18 毒薔薇の業
前回に続き、ヴィル視点です。
残酷描写(胸糞話?)があります。苦手な方はご注意下さい。
かろうじて最初の一撃は避けたものの、ファントムの容赦ない畳みかけにより俺は足を滑らせた。鎖の束が宙に翻り、叩きつけられる。
しまった。魔女殺しは部屋に置きっばなしだ。そんなつもりはなかったが、この一週間で随分と気が緩んでいたらしい。
「っく!」
咄嗟に横に転がったおかげで鎖は直撃しなかった。しかしつい先ほどまで俺がいた地面は大きくえぐれ、煙を上げていた。
なんて馬鹿力。核持ちの人間だとしてもあり得ないパワーだ。
「ヴィルぅ、殺すっ! よくもソニア様にひどいことを言ったな! 許さないぃぃ!」
ファントムは泣いていた。怒っているのに、銀色の瞳からポロポロと涙がこぼれていく。
確かに俺はソニアに心ないことを言った。俺への料理に毒を入れて実験台にするつもりだろう、と。
だが、当の本人に気にする素振りがなかったのだ。そこまで伝えたのに、なぜファントムはこれほどまでに怒り泣いているのだろう。
ソニアの手料理を食えるチャンスを無下にしたからか?
え、そんな理由で殺されかけてるのか俺。いやまさか。
「ファントムちゃーん。ダメよー。それくらいにしておきなさーい」
「いやだ! こいつはっ、言ってはいけないことを言った!」
コーラルはため息混じりに詠唱した。
【ノームグランディ】
その瞬間足元が盛り上がって崩れ、あっという間にファントムは土に埋められた。
「ぎゃああぁ……! 出して出してっ! 暗くて狭いの無理ぃっ!」
ファントムの情けない悲鳴により、ついに赤ん坊が泣き出した。
「約束したでしょー? フレーナちゃんの前では殺しはしないって。それにヴィルちゃんを殺したら、ソニアちゃんに嫌われちゃうよ」
「うぅ、でも……でもっ」
土の中からくぐもった声が聞こえてくる。
「あたしに任せて。じゃないと一晩このままだよー?」
「……わ、分かった。ここから出してぇ!」
赤子をあやしながら、コーラルは土を元に戻した。泥だらけのファントムは膝を抱え、まだしくしくと泣いていた。
俺は恐る恐る体を起こす。
「一体なんなんだよ……」
「ごめんねー。でもヴィルちゃんも悪いんだよ-? 何も知らないから仕方ないんだけど……ソニアちゃん、きっと自分からは話せなかったんだねー」
騒ぎを聞きつけて他の魔女たちがやってきたが、コーラルが簡単に事情を説明して家に帰した。一人見習い魔女を捕まえて「ソニアちゃんにヴィルちゃんを借りるって伝えてきて」と告げていた。
「さーて、場所を変えてお話しよっかー。いいよね?」
頷くしかなかった。
クマ耳カチューシャなんてふざけた物をつけている割りに、コーラルからは有無を言わせぬ圧力を感じた。この里の魔女はどいつもこいつも恐ろしい。
それに、この状況で真実を知りたくないとはごねられない。
そのままコーラルとファントムの家に連れて行かれた。ファントムは風呂に放り込まれ、赤ん坊は泣き疲れたのかベビーベッドで眠り始めた。
俺も砂だらけだが、玄関の近くに座ることを許された。床にな。
「ヴィルちゃんはー、二十年前の王都襲撃の真相は知ってるけどー、この里ができた本当の理由は知らないんだよね-?」
俺が知っているのは、魔女狩りから逃れた魔女がアロニアを頼ってここに集まったということくらいだ。本当の理由とやらは分からない。
黙って頷くと、コーラルはそこから話し始めた。
「簡単に言うとー、ミストリアと魔女の和平条約が結ばれた後に、魔女は二つの勢力に別れたのー。アロニアを排除しようとする派閥と、擁護する派閥ねー」
思惑は様々だったらしい。
排除派はジェベラの仇を討ちたい、七大禁考を犯させまい、憎きミストリアと手を結ぶなど許せない、などの理由を持つ魔女が多かった。しかしそれらの動機は建前に過ぎず、実際は自分が不老になりたいがため、アロニアから宝珠のレシピを奪おうとする魔女がほとんどだったという。
