戦国哀話 鉢形北条氏邦の正室 大福御前 短編小説
戦国哀話 鉢型北条氏邦の正室 大福御前
そもそも今の寄居町(武蔵国榛沢郡藤田)を拠点とした在地土豪の藤田氏は関東管領山内上杉家の、重要家臣であり重役だった。上杉管領家の4家老一人でもあった。、
藤田氏の出自を尋ねれば、、武蔵7党の猪俣党の出で、猪俣政行がこの地(藤田郷)に居住し、藤田を名乗ったに、始まる、、と言われている。
そのご、源平合戦や承久の役などで武勇を示して、代々ここを本貫地として続いてきた北武蔵の名家である。
15代藤田康邦に至るまでそれなり平穏な暮らしが続いてきたのである。
居城は花園城であり、これは13代目あたりが築いたものと言われている。
今に残る城跡は北条時代に大幅に拡充されたものではあろうが縄張り堀割などの遺構に北条の城づくりのノウハウが刻まれた名城?である。花園城の支城が、鉢型城、天神山城、根小屋城、などである。
当時の鉢型城は今に見るような巨大な要塞ではなかった。
藤田氏は花園城を居城に、山内上杉家に長く仕えた、名族である、知行地は北武蔵一帯と秩父地方全体だった、秩父武士団のほとんどは藤田氏に臣従していたようだ、
だが時代は急変して、小田原の北条が刻一刻と武蔵に迫っていた。
それを察して藤田泰邦は、花園城の防備の軟弱さを痛感して、より要害性の高い今の長瀞町の
天神山城に、移ったという、
しかしながら時代は急変を告げて、天文15年、いわゆる、「川越の夜戦」で両上杉軍は、大敗北を喫し、
上杉憲政は上州、平井城に退却、し、二度と武蔵には戻ってこなかった。
ここへきて、主家の上杉家を失った、藤田氏は、北条に臣従せざるを得なかったのである、
その臣従の証拠として、氏康は、三男の氏国の婿入りを強要してきたのである。
藤田氏は従わざるを得ず娘の大福御前に氏国を婿として迎えたのである、
この二人、結婚当時は10代でした、
氏邦は藤田右衛門左氏邦と称した、
苗字を奪われた藤田泰邦は用土城に退き隠居、です。、苗字も、用土新左エ門と、改めるしかなかったのである。
これが戦国の厳しさですね。負けたものは、皆殺しか、出家で寺送りか、、さもなくば、、隠居です。
さて、
この幼い氏邦を擁護するため、また、藤田ににらみをきかせるために、当然ながら氏康が「お付き添い衆」を
100人ほどつけてやったのです。
いくら婿入りといっても事実上は藤田家の乗っ取りであり、強奪です。
氏国がたった一人で、のこのこと?藤田家に来る筈もあり得ませんね。
氏国はまず横瀬の根小屋城に入ったといいます。しかしあまりにも狭すぎてすぐ、
長瀞の天神山城に移ったといいます、
そこでしばらく、領地経営と秩父武士の掌握に努めて、領国の支配権を確立していったわけである。
秩父武士を懐柔するために?あえて「秩父新太郎氏邦」と名乗ったといわれていますね。
新しくやってきた、よそ者の領主に対して在地土豪の、秩父武士の反感は根強かったのでしょう。
その後藤田泰邦の死去とともに、氏国は満を持して「鉢型城」へ移っている、
天神山城には拡幅の余地はなかったからである。
このころになるとおそらく氏国の北武蔵での支配権は完全に確立されていたといっていいだろう、。
鉢型に移った氏国は早速城の大改革(拡充)に踏み出した。
北条式の城づくりの、縄張りや堀割、土塁、馬出し、曲輪の構成、などに工夫を凝らし北武蔵の名城に拡充したのである。それまでの鉢型城は小さな?支城にすぎず、それを大拡張して整備したのが今の鉢型城の遺構なのである。
さてここへきて氏国は苗字を元の北条に戻している。文字通り北条の家名に服したのである。
大福御前は3人の子を産んでいるといわれている。。
東国丸、 幼くしてなくなっている、
亀丸, 虚弱故に出家して僧侶になる。
光福丸、 この子が後継者です。
庄三郎 出家。この子は大福の産んだ子ではない?
鉢型の城兵は「黒備え」でした。
「武具はすべて中間、小者迄、黒可到事。」と、あるとおりである。
こうして北武蔵の名城鉢型城の寄った氏国は、武田、上杉などとの関東地方の争奪戦に明け暮れるのである。
しかしそのころ、上方では織田信長今川を滅ぼし武田も滅ぼし、関東に迫っていた。
甲州、信濃を平定した信長は、滝川一益を関東管領に任じ、上州厩橋城主として送り込み、上州を納めさせた。
が、、その間もなく。本能寺の変で事態は急変、一益は、鉢型城兵を含む北条の大軍勢を神流川で迎え撃つことになる。これが世にいう、「神流川合戦」である。これに大敗した一益は、厩橋城を去り、
本貫地の伊勢に帰還している。
空白となった上州には北条軍が入り信州へと軍を進める。
上田の真田氏は策をめぐらして必死の生き残り策を、、、講じる。
越後の上杉景勝も信州に進軍、せんとして、兵を整え、
また徳川も、甲州に進軍という三つ巴の様相、
上杉は越後の、国衆の反乱でいったん退却。
徳川と北条は和議で、上州を北条に。
甲斐を徳川にで、、折り合いとなり、衝突は避けられた。
その後天下は、中国大返しで、明智光秀を破った秀吉のものになり、
それからいわゆる「北条征伐」で、
秀吉・家康軍が小田原に押し寄せて、落城。
鉢型も、前田・上杉。真田軍に取り囲まれて、鉢型は一か月持ちこたえたが、あえなく降伏して
開城。鉢型城士たちは命からがら逃げ落ちてゆくのだった。
このとき、氏国は鉢型にいたのか?
