16 アズライトの領主
歓迎の宴の翌朝、いえ、昼近くに起きてきたヴィルはぐったりしていた。
宴がお開きになった後、私やコーラルを含む若い魔女だけで二次会をすることになった。ヴィルは寂しがったファントムに捕まり、深夜まで延々と愛娘自慢をされたらしい。
私もヴィルも二日酔いはしないタイプみたい。でも疲れは持ち越している。体が重いわ。
「はぁ、ゆっくりしたいところだけど、今日は買い出しに行かないとね。荷物持ちよろしく」
「う……仕方がないか」
本当に王子に嫁ぐ可能性もあったから、家の中は整理してある。ようするにもぬけの殻だ。食材や調味料は残してないし、服もほとんど年下の子たちにあげてしまった。日用品の類や薬の材料も同様。家具がかろうじて残っているだけだ。
また買い直すのは面倒だけど、嫁入り道具を城の人が高く買い取ってくれたからお金には余裕がある。ヴィルの持ち物も揃えてあげないとね。
「今日のところは、急を要するものを近場の町で買うとして――」
「ソニアちゃーん、アスピネル家のお迎えが来ているわよー」
出かける計画を立てていたところ、コーラルが私を呼びに来た。樹海の入口に竜車が待っているらしい。
「まぁ! 兄様ったら、相変わらず強引」
「……兄様?」
一人っ子のはずだろう、というヴィルの視線を受け、私は頷く。
「兄様はアズライトの領主、サニーグ・アスピネル様。小さい頃から私のことを本物の妹みたいに可愛がってくれている。貴族社会における私の後見人よ。……兄様って呼んでおけば機嫌が良いのよね」
近々挨拶に行くつもりだったし、兄様の誘いを断るわけにはいかない。私は簡単に身支度を整え、ヴィルとともにお迎えの竜車に乗った。
向かう先はアズライト領の都アズロー。竜車でも二時間くらいかかる距離だ。
アズライトはミストリア西部に位置する土地。肥沃な大地と温暖な気候に恵まれ、野菜や果物の栽培が盛ん。大きな湖があり、魚介類も豊富だ。食べ物にはまず困らないため、穏やかで大らかな気質の民が多い。
ただし、地脈に魔力の大河が流れるせいか、他の地域に比べて魔獣がうじゃうじゃ出現するし、危険な森や山々も多い。人類未踏の地がたくさん残っているくらい。
五十年前にアズライトを拝領したアスピネル家は、魔獣の危険を逆手にとって冒険者や傭兵を上手く呼び込み、都と呼ばれるほどアズローを発展させた。
土地柄、珍しい植物や戦利品が多く集まるため、今では遠く離れた国から商人が買い付けに来るほど。魔術の素材が手に入るから魔女にも人気よ。
そんな基本情報を織り交ぜつつ、車中でヴィルに兄様との関係を説明する。
「私が一人前の魔女として認められたのは八歳のとき。体内の魔力は安定していて、魔術もすでに大人の魔女以上に使えたの。お母様は宝珠の研究で忙しくて修業をつけてくれなかったから、ほとんど独学よ。いわゆる神童って奴ね」
「自慢かよ」
「まぁね。それで町に出ても問題ないと判断されて、今度は淑女としての嗜みを学ぶことになった。将来ミストリアの王妃になることは決まっていたもの。教養や礼儀作法は必須でしょう? だから領主様のところでお勉強させてもらっていたの」
食事のマナーやダンスの基礎、社交場での振る舞いや審美眼を磨く訓練、地理の勉強や外国語の読み書き……一月に一週間ほどアスピネル家のお屋敷に滞在して、みっちりカリキュラムをこなした。
「過去の私を誉めてあげたいわ。よく耐えられたものだと」
「……婚約破棄で全ての努力が水の泡か」
「そんなことはないわ。身につけた知識は一生役に立つものばかりだから。あのままレイン様と結婚しなくて良かったと心から思っているし。でも……兄様は納得してないかもしれない。きっとものすごく怒っているわ」
私はため息を吐いてこめかみを押さえた。