擁護派も複雑だ。
魔女狩りを止めたアロニアを讃える者、アロニアがいなくなるとまた魔女狩りが始まるのではと危惧する者、単純に恩を売って薔薇の宝珠を融通してもらおうとする者……。
「ちょっと待った。宝珠の存在は魔女の間では有名なのか?」
「そだよ。ジェベラの弟子はたくさんいたからねー」
しかし魔女たちは宝珠の存在を普通の人間には決して漏らさなかった。魔女狩りの再開を恐れたからだ。
「もう予想ついたと思うけどー、擁護派がアロニアを守るために作ったのがここ、ククルージュよー。この二十年、幾度となく襲撃されてきたみたい」
排除派は己だけがレシピを手に入れることを最優先にしたため、一枚岩ではなかった。ゆえに擁護派の守りを一度も突破することができす、敗れた。
アロニアにしてみれば、周りが勝手に警備してくれるおかげで研究に専念でき、笑いが止まらなかっただろう。
「かくいうあたしも、四年前にこの里に忍び込んだんだー。若気の至りー」
「はっ!?」
コーラルは自嘲気味に笑い、服の袖をめくった。そこには潰れた果実のような痣――薄い火傷の痕があった。
「あ、これはククルージュへの襲撃で負った傷じゃないよ。二十年前の魔女狩りのとき……五歳だったあたしがミストリアの人間に殺されかけたときの傷。もうちょっとで火あぶりにされるとこだった」
お腹と背中はもっと悲惨だよ、とコーラルは苦笑した。
コーラルは醜い火傷の痕を消すため、薔薇の宝珠を求めた。常に若く美しい肉体でいられるのなら、傷だって消せるはず。たとえ宝珠の毒で寿命が短くなっても、忌々しい火傷を消せるなら構わなかった。
「あたしは入念に計画を立てて、結界をこっそり破って、誰にも気づかれずにアロニアの家に辿り着いた。でもねー、アロニアの家にはソニアちゃんがいた。あたし、当時十二歳の女の子にこてんぱんに負けちゃった」
ソニアはその頃にはもう化け物じみた強さだったという。母親に襲撃者が来たら容赦なく殺すように命じられていたらしい。だがソニアはコーラルにとどめを刺さず、あろうことかこっそりとククルージュに迎え入れた。
「ソニアちゃんに説得されたの。完全に消すのは無理でも、火傷が目立たなくなるように薬やパウダーを作ってみようって。あたしもとある理由で宝珠を諦める決心ができたし、ソニアちゃんを信じてみようと思ったんだー」
もったいぶった言い方だったが、俺は突っ込まずに話の先を求めた。
「それで? ククルージュが不老のレシピを求める魔女に襲われていたのは分かった。ソニアは――」
そのとき慌ただしい足音とともに、ファントムが現れた。髪が濡れたままで寝間着も羽織っているだけの状態だ。急いで体を洗ってきたらしい。鎖のアクセサリーがない状態だと普通の青年に見える。
「コーラルぅ……」
ファントムは甘えるように自分より二回り小さな妻に恐々と抱きついた。俺のことは眼中にないらしい。
「ごめん……っ、約束、破りかけて……怒りで目の前が真っ赤になって」
「しょうがないなー。ファントムちゃんにとってもトラウマだもんねー」
未だにぐずぐず鼻をすすっているファントムの背を「よしよし」と撫でながら、コーラルは言う。
「ファントムちゃんは、三年前に王国からククルージュに送られてきたの。宝珠の実験体として」
俺は息を飲む。
この時点でなんとなく自分の犯した失態について察した。
ファントムは生まれつき核に異常があり、あり得ない怪力を身に着けて生まれてきた。父親や兄姉には化け物だと疎まれ、母親とともに家を追い出され、気づけば一人で町を彷徨っていたという。食うに困って盗みを繰り返しているうち、ついに王国に捕まった。
聞いたことがある。
数年前ミストリア北東部に『霧隠れの怪人』が出没していた。その恐ろしい男は騎士団に捕えられる際に死んだと聞いたが、どうやら記録を改竄してククルージュに運ばれていたらしい。
ファントムは常人の何倍も体が丈夫だった。ゆえに過酷な臨床実験にも耐えられるのではとアロニアは目論んだ。