古記録によると氏国は小田原に応援に駆け付けていてそのとき、鉢型にはいなかったらしい。
この辺りを「関八州古戦録」でなぞってみると、、、
城代は猪俣能登守、井上三河守が総大将で守ったとある。
「前田・上杉軍は、荒川をへだててにらみ合うが、渕は深く、その先は60メートルもの断崖・絶壁でどうしようもなく、
ただ威嚇に鉄砲を打ち合うばかり、
大手口には上杉の軍が押し寄せ、
搦め手には、前田軍が、狙いすまして鉄砲を撃ちかける。
。これには鉢型も困ったようだ。
こうして責め立てたがなかなか打ち破れずに、いったん前田・上杉の大将は。小田原に評定に行く。
その間上州勢、北國勢も加わり、ようやく鉢型も兵糧が尽き。城代の猪俣能登守は降伏を乞い、
立てこもっていた将兵はあるいは落ち延び、あるいは降り、こうして6月14日には完全に落城したのである。」
(この北国勢の中には藤田信吉という武士もいます。、これはあの藤田泰邦の子供に当たります。上杉に通じてそこで武将となったのですね。)
このように氏国は鉢型にはいませんね。小田原で籠城してたのですね。
ところが口碑では、氏国は、鉢型にいて、前田に降伏を乞い、まず大福御前を逃がしてくれといったというのですね。女たちを逃がして、
それから城を開き、菩提寺の正竜寺に入り剃髪して出家したという。
一帯、どっちが真実なのか?
今となっては私にもわかりかねますが、、。
史実としては、
その後、氏国、氏直は高野山へ送られ、、そして前田へお預けとなります。
では6歳の光福丸はどうなったのか?
鉢型籠城の前に部下の町田土佐守に銘じて氏国はこの子を秩父の山に逃がして守らせておいたのですね。
のちに町田土佐守は前田に願い出てこの子の助命を許されています。
一方先に逃げ延びた大福御前はどうなったのか?
伝説?によるとこうだ。
家来10人と家伝物をもって秩父方面に逃げたが、途中落ち武者狩りに会い、家来は殺され、大福御前もみぐるみはがれて、奴婢として奥州に売り払われたという。
その後、秩父のあきんどが奥州に行った折に大福御前のなれの果てを見つけて、鉢型旧臣に連絡して、助け出し寄居の正竜寺にかくまったといいます。
あるいは本当は藤田信吉が引き取りその後大福御前の強い、願いで、勝竜寺で得度出家したという話もある。
大福御前はやがて、夫の氏国が前田で捨扶持1000石与えられた生きてることを知りますが。
まあ今の言葉でいえば軟禁状態ですから会いに行くこともかなわず、
大福御前は剃髪して,
尼になりひたすら鉢型城臣の冥福を祈ったといいます。
そして、
幸福丸の無事の、成人を願って1000日の結願の後、自害して果てています。
時に文禄2年でした・。53歳だったといいます。
秀吉も、
幸福丸が成人したら10万石の扶持を与えると約束してましたが、
その秀吉も死に、また、
幸福丸も13歳で病死してしまったのです。
一説によると関東に入府した家康が旧北条の復活を恐れて毒殺したという話です。
さて氏邦は、、
「慶長2年(1597年)、加賀金沢にて57歳で病没した。金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせた。妻の大福御前は鉢形に残ったものの文禄2年5月10日(1593年6月9日)に病死したとも、自害したとも言われている。」(ウイキペディア引用)
戦国の世の興亡はかなくも、消え去りし、武勇とともに、
女たちの涙と哀切の日々も
繰り返されたのですね。
付記
「京都紫野大徳寺で喝食となっていた氏邦の末子が還俗して庄三郎と称し、氏邦の知行を相続し、前田家臣で前田家縁戚でもある前田利益の娘を妻とした。その子主殿助の後、嗣子がなく絶家となった。一方、養子の直定は小田原開城後氏直らと共に高野山にて蟄居した後は徳川家康に仕え、紀州徳川家に家臣として付された。その子氏時より紀州徳川家に仕え、氏時の子氏常、養子氏成(うじなり/うじしげ)、氏賢まで確認できる。」(ウイキペディア)より引用。
㊟ 「氏国」は誤植であり「氏邦」が正解です。
「光福丸」が正しい、
「鉢形」が正しい
付記。
北条亀丸の後裔という都市伝説?
秩父市大野原に旧家、大野家がある。
この家は江戸時代を通じて名主、医師であり、
伝説によると、北条亀丸の後裔であるという?
亀丸は出家してその後は全く不明なのだが、
まあ考えようによっては秩父地方に住んでいた?ということもありうるわけでして。
四方田美男氏の「鉢型落城哀史」には
「伝、大野原、大野、北条亀丸の後裔」
と、ある、
というわけで全く証拠の資料はないが、
まあもしかしたら?亀丸が秩父に子孫を残した?ということもあったかもしれませんよね?
その
大野家は代々、医師であり名主で、
江戸末期の「大野満穂」は儒学者でもあり門弟が大勢いたそうです。
秩父の風土記であるところの「秩父志」(埼玉叢書所収)を書き残しています。
号は「秩岳」
近くの源蔵寺に門弟が立てた見あげるような立派な墓があります。
秩岳先生の墓と刻んであります。