この私をここまで悩ませることができるのは、世界広しと言えどサニーグ兄様だけだ。
「領主殿はその……真実について何も知らないのか?」
「いいえ。兄様は、二十年前の真実も全てご存じよ。その上で国王陛下にククルージュを見張るように命じられているわ。ミストリアの貴族なのだから立場的には王家の味方」
「なっ」
私を可愛がっていたのも懐に忍び込み、油断させるため。
宝珠の研究の進捗具合を探ったり、他の権力者と結びついてないか監視したり、いざとなればククルージュを攻め滅ぼす。それが陛下から与えられたアスピネル家の役目だ。
「今会って大丈夫なのか?」
「大丈夫。兄様は、表向きは私を溺愛する後見人。裏では国王陛下に通じて情報を流しているスパイ。でもさらに裏返ることもできる器用な人よ」
二年前、兄様はアスピネル家に与えられた役目を私に全て教えてくれた。そして挑発するように言った。「最終的に利の多い方につく」と。
わざわざ言わなければいいのに、正直で真っ直ぐな人だ。
「兄様はまだ、私を見限りはしない。この間セドニールと会ったとき、私のことを舐めきっていたでしょう? あれは兄様が、私がどのくらい戦えるのか国王に正確に伝えていなかったからだと思う」
サニーグ兄様は原作“あにめ”には登場しない。
私にも動向が読めないから会うのは緊張する。
「ヴィル、今日も余計なことは喋らない方がいいわ。兄様のお屋敷にはたくさんの人間が出入りしているの。どこに他の間者がいるか分からない。薄ら寒い会話を聞くことになるから覚悟しておいて」
開口一番、兄様は言った。
「さぁっ、私の可愛いソニアに恥をかかせた馬鹿王子を断頭台の露にしてやろうじゃないか! 軍団長、兵はどれくらい集められる?」
「はっ、領主様のお声かけなら一万は確実かと」
「少ないな。あと三万は必要だ。単なる内乱にするつもりはない。これは無能な王家に己の罪を思い知らせるための一方的な蹂躙だ!」
「……兄様、やめて。ミストリアが滅ぶわ」
サニーグ・アスピネルは「うむ。冗談だ」と陽気に応え、いかつい軍団長を持ち場に帰した。ごめんなさいね、茶番につき合わせて。
「冗談でも内乱なんて口にしないで。どこで誰が聞いているか分からないのよ?」
「私を反逆罪に問えるものなら問うてみればいい。百の正論でめった刺しにしてくれるわ」
サニーグ兄様は二十八歳。領主としては若い。先代――兄様のお父様が早めに隠居したがったため、二年前に後を継いだ。
領民の人気はとても高い。格好いいし、とても有能だから。兄様が領主になってからアズローはさらに潤い、税収も安定している。なのに犯罪発生率はどこよりも低いの。
魔獣討伐用に編成された兵団をいくつも持っていて、ミストリア西部で兄様に歯向かう人間はいない。財力でも武力でも頭一つ抜けているわ。
ミストリア王家にとって、地方領主が多大な武力を持つのは警戒すべきことなのだけど……いざというときククルージュを攻め滅ぼす役目があるため、黙認されているわ。国王は兄様のことを完全に味方だと思っているみたい。
アスピネル家のお屋敷の立派な応接間に通され、私と兄様は向かい合って座る。ヴィルは扉のそばに控えようとしたのだけど、「きみも座りたまえ」と兄様に命じられ、戸惑いがちに私の隣に腰かけた。
今の兄様は私を妹のように溺愛するアスピネル家の当主。婚礼の場でのレイン王子の暴挙に怒っている。そして私は兄様が王と通じていることなんて知らない、という設定。
今日の呼び出しは、私が今後どう動くか探るためでしょう。
国王は、私が本当に秘密を黙すのか試すつもりに違いない。契約がなくなった今、私が幼い頃から仲の良い兄様に泣きつき、真実を打ち明ける可能性がある。
秘密を黙秘するつもりがないと判断されれば、国王はなんとしても私を殺そうとする。口の軽い小娘は信用されないでしょう?