「オ、オレ……毎日毎日毒を飲まされてた。抗体をつけるためだ……っ。与えられる食事にはみんな毒が入っていて、食べないとアロニアに殴られる……地下室で、鞭っ」
薔薇の宝珠は毒を含んでいる。一時は若返っても身につけ続ければ徐々に体が蝕まれていく。
そこでアロニアは抗体となりうる物質を生成しようとした。宝珠に抗体を組み込めば、理論上毒を中和できると判明したのだ。
抗体の作り方は簡単だった。毒を薄めたものを少しずつ実験体に摂らせる。毒を中和して生き延びた者には、一段階濃い毒を摂取させる。それを根気よく繰り返せば、いずれ宝珠の毒にも耐えられる抗体になる。
しかし何年経っても実験はうまくいかず、アロニアは苛立った。その八つ当たりもあって、ファントムはひどい虐待を受けたらしい。
死を意識しない日はなかった。いつか毒に負けて死ぬ。あるいは鞭打たれて事切れる。
日の差さない地下の檻の中で、ファントムはずっと恐怖と苦しみに震えていたという。
「けどソニア様は、アロニアの目を盗める日は……オレの食事を取り替えてくれた。じ、自分のものと……」
檻ごしにソニアはファントムに告げた。
『大丈夫。私の方が毒に耐性があるから』
そう言って当時十三歳の少女は毒入りのスープを飲み干した。
「オレは、ひどい奴だ……自分よりも三つも年下の女の子にっ、苦しみを押し付けた!」
こんな奴は鞭でぶたれても仕方がない。いっそ踏み潰されればいいんだ。
ファントムは顔を覆って小さく呟いた。
「アロニアはねー、ソニアちゃんにも小さな頃から毒入り料理を食べさせていたの。自分の体に一番近い魔女だから、実験にはうってつけでしょー? 娘から抗体を取って宝珠を完成させるのが目標だったみたい」
毎月サニーグ殿の屋敷に行く数日前から、ソニアの食事は毒なしのものに変わる。ソニアはそれをファントムの食事と取り替えていたらしい。
何だそれは、と俺は思った。
アロニアは子どもを使って実験を?
自分が産んだ娘なのにどうしてそんなむごいことができるのだ。
いや、真実を秘する契約の肩代わりをソニアにさせていたくらいだ。
アロニアにとってソニアは……自分以外の全ての人間は最悪死んでも構わない存在だったのだ。
ああ、ファントムが怒るのも無理はない。俺はなんてひどいことを言ったんだろう。
実の母親に毒入りの料理を食べさせられていた女に、なんて無神経なことを……。
俺は自然と項垂れていた。
「ソニア様は言った……『あと一年耐えて』って。そうすれば何もかもが終わるはずだからって……っ」
何の確証もない予言めいた言葉だったが、ファントムはソニアに希望を見出し、呻きながら一年が過ぎるのを待った。
「そして二年前……本当にアロニアは死んだんだ。結局、薔薇の宝珠の毒にやられたらしいぃ……」
しかしアロニアの死に関する詳しい経緯は、コーラルもファントムも知らないという。
最終実験が行われたのかも、宝珠が完成したのかも謎。その件に関してはソニアは固く口を閉ざしている。
「あたしは、もしかしたらソニアちゃんがアロニアを殺したんじゃないかって思ってる……」
アロニアは魔術の天才で、ジェベラ門下の姉弟子たちですら敵う者はいなかった。ククルージュを作らなくても、アロニアからレシピを奪える者はいなかったかもしれない。それくらい強く恐ろしい魔女だった。
ソニアは自分の魔術の腕がアロニアに追いつくまで耐えていたのだろうか。
もし戦いになっても勝てるように。そして、二年前……。
俺は戦慄を覚えた。
ソニアが人を殺しているのは確信していた。だがまさか実の母を殺している可能性なんて露ほどにも俺は考えなかった。
ソニアはアロニアのことを「お母様」と呼ぶ。あくどい部分があるのを認めながらも、母として慕っていたのだと思っていた。
そしてソニア自身も可愛がられて大切に育てられたのだと……。
「でもね、本当に大変だったのは、アロニアが死んだ後なんだよ。里の中で戦いが起こったの」
