引かれ、崖の端から足を踏み出した。足の裏に強力な風圧を感じたが、飛び上がるほどではない。例えて言うなら、反発した磁石が宙に浮いているような不安定さがある。その場に留まるのも一歩踏み出すのも恐ろしい。


 高い場所が苦手という認識はなかったのだが、これは夢に見そうだ。

 絶対に下を見ないよう、俺はソニアと繋ぎ合った手に視線を固定した。足元のおぼつかなさで震えているのか、恐怖で震えているのか分からない。酔いそうだった。


 向こう側の陸地に足がついたとき、俺はその場に膝をついた。汗で濡れて全身が寒いし、なかなか立ち上がれない。「生まれたての小鹿みたいで可愛い」と笑っているソニアを恨みがましく見上げ、数分かけて俺は落ち着きを取り戻した。


 父親の墓参り(?)だと聞いたときはいじらしいと思ったのに、やはりソニアは性格に難がある。絶対に俺で遊んでいる。他にもっと簡単に渡る方法があったはずだ。

 それとも気まずくなりそうな空気を和らげるためか?


「はぁ……」


 考えても仕方がないと諦め、雷塩結晶が採掘できる岩場に向けて歩き出した。

 もう気を遣うのも馬鹿らしくなり、俺は気になっていたことを尋ねた。


「父親のことは小さすぎて覚えていないんだろう? あの長老のばあさんからどんな人だったか話を聞いているのか?」


「ええ、少しだけ。でも前に言ったことがあると思うけど、私は過去視の魔術を習得しているから、おぼろげな雰囲気なら知っているわ。赤ん坊の視力だからほとんど見えていなかったのだけど、一度だけ抱っこしてくれたことがあったわ」


 そう言えば、レイン王子に「予知能力持ちでは?」と疑われた際、ソニアが過去視の術について言っていた気がする。

 ソニアは懐かしむように目を細めた。


「お父様は外面は完璧だけど、家の中では冷たくて静かな人だった。ジェベラを虜にしただけあって、顔は良かったわ。男前というよりも中性的で妖艶な感じ。印象的だったのが、とても綺麗な――」


 ソニアははっとしたように足を止めた。


「…………」


「どうした?」


 俺の顔をじっと見つめて固まるソニア。今まで見たことのないような、驚愕と焦燥が滲んでいる。いつも泰然としている主の動揺に、俺まで不安になる。


「なんでもないわ。あり得ないことを考えてしまっただけ。……少し迂闊だったかもしれない」


「は?」


 ソニアは風で乱れた髪を耳にかけ、優美に微笑んだ。

 ああ、もう絶対に今考えていたことは話さないと決めてしまった顔だ。


 俺は何も言えなかった。

 ここでソニアの内情に深く踏み入る資格が俺にはない。その覚悟ができていないのだ。


 




 雷塩結晶のある岩場はほどなくして見つかった。ピックを振るい、黙々と採掘する。ソニアに勧められてぺろりと雷塩を舐めてみたら、全身に雷が落ちたような塩辛さを覚えた。


「げほっ」


 気づけ薬にも使われる素材らしい。水をがぶ飲みした後、「徹夜の任務のときは重宝しそうだ」と無意識に呟く。騎士時代の発想が残っていて驚いた。せっかくなので自分用に少しもらっておくことにした。

 売却用に拳大の塊を十個ほど採って、素材集めは無事に終了した。






 日が暮れる前に岩場の脇に小さな天幕を用意する。周囲にはソニアの結界が張ってあるし、魔獣は雷塩結晶を本能的に避けるらしいので、今夜は安全に過ごせるだろう。


 ソニアは山菜とキノコ入りのスープを作ってくれた。スープに固いパンを浸し、合間に干し肉を齧る。昼に食べたサンドイッチと比べたら味も量も格段に劣るが仕方がない。明日の昼過ぎには里に帰れる。そしたら夜はまた、美味しいものをたらふく食べられるはずだ。


 ……いつの間にか、随分と贅沢になったものだ。胃袋が完全にソニアに依存している。

 今はもう、エメルダの消し炭料理を飲みこむことはできないだろう。残念に思いつつも安堵した。複雑な気分だ。


 食事を片付けたり、沸かした湯で体を拭いたりしているうちに、夜も深くなってきた。風はないが肌寒い。焚き火に薪を多めにくべる。


「ヴィルも一緒に寝る?」


 冗談混じりの声に俺は真面目に答えた。


「断る。一晩くらい眠らなくても平気だ。俺は見張りをしているから気にせず寝てくれ」


 天幕は一つだけ。当然、ソニアのものだ。

 ゆっくり休んで欲しい。今日、ソニアは途中から様子がおかしかった。物思いに耽ることが多く、ピリリとした空気を放っている。俺が見ていることに気づくと、何でもないと笑って誤魔化されたが。


「しばらく寝つけそうにないわ」


 ソニアは天幕に入らず、俺の隣に腰を下ろした。焚き火の前で二人きりだとあの夜のことを思い出してしまう。


 残酷な真実を知り、打ちのめされた夜。

 今でも飛竜の鳴き声が耳にこびりついている。

 間違いなく人生最悪の夜だった。

 もう生きていけない、誰も信じられない。そう思って絶望した。


 だが今もまだ、俺は生きている。明日の飯のことを心待ちにしている。

 誰のおかげかと問われれば、迷わずソニアの名前を答えるだろう。

 俺はこの魔女に救われたのだ。


 ソニアは膝を抱えた姿勢で、ポツリと呟いた。


「ヴィルは、いつかいなくなってしまうの? 今の暮らしは不満?」


 核心を突かれ、俺は硬直する。


 美味い飯と寝床、穏やかな時間。

 憎しみを受け流す老人や無邪気に笑う子どもたち。友人と呼べるかは分からないが、飲みに行く程度にはファントムファミリーとも仲良くなった。

 家事や雑用は苦ではない。ソニアが毎回労いの言葉をくれるから。

 畑仕事は良い運動になるし、収穫した野菜や果実は格別に美味い。

 ユニカの世話も最初は可愛くなくて面倒だったが、毎日ブラッシングをしているうちに愛着が沸いてきた。手ずからニンジンを食べるようになったときは、嬉しくて仕方なかった。