私は今まで通り、普通に接すればいい。兄様もきっとそのつもりだ。
「ごめんなさい、兄様。アスピネル家が私に費やして下さったものを無駄にする結果になってしまって……」
とりあえず謝ることにした。
私を教育するためにかなりの時間とお金がかかっている。私がレイン王子と結婚しなかったことで一番損をしたのはアスピネル家だ。それに本当に嫁いでいれば、私を見張るという面倒な役目からも下りられたもの。
ごめんね、兄様。
「冤罪には違いないけれど、そもそも疑われること自体あってはならなかった。領民の方々もがっかりしているわよね。私が婚約破棄したことで、この家に迷惑をかけてしまうかしら?」
私が目を伏せると、兄様は「まさか」と笑った。
「婚礼の儀に出席した私の名代から報告を聞いたとき、耳を疑ったぞ。何の罪もないソニアを公の場で糾弾した上、国を挙げての婚姻を破談。……許しがたい蛮行だ。お前は何も悪くないし、こんな下らないことで我が家名に傷はつかない。領民たちはむしろ王家に怒っている。ソニアの心が深く傷ついているなら、本当に兵を挙げるつもりだったのだが……」
「私は平気よ。なんとも思ってない」
「そのようだ。むしろ晴れ晴れしている」
「ええ、兄様には悪いけれど正直ホッとしているわ。私に王妃が務まるとも思えなかったし、レイン様にも愛着はなかったし、何よりククルージュに戻れて嬉しい。兄様ともまた気兼ねなくお会いできるのなら、破談になって良かったと思ってしまうの」
兄様はご機嫌に笑った。
「そうかそうか。もちろん私も嬉しいぞ。ソニアより優れた妃になりうる娘などいないだろうが、そもそもお前に城の生活は退屈だろう。王太子殿下ごときには勿体ない。これで良かったのかもしれん」
私のことを甘やかしすぎね。兄様の存在は私の人格形成に大きく影響していると思うわ。傲慢なところ、似ている気がするし。
「しかし、代わりに私が最上級の男を見繕ってやろうと思ったのだが……必要ないか?」
兄様の視線が私の隣に向かう。ヴィルは居心地が悪すぎて言葉が出ないみたい。完全に圧倒されている。
「ありがとう、兄様。でもせっかく自由に恋愛できる身になったのだから、できれば相手は自分で選びたいの。ダメ?」
「構わないさ。だが、何かあればいつでも私を頼れよ。恋愛にかかわらずだ。例え王家との婚姻がなくとも、私は常にお前の味方だ」
「本当にありがとう。私もいつでも兄様の味方よ。魔女の力を借りたくなったら遠慮なく言って」
もちろんだと頷き、兄様はティーカップに口をつけた。私も上品な香りの紅茶をいただく。うん。毒は入ってないわね。兄様は私に毒が効かないことを知っているから、入っているはずないけど。
ヴィルは私と兄様を見て、気味悪そうにしていた。真実を知っていると、今の会話は白々しく不気味なのでしょう。
そのとき、応接間の扉が開いた。
「ソニアさん、本当に出戻ってきたんですね。お可哀想に」
私より二つ年上の少女――ユーディア・アスピネルだった。貴族令嬢らしい高慢な笑みを浮かべている。
腹の探り合いに疲れていたところなの。良いタイミングで来てくれた。私はにっこり笑みを返す。
「ユーディア様。お久しぶり……というほどではありませんけど、ご機嫌麗しいようで何よりです。恥ずかしながら戻ってまいりましたが、憐れんでいただく必要は全くございません」
「そうなんですか? なら安心しました。これからも夫ともどもよろしくお願いします」
「ええ、お手柔らかに」
「夫……?」
ヴィルの呟きに私は答えた。
「ユーディアは兄様の妻よ。半年前に結婚したばかり」
ヴィルは目を見開いた。兄様とユーディアが並ぶと兄妹にしか見えない歳の差だから、思いも寄らなかったのでしょう。まぁ、美男美女でもあるからお似合いだと思うけど。
ユーディアはまだ、私と兄様の本当の関係を知らないはず。だから彼女がいるときは、私も兄様も互いの腹を深く探るのはやめる。だから助かるの。
改めてヴィルにユーディアを紹介した。
「小さい頃からよくパーティーで顔を合わせていて、ユーディアとは幼なじみみたいなものなの。今では私の作った香水や美容液を買ってくれる、とても金払いのいいお友達よ」