アロニアは複数の弟子を取り、材料の管理や身の回りの世話をさせていた。弟子たちはいつか薔薇の宝珠の恩恵にあやかれると信じ、奴隷のように使われる日々に耐えていた。
「ところがアロニアがあっさり死んじゃって、これまでの苦労が水の泡。その怒りはソニアちゃんに向いた。不老のレシピを寄越せとソニアちゃんに襲いかかった魔女たちを――」
「オレとコーラル、あと、長老のばーちゃんたちで殺した……今この里にいる大人は、あのときソニア様を庇った奴らだ……」
ファントムは自らの手の平をじぃっと見つめた。その時の感触がまだ残っているのだろうか。
「里が落ち着いてから、ソニアちゃんは宝珠のレシピは誰にも渡さないし、絶対に作らないと宣言した。あたしたちも同意して、それからククルージュはちょっとずつ穏やかで平和な里になったの。たまに外部からレシピ狙いの強盗魔女が来るけど、みんなで協力して撃退しているんだよ。本当はソニアちゃん一人でも余裕で倒せる。でも、あの子だけに辛い役目を負わせたくないから」
アロニアが死んでもまだソニアは解放されない。ミストリア王国との盟約……レイン王子との婚姻が約束があった。
「あたしもファントムちゃんも止めた。王子様はともかく、国王は危険だもん。王家に嫁げば絶対嫌な思いをするって」
「でも……ソニア様は望まれる限りは嫁ぐって言ってた……王妃になるのは面倒だけど、王家に嫁げばさすがにレシピを狙う魔女たちも手を出せないでしょうって……オレ、ソニア様がいなくなるの嫌だったけど、でも、結婚してたくさんの人に祝福されて欲しいとも思った……あったかい家族を作ってほしかった……」
ファントムは「王子死ね!」と言って地団太を踏んだ。
ソニアは、いつまでも自分のせいでククルージュを危険に晒せないとでも思ったのだろうか。だから素直に婚姻を受け入れたのかもしれない。
全身から血の気が引いた。婚礼の場で俺たちはソニアを糾弾した。とんでもなく残酷なことをしてしまったのだと今更痛感した。
「あたしの勝手なもーそーだけど、ソニアちゃんがヴィルちゃんを里に連れてきたのは、一人であの家に住みたくなかったからじゃないかなー?」
アロニアに支配されていた家。暗く痛ましい記憶が残る空間。
ククルージュに帰れて嬉しいとソニアは何度も言っていたが、家に帰れて嬉しいとは一度も言わなかった。
「ソニアちゃんは気持ちをなかなか見せてくれないよね。もう少し周りに甘えたり、不満を言えば良いのに」
俺は知っていたはずなのにな。
同じ家に居ながら、別々のものを食べる寂しさを。
ソニアちゃんはまだ十六歳の女の子なんだよ、とコーラルは息を吐いた。
「おかえりなさい。ファントムと喧嘩したんですって? よく無傷でいられたわね」
居ても立ってもいられず、急いで家に戻るとソニアはリビングで寛いでいた。風呂上がりらしく、髪を魔術の温風で乾かしている。
俺はその場に跪いて頭を下げた。
「悪かった。俺を殴ってくれ」
「え?」
珍しく普通に驚くソニア。
「どうしたのよ急に……もしかして頭を打った? それともファントムと拳で語り合ってそっちの道に感化され――」
「違う。聞いたんだ、お前の過去を。この前俺は無神経なことを言った……料理に毒とか、実験台とか」
謝っても許されないレベルの暴言だ。気の済むまで殴って構わない。
俺がそう言うとソニアはくすりと笑った。
「ああそう、どの程度聞いたか知らないけれど、そのことなら許すも何も、別に怒っても傷ついてもない。謝罪は必要ないわ。だって、二年以上も昔の出来事なんて、私の中ではもう終わったことよ?」
爪の表面を撫でながら、ソニアはふっと肩の力を抜いた。
強がっているようには見えないが、簡単には信じられなかった。
ソニアの歩んできた人生は悲惨だ。幼い頃から母親に毒を盛られ、レシピを狙う魔女たちと戦い、実験体のために自ら毒を煽り、その一方で王妃になるための厳しい教育を受ける。二年前には実の母親を手にかけたかもしれない。
