8.
目を開けると、よくわからなかった。
何かが自分の目の上に載っているのだ。
気になったのでそれを、手で取ろうと思ったらおでこが、ぺしっときた。
驚いた拍子に目の上で視界を塞いでいた軽いものが落ちてゆき、人間がいた。
男だ。ネクタイにスーツ姿で、男らしい精悍な顔立ちは恐いほどで、目にした和輝の寝惚けが吹き飛んだ。
「龍・・・司さんっ、おはよ、ございます・・・」
「まだおまえにとって、ずいぶん早いんだろうが俺は出勤だ」
龍司はもう身支度もぴしっと整えて、出かける寸前というところだった。
まったく気づかず寝ていた和輝の布団の横にしゃがみ込んで、寝顔を覗いていたという状況なのだ。
覗いていたというより、巫山戯て遊んでいたのだろう。
「別に寝てればいい」
と言って、腕を伸ばす。
再び和輝のおでこだった。さっきは叩いたおでこに今度は物が置かれた。
固くて重みのある物が、硬直して寝ころんだままの和輝のおでこで、じゃらと音を立てた。
「部屋の鍵だ。今、頭の横に落ちたのは飯代の千円だ。持っているのかもしれんが、一応貸しておく」
和輝は驚いて額の物を手に取っていた。
「俺の部屋の物は触るなよ。それ以外なら、適当にしてくれていい。出て行くなら鍵はポストのなかに入れていってくれればいい」
「あのっ」
言うだけ言って立ち上がった龍司を慌てて引き留める。
高校ではバレーの選手だったという龍司と、足元で寝ころんでいる和輝との間には、天井と床ほど遠く感じてしまった。
「帰ってくるのは何時ですか」
「昨日と同じぐらい・・・ああ、昨日は残業で十時だったからな。今日は八時過ぎぐらいか」
「八時・・・」
繰り返した和輝に、視線を落とした龍司は
「おまえはまだ・・・」
まだ帰らないつもりなのかと、聞こうとしていたのだが、ため息が取って代わって和輝の返事が求められることはなかった。
「適当に、してくれ。行ってくる」
「いってらっしゃい、龍司さんっ」
「椅子の上に洗って縮んだような服が置いてある。着れるなら着るといい」
出かけの挨拶がわりとばかりに扉が閉まるとき、布団を出て玄関まで追って見送った和輝に残された言葉だった。
閉めきったガラス越しの光を浴びているとライトを付けなくても十分に明るい心地よい朝で、和輝は龍司を見送ったあと布団の上に戻ってしばらくごろごろとしながら、服を吟味していた。
龍司が出していってくれた服は、本当に洗い方が悪く縮んだようなセーターもあったが、あとは誰かが龍司のこの部屋に置いていった物なのだろうなあと思った。
でもどれもまだ、和輝には大きめで龍司のまわりの身長の平均値はいったいどのくらいなのだろうかと不安になってくる。自分はそのなかにいると、チビなのだろうか。
服の他に龍司が置いていってくれた物は、千円と鍵だった。
十二年ぶりに会ったきりの血も繋がらない相手に、部屋の鍵を渡すものだろうか、と考えると和輝は嬉しくなってしまう。
布団の上で、服と千円と鍵と眩い光に囲まれる時間を堪能したあと、和輝は思い立ってそっと向かったのは龍司の部屋だった。
ノックをして、開けた。
部屋には龍司はいない。和輝を怒る者はいなかった。
絨毯が敷かれた部屋はベッドと机、棚と一体化したパソコンラックで、この部屋は生活感が薄すぎるほどのリビングダイニングと幾分違って、本が本棚からはみ出して足元にも山積みになっていた。
『触るな』と言われたので、ちゃんと触らなかった。
絨毯は踏んだけど、机にも棚にも手を伸ばさなかった。
デスクトップパソコンにプリンター、ランプが点滅しているモデム。電化製品を繋いで走り回っている配線。パソコン関係の本に、車の雑誌、よくわからない分厚い本や、アルファベットタイトルの洋書もあったが、なかには場違いのようなコミックも見つけてしまい驚いていた。
人気のある時代物の漫画と格闘技の漫画は長期連載されている物で、タイトルぐらいは本屋で並んでいる場面を見て知っているが、和輝は読んだことはない物だった。
こういうのを読むんだと、電気も触らないので薄暗い龍司の部屋で見た中で、和輝が一番嬉しかったのがそのコミックだったかもしれない。
そこが自分との接点になれるような気がしたからだ。
龍司の部屋を出た和輝は、適当にしていいと言われていたので、インスタントコーヒーとやかんと、水切りに洗って伏せてあるティーカップを借りて遅い朝ご飯だった。
部屋の隅に置いていた学校の鞄を開けると、教科書に潰れるように昨日、駅の売店で買ったパンが入りっぱなしだった。
取り出して食べた。
これを早い昼ご飯にしようと思ったのだ。
食べ終わって、カップを洗った。
そのあと和輝は借り物の服を脱ぐと、自分の制服を着こんでいた。
身支度を整えると自分の鞄を持って、龍司の部屋を出た。
だけど、預かった鍵をポストには入れなかった。
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