「そうですね。ソニアさんはわたしにとって、利用価値の高い素敵なお友達です」
ふふふ、ほほほ、と笑いあう私たちを見て、ヴィルが呆れていた。いえ、どちらかというと怖がっているわね。
「それで、そちらが連れ帰った騎士様? ふぅん。ソニアさんはこういう殿方が……」
「安心した? サニーグ兄様にあまり似ていなくて」
ユーディアの頬がみるみるうちに赤く染まった。
知っているのよ。ユーディアが幼い頃からずっとサニーグ兄様に恋い焦がれていたことを。そして、兄様にひと際可愛がられていた私に嫉妬していたことも。
私が王子と結婚せずに戻ってくると聞いて、内心びくびくしていたでしょうね。ようやく手に入れた愛しい夫を盗られると思って。
子ども時代から一方的にライバル視されて困ったものよ。でもユーディアは誇り高く、私をいじめはしなかった。私よりも劣る部分を悔しがり、自分を磨くことで追い越そうとした。努力家なの。
だから私は彼女のことが好き。好きな人のために頑張る姿が可愛いと思うから。
兄様が思わず噴き出した。
「ははっ、可愛い奴め。私の妻になってもまだソニアに嫉妬するか」
「もうっ旦那様! からかわないでください。別になんとも思ってないんですからね!」
夫婦仲は良好みたいね。
二人には幸せになって欲しい。
兄様が完全に味方になってくれたら頼もしいけど、それは王家への裏切りを意味する。今の時点で結構裏切っているのはさておき……これ以上は望めないわね。
私、本当にミストリア王家ともめるつもりはないの。
無用な争いは今ある幸せを壊してしまう。
私自身はもちろん、コーラルもファントムもククルージュの魔女たちも、サニーグ兄様もユーディアもアズライトの領民も、幸の多い日々を送ってほしい。
その中には当然ヴィルも含まれる。本当よ?
帰りの竜車はお土産でいっぱいになった。兄様は何かと入り用だろうと、食料や日用品を用意してくれていたの。さすがの心遣いね。
遠慮なくもらってしまったから、今度お返ししなきゃ。
「ねぇ、ヴィル。兄様と何を話したの?」
服もたくさんいただいたのだけど、兄様は私たちを今度夜会に招待したいからと仕立て屋を呼んでいた。礼服の採寸をしているとき、兄様はヴィルの方に付いていった。
絶対何か大切なことを話していると思うのよね。
だって、ヴィルの様子がおかしい。私と目を合わせないようにしているし。
「別に……しっかりお前に仕えるように、釘を刺されただけだ」
「本当に? 目が泳いでいるわよ」
「ほ、本当だ」
むっとした態度で言い返してから、ヴィルは躊躇いがちに問うた。
「お前、他に家族は……全てを打ち明けて頼る相手はいないのか?」
「あら、心配してくれているの?」
意外だわ。ヴィルに他人を気に掛ける余裕があるなんて。もう少しいじめても大丈夫かしら。
「ち、違う。だが、あまりにも……アロニアは天涯孤独だと聞いたことがあるが、そういえば父親は?」
私は小さく息を吐いた。
「私が赤ん坊の頃に亡くなっているわ」
「そうか……父方の親戚はどうなってる?」
「いないんじゃない? いたとしても、まともじゃないと思う。お父様は一度男娼に身を落とした人間だもの」
「は!?」
「おかしいわよね。まさか王太子の婚約者の父親が、元男娼なんて。もう少しでミストリア王家の血にとんでもないものが入るところだった」
それはさすがにまずいからと、お父様はどこかの貴族の養子に入り、それなりの身分を与えられた。でも形だけの関係でその貴族と私は会ったこともない。お父様が死んだ今、繋がりは切れている。
「いや、そうではない。元男娼って、まさかお前の父親って……」
これはあんまりヴィルには教えたくなかったのだけど、隠し続けるのは無理よね。里の魔女も兄様も知っていることだし。
「私の父の名はアンバート。かつてジェベラが愛した青年よ」
お母様とお父様の馴れ初めは知らない。でも愛し合っていたとは考えられない。
過去視で視たお父様は、私にもお母様にも興味なさそうだった。ククルージュで悠々自適に暮らしていただけ。ヒモみたいなものね。
ヴィルはうんざりしたかのように頭を抱えて俯いた。