9.
千円札を財布から取り出したときに、ちらりと思ったものだ。
千円でいいのだろうかと、だ。
一日の食事代には十分だと龍司は疑わなかったが、預かることになった未成年に、大人の家人としてもっと渡さないといけないのだろうかという疑問だった。
信じられない展開に、宮田和輝、を自分の家で預かることになってしまっていた。
一応、弟、となるのだろうか。
法律など詳しく勉強したことなどないのでわからない。
父の再婚相手の連れ子だった。一時期龍司の父親は、宮田桜子と彼女の小学校に入ったばかりという息子を連れて、龍司の家に住んでいたのだ。龍司が中学三年生、進路も関わる重要な時期だ。だから家事から解放させたかったというわけなのか、それまで女の気配もなかった父親が母子を連れてきて、約一年をいっしょに過ごしたのだ。
けれど、それはただの同棲だったと他でもない宮田本人が昨日暴露してくれた。
法律上、弟だったこともないただの他人だということなのだ、自分たちは。
兄弟でもない。だから、龍司が和輝の面倒を見る必要などこれっぽっちだってないはずなのだ。断ると、強く突っぱねる権利があるはずだ、相手が未成年だろうと。
ああ、と悲しくなってくる。
自分の性格だった。嘆かわしい。
こんなときに、冷徹に出て行けと言える性格になれたなら、どんなに嬉しいだろうか。
悲しいかな、龍司には出来ないのだ。
捨て犬や捨て猫の類を見て見ぬふりをしておくことが出来なくて、今まで拾って自分で育てたり、自分では無理で里親を捜して回るという苦労をしたことが何度あるか。考えたくない、滅入ってくる。
やっと一人暮らしに戻ったと思ったときだったのに、また哀れなものが迷い込んでくる。
今度は背中の細い猫だろうか。
一緒の暮らしてきた祖父母が死んでしまった一人暮らし。古屋敷に、一人になってしまったのだと言った。死の経験は、ふらふらなのを拾い集めるのが趣味なのでよく知っていることになる。助けようとも助けられる場合だけではないのだから。
それに龍司の母親だってもう死に別れているのだ。
故人の思い出のある家に一人いると苦しくなって病院で薬を貰ったなど聞いてしまったとき、死の喪失感を理解できるので、むげに帰れとは龍司に言えなかった。
すると必然的に、和輝は血も戸籍も関連ない龍司のところで、これから一緒に暮らしてゆくということに。
他人なのに。兄としてーーー。
あれは、弟なのか?
法律的にこれはどうなんだろう。大いに疑問だった。
犬猫じゃないのに、自分が勝手に引き取るっていうのは問題にならないだろうか。
相手は子供なのだ。
成長期だろう。栄養管理をしないとならないはずだ。朝ご飯抜きで学校にやってくる生徒が多くて問題だと、ニュースでやっていたばかりだ。
衣服だって。身体が小さくてだぶつくので貸すわけにいかないし、下着、洗面用具、同居するとなると必要な物がいっぱい出てくるはずなのだ。
金銭的にあまり細かくいいだすと、しみったれだと言われそうだが、龍司は自分が特別高給取りでもなく、平凡のサラリーマン、中の上だと思っている。
先のことをいろいろ考えだすと、暗澹とした気分になってくる。
気分が暗くなったので昼ご飯を素うどんですませた龍司が、夕方定時に仕事を終えてマンションへの帰路についていた。
いつもなら牧先輩の店で酒と食事をすませて帰るのだが、今日はスーパーで少し買い物をしてまっすぐ帰ることにした。
腹を空かして、ピィピィしているのが待っているだろうから。
でも。
スペアキィを使って扉を開けていた。
ドアホンを押しても鍵がかかったまま、内から開かれることがなかったからだ。
中に入ると、今日は普段とは違い皓々と電気がついているものだと思っていたのに、真っ暗だった。
「和輝、和輝、おい、いないのか?」
返事はなかった。
姿もどこにもなく、この見慣れた龍司の部屋で唯一和輝のものである制服と鞄もなくなっていた。
「・・・なんだ、帰ったのか・・・」
和輝の不在を確信した後、龍司は黒のソファーにどさっと腰を下ろして呟いていた。
布団はきちんと畳んで置いてあった。布団があるために、ソファーの位置が縁にずれているため、テレビとの角度も少々変わっていた。微細な変化だというのに、不思議な気分だった。
でもそれ以上にもっと不思議なのは、自分の気持ちの方と龍司は思った。
一日中悶々としながら働いて時間を終えた後急いで帰ってきたが、そんな風に気を揉む必要はなかったようだ。和輝は出て行ったのだ。
そりゃ、そうだろう。
和輝だって年も離れた、交流もなくなっていた他人の家に転がり込んでも居心地がいいはずがない。昨日一晩でこりて、まだ自分のところがいいと達観出来るようになり帰って行ったのだろう。
よかったよかった、いなくなった、のはずなのに龍司の心は晴れなかった。
夕ご飯を作るつもりで材料を買ってきていたが、腰を下ろしたきり動く気力がなくなってしまったのはどうした加減なのか。
考えて、龍司は苦笑していた。
迷惑だと憤りながら、実は捨て猫を拾ったときのように、自分は楽しんでいたのだーーー。
「まったくな・・・やってられねえな・・・」
腕を上げて髪を掻き上げていた。
指を突っこんで掻き混ぜて、頭の中の憂鬱も掻き出すように。
「ま・・・以前に戻っただけ」
苦々しい声で言って、気分直しに温かいコーヒーでも飲もうと立ち上がったときだった。
「わっ、ドアが開いてるっ」