 人や魔獣を斬らなくてもいい。血豆を潰し尽くすような鍛錬をしなくていい。

 誰も憎まなくていい。

 身命を賭して主に尽くしたり、決して手に入らない愛しい人を眺めなくていい。

 王国を守らなくていい。騎士として生きなくていい。


 なんて気楽なのだろう。

 ソニアが俺に与えた生活は、心身に染み渡るような安らかさに満ちていた。


 唐突に理解した。

 俺は今のような暮らしを切望していたのだと。

 憎しみに心を囚われ、歯を食い縛って生きるのはもう嫌だ。

 ……人はこれを堕落と呼ぶのだろうか。

 

 ソニアは困ったような笑みを浮かべ、俺の返事を待っていた。

 

「不満なんてない。だが、安寧に身を委ねることは許されない気がする」

 

 あの夜、明かされた真実に俺の全てを否定された。今度は俺自身が生きてきた二十年を否定しようとしている。

 今までの耐え忍ぶ日々は、全部無駄で間違っていたのではないかと。

 よく笑っていられるものだ、と言われてから俺はずっと「誰か」の視線が怖かった。誰よりも過酷な道を進まなければ、たちまち非難される。幸せになってはいけない。楽をしてはいけない。そんな想いがあった。


「誰の許しがいるの? ヴィルは何も悪くないのに。今の暮らしに安らぎを感じて、亡くなったご両親やレイン様やあの娘に対して罪悪感を覚えるなら、それは全て私のせいよ」

 

 ソニアは夜空を仰ぎ、歌うように罪を告白した。


「私がそうなるようにしたの。ヴィルの中心にあったもの、大切にしていたものを全て跡形もなく壊して、代わりに新しいものを与えた。ヴィルが望んでいたものを揃えた。思わず手を伸ばしてしまうように誘導したのよ」


 違うだろ、と俺は首を横に振った。

 この言葉を真に受けるほど馬鹿ではない。

 ソニアはどこまで俺を甘やかすつもりだろう。俺の罪悪感のはけ口になり、俺を楽にしようとしてくれる。


「外聞なんて気にしないで、ヴィルの心のままに選びなさい。ここにいたいか、出て行きたいか」


 ソニアはどこまでも俺に優しい。

 だから離れがたいのだ。

 この子は俺を見てくれる。誰よりも理解してくれている。

 恐ろしいが、心地良い。

 鍵のかかっていない檻に入れられたような気分だ。泣きたい。


「引き留めないのか?」


 ソニアはくすりと笑った。


「その必要があれば考えるわ」


 結局、ソニアは俺がククルージュに留まると確信しているようだった。

 そうだろうな。普通に考えたらこの生活を捨てたりしない。

 あとは俺の心の問題だ。


「あまり見苦しくしがみつく真似はしたくないの。でもそうね……私、しばらく貯金を頑張ろうと思っているわ。あえて汚い言葉で言うなら金儲けに走る」


「は? 急にどうした」


 魔女の中には強欲な者もいるが、ソニアはそうではないと思っていた。


「家を建て替えようと思って。あの屋敷、広すぎて手入れが大変なんだもの。それに血生臭い思い出がたくさんある。特に地下室は埋め立ててしまわないと……」


 地下室には俺も入ったことがない。封鎖されている。

 かつてアロニアが宝珠の研究をし、ファントムたち実験体を虐待していた場所だ。

 ……そうか。俺は今まで人がたくさん死んだ家で暮らしていたのか。腹の底が冷えた。


「ヴィルはどう思う?」


「それは、まぁ、良い考えだと思うが……ククルージュに建てるのか?」


「そうよ」


 俺は少し考えてから真顔で尋ねた。


「お前、結婚しないのか? 相手が決まる前に家を建てて、もし嫁ぐことになったら無駄になるぞ」


 ソニアも少し間を置き、艶麗の笑みで答えた。


「ヴィルがいる間は結婚しないわ」


「? ………………………………………………っ!」


 言葉の意味を考えている内にじわじわと顔が熱くなっていった。変な想像をしてしまったからだ。

 

 いや、待て。どういう意味か本気で分からない。

 ソニアの将来設計において、俺はどの位置にいるのだろうか。


 借金は嫌だから当分先だけどね、と前置きしてソニアは俺に告げた。


「これが私なりの引き留め方かしら。新しい家のこと、ヴィルも考えてみて」


「新しい家……」


 その言葉からは幸せなイメージしか浮かんでこなかった。

 過去の忌々しい思い出を全て消して、ソニアと二人でずっと……。


 あと数年この生活を続ければ、今感じている罪悪感や背徳感は擦り切れてなくなる。未来の俺は何も憂うことなく笑っているだろう。

 そんな予感がした。


 





 翌日、樹海から戻るとアスピネル家から連絡が来ていた。

 新種の魔障病がアズライト領の農村で確認された、と。



 

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