一生引きずるような出来事ばかりだ。
俺には分からない。
「お前は……どうして今笑っていられるんだ?」
思わず問いかけていた。
アロニアの支配から解放されても、レイン王子との婚約破棄や国王の使者からの脅迫など、鬱々としたことばかりに直面しているのに。
「私、怒るのも嘆くのも苦手なのよね。……お母様がいつもヒステリックに大声を出して、ものすごくみっともなかったから。ああいう大人にはなりたくないってずっと思っていたわ」
「だからって」
「無理して笑っているわけじゃないの。今が幸せだから自然に頬が緩むのよ。未来にも期待してしまうの。だって、これからはなんでも自由にできる」
やりたいことがいっぱいあるのよ。
ソニアは本当に楽しそうだった。
「美味しいものを食べて、可愛いものを集めて、素敵なお洋服を着て、たくさん遊んで、疲れたら家でだらだら過ごすの。周りに褒められたり尊敬されたいから、ちゃんと薬師のお仕事もするわ。薬ってすごいお金になるのよ。私の知識があれば一生食うには困らないでしょうね。贅沢だってできる」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、膝をついたままの俺を見下した。
「でも一人ではそんな暮らしにも、きっとすぐに飽きてしまうわ。だから……ねぇ、ヴィル。私と遊びましょう。たくさん嫌な目に遭ったし、我慢ばかりしてきたんだもの。幸せになっても罰は当たらないと思う。辛かった過去も忘れてしまえるくらい、毎日楽しく暮らすの。私のそばにいれば、ヴィルにも良い思いをさせてあげるわよ?」
心の中でいろいろな感情が渦巻き、言葉にならなかった。
王家とのいざこざも解決したわけじゃないのに何を夢見がちなことを、と思う反面、とても魅力的な提案に聞こえた。
遊ぶ。そんなこと、今まで俺は考えたこともなかった。子どもの頃はいつも一人だったし、騎士を志すと決めてからは強くなることしか頭になかった。
そうか。この女は、今が幸せだから笑っているんだな。
いつかエメルダに言われた言葉を思い出した。
『わたしね、ヴィルくんにも笑ってほしいな! 笑えば幸せになれるよ!』
似ているようでまるで違う。
今の俺は、幸せになるために笑うことはできない。そんな気力はない。
だがソニアのそばにいれば、いつか幸せを感じて、俺も自然に笑えるようになるのだろうか。
そうなりたいような、なってしまったら恐ろしいような、複雑な気持ちだ。
「今はまだ、分からない。でも……」
「でも?」
「明日から俺も、ソニアと同じものを食う。だから俺の分も食事を作ってほしい」
何気に本人の前で名前を呼ぶのは初めてだった。ソニアは気づいているのかいないのか、きょとんとしている。
なんだろう。すごく恥ずかしい。罰ゲームを受けている気分だ。慌てて立ち上がって顔を背けた。
「いや、いつまでも主に食事を作らせるのはおかしいなっ? 俺もちゃんとした料理を覚えるから、献立の立て方を教えてくれ!」
久しぶりだ。こんなに勇気を振り絞ったのは。
顔に熱が集まって頭が沸騰しそうだ。
魔女に教えを乞うなんて、主だと認めるなんて、少し前の自分では考えられなかった。両親もあの世で呆れているかもしれない。
でももういい。
普通の人間に善悪があるように、魔女も様々だ。
残忍で強欲な魔女もいれば、そうでない魔女もいる。
ソニアは……悪い魔女ではない。
「可愛い従者の頼みだもの、いいわよ。でもカロリー計算も栄養バランスもものすごく厳しいから覚悟してね?」
「分かった。料理の道が険しいことは知っている。大丈夫だ」
ソニアは耳がくすぐったくなるような声で笑った。
「ヴィルは素直ね。それに単純。もしもヴィルに薬を使いたくなったら、直接言うことにしましょう。そのほうが効き目がありそうだもの」
悪い魔女ではないはず……多分。
それを確かめるためにも、もう少し彼女のそばにいようと